絵図を用いて紙面上に整理をし説明をする國枝の言葉を聞いた色葉は、その言葉もよそにひとつの考えが渦巻いていた。
 彼が自分を見捨てなくてよかった。
目に見えてあからさまに足手まといだと言われなかったことに心底安堵したのだ。
 皮と身の間にナイフを入れ、支えた指先を小刻みに動かしながら回すように芋の皮を剥いていく。
消費するために食材を淡々とほそく刻むことは渦を巻く思考を停滞させるように見せかけておきながらも、それを許すことは決してなかった。
だからこそ、歪のすきまに細かな土がこびりついた芋の皮はか細く削れていくばかりで作業はちっとも進まない。
國枝の提案のうちひとつは、穀物粉と合わせた生地を焼き固め簡易的な携行食としてグラシン紙に包んだり、家を出るための準備をしている期間の食事だったりでなるべく手持ちを使い切ってしまおうという考えらしかった。
拙い手つきで分厚く途切れた皮がぽとり、と落ちる。
 同時に、卑屈な価値で見直すことをせずとも明らかな足手まといにならないためには自分に何ができるかということを考えていた。
平和な日々が崩れ去る様は一瞬であり、色葉は身の縮むような不安に支配されて臆病になるばかりだ。
微睡みのなかで溶ける朝の中から一瞬で引っ張り上げられた気分だ。
感傷としても、改めて振り返ってみればこの日々は水の中にも似ている。外の状況は塞ぎこもった雑音にすぎず、ひどく優しいものではあるものの、手持ちの酸素が尽きれば生きていくことはできない。
國枝自身が精神的に消耗していたと語る通り、ボロ布のような自分達に気まぐれに与えられたわずかな猶予だったのである。
事実、ここのしばらく追手の気配を感じずに過ごせていたというのだから、そういった個々に目を向ければ些細と言えてしまう弛みが想定以上にいやな重なりかたをした結果だ。
 昨晩、話を終えてから國枝は下準備のためにすぐに出ていった。
正確にはこの家まで突き止められていないことを確認するためであり、さらに前述を満たせば彼が内々に築いておいた繋がりを生かしてこれからの逃亡に利用するためである。
ぽつりと呟く。
「やはりこの庭で春を見ることはなさそう」
勝手口の小さな窓を見る。思考の延長が頭の中だけで言葉を継ぎ足した。「きっとどこかでそんな気がしていたのかもしれないけれども」
もどかしさに「うーん」とモヤモヤとした感情そのもののような音が漏れる。
明確にこれに蔓延る言葉は思い浮かばない。おそらくは物寂しさに似たものだった。
 今回の事件がなくとも、薄明かりが潰えることは逃亡生活のなかではままあることなのだろう。
だからこそ幸福を享受すること自体を恐れているのではない。
この曖昧ながら確固たる考えの根拠から、きっと記憶を無くす前に何度も経験していることなのだ。だからこそ胸がざわつくなかにも頭の芯は冷えていて、次のことを考える準備へと継ぎ目なく移行できている。
この状況における侘しい感情の仕組みも、納得のいく思考の過程もある。
しかし、こうして握りつぶされる痛みの理由をわかっていても実際のところではどうしても胸が苦しくなった。
ぽとり、と手元で剥いていた根菜の皮は再び細切れに落ちる。
皮を摘み、シンクのすみにおいた生ゴミ入れ代わりの袋に放ると再び窓を見た。
 清潔を彷彿とさせる透明を維持しながらも、外側から中を覗かれることがないように波打った加工がガラス面に施されている。
アイアンフレームにはめ込まれている細く縦長い窓だ。パントリーとは別の方向の隅を陣取っている。
精々のところ空気とりか飾り窓と言い表したくなるその窓から、屈折して揺らめいた外の景色が度の強いレンズを通したようにぼんやりと見える。
「仕方あるまいことだな。君はビギナー気分だろうが、慣れっこなものだよ」
 いつの間にか帰っていた國枝が指の背で彼自身の頬を拭いながら色葉の呟きに答える。
そして歩を進め、抱えていた荷物をダイニングテーブルへ置くと「手伝うよ」と平坦な声で呟き、キッチンへ乗り込む。
外気で冷えて赤くなっていた指を一瞥と気にかけてやることもなく、細く水を出して丁寧に手を洗い始めるのだった。
「そりゃあ、旅行気分ではやっていけないさ。街の雰囲気もチラと覗いてきたが、もはやいつもの早朝よりも静かなものだった。しかし強張った気配がドア一枚向こうに立っている」
喉で小さく笑いながら手を拭く。それから懐から折りたたみのナイフを取り出したのだ。
洗浄という言葉をこれみよがしとして洗剤を振り、丁寧に洗い、最後にペーパータオルでしっかりと水気を取る。
手に取ったこぶし大の芋を回しながら眺めると、具合の良い角度で白い光を翻す刃をうずめた。
シャリシャリという繊維質を薙ぐ刃の音か芋の悲鳴か、とにかくそれが二人にまつわる沈黙の間を繋いでいた。
「どうでした、人は。流石にひとりたりとも出くわさなかった、なんてことはないでしょう」
「まるで通夜の直前だ。先日まで普通だった人間たちが途端によそ者を見る目をしてくるのは流石に堪えたな。だが、下見や準備としてリストアップしておいたことがらは概ね完遂したつもりさ」
國枝は色葉の顔を見ないまま誰に語るでもない風体の語調でそう言うと、手早く剥いた一枚皮を落とす。
「円滑に発つための段取り。その幾つかをね」
薄い皮はシンクの底面に落ちて水っぽい音を響かせた。
細切ればかりで身の厚い色葉のものとは異なって長く、そして薄い一枚皮だというのに、芋ひとつぶんの表皮である質量ゆえか安っぽいシンクを大袈裟に鳴らすのだ。
体積でいえば大人ふたり並ぶとキッチンのシンク前は狭い。そのため、剥いた皮はあとから回収して生ごみとするつもりらしい様子でふたつめの芋を取り、再び刃をうずめた。
くるくると手元を回すように薄く皮を剥き、最中で邪魔であると気付けば、本来健全に育てば芽が出るであろう窪みを丁寧に刃元で抉るのだ。
薄く、蛇のように長い土気ある皮がシンクの中でとぐろを巻いている。
「たとえ夜逃げだろうと変わらないですよ。影響なんて」
「私はこの街をそこそこ気に入っていたものでね。わざわざ仇で返すつもりはないし、かといって、必ずしも双方に都合よいことという意味の段取りとも言った覚えはないな」
 曖昧だ。
それら遠回りの言葉たちが最終的には一体なにを意味するのだ。と、引っ掛かりを覚えて顔を上げる。
水を張ったボウルに刻んだ芋をひたす指先は、冷たい外気に長く晒されていたであろうにも関わらず器用に作業を続けている。
反対に家の中でぼんやり皮を剥いていただけであるはずの色葉の手元は動きが完全に止まっていた。
「まあ、詳細についてはいますぐのコメントは控えるが、個人的にはトントンと言える範囲だよ。自己満足さ」
軽口は今や気軽な会話にもならず、拭えない不安に対して眉間はいやに力がこもったままだ。
全てを見通すかのような國枝の態度はそれを改めて指摘することはなかったが、声はいつも以上に穏やかだった。
内容は至って物騒だというのに、事件前の家を出るまえと変わらない。穏やかな小波に似た声だ。
「君ってやつは信頼がないな。大丈夫だよ、少なくとも君が思うより自由気ままにしているさ。私はね」
 折りたたみのナイフを取り出した際とよく似た手つきで今度は逆の動作をする。元の定位置へ戻るための準備だ。
デンプンのついた刃を丁寧に洗い、ペーパータオルで水分を拭うと水切りに上げる。後から手入れ油を薄く塗るつもりなのだろうと窺える。
そして汚れた指先が触れないように背の側で色葉の肩を掠めると向かい合うように促した。
「すべて見せびらかすなんて必要はないだろ。しかし私は適度に開示しているつもりだがね。君の心配や不安と同じものを必ずしも私まで持っているわけではないことは理解していただきたい」
 どちらかが強く求めることはなかったが、ようやく意思の疎通が叶ったかのように視線がかちあう。しかし、國枝はすぐに顔を顰めた。
理由はわかっているからと何を言うまでもなかったが、痛ましいものに同調して励ましてやりたいという気持ちだけは視線からありありと感じることが出来る。
その気遣いすらも後ろめたくなって、あるいは素直に受け取る自信がどうにも湧いてはこれないままで色葉は思わず視線を逸らすのだった。
「君のその優しさは悪いことではないことも、またわかってくれよ。ただ、今の私には少々過剰であり、必要のないことであるだけだ」
國枝は淡々と続ける。言葉尻で滲んだ気遣いはどこか訝しむことにも似ていた。
「どちらかというと君のその困り果てた不安顔の方が心配だな。顔色が悪い。悪いというか、白い」
「まあ、この状況では手放しにニコニコと楽しんでいたとしたら我ながら引きますよ。一連のことを恐ろしいと思いますし、ある意味で明日は我が身とも言えましょう」
「それくらい冗談がないとやってられないということさ、互いにね」
心配はしている。しかしどこか言葉を回り込ませては囲う様を楽しむかのように國枝は口をきくのだ。
「もとよりこの頃の元気ある君の顔は久々だったからね、なるべく長く続いてくれたらと考えるのは関係上にも健全なことだろう。人間としても、保護者としてもね」
「……ショッキングなことにあとあと改まった動揺をしているだけで、身体は比較的に普通のつもりです」
 指摘をされては不自然なまま繕おうとする色葉から残りの作業を引き取ると、今度はきちんとしたキッチン用のナイフでするすると皮を剥くのだ。
ボウルの水に浸かるそれは色葉が剥いた雑で角が多く目立つ歪な芋よりも國枝が剥いたきれいなかたちのものが多くなっていく。
あっという間に固い皮を剥かれ、ふたまわりは明るい本来の色が見える。巧みに刃元を扱うと芽の生えそうに膨らんだ部分をぐるりと抉る。作業の区切りが良いところで一度途切れた会話は再開された。
「……ところで、服薬は?」
 ふむ、と息を吐き、腕をこまねいて思考する仕草をみせた言葉に色葉は思い留まり、はて、と目を丸くして問いかける。
「服薬? あれはサプリメントではないのですか? なるべく忘れず飲むように心がけていますけれども……初耳な気がします」
「君が以前から飲んでいる精神安定剤だよ。記憶喪失の状況でそれを認識させたうえで疑いなく服用させることは至難の業だと思って黙っていた。それは謝罪するが、半端に辞めるとあとの皺寄せがキツいことも知ってほしい」
涼しげな瞳の表情が悪びれた様子の欠片も見せずに語る。しかし彼にとって色葉を貶めようという卑しい理由など全く存在しない。
服薬する利益を最優先した結果、多少の過程に賛否が割れただけ。そうとでもいいたげにあっけらかんとするばかりなのだ。
事実としても國枝が語った通り、最初からそう言われて差し出されたならばひどく怪しんで飲まなかったであろうと色葉は思う。
より説明を求めたであろうし、國枝という人間の信用度は精神安定剤が必要なことに関わっていただけで下の下にマイナスとしてスタートしたに違いない。
この『言われてみれば』という状況自体が機を見計らってうまいこと張り巡らされていたかのような気分だ。
深く日頃の注意まで考えて決断したというよりは、結果的に最も深刻らしく聞こえるタイミングでネタばらしが開示されただけ。明確かつ信頼ができるまで温められていたことだった。
「べつに怒りはないです。飲み忘れたときの不快感がその由来である可能性を思うと辻褄のあう瞬間がたしかにあっただけで」
「一時期、君の心身はとびきり不健康だったからね。言われて自覚あるなれば落差も辛かっただろう。よりお利口でいてくれるよう私も努力せねばならなかったが、まさか徒労だったかな」
國枝の視線は伏せられたままであったが、たしかにちらと色葉を一瞥した。
「私を疑うかい」
「いえ。それ以来はきちんと飲んでいますし、疑っていればそれはもう口汚く詰っていますよ」
 ここには刃物も多くあるのだから。と、までは口にはしなかった。
國枝が無防備なのか自身の思う詰る行動が激情に満ち溢れているのかは曖昧であったが、それを実行する気は元よりないのだ。
色葉は國枝の言葉をゆっくりとした間で待っていた。
「睡眠は。少しはとれたかい。ほかに心配事があるなら今のうちに聞いておこう」
「普段よりは少ないでしょうが問題ありません」
そしてすぐに言葉を付け足す。
明確にこそされていないが、いまこの瞬間、一番に知りたいことだ。
「あの、準備が出来たらすぐ立つのですか?」
「適切な機を待つつもりだ。私も完璧人間ではないのでね。昨日一昨日という事件のことでわからないこともまだあるし、いざというときすぐ出られるようにだけ最低限の荷物をまとめておいてほしい」
 一連の作業を終え、共有するために書き写したレシピのメモを一瞥することなく國枝は次の工程に取り掛かる。
その背中を色葉はじっと眺めていた。
「先生はご無理をなさっていませんか」
「言った通り、正直なところ心細いさ。でも君をどうにかすることが義務ではなく、良い意味で私の支えになっているよ」
 手を止め、振り返った表情は普段と変わらない柔和なものだ。
色葉はすとんと胸に落ちる感覚と共に、己にとっての日常が失われてしまったわけではないのだと痛感した。
安堵のあまり思わず目頭に熱が集中し、鼻の奥が篭って締まる感覚がかける。それを誤魔化すように視線を逸らした。
「もしひとりだったら自棄になっていたかもしれないな。そういう意味では君に感謝しているよ。ありがとう」
芋を茹で潰し、穀物粉を加えて軽くこねる。さらに粉を振り、食事として進む程度の簡素な調味をする。
このあとはじっくりと二度焼きの固い仕上がりにするだけだ。
 生命を維持する食糧の生産とは真反対にも思える話題に触れていると思うと、産毛の間近をなであげられた気分にもなる。
数々の動揺が尾を引いて、敏感になっているのだ。
励ましのように肩にやさしく触れられ、色葉はハッとする。
「色葉」
「……すみません。先生もある程度の仲のかたを亡くされたのに、私ばかり動揺して」
眉間を指先で揉み、気を逸らす。
國枝は色葉のその言葉と行動に何も返さなかった。
色葉自身が救いある薄っぺらな言葉を求めているわけではないことは明白であるからだ。
だからと言って、色葉を責める理由もない。故にオーブンレンジの予熱運転を手早く設定している。
 やがて設定温度まで上りつめるための箱は古い型式であるためか大きな唸り声を上げ始める。
庫内を覗くことができる分厚いガラス扉に國枝の静かな顔が映っていた。
その顔は考え事をする仕草のように視線をすうっと情報に移したあとから、哀悼を僅かに滲ませる静かな微笑みを湛える。
「急なことでおどろいたろう。怖かったな。まだ大丈夫とだ言ってやれなくてすまないが、なるべく早く穏やかな生活に戻ろう」
捲り上げていた袖を下ろし、皺を伸ばしながら國枝はひとつ提案をした。
「ほら、どうせ生地を焼いて冷ますだけだ。その間、君の緊張をどうにかするために使っても惜しくはないだろう。ついておいで」
 唐突ながら勢いある誘いにきょとんと目を丸くすると、調子を整えるかのように挑発として口端を吊り上げた國枝が僅かに歯をのぞかせて笑う。
ぐ、と人差し指を突き出す。そして指先だけを微かに振り立てて視線を誘導するのだ。
雑な爪のかたちに気を取られ、間抜けなままの色葉の表情を見つめたまま微かにながら不安そうに眉を寄せた國枝は言った。
指示を待っているまま指先を見つめる無垢に悟られまいとしつつも声音に波のような息遣いが滲む。
「それとも、私が怖いだとか、信じられないだとかと感じるかい」
「あなたの行動がもたらす結果はともかく、あなたのことは怖くない……と、思いたいです」
「十分さ、ありがとう」
 自らの意見をはっきり述べながらも大型犬のような優しいひとつめの表情がこのまま不安で固まってしまうのではないかという様子でいる色葉の肩を國枝は何度もさすった。
「何度も言わねばわからないようだが私は大丈夫だからね、君も少し力を抜いていいんだよ。別なことを考えよう。今のうちに少しくらい遊びに興じたっていいくらいだぜ。君は不安に憑りつかれている」
「あの」
 色葉は自らの言葉のおこがましさに國枝を直視していうわけにはいかずに、オーブンレンジの扉ガラスに映る顔を見た。
「どうした?」
「うまく言えなくてごめんなさい。その、私は、あなたを安心させることはできないかもしれないですけれども……ああ、うーん、確かに、役にも立たないかもしれない」
迷いある音が言葉を繋いでいたためか、長く沈黙と悩んだ様子の唸り声があっても國枝は横槍も助け舟もやらずに静かに待っていた。
「けど、ですけれども、受け入れて互いがぎりぎり冷静になれるくらいぶんを預かることくらいはきっと、この私にもできると思います」
三秒の沈黙があった。オーブンレンジのガラス扉に映る顔が驚き、目を丸くする様子が本物の彼よりも顔立ちを幼く演出する。
しかし、次に見せた表情は今度こそ普段と変わらない穏やかながら、人をからかう際のどこか謎めいて遠浅に渡る凪のような笑みを湛えていた。
「……君のそういうところ、私は良いと思うよ」
 俯きかける色葉の背後に回り込むと、両手で肩を前に押し出しながら國枝は明るい声を務める。
その言葉を口にしているとき、自身の眉根に居座っていた力も自然と抜けていることを自覚していた。
先行きの見えない不安が全くないわけという訳ではない。しかしここで寄り添おうとする献身を見て幾分か自身もが動揺していたことを知り、同時に落ち着きを得たのである。
だからこそごく自然な声は一歩を踏み出すことができるのだ。
「これも何度も言うが、生地を焼成する時間に手が空いているのは変わりないんだ。どうせ荷物だってろくにないだろう」
「まあ」
凡その厚さを切りそろえた生地をクッキングペーパーに配置しながら國枝は語る。
「そうだと決まれば、ほら、君は勝敗に何を賭ける? 私は明日のベーコンでも構いやしないぜ。持ってはいけないから食べきってしまおう。当面は質素になるから、最後の贅沢になるだろうな」
 急な話題に困惑しては目に見えて焦る色葉をキッチンから押し出し、余熱を終えた庫内に生地を並べた天板ごとセットすると再びガラス扉を閉める。
焼成の残り時間を確認し、スイッチを押す。
それから遠くを眺むように口元を弛めると自身を待つ色葉の影を追いかけるのだった。