「……さあ、足りないと悟るならば言葉を交えようか。いまの君が特に知りたいことは朝刊を賑やかにしていたであろう発砲事件のことだろうがね」
 霜の降りた地面や草葉に朝日が輝くようにありながら、今に跡形もなくなってしまいそうな静寂の表情がそこにあった。
ふっと下瞼がやわらぎ、機微を読み取ることが極めて困難な笑みを口元へ薄く浮かべる。
少なくともそれは彼が敵意を持っているわけではなく、穏やかに対等な話をしようと務める姿勢であった。
「座りたまえ」
 その言葉に導かれるようにソファへ辿り着くと、己の中に存在する緊張とは少しも似つかない柔らかな質感の座面へと腰を下ろした。
腿の裏に当たる木枠の硬さは微かと感じられるものの、綿は以前と変わらず年季のわりに弾力をまだ残している。
「音楽でもどうかな。談話室ならばそういう機器もあるようだが」
ふむ、と唸る息遣いのあとに緩慢な手振りを付け、まるで久しい客を迎えるように國枝は語りだす。
そのよそよそしい様に一度こそ色葉は訝しんだが、明確な言葉はなくともその距離は拒絶ではなくこれから話し出すことの前置きだと理解する。
語りだしにクッションとなる話題を挟みつつ、状況を知ることで受ける衝撃の振れ幅を最小限にしようとしているのだ。
それらを察しては無意識に腰に力が入り、背の筋肉が突っ張るかの如く緊張を得ながらも色葉は毅然と姿勢を正した。
「聞く姿勢の心づもりはしたつもりです。今更ですよ、配慮の話題ならばお構いなく」
返答をじっくりと飲み込み目を見て確かめると、鼻腔を掠める息を吐いた後に言葉は続く。
色葉は覚悟を決めて息を呑むことしかできなかった。いくつもシミュレーションした言葉のうちどれかが的中するかなどということはもはや些事である。
その瞬間が恐ろしいだけなのだ。状況からして今の自分と似た感情を抱くという事実は誰にだってありえることであると言い聞かせるばかりでいる。
「そうか。……そうだな。どうだろう、君。私が以前に機械仕掛けの鳩を飛ばしていたことを覚えているかい」
 緊張する色葉をよそに、滴る毛先や折り重なる一部がまだ湿ったまましなだれる前髪を鬱陶しそうにかきあげると國枝はそう問いかけた。
ソファに大股開きで座り、水差しのピッチャーとグラスを前にする彼が普段から着用しているジャケットが立ち襟なだけに白いシャツというラフな姿に首元が空いているのを認めると、それだけで肌の粟立つ気配を知ってしまいそうだ。重たい色から一転する軽装に風の通り抜ける様がまざまざと浮かぶ。
晒してもいない己の腕を色葉は無意識にさすっていた。
「覚えているか、と、言いますか。まさに昨日、道中でお聞きしたマーティン・ベティオール氏が作ったもののひとつ……でしたよね」
 まさか鳩が道中で故障したか、反応が消失したか。
それだけで深刻にはなるまいと思い直す。
物資のトラブルだろうか。
 会話を切りだす前振りにしても本題にしても、あまりに唐突な質問である。慎重に事を考えても想定外の主語を持つ質問に色葉はきょとんと丸くした目で答えた。
正確には唐突でもないのかもしれない。と、再び己に意図を問いかけ、先に出た言葉が浅はかはなかったかと心のうちで精査する。
逡巡し、しかしそれに正解という区切りをつけるだけの情報はないと首を傾げる。
「いや」と、なにかと思考や会話の工程を戻ろうとする否定の言葉が無意識に出たことに気付き、視線を上げるのだ。
このまま質問の意図を投げ返そうとしたが、探り得ぬ感情によってじっとりとくらい色をした視線とかち合うと、ほとんど反射で色葉は口を閉じる。
対して椅子に規格を合わせた短足のテーブルを囲む一人掛けで國枝は無言のまま、指一本動かせず絶句する色葉を長らく見つめていた。
沈黙。
そして確かに言い淀んだあとに揺れた視線はピッチャーの水面に移る。しかし、口にして喉を潤すことはなく動揺の滲む声で語った。
「そうだ。その彼だ。死んだそうだよ。他殺の可能性が高いらしい」
「ああ、機械ですもの。そういうこともありま……え? は? 死んだ?」
 勢い余って呼吸が詰まる。出戻る息を呑み込んで降った唾に盛大と噎せる。
苦しみ喘ぐ胸元を撫でつけながらも、呼吸が落ちつく前に聞き返した。
「電書鳩ではなく、その、氏が、マーティン・ベティオールさんご本人がですか!?」
思わず身を乗り出した色葉の興奮を制するように、國枝は手のひらを床へ向けたまま片手を上げた。
その意味を正しく解釈した色葉は経年のわりには座面のしっかりしたソファへ再び腰を掛ける。もはや押し戻されるという言葉が正しかった。
自重で沈む座面のクッションより何倍も深い疑問がいくつも頭に浮かぶ。
全神経が言葉を疑うなかで何から聞けば良いか弾き出せない思考の代わりに「あ」や「は」、「え」と、いうような無意味で気の抜けた音がポロポロと唇を転がり落ちた。
「いかにも。しかも、彼のメインアトリエ――結果的にからくり屋敷となった難攻不落の建物内でのスムーズな出来事だった。急所を撃ち抜かれたことが決め手らしいが、いくつか銃創を負っていることから揉め事があったと思われる。そして弟子が行方不明」
 "急所"を語りながらどことなく頭部を指す手振りがその通りの意味であるのか、彼が悩みと絶望に頭を抱える仕草であるのか判別もつかないうちに口元を手で覆う。
 薄皮一枚の下は身体に比べても厚みはすくない顔の筋肉だ。大部分は脳を囲う頭蓋骨じゃないか。
撃ち抜かれればまず無事ではない。
少し力を込めれば己の頬にも固い骨の質感を触れて感じることが出来るのだ。そんなところを、より急所と特筆される部分を撃ち抜かれたとしたら。
 一瞬にして顔周りの熱が冷めていった。
巡る血液が色を失ったかのように緊張が駆け、体温までもが、ぐん、と下がる気配がした。耳鳴りめいた雑音が遠くから、また近くからやってくる。
なにも言葉を紡ぐ前に喉が枯れそうだ。
 ――死んだ?
改めて突き付けられた単語を理解する脳に酸素が足りず、ぼやけて霧がかった不透明を思わせていた。
「それこそ悪質なうそ、とかデマとかではないですよね?」
 声を震わせる色葉を前に自身が動揺してはならないと気丈に振舞う國枝の瞳が炎のように揺らめいてみえる。
その声音はかたく、まっすぐで、しかしすぐに失速してしまいそうなものだった。
「少なくとも、私は君に不利益となる嘘はつかない。だからこそ最終的にこれを話す判断を下した」
死、という言葉の意味を見失いそうになる。強張った頬の周辺に位置する肉がかたくなり、唇の中心が痺れていた。
昨日の國枝があんなに楽しそうに話していたことから隠していたわけではない。
恐らくと前置きするまでもなく、彼すらあの時点では知らなかったのだ。
「地方版はともかく世間一般を広く見れば本日のビッグニュースを飾ったのは間違いなく彼に関する記事だろう」
「そんなことが」
適切と言えるであろう言葉が出ないまま口を開閉し、色葉はの心に凪の想像を浮かべて両手を組んだ。
深呼吸をゆっくりとして思想に身体が同調していくのを待つのである。
一方で國枝は指をこすり合わせ、この緊張から逃れたい心理からつま先で床を鳴らした。
「残念ながらね。現に私も昨日の発砲事件の騒ぎが拡大する前に最速リークの号外を抱えて配り始めたばかりの人間を見た」
 この短い間でたくさんの情報が頭を過った。
主に死という概念への恐怖と、彼の死が一度は隠されようとしたこと。そして、しかしながら早々とリークされたことだ。
 どう考えても、被害者のひとり弟子が行方不明だなどと知られればマスメディアがこぞって空想をそれらしく書くことを競いだすに決まっている。
『行方不明である愛弟子の安否』よりも『安否不明の愛弟子に後ろめたいことが存在したか否か』というゴシップのほうが甘い密なのだ。
善人が悲しみに共感する内容であるだけよりも、ゴシップを塗りたくっては真実味のある疑いがかかった愛弟子を演出することのほうが求められているのである。
ゆえに言葉の行き違いという語弊を生みつつ逃げることもできる表現を意図的に行うことで、悪人とまではいわずとも他人の不幸や軋轢の事情を美味と舐める人間までもが読みたがるものに仕立てあげるのである。その正義がなにへと向いているにしてもまるで欲求に対し正しく需要と供給を満たしたと言わんばかりに横行していることがひとつの事実であった。
 公的機関において偏見のない捜査が行われたにしても順当に進めばほとんど初手で弟子は疑われるだろう。しかしそういう問題ではない、と、國枝は言いたいのだ。
しかし正しい手順でその人物が疑われるころには、すっかり犯罪者然とした弟子の人物像が人々の語る噂の間に浸透しているであろうことが想像できる。
 國枝が避けたいと考えているのはきっとこれだろう、と、色葉は予測して頷いた。
弟子が生きているならば話を聞きたい、最悪の場合でも犯人であるならば余計な情報が洩れる前に始末したいといったところだろう。
「それは……その、弟子のかたが不憫ですね」
「まあ、よくも知らねばそう語られるもやむなしではあるが、私は弟子がやったことではないと考えている。妙じゃないか。この頃の平穏や昨日の急な出来事と合わせても」
同じく深い角度で頷いただけの國枝は、ようやくシンプルな曲線を描く水差しを傾けてグラスに水を注いでいた。
「まあ、彼はお騒がせのプロでもあったし、我々の預かり知らぬトラブルなんていくらでもあっただろうとも考えはするが――気になるものさ。うちほどの厄介もなかなかない」
揺れる水面の凹凸がそれぞれの色を複製して並べたように反射させる。ゆらゆらと揺れる輪郭が見つめあっている。
「私はこの付き合いで彼の弟子である男ともすこしばかり交流があってね。それにマーティン・ベティオール氏とは利害関係とはいえども急に打ち切られて苦でないパトロンではない」
浮かない表情のまま、手首の動きで水を流し込む。
普段の彼が好んでいる紅茶のもつ華やかな香りがない空間は恐ろしいほどに堅苦しく、冷たかった。
じっとりと背を伝う汗が再び緊張を運んで色葉の身体を固くさせている。
「本当に良くも悪くも話題の絶えない人物だ。……いや、人物だった、か。しかし明らかな悪人でもなくてね。我々と関係を結ぶ際に、師を欠く有事に至った際には残された教え子を気にかけてやる約束をあらかじめしていた。いや、契約といったニュアンスが近いかな」
現実から逃れようと無意識に泳いだ視線を自覚すると、國枝は真剣な眼差しで前を見据えた。
「私は弟子であるリスト・スタークと接触を図って確認したいことがある。特に、我々に必要な物資についてや、現状で確認できるだけの犯人と思わしきに我々とのつながりが存在するかなどをね」
タン、と音を立ててグラスを置く姿は珍しい。
「こちらの事情が大部分を占めるとはいえども純粋に彼のことも心配だ。言いたくはないが最悪のシナリオを手引きしたのが彼であれば始末する必要もある」
 彼なりに気がざわついているらしく、見誤った距離にテーブルの天板をさする指先は心細い。
物にあたるとも言える仕草に嫌気がさしているのであろうと色葉は推測するしかなかった。
自分だけが口を挟む隙も一切存在しない状況に取り残されている。
情けないことにも、吐き気がするほどの不安に翻弄されるしかないのだ。
 グラスに付着していた結露が透明の上を滑り落ちていた。背丈の低いテーブルの上に浮かびあがるが如く存在する水滴が、返す光で膨らんだ形をしている。
その光景を漫然と、あるいは茫然と見つめる色葉の心臓は、その水滴のかたちとは反対にどんどんしぼんでいく感覚がした。
しぼむだけのエネルギーをそっくりそのまま置換したかのように不安ばかりが大きくなるのだ。
脳内における思考が『自分には何ができるか』という協力の姿勢から『どうしよう』と慌てふためくだけの単語へと塗りかえられていく。
「とにもかくにも、私たちが彼の死を悼むことを許されるのはそれからだ」
 言い切ると深いため息が停滞をするように長く響く。
意味もなく水を舐める程度の行動を繰り返す國枝が暗い通り、色葉もまた胃の中で重く居座るものを感じる。
よく言えば先に食事を選択したことは間違いなく正しいことであった。それはつまり、そんなことを考えたくもなるほど先行きが暗いことを示している。
 実際のところ迫りくる危機がどれだけ大きいものか、その全容を知ることはできずとも目の前の人物にとって精神的な喪失が大きいことは明らかなのだ。
落日のさなか被る光と影が彼の表情を一層に暗く見せていた。
「わかりました。ごもっともなことでしょう。しかし、その、弟子のかたが行くであろう場所に心当たりはあるのですか?」
「ああ。先の通りの話題で具体的なことを話したことが何度かある」
 こめかみを指でもみほぐしながら苦悶そのままの表情を浮かべ、色葉の質問に國枝は答える。
一声を前に吸い込む息の掠れた音がやけに大きいもののように感じられた。間違いなく憔悴している。
「ただ、私も自分が思う以上に動揺している通り、彼も被害者側の人間ならば冷静を欠いていることだろう。あてとして想像するところはいくつかあるという程度の状況だ。つまり、確約はない。しかしそれを欠いて我々の活路は危うくなるし、責任は果たすべきだ。そうする他ない」
「仕方のないことです。それだけ彼を信頼していたということでしょうし、それ自体が悪いことだったわけでもないのでしょう」
「ああ。弟子もが死していることだって十分にありえる。罠かもしれない。いま考えていることを実行するべきかまだ迷いすらある」
 頭を振った國枝は己の頬を叩き、立ち上がった。
「最期くらいはな。……いや、すまない。脳裏に浮かぶ限り、彼に与えられたであろう苦痛を思うとね。昨晩からシャワーを浴びる間に段取りの大枠はずっと考えていたさ」
天井を見上げ、胸が膨らむほど息を吸い、そして長い時間をかけて吐きだす。
「この生活も長いが、君が記憶喪失を起こす直前の私たちはまさしくボロ雑巾のようだった。それでも彼は一等に友好的な一面を持ちながらも契約めいた協力者でいることを貫いたし、私もそう割り切る彼を好ましく思っていた部分があったんだろう。気を許していたんだな。正直なところ、心細いという感情にだいぶん占められているよ」
 呟きと共に押し出されたのは力ない表情だった。すぐに自分が弱ってはいけないと彼自身に言い聞かせているであろうことを察する表情に切り替わる様が痛ましい。
どうする力も持ち合わせない色葉は咄嗟に目を逸らしたが、しかし喪失を悲観し浸ることの許されない状況であると口にした通り、そんな暇などないと僅かな感傷を循環させた後に國枝は自ら区切りをつけたのだ。
 すとん、と、肩を落とすと緊張して過度に偏った力を抜く。ついで空になった身体が酸素を求む息苦しさを思い出してから徐に袖を捲る。
それから手ごろな紙片を引っ掴み、ペン挿しからすらりと伸びた軸を抜くと再びソファへと腰掛けた。
湿った髪から重力に従い集まった水気が滴るのを手の甲で拭い、とんとインクを含むペン先を紙片へ下ろす。
状況に対してすっかり置き去りにしてしまった手を掴みに戻って来たかのように書きものをする姿勢からふいに鋭い視線があげ、國枝は名を呼んだ。
「"色葉"、大丈夫か?」
 踏みつけられども折れることなく据わった強い意思をはっきりと思い知らされる切れ味を含む声音に呼ばれぞくり、とした感覚が背を駆ける。
言いようのない感情を覚えた色葉は肩を揺らし、居住いを正す。そして小さく返事をした。
「は、はい」
「ならば話を戻そう。辛いが我々は生きるための選択をしなくてはならない。だからこそ無理はしないように」
 己も気持ちを切り替えるために冷たい水を身体に取り込もう。そう頭の中では考えつつも、指先ひとつ動かすことさえもが緊張のさなかでは憚られることのようだった。
國枝はそんな色葉を見て言葉を続けようとしたが、静かに口を閉じてからゆっくりと視線を落とした。
決して己の前で開示されることのなかったそれをきっと出戻りかけた弱音だったのだろうと色葉は解釈したが、自分に何が言えようということを考えると同じように目を伏せる他に術はない。それだけ無力であることの表れだった。