いまだ色葉の表情は青白く、長身に比例する手足の長さがひょろりとぶら下がるかのようだ。
足をいくら動かせど階段を延々と降っていくばかりを錯覚する感覚に支配されている。
視界から得られる情報だけで語るにしても、高さなどたかが知れた距離に身体半分を引っ掛けて横たわることを全長とした階段のはずだった。
過度な緊張と、脳の錯覚とは非常に親しく作用し合うのだ。まして真上から地面を眺むるということも、正しい距離を誤認して信じ込ませるに優れていた。
 やっとのこと折り返し、降りた先を玄関ホールの正面に回り込む。
その踊り場の小さな灯りの下で國枝は、色葉を横目に盗み見てそう感じた。
 己が発するこの世の綺麗ごとめいた自己満足の言い分に納得はすれど、共感ができないのであろう無垢な様子だ。
表面上の理解はできるからこそ、分厚い曇り空であるというのに太陽光が貫通したかの如く透かした影ごと薄明るく地表を照らす天気の日のような顔をしていたのである。
ぼんやりとした陽光だけは拡散され続けることに似て、胡乱な温度を貼り付けたままの姿に救いの手はない。
 こればかりは本人こそのみが、その人物だけの答えを手に入れねばならないのだ。
気の毒には思うものの、あくまでヒントを与えるのではなく、自分がどうしてこれを考えているか真摯に向き合うほかない。
 なかなかどうして人間とは意義を問答することを罪として生まれ持った、まったく可哀想な生物である。
國枝は己が身分を棚に上げる傲慢を知りながら、一階の静かな廊下を先導していた。
 遠くで生地を焼成しているものの一見は小さな箱に過ぎないはずのオーブンから地を這うが如く唸り声がする。
いつでも酷使されてきた部品らが摩耗し、劣化をした結果なのだろう。
そこへわざわざ出向くことが地獄へ至る旅路と錯覚してしまいそうだ。それほど物々しい唸りが廊下へ漏れ、同時に、丁度よく國枝たちは固い表情で強張っていた。
庫内の熱源たるに働きをかける副産物として発せられる、『ブーン』という鼻にかかった音は平行の角度で耳に入る音域であったが、廊下まで気配を感じることができるというのは、ごうごうという唸り声と合わせて微かな振動がひとつ撚りと調和したためであった。
「君が喪失を悲しいことだと共感できる人間であることは素晴らしいことだ。気負う必要はない」
「生きる術がこれしかないことに嘆いているのです」
「そればかりは反面教師にするしかないな。なにせ学ぶ生物だ、人間は」
 普段はこうして語る凪の様相も、"窮鼠猫を噛む"や"火事場の馬鹿力"という言葉があるように、土壇場で國枝に『力でねじ伏せる』という手段の引き金を引かせる。
逆にいえば、そこまでの状況にならねば引き金に指をかけることはなかったはずなのだ。
 生きる術がこれしかない。
銃器によって他人の生命を奪うことそのものではなく、その理由へとフォーカスしたとき、色葉は初めてその人間らしさを以ってして國枝を理解することに歩み寄った気がした。
複雑はあれど、自分や彼では及ばない部分の積み重ねがそうさせているのだ。
そしてその真の苦しみは引き金を引いた者にしか理解することは出来ない。
ただ、嘆き悲しむだけで何もしなかったわけではなかったからこそ、いまこの瞬間がある。
相反している。この嘆きを享受する正当性と、生を謳歌することは同時に在ることにたびたび矛盾を提するものだ。
頭ではよく理解のできる経過だった。
我々はそういった道を歩いていて、これからも歩いていく。
 國枝は慰めを口ずさむ音で囁き、灯りのほうへ誘ってリビングへの道程を往く。
まるで彼が灯りそのものを連れて歩いているかの如く、人の気配が横切ると廊下は生活を再開して暖かい色を取り戻す。
浮き沈みする感情が停滞した生活の息遣いをより強調し、五感がスイッチする鮮明を先を往くあたたかみに委ねる。
「順当にいけば我々はまだしぶとく生きる予定であるが、安易に定住できる身分ではない。だからこそリカバリーは他の人よりいくらか効く環境とも言い換えることができる」
國枝の視線が横目で色葉を捉える。
一瞥というには言い含める意図が強く、見つめるというには焦点が本当に己へ結びついているのかということに自信が、まるでない。
黙りこくる色葉を待つことなく、ドアは開き、暖かな部屋は光に満ちていく。
息を吹き返して時間を進めていくのだ。
「学びを生かす場はきっとあるだろう。ただこの場所ではなかっただけだ。などと言うとまた人殺しにしては説教くさいことであるがね」
「先生のお言葉はよく胸に刻むべきだと考えることがありますよ」
「本当に君は皮肉屋だな」キッチンへ往く後ろ姿が、ふっと弛む。
「じゃあ、私も君の珍発言語録もあとで更新しておこうかな」
 どこか吐き捨てるようにも思える言い分だ。
言葉遊びをひとつの側面ではくだらないことと割りきりながら、沁みいらない事実は言葉に重みがないことが原因であると思い込んでいるのだ。
つまり、その吐き捨てる様は國枝が國枝自身を下に見て、先生という立場然とすることを上面とするようなものである。
彼が平時のように堂々としていれば、言葉を言葉らしく、もしくはそれ以上に重大で意味の深いことであると捉える人間は他にもいるだろう。
親しみやすさと気難しさを両立させ、また時間という概念を疑わせるかのような事柄を平然と語ることのある國枝であるが、時たまにこのようなことを発すると言葉によって必死に己を守ろうとする子どものようにも思える。
それが色葉にとっては興味深く、また近しい孤独を持っているのだという共感によってより強固に関係を読み解く根拠を結びつけていくのだった。

「あの、怒っていらっしゃいますか?」
「一体なにに対して。もし、私が君の目ににそう映るのだとしたら、それは私が己の至らなさを噛み締めているためだろう」
 寧ろ、と國枝は続ける。「君に後ろめたいことがあって、私が口を閉じていることに過剰反応をしている可能性は?」
言い当てられた色葉は驚くことも、ドキリと心臓を跳ねさせることもなく、極めてあっさりと答える。
滔々とあふれる言葉たちに勝つという気力は最初から持ち合わせていない。しかし会話を求めているからこそ、簡単に考えを開示するのだ。
「そうですね。先ほどは私も生意気を言ったなと思って、反省していました」
 オーブンの扉の向こうで焼き付けられているオレンジ色が瞳を濡らすかのように國枝の横顔を照らしている。
ひとまとめとしてからキッチンナイフで適切に切り分けた生地たちを次いで見やると、未だ煌々とした庫内で焼き色をつけられている最中だった。
切り口である四辺の隅からチリチリと焼き色が侵食していく様からしても、一度目の焼き上がりが近いことは想像するに易いことである。
「……まあ、生憎、私にはいまはまだ死にたくないという理由が明確にあるし、それ達成するには君の生存も条件に含まれる。そう考えれば私が死にたくなくて、そういった選択をした結果で君も同じ危機を回避しているにすぎない」
オーブンの黒いガラス扉を見つめている。
 色葉は一番手前の生地をじっと見ていることで精一杯だった。
その庫内の熱気が胸に充満する錯覚で喘ぎそうになりながらも、平静を装う。
与えられる言葉の意味を皮肉ることもなく真剣に、まるで掬い上げた砂ひとつぶごとを鑑定するかのように、その本質を理解したがって神経における感受性のすべてを傾けた。
「だから出まかせではなく、意味あって何度も言ったんだ。私は自由意思の結果としてこれを発していて、君は半分おこぼれを貰っている状態でもある」
彼へ手放しの信頼を期待することの畏れか、はたまたそれを価値と肯定と信じたい傲慢か、どちらの思考が國枝の思考に似合った感情であるのか窺っている。
「一〇〇パーセントの善意、下心を一切なしに他人を守りたいだけだなんて聖人君子はこの何十億と人間が存在する世界でもほとんどの者が出会えないまま生を終えるだろう。また自らがその聖人君子になれる・なりたいと宣うやつもそういない。私だって"そう"だ」
「情を占める意味合いで、ということにしても私にはそれほどの価値があるのでしょうか? 本当に?」
 聖人君子と呼びたくなるような"出来た人間"というものが存在することがほとんど天文学的数字の可能性であるならば、目の前の人間は自称する通りに情で動いているということだ。
腹の底は冷えている。色葉自身が心根の欲求としてそのどちらの答えを求めているのか言い当てることはできそうにはない。
知ることが恐ろしいのではなく、どうしようもなく形容し難いことながら自身にとって得たいものは甘やかな肯定であると同時に、それに総ての価値を委ねることこそを痛烈に批判する言葉だった。
 己の内心において、胸に張る繊細な薄い膜へ針金を引っ掛けてめちゃくちゃに掻き回したような情景が浮かぶ。
その乱雑に破れたふちをうっそりと眺める気分の複雑がないまぜに存在している光景を俯瞰して眺めているにもかかわらず、冷えては煮えたぎるそれを人は不安や焦燥と呼ぶ根拠を見つけられない。
そこまで必死に求める理由が漠然としていてわからないのだ。
その記憶や経験が空白であっても、渇いた身体が水を求むように本能と望む欲求の強さが恐ろしいのである。
「少なくとも、聖人君子には私にとって、でも構わないというならばね」
 想像する以上にあっけらかんとした返答に、背や頭皮に滲みあがった汗の冷たさをようやく知る。
乾きかけた泥のような未知の感情よりよほど信頼のあるはずである國枝の言葉へ縋って視線を投げかける。
彼は普段の通り柔和な目尻をしていたが、表情を固くしていた。
強い意志をさらに堅牢なる理性で押さえ込むかのごとくである様がわずかに肩をいからせている。
改めて追いやられた自分らの境遇を噛み締めているのだ。
すでに出しきった言葉の意味を重く受け止めながら、色葉は黙っていた。
黙っていることしか、今の自分に選択肢がないと思い込んでいたのである。
「私にとって君の存在には価値があり、そして私は君に情がある。後者は生活からよくわかるだろ。故に」
 國枝の言葉はいつも色葉を気遣っており、そして同時に、いつもどこか薄っぺらいものであった。
「気持ちはありがたいが君の想いが仇となってほしくないと思うのならば、過度な心配はしなくていい」
『大丈夫だ』、『君は心配せずとも良い』。『不安と思う必要はない』。
無償の愛と慈しみ尽くすことが博愛であり、生まれ持って聖人君子となれるのであれば、それこそ不気味な話だ。
しかし、肩をいからせわずかに強張った姿を見れば見るほど彼の中に蓄積された感情が少しずつ発言の意図に根拠を固める。
「何故ならば、それは私にとって時に迷いとなる。本当の幸福なんて誰にもわからないことであるし」
 穀物粉と芋を焼き上げた生地に甘味は多く含まれていない。携行食とはいえ、二度焼きで水分をほとんど飛ばすことから傷む原因を遠ざけたことか、どちらかというと口に含んで先に感じるのは微かな塩味だろう。
それらの焼成が終わりに近づくと、乾燥させた穀物本来の極めて質素な香りと、しかしながらどこかパンなどを思わせて甘くふっくらとした様子を想像上に掻き立てる芳醇な匂いが漂ってくる。
色葉は食卓という象徴と腹の底に居座る空しい感覚の未知を感性によって揺さぶられながらも、國枝という人物の内側にひとつの明確な暗がりをみた。
「"倫理の檻"に囲われ目を瞑る世界の秩序も、不滅の魂という本質も、他人の心根すら、一般論に定義して答えを出すのは傲慢なことだ」
この人にも等しく臆病が巣食っている。
 輪郭の内側に気が付いたその様子にはっとしたのか、それともほっとしたのか定かではない。
ただ、その言葉が同じく強張って身体を固く縮こまらせていた色葉から過剰な力を逃すには十分であったのだ。
背骨を経由して身体を通り抜け、足元から地へと逃げていく冷たさにどっと疲れを覚える。
 項垂れたままにも見える恰好でオーブンを眺め続ける國枝のまつ毛が震えた。
会話の区切りを機に無言を続ける状況に被さり、似つかわしいとは言い難くいやに甲高い電子音が張り詰めたキッチンに蔓延る空気を縦に割いた。
設定時間が経過し、焼き上がりとして知らせるタイマーの音だ。
 焼きつける熱源が停止し、庫内が暗くなったことでオーブンのガラス扉は水面のような静けさと反射を持ちながらも凡庸とした黒色へと――正確には透明に庫内の暗がりを透かした本来の姿となる。
 國枝は感情を整理するように長く俯く。
息を吐ききっては肺の底までを身軽にし、扉に備わる愛想もなく角張った取手に触れていた。
「君が先に壊れてしまわしないか心配していたつもりだったが、転々とする生活も長くなる中で私も感覚が鈍くなっていた。当然と思うだろうが、平穏というものはあまりに幸福だ。幸福なのだった」
言葉は色葉の共感を必要とすることなく、ゆっくりと続いていく。
「だが、いつまでも逃げるだけでは――先延ばしの日々は、限界だ、と、今回改めてやるせなさを感じさせられた。いやはや自覚するほどいたくこたえる話だよな」
次の言葉は、独り言にしてはあまりに共感を求めていて、同時に、誰かへ共有することで軽率な理解をされようものならばこの世界を心底に嫌うかのようだ。
 長い時間という喪失と虚無に満ちて弱り、彼は落ち込んでいることを繕えない瞬間を迎えている。
しかし他の誰かが簡単にそれを癒すことは難しい。彼にとっていま現在、それをひとつの考えとして受け入れること自体がどれだけの努力をもってしてもできないからだ。
そう言い表すことが適切と思えた。
喪失を経験すれば誰もがいずれ知り、かつ本人以外には言いようのない寂寞である。
「ああ。本当はずっと辞めたいと思っていたはずだったんだ。ただでさえ無理のある事情を抱えていて、さらに追われ身という日々を好き好んで望むやつはそういない」
 訴えは食卓を象徴するような温かな香りにはあまりにも似合わず、冷たく落ちていく。
もはや嘆きと呼ぶにふさわしいこの内容が、色葉にとってはより懺悔の言葉を語るかのように聞き取れた。そうであると気付いてしまったのである。
故に、返すことのできる言葉もなく、氷水に長らく浸した指先が身体の内側いたる部分を弄るかのような息苦しさを受け入れるほかないのであった。