つやつやとした削り出しの駒のくびれた曲線を人さし指でなぞりながら、色葉は歯を食いしばりたい気持ちになっていた。
白黒した盤面の上で自らが動かすことのできるうちのひとつ駒より、さらに離れた位置から僧侶の名を冠するにはあまりにギラついた双眸が周囲を睨め付けている。
 まったく嫌気がさす。
確かに途中までは良い気がしていたのだ。
 なにより、これらは温情として与えられた時間制限のない長考の末に、すでに大分と引き伸ばされた試合である。本来の交代制におけるルールだけで換算すれば戦場で経過した時間は多いとはいえない。
ようやく駒の動かしかたに慣れてきたからこそ、これだけ簡単に負けるのはいささか情けのないことだという自負があった。
「ぱ、パスで……」
「ハウスルールの懇願にしてもそれだけはないよなあ。情けない」
 そもそも己の順番をスキップしてくれなどとはルールの根幹である部分を揺るがすに同義ではないか。
言葉にこそせずとも、続けてそう言いたげな國枝の視線が深々と刺さって色葉は項垂れた。
負けたくない気持ちが先行して拳に力が入る。
 わかっているのだ。仮に悪手で、それが決定打になろうと駒を進めるというのがこのゲームの基本ルールなのである。
「わかっていますよ、わかってしまったからいやだなあと思っているんですって」
「防ぎようがないのではどうしようもないというのも理解はできるがね。言いかたで損をしている。君はわかりやすいほうだな」
「この生活で比較級を使われても比べようがないじゃないですか。二人きりなのですから。それとも、"そうではない私"がそんなにお好きで?」
 國枝が白と黒の駒を入れ替え、討たれたポーンの代わりに敵陣のナイトが躍り出る。
片眉を怪訝に持ち上げ、指先で触れていたポーンをわずかに握り込む。どちらも無意識から発露した仕草だ。
「……私はどちらかというとイヌが好きでね。古より人類の友として歩んできたとされる彼らの"笑顔"には諸説あるが――」
「な、なんです。急に」
「それを時に、人間とコミュニケーションをとるための進化と論じることがある」
國枝の言葉が己の皮肉に返しているのだと気がつくと、豆鉄砲を食った鳩の如く、きょと、と目もとを大きくした。
状況より反対に、向かい合う瞳は視線がかち合っているのか否かも曖昧に漫然として状況を俯瞰していた。つまり、表情を薄く、唇を引き結んだ國枝が口調ばかり柔らかとしているのだ。
 よくよく感じとって、まるで駆け引きだと気付く。
彼が普段からよくしてみせるように視線を合わせて意思疎通を試みる会話ではなく、向かう相手の首と肩の境目をあえて見つめているように思えるのである。
「この話をする私はどんな顔に見える? 君は何を思うだろうか」
意図的な行動として理解しても、みなまで問われると途端に色葉は不安になった。
 軽口が気に食わないのだろうか。
それとも生意気すぎたか。
と、いった妙な気が駆け上がって産毛を逆撫でする想像が浮かんだ。
恐ろしいわけではない。
ただ、日常を透かした幽霊に見つめられている気になるのである。
ヴェール一枚向こう側に薄ら見える深淵に仄暗い好奇心を抱くことと少しばかり似通った感覚がする。
それを極めて希釈し、この生活の歪さを手のひらに広げた姿かたちが、家そのものの空間を満たしているという想像を漠然とした感性に拾うのだ。
暗く、立体的な空間に投げ出された体が知覚する天井が高く高く伸びていく。
「ほら、呑まれるぞ」
その言葉にはっとする。
 國枝は自らが操った言葉で色葉の思考が蝕まれる瞬間を適切に言い当てていた。
頭の中で泡が弾けたようにパチンと明瞭になった思考は、目の前に座る男に双眸としてうっそうと鎮座する色の温度を測り損ねている。
次に出てくる言葉の想像がつかないことに指先が惑う。出どころの知られぬ冷たさがじっとりと、しかし瞬発的に駆ける様を想起していた。
しかし、國枝の表情はぴくりとも動かないままで静けさを保っている。
「物は言いようだろう。しかし、一概に君は喪失だけを体験しているわけではないのかもしれないと思わないか。私はそれを言っているんだよ」
口を挟むことを許さない圧倒的な姿で堂々と、且つ静かに言葉は続く。
「君のことに関わらず、駆け引きの場を除けば、確かな感情を露わに語ることということ自体を馬鹿にできる資格なんて誰にだって持ち得ないだろ?」
「つまり、過去の私になかったものを私は持っているということですか」
 暗に過去の自分はそれだけ愛想がなかったのだ、と辿り着いてゾッとする。
それを知っている國枝の発言が事実であり、確かにその前提を知らずともコミュニケーションをとることを覚えたのならば、それは学びではなく進化といいたくなることも理解できる気がするのだ。
人間味のない"過去の色葉(わたし)"を國枝という人物は一体どのようにして共に生きてきたのだろうか、と、想像もつかないことに圧倒されるばかりだ。
血の気が引いて気が遠くなりそうになる。
「尤も、いまの君の態度が抑圧のない環境下で得たはずの元来の気質なれば、それもまた精神の健全には喜ばしいことである」
思考を並べて表情を変える色葉に対し、嫌味のない笑みで國枝はクツクツと喉を鳴らした。
「悪いことでもないよ。そうだと思わないかね」
「……たしかに。そう言っていただけると気が楽です」
「素直なほうがより円滑だが、嫌いなわけではないからね。平時であれば愉快な交流になるさ」
そこまで言い切って、思い出させるように指先がするりと盤面を導く。
「さあ、丸め込みですらない会話に足をとられて時間稼ぎはどうなった? ただ茶化すことなく、君の空白がその実まったくの喪失ではなく得たものをもがあることにきちんと気づいてくれたら嬉しい。私が君に対してそう思っていることをね」
 下瞼がやわくほころび、目尻に細かな皺が浮かぶ。
言い聞かせた後に尋ねるが如く小首をかしげる様の計算高さを末恐ろしい気を植え付けられながらも、カップを持ち上げる國枝の姿に対し、色葉はすぐに言葉が出てこない。
「このゲームについても待つこと、私は一向に構わないつもりだけれども。喧嘩腰の会話では君の冷静を欠くだけであろうと言っておこう。君は勝てない」
「……言い切りますね」
「君がすでに過ぎた格好であるからさ。私の言葉すべてを挑発と勝手に受け取っているのは明らかだ。頭に血が昇っている」
 急かされて色葉は駒を置く。決して投げやりな選択ではなく、きちんと考えた結果だ。
きちんと考えた結果である、はずだった。
しかし目の前の男に行動順が移ると、まつ毛が震え、視線をなぞるその直前の空白で察しがつく。
「あ、」と引き絞った声が出る。
 ビショップの鋭い射線に気を取られ、変則的なナイトの動きを見落としていたのだ。
利便性の高い駒を前へと出すために大胆と先制した場は空白が目立ち、憎きステップを串刺しにするには手数が足りない。
かといって、他の特殊な役持ちである駒で防ぐにも戦力がこれ以上削れては困る。
良くも悪くも変則的であるというならば彼の駒の制する領域を避けるほかない。
何故ならば、大きく攻め込んだナイトはその性能ゆえに小回りには乏しいのだから。
 色葉は眉間が寄る力が先か、苦境に目を細めるが先か顔を顰めて悔しさを噛み殺し、グッと堪えた。
「でもいまのところチェックされているわけでもない……です、し」
「さて、どうかな。この先のこる駒の戦力を点取りゲームとして単純に換算すればなかなか厳しいのではないかと私は考えるよ」
背が低く、地味なデザインが盤の外側に並んでいる。
躍起になって空回った末に失われた兵たちがトロフィーのように輝かしい功績として敵陣に晒される光景だ。
その中には似た状況で先に散った自陣の白いビショップの姿もあった。
「動かせる駒はまだあります。だから、この戦局(ゲーム)もまだ終わっていない」
 大した効果はないかもしれない。
しかしこれ以上の進軍に価値が多くはないか、ナイトを掻い潜る姿があれば一先ず敵は一度引くだろう。動かせる駒は限られているのだ。
必要な立ち回りがあるならばリスクは最小限に――色葉はそう考えながら自陣である駒の白い肌に触れた。
「ルール上はね。そうやって、これ以上つよい駒をとられまいとして崩れるのが君の致命的なところだ」
 呆れたように肩をすくめ、それでいてこそ面白いと挑発めいた様子で國枝は口角を上げた。
その判断を下すことを最初から見通していたかとでもいうように、ナイトとは異なる場所で全く別の駒を討ち取る様に色葉は思わず「ああっ」というまさに情けない声をあげた。
ギラついた戦意を持つビショップの存在を気にかけていたはずが、目先の立て直しへ動いたせいで結果として射線を牽制していた兵が自ら位置を離れたのだ。
 無意識に浮き上がった手が空を掻き、まんまと踊らされたことに気づいて頭を抱える。
複雑な意図が張り巡らされた戦場の中心へと投げだされた気分だ。首の後ろがじっとりとしている。
 せめてこの陽動に挙手をした憎き騎士は逃さんとするものの、冷静を欠いた時点でこの盤面の支配者が誰であるかということは明確だ。
そして憎しみと残る平常心の重さを測る天秤が何の名目における正しさをかけているのかという判断に迷いが出る。
順々に開示されていく伏線の結末に色葉の思考は次々に塗り替えられていく。
 冷静を欠いている自覚はある。駒を守りすぎて手薄になっても意味がないのは自分が一番わかっている。
でも、じゃあ、どうすればいい――?
 常に強い駒に先制して射線を妨害しなければ、焦った瞬間にほころびを逆手に取られる。
理解をしていても指先の糸が舞台上で切られてしまえば焦るものだ。慌てた兵たちがまた刈り取られる様が目に浮かぶ。
 所詮は最初に与えられた役割以上の性能を持つことが滅多にない陣取りゲームだ。
そう思いながらも首を刎ねられ続ける自陣の王に待つ次の命運を案じて色葉は深刻に目を瞑った。
暗闇で考え、途切れかけた糸を再び紡ぐように指先を操る。息も絶え絶えといういい様がよく似合う、と我ながらに嘲笑すら浮かぶことが不思議でならない。
「キングを取られたら負け。これはそういうゲームだろう? たしかに、逆をいえばそれ以外は討たれてもその瞬間で終わりじゃない」
 勝敗を分ける条件自体は単純明快、白か黒かというほどはっきりとしている。
ならばどの時点で己のなかのそれは強い駒を守ることにすり替わっていて、どの時点で未来の敗北が決まっていたのだろうか。
盤上で一本に収束した結末として最も明瞭に察し得る未来を思って色葉は嘆くばかりだ。
「ああ、ああ……!」
「だからそれ以外が欲しけりゃそれなりの譲歩でくれてやろうと考えるんだ。それがなくともこちらが有利に変わりないならばね」
 慌てているうちにどんどん進んでいく。
考えがまとまらず、しまいには『途中まではよかったのに』と、過去に問題点を探すことへ夢中になっているのだ。
相手の思惑も、射線がどうこうと先読みしようとしていた努力も足元が崩れてしまえば、相手の出方を探るために意味の薄いポーンの一手を差し出すことしかできなくなる。
「集中したまえ。一応、君の番だぞ」
 鋭い指摘に対し、色葉はうめき混じりでほとんど嗚咽と変わらないような息遣いの返事をし、まもなくこの戦場で敗退をするのだった。

「少し休憩をしよう。ワンセットが長くはないからこそクールタイムを設けないと。君の明日に朝食という言葉がなくなってしまう」
 國枝は時間の経過によりポットの中で渋くなっていた紅茶を注ぎ、その味のえぐみに驚いてカップの底を一瞥した。次いでポーションミルクの封を切りながらテーブルを挟んだ向こう側に項垂れる姿を見た。
「どうせ偏食を公言する身であるし、本当に一品ずつ賭けてくれなんて言うつもりは元からないが……大丈夫か、色葉?」
 長らく項垂れていた色葉は緩慢とした動作で首元を飾るリボンタイを解いて胸ポケットへしまい、襟を解放すると、手で顔を扇ぎ熱を逃がす。
考えこんだ表情で顔を固めたまま、長いこと同じ姿勢で集中していたことによって汗の滲んだうなじにはりついた髪をまとめて結び直すのだった。
頭部と首の境目である位置でひとつにまとめあげた飴色の髪を括り、最後に通しかけた髪の束を端で髪ゴムに留め団子頭にする。
それからチェス盤の横に置いていた雑記帳と、ごく簡素なつくりをしたペンを手に取るのだ。
「真面目なものだ」
「悔しいのです。いずれあなたがよく言う、あってもなくても変わらないというような言葉の曖昧を後悔させてやりたいんです」
「千里の道も〜、というやつか? まずは娯楽面から叩き潰してやろうという意気込みは面白いな。楽しみにしておくよ」
 語調を僅かに荒げながらもすっかり考え込む顔の角度を國枝は静かに観察していた。
あくまで娯楽であり現実において急を要するものではないのだから、休むときには適切に休むべくだろうに。
そう言いたいことが國枝の本心であったが、色葉にとっての娯楽がどのような存在であるか、また、この退屈であろう暮らしを顧みて言葉にすることをやめる。
代わりに彼の思考を妨げるようなことをせず、静かに冷めた紅茶において冷めてしまったからこその趣を見出すことで時間を潰そうとカップを傾けるのだった。
「序盤の動きが……いやでも過剰に保守する意義は……うーん、全然勝てません」
 腿の上で開いた雑記帳にメモをとる色葉は、書き損じた文字に取り消し線を引いて盛大なため息をついた。
それから肩を引いて凝り固まった背を伸ばすと、つまみ用に切り分けておいた小さなチーズや野菜の切れ端を摘む。それらをかた焼きにリベイクしたパンの薄切りへ乗せ、小皿に分けておいたオリーブ油と塩を吸わせて頬張る。
 ゲームは長考を除けば滞りなく進み、回数を重ねていたが、なにも考えていないわけではない。
失ったぶん以上のエネルギーがこれみよがしに沁みて脳に行き渡る。この程度の咀嚼によって筋肉が動いたり、血流に関わったりする影響は瑣末なものであると推察するものの、身体へ新たに与えられたエネルギーが心象としても隅々を渡り、心身の疲労を励ますかのようだった。
「基本的な駒の動きかた自体は紙を見ずとも覚えたつもりなのですけども、やっとスタートラインに立ったにすぎないということでしょうか」
 落ち込みながらも片眉をわずかに持ち上げる色葉を前にカップをおいた國枝は指で盤面を示す。
そして特別な役職をはじめから持ち合わせている駒たち独特の射程範囲をなぞりながら言葉を続けた。
緩やかなカーブを描くもよく見れば歪な爪の頂点がしっとりと磨かれた盤面のマスに触れ、カツンと音を鳴らす。
「だからこそだ。わかるようになったからこそ、まず行動範囲を確保できる――つまり"よい場所にだしてやる"ことの優先ばかり高くなる。他を効率的に出せると考えてポーンを進めすぎているのではないか」
「ええと」
「たとえ行動範囲が広くたって最初は自陣のポーンがいまいち射線を妨げるんだろう。しかしそれは相手も同じことで、焦りすぎてもこれは後退ができない。かと言って最初は二歩、あとは一歩ずつしか進めないのが彼らである」
色葉の視線が、説明口調の指先に追従して持ち上がる。
「しかもこいつ自身は斜め前の駒しかとれないというのだから、動かしたい駒の前だけを進めるともいかない場合があるな。いざ尻尾切りにくれてやる気はあっても安い命ではない。蔑ろにすれば防衛線には必然として穴や偏りが生じるわけだ」
 上位の駒の首をポーンにとられる屈辱を数手先に見えていながら進めることに戦略上の特別な意味がないというのならば屈辱であるだけだ。
見えている罠を踏むのは先見の明を著しく欠いた愚か者か、よほど駆け引きによるスリルでしか渇きを癒すことの出来ない者だけである。つまり、牽制とはこのことだ。
それがこぞって前線に出てしまえば控える兵をも危険にさ晒すだけであることを色葉は理解しながらも、ここで先に攻めなければ後手へ回るうちに並んだ首たちが一斉に刈られてしまうと考えていた。そういった妄執に囚われていたのである。
 國枝の言いたいことは理解できる。ただ、盤面の遊戯とはいえど攻めてくる敵をいざ目の前にすれば、前線の立て直しに走り回るほかない。
だからこそ言い当てられてしまってはどうしようもなく身動きを取れない様子に対して苛立ちに似た感情を覚えていた。
「ある程度ひらけていよいよ出揃ったようになってから、むしろかゆいところに絶妙に届かない感覚を君は知ったのではないかと思うのだが」
その言葉に思わず色葉は立ち上がって身を乗り出す。握り込んだ拳がいかに共感しているかを示し、力の入った語り口となるのだ。
「そうです、そうなんです! 牽制に使う駒が足りないのは確かにそうなんですけれども、こう、理論はわかるつもりなんですよ。言い訳じゃないですけれども」
「経験不足で振り回されているのだろう。そればかりは仕方あるまいが、それこそ意識が追い付けば伸びしろがある。気付きを得ている証拠じゃないか」
説明のために動かした駒を拾い上げ、丁寧に初期位置へ戻していく。
視線を伏せ、國枝は満足そうに口端を持ち上げていた。それは純粋に今この瞬間のゲームを振り返って楽しみながらも、この先も行われていくであろう対局を見据えて闘志を燃やしている。
「習熟の指標を階段で表すとすれば、君はいま次の踏面に片足をかけているということだ。私もゲームを最も楽しくさせるため付き合うことを厭わない」
 穏やかに沁みいる声音が衣擦れと共に掠れると、肩の力を抜いて國枝は相好を崩していた。
反対に張り切って肩をいからせた色葉はこの助言に何度も相槌を返し、言葉の一部を雑記帳へ書き写している。
積み重ねて綴じた紙の厚みへ走るペン先が文字を囁いてインクを伸ばしていく。
「今の君に限ってはありきたりな初心を意識すべきだ。序盤こそもう少し落ち着いてみるといいのではないかな。次は私も黙っておこう。遊びならではのほのぼのでいたが会話に乗せられて焦りが増長するならば勿体無い」
「なるほど。正直なところ、こういうゲームは序盤戦術のパターン化は避けられないとも言えますし、だからこそ小回りを考えても理論より攻めるが吉と思っていました。さっそく参考にしてみます」
「時に弁舌までもが武器であり、これは駆け引きだ。君が勝てるようになるのはそれらを表情から私に悟られないようになったときだな」
 あまりに実直で勤勉と言いたくなる様子に、日常生活においていつか詐欺にでも遭ってしまわないかと内心で考えながら釘を刺す。
その真意を知り得ない色葉はノートを閉じかけては、正論ながら悔しさを煽る物言いに目をじっとり細めた。
「また意地悪か助言なのかが曖昧になるようなことを」
「べつに捻くれているわけでもないさ。なにしろ私は君の参謀ではなく敵陣の将だからな、当然のことを言われても困る」
 今更なにを言っているのだと茶化しながら雑談を交わし、しばしの休息となるであろう盤をそうっと端へ移動させる。そしてつまみの皿をローテーブルの中心あたりへ置き直すのだ。
より取りやすい位置へ移動させては書きものに区切りのついた色葉へと國枝は再度休憩を促す。
「親切な助言に従って"パターン化し得るセオリー"をなぞるべきか、逆手に取ることを私がしたがっていると疑うのか、その疑心暗鬼ごと楽しんでもらえたら嬉しいものだな」
「絶ッ対に負けさせてみせます……! 今すぐ追いつくことは難しいとしても、いつかは勝ちをもぎとります」
「前も聞いたな、と言いたいところだが、それは存外早くに訪れる未来かもしれないぞ。私の遊びかただってお遊び程度であるし、ここに来てからも情報収集に寄った大衆酒場でボロクソに負けたことがある」
「え! 本当ですか」
 擬音を書き加えてちょうど良いほどの勢いで色葉が顔を上げる。明らかな動揺が滲み、気を落ち着かせるようにつまみパンの手をとめ、一度紅茶を呷った。
言葉の真相を知りたがって疑り深く双眸の矛先は國枝を突き刺している。
「ああ。しかも、このあたりで怠惰の権化といえばヤーヒムと呼ばれるようなのんだくれのご老人相手にね。話題づくり程度に持ち掛けたが馬鹿みたいに強かった」
「それは先生が酔っていただけではなく?」
 食い下がって問いただす内容に対し、恥じることもなければ後ろめたがることもなく國枝はさらりと答える。
相手の態度をものともせず、話題のなかにある敗北を喫した瞬間を思い出していた。
怠惰の権化と呼ばれるヤーヒムは賑やかな大衆酒場の端ですでにひとり酔い潰れた老人である。
いかにも昔話に出てきそうな薄汚れたキャスケット帽、襟のよれたシャツにサスペンダーを吊るし、朝昼晩と時々の最新版である新聞を片手にする姿であるが、およそ職についているとは思えない時間から酒でふやけているそうだ。
 分厚く垂れ下がった皮膚で目が小さく、歯はところどころが欠けている。鷲鼻が特徴的で、あと二⚪︎年ほど若い見た目をしていたら、いかにも説教好きか、職人らしい気難しさがあっただろう。
強面とまではいかないが、かつて精悍な圧のあったであろう顔立ちの面影があった。
 いま思えば、それだけでチェスでなくともなにかと一筋縄では通用しない人物像ではあった気がする。
彼の姿形をしっくり思い出しながら、國枝は改めて肯く。
「ああ。そうだよ」
 ソーサーに戻したカップの底がわずかに音を立てる様にまで耳を傾けていた色葉は、根拠もなく答えがよりいっそう驚愕するものに思えていた。
「前にも言ったか、私は酒も煙草も飲まない主義でね。特段、付き合いのうえでやむを得ない状況でもなかった。つまり紛うことなき敗北だな。完敗だった」
「へえ。やはり悔しいものですか?」
「悔しいというか……それは、まあ、ちょっとくらいは。いや、それなりに悔しいかな。だが、それ以上に私は楽しかったし、再戦が叶わなかったことはこの街でやり残した悔いのひとつになるだろう」
 懐中時計を眺めて時間を確認する。
そうしながら答えた内容におどろおどろしい執念など存在せず、ただ純粋なひとつの娯楽に対する探究心があった。
勝ち負けや熟練度はいまの二人にとって重要なことではない。差が開き過ぎているならばいかに楽しむかを模索することに苦がないことのほうが求められる。
名残惜しい視線を横目にしながら國枝はゆっくりと立ち上がった。
同時に尻ポケットに時計をしまうとベルト通しに繋がった細身のチェーンがチカリと光を反射する。
「……さて、と。一度くらいは焼き色を見ておこうかな。君はゆっくりしていてくれ。ついでにこの皿の中身、そこの空きによせても?」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
 まだ口をつけていないフォークをカトラリーの包みから手に取ると、その背を器用に使い、残るつまみを集約していく。そして不要な皿を手早く重ねてさげると幾分か広くなったテーブルを台拭きで拭いた。
「あの」
大きな腕の振りで拭き取られていくテーブルの木目を見ながら色葉はポツリ、言葉をもらす。
「あの、話を掘り返してすみません。いいですか、先の話。ここを発つことについて質問をしても?」
「ああ、構わないよ」
拳を握りこむ。空気で膨らませたビニル袋を喉の通りいっぱいに広がたかのような感覚で胸が詰まる。
たとえ互いに嫌な気分となることに違いないと理解していても、これは自身が自分自身を納得させるために知っておかなければならないのだ。
色葉は強い意志を再び内心に言い聞かせ、早鐘をうつ胸中を平静に装う。
なるべく言葉が詰まらないようにイメージを重ねながら声を発したつもりだった。
「先生……は、場合によっては、また、その、人を撃つ……ことをも厭わないおつもりですか」
想像以上に不恰好に躓いた言葉たちを正しく理解してみせた國枝は、それらの意味をよく噛み砕き、間をもってから答えた。
「そうだな。撃つだろう。それが最悪は他の命を奪うことであるとも認識したうえで、そう答える」
 今度こそ目を見て真実を語ることのように、しかし柔和な様子のまま、視線をかち合わせては色葉の意識を貫いたままゆっくりと肯く。