光の強さや角度で落ちる影が相対して比例である関係のように、純粋な知的欲求や他人への理解を望めば仄暗い欲望が同じだけ足元から伸びている。
故に影は切り離されることなく生を受けた肉体について回り、往々にして自覚なき欲望の比喩となるのだ。
 色葉もまたその正体を知覚しうることはなく、足元に結びついたそれにすら改めて気付くこともなく、冷たいシャツへ腕を通した。
どうせ後ほど洗濯をするのだ、と、先ほどまで身を包んでいた生温い抜け殻を雑なふたつ折りにして放る。
シャツに縫いつけられた半透明の釦を丁寧に留め、襟を確かめる。次いで一見する立ち姿だけでは着替えたところで変わり映えのない服装の袖や身頃を確かめるように触れ、埃を落とす。
最後に肩や腕周りに不便がないかを確認してようやく部屋を出た。
バスルームへ寄り、脱いだシャツを一度置く。國枝と合流して彼の様子を確かめてから洗濯だの玄関に残る昨晩の泥を拭う掃除だの、また他の家事をしようとぼんやりと考えるのだ。
寝ぐせがついていないか鏡を見ながら前髪を分け目よりひとなでする。髪をまとめひとつ結びに縛りなおしてから廊下を戻り、リビングへ繋がるドアのノブを押し下げて入室するとダイニングテーブルのそばに國枝の姿はなかった。
ノブに手をかけたまま驚いた色葉はバスルームに寄ったとき、彼の姿は確かになかったことを頭の中で再確認している。
まだ自身の部屋にいるのだろうか、と考えると一気に不安についての可能性が連想されてしまいそうだった。
「こっちだよ」
 足音が止まり、惑う様子を察した声に導かれて視線が上がる。
 ドアの位置からはダイニングセットよりも奥まった場所で簡易的な応接の構図になるソファ群の背もたれから見慣れた人間の腕が音もなくスッと伸びた。
こちらに背を向けたままの挙手をするかたちは小説や映画に出てくるかのような会合や後ろ暗い待ち合わせのワンシーンを切り取って彷彿とさせる。
しかしそれは紛れもなく朗らかとした國枝の声だ。そして視界に認められる腕から得られる情報は、彼がふだん着用している黒ジャケットの生地と同等であろうということだった。
 括りつけられた糸に引っ張られるがごとく張り詰める息苦しさに背を正していた色葉であったが、それらの情報が即座によく知る人物を描いたことで安堵する。やっと呼吸を思い出して声の方向へ足を向けた。
「そちらへ座っていらっしゃるのは珍しいですね。ここのソファ、見た目から想像するより中の綿が元気だと思いませんか?」
 声の方向に回り込みながら、そういえば、と置き去りの靴に思いを馳せていた。いまも靴下一枚越しの足の底面がやや冷たくなったまま絨毯を踏みしめている。
そして隣に配置された三人掛けへと腰を下ろそうとすると、國枝が一人用のソファで尻を座面に預けたまま上体を揺らして座り直す気配が感じられた。
「たしかに、木枠の摩耗した割にはね。前の住人がよほど丁寧に使っていたか、リペアをしたんだろう」
 彼の手元で音を立てるものを覗き込もうとすると、その前に制する声が飛ぶ。
目尻をなぞり横目に視線をくれる瞳を囲む瞼が、わずかに垂れ下がった。
簡潔な言葉であるが厳しい物言いではないために色葉は静かに見つめ返し言葉を待つ。
まるで日常を装うが、極めて音のない状態が続く。正確には國枝の手元は絶えず作業が行われているため、無音というよりはそれ以外の時間が止まっているかのようだった。
「今の私にはあまり近づかないほうがいい。臭うだろう。そんな余裕もなかったとはいえ、昨夜はそのまま寝てしまってね。腹になにかを入れてからシャワーを浴びるつもりだったから、本当に顔しか洗ってきていない」
「本来、我々の境遇を考えたらそういった都合はむしろ慣れすらあるのでは。血が止まりにくい体質とおっしゃっていましたし、当然のこと昨晩中には無理でしょう。さすがに私も強く制止したと思いますよ」
 語られる言葉に対してこの距離で悪臭と判断する事実もなく、色葉は仮眠をとる際に脱いだままだった自身の靴へと視線を落とす。
そして身を屈めると二本の指で引っ掛けるように踵を引き寄せて置き去りを回収するのだった。
國枝が願う通りに幾分かは過剰な距離という大事をとってテーブルを挟んで向かい側、それよりひとつぶんずれた位置に腰をかける。
足の裏にあたる部分の生地についた細かなごみを落とし、ゆっくりとした動作で靴を履いた。
屈んだ体勢から、応接用に設えたローテーブルのうえには取手つきの硬質ケースが置かれているのが確認できる。会話を続けながら國枝はケースのストッパーを解除して中身を取り出していた。
「君の言い分は概ねそうであるといえるが、危機回避の都合で風呂に入っている場合ではない状況と、雨に濡れた身を放置することは同義でないと思うぞ。君、雨というものがどれだけ汚れているかご存じではないのかね?」
「まさか。そうと言うやさしさもあるということですよ」
会話ごしに肩を竦める。軽口を叩く様は穏やかな生活と変わりない。
「こんな生活でも穏やかなときがあれば人間らしく生きたいと思うことはおかしいことではないだろう。必要以上に進んで荒んでいくのは物好きか、はたまた一種の厭世家か、飛んで破滅願望者だ。それこそ解釈次第では治療が必要なね」
 硬質ケースはタブレットやパソコンを持ち運ぶ際のような一般的なケースよりも厚く、取手のある外観をしていた。
フィクションで見るような札束や銃器を持ち運ぶ仰々しいアルミ製のアタッシェケースとも異なる。
もっとも無難なオフィスライクで、単に嵩張るものと機材を雑多に入れることのできるような――気軽ながら場を選ばない姿をしていたのだ。
しかし、いざ内側といえば緩衝材であるスポンジ状のシートが貼り込まれ、重たい光沢のある鈍の色が横たわっている。
単なる書類ケースにしては丁重で、ガンケースにしては一見粗末。カムフラージュでもなければ単にこれが丁度よいサイズだったのだと言いたげなケースに、ハンドガンが二丁。
つまり、國枝が現在も手にし、昨日も持ち歩いていたものを含めそれらは三つの手段として器の形を成していた。
家庭の一幕にしてはあまりに物騒な光景に一瞬というにも十分すぎる衝撃をもって息を呑んだ色葉は言葉を失う。それでも視線は釘づけにされたまま逸らすことはできないのだ。
 取り巻く空気が再び硬くなる。
喉が締め付けられ、唾を飲み込むことに擦り切れたような痛みを伴っている気がした。あるいは渇ききっているが故の痛みだ。
色葉は無意識のうちに両足の指先に力を込め、靴の中で地にしがみついていたのである。
「情熱的に見られると照れるな。そんなに私のことが気になるのかな」
 國枝の言葉が軽口にしてはやけにかたい音に聞こえる。緊張が電波して、強張っているように思えた。
「冗談だよ。重さが変わるし、精度の問題もあいまってあまり得意じゃないんだ」
そのような予防線を張らずとも答えは「そうですよ」という肯定に変わりないと色葉は考えていたが、國枝は早々に冗談であると撤回した。
彼の気障ともいえる態度は常であるが、だからこそ冗談のような水増しのそれを無駄に重ねて意味を違える様は、まるで答えを明確にはしたくないと言いたげだ。
はぐらかしを受けても言い返すことはなかった。
手段を選んでいられないことも、彼が進んで他人の命を奪っているわけでもないことも事実だ。
つまり、「そうですよ」という答えは機を失って永遠に閉ざされたわけである。
 それどころではない事実が実際に我々の前に広がっているわけで、次の機会に恵まれた際には絶対に彼からのはぐらかしを受ける前に真っ直ぐと言葉をぶつけてやろう。軽口などで話の腰を折る選択など存在してよいわけもなく、そう色葉は考えて口を閉ざした。
次の機会には――そうでなければ、きちんと掴んでいなければ、暗闇の中でいずれ失速してしまいそうな微かな繋がりだと色葉は感じるのだ。
 普段よりも警戒した足取りで進んでいく会話たちが、躓いたり、つんのめったりしながら成り立っている様はいかにも奇妙だった。
 ネジに締めこんで取り付けたサイレンサーつきのガバメントを手におどけて見せると、國枝は確かめるように人のいない壁へ向かって構える。
その動作を何度か繰り返し、じっとリアサイトの窪みを覗きこんだ。
衣擦れがささめき、呼吸が止まる。
途端に両の肩にずしりと縋りつく重たい空気がのしかかるように感じられた。色葉は息をのんでそれを見つめている。
「……それに逃げるだけならば音が鳴るほうがいい。あえて聞かせて他人に知らせることができるぶん、仮に足止めとして命中せずとも別の効果が期待できる。元より後ろめたいのは追手側なわけでもあるし、世間的にみる我々も善良な滞在客に過ぎない」
 長く、細く息をはく。言葉の意味がわからないというわけではない。
 静かに席を立った色葉はダイニングテーブルを通り超え、キッチンに立った。
カウンターテーブルとして備えられ、正面の壁をとっぱらった景色越しにダイニングと、その先の応接セットであるソファに座る國枝を見る。
残り野菜と豆類を煮込んだ味の薄いスープの鍋を火にかけ、切り出したパンに焼き目をつけるために熱したフライパンへ並べる。そして微かに油を垂らすのだ。
胸が膨らむほど深い呼吸を繰り返し、普段通りの動作を流れ作業のように行う。
 ピッチャーからグラスへ飲み水を汲み、しかし喉を通る気はとてもしない。水面を眺めて唇を噛む。
ため息をつき、結局は側の鉢にくれてやる。
水切りにその透明を伏せ、やっとつぶやいた。
「つまり、次は、逃げるだけではだめかもしれない、と?」
 向こう側の景色の中で國枝は険しい表情を和らげると、意識的に目を細めて綻んでみせた。
心配することはない、と、言いたいことは火を見るよりも明らかだ。
 優しいひとなのである。
しかし、自分の言いたいことは彼には伝わっていないのだろうと思うと虚しくなる。
そしてそれを指摘し、覆すことのできない自分にやるせない。
否定も肯定もしないまま、薄く微笑む下瞼の皮膚は血色がよくないことが感じて取れた。
「……お腹、すきませんか? 食べたら少しは落ち着きますよ。ええと、まあ、落ち着くのは私が、ですけれども」
「ああ、それは素敵な提案だ」
ふっと空気が軽くなるが、色葉は胸が締め付けらる気持ちのまま顔を上げることができないでいた。

 用意されたスープに長らくスプーンを浸した國枝は緩慢とした動作で皮のふやけた豆を掬っていた。
主食は世辞にも柔らかいパンではなかったが、地域柄の主流も手伝って当然のこと白くて甘いものでもない。
 今日という日は特筆してどこか脆いように見える彼がなかなか手をつけないそれに急かされ、色葉は苦言を呈する。
「あの」
自ら指摘することの気まずさに食卓を見渡す。
 普段通りならば適当な草花を摘んできてジャムの空き瓶に挿す賑やかし程度のテーブル飾りも、無ければ無いなりにもの寂しくなる。
この生活では料理に求めるものは彩りや栄養素よりも、食べやすさと腹持ちの良さだ。必然的に生野菜は貴重となるうえ、手持ちに加えても種類は少なくなる。
視覚から得る情報というのも侮れないもので、並ぶ彩りの乏しさはあらかじめこの家にある食器のささやかな装飾がいっそのこと惨めさを掻き立てるほどである。
故に無性に胸元の焦りを掻き立てられるのだ。正確には漠然と呑み込もうとする不安だ。
それらに日常や普通といった比較しようもない概念との落差を見出しては気になって仕方なくなってしまう。
唯一と言ってよい鮮やかな色彩をもつミニトマトを眺め、色葉はもう一度口を開いた。
「あの、もしよければ、食べてください。昨日の今日でそれはさすがに栄養になりませんよ。倒れてしまいます。なんなら作り直します。お願いしますから、少しでも食べてください」
 奥歯をかみ締めいまにも泣きだしそうな懇願に対し、國枝がきょとんとした顔をしたあとに破顔した。
目頭や眉根の不安げな様子は拭いきれぬままではいたものの、あまりのすれ違いぶりに國枝はいくらか声をあげて笑ったのだ。
口元に運びかけていたスプーンを持つ手の先でスープが滴る。
すぐさま服に跳ねていないか気にし、次に飛んだかを確認するより早くダイニングテーブルの天板をペーパータオルで軽く拭った。
それから幾分かすっきりした顔をして息を吸い込んだ。
「いや、君の勘違いだよ。大丈夫、腹は減っているさ。確かに私は偏食を公言してはいるが、食べないわけではないことは知っているだろう」
「でも」
「疲れすぎていても食欲は失せるものだ。今の君にまだ経験がなければ共感は難しいのかもしれないけれどもね」
 自らが不安を煽ってしまったことを謝罪しつつ、スプーンを置く。代わりにやっととちぎり取ったオープンサンドのひとかけらから飛び出た具に「ずいぶん分厚いチーズだな」と呟いたが、國枝はゆっくりと咀嚼していた。
「昨日の緊張のせいかまだ身体が驚いている自覚があるから、温かくて柔らかいものから試しただけさ。ゆっくりいただくし、最初からそのつもりだよ」
 言葉通り、奏でるかのように緩やかな手つきであったが、確かに彼の食事は不自然も滞りもなく進んでいく。
「いや、違う。弁解は必要だが、ありがとう、だよな。言い訳の前に感謝を口にしなくては。心配と手間をかけさせたことは悪かった。おかげさまでこの通り」
 表情がやや強張り、血色は古い家の埃を被った家具のようにくすんでいる。声に抑揚が少ないことからも、いつも通りではないことは明らかだ。
色葉がフォークで捕まえようとしたミニトマトが逃げる。
視線で追ってからフォークの先端や膨らんだ背を皿の上で器用に操り、へたがついていた頭を下へ向け、安定のある姿にしてから三叉の矛を差し込んだ。
そっくりと貫かれたミニトマトに意図はないまま、色葉もまた、食事を続けた。そして、ぼやけた輪郭だけの言葉に――つまり、そこらの道端でも見られそうなほどありがちなご挨拶に、ひねりもない返事をする。
「ええ、元気ではなさそうです」
目は伏せたままだった。
國枝もまた、見破られたことに狼狽の一切をも見せない。
「不思議と君にはそう見えるらしい。まあ、そうだな。一部は事実と認めよう」
ただひとつ、参った、と、言いたげに片手を上げた。
そのままじっと色葉を見つめる。
 料理の並んだテーブル越しに見つめる瞳を色葉もまた見つめ返す。言葉はしっくりと沈み、カトラリーの銀色に反射する。
視線の往来や金属の表面を行き交い、幾重にも深いところへこそ本当の意味があるかのように問いかけをするのだ。
「君は……他人を撃って顔色ひとつ変えやしない、仮に知人が死んで動揺しない"先生"のほうが君の先生にふさわしいと思うかい」
無意識の力が込められ、再びスプーンをとる指先が白くなっている。それ以外には一見して認められる異変はないが、國枝は静かに言葉を待って食事を中断していた。
「私は無神経にも家を出る前、あなたに他人を撃ってほしくないと言いました。本心を言えば今もなるべくはそうあって欲しい。でも、あなたは感情も情緒もある人間ですよ。我々には他にない事情もある。その問いをご自身以外に委ねることはよくないことではないのですか」
 自分が偉そうにこんなことを言って許されるのだろうか。
居心地の悪い感覚から逃れたい一心で、今し方に言葉の出ていった喉を洗い流すようにグラスの水を呷る。
「ごめんなさい。先の軽口は嫌味のつもりじゃなかったんですよ。今の真面目な話も本心です」
そして小さく付け足す。言葉尻は消え入りそうな呟きとなり、風が吹かずとも消えてしまいそうだった。
「先生。動揺は当然ですけれども、どうかお気は確かに」
「いや、平気だ。すまない。怯えられたくないのは私のほうだよ、変ことを言ったね」
冷める前にスープを掬って國枝は切り出す。
「食べたら……そう。このあと、少し話をしよう。ビッグニュースだ。しかも、とびきり悪い内容の」
 色葉は唾を飲んだ。
何を言いたいかということは察しがつく。
問題は圧倒的な言葉の足りなさを自覚したいまになって、どのように切り出すかということなのである。
色葉は無意識に自身の頬に指を触れ、意味もなくひと房の髪をすくうと耳にかけた。そして緊張を誤魔化す仕草を自覚すると、途端に目線をどこに置いておけばよいのかわからなくなる。
結局は動揺を隠しきれないままなるべく平静を心がけて返事をするのだった。
「わかりました。ああ、先にシャワー、浴びてきてくださってもいいですよ。それとも、お身体に負担でなければ湯を溜めましょうか?」
顔を上げた國枝はまるで日常を続けようと強行する様に訝しみ口を挟もうとしたが、次の言葉で納得をした。
「タイミングを後伸ばしにさせるわけではないですよ。悪いニュースのあとに片づけをする気は起きないと思うので、私に猶予が欲しいだけです」
國枝は困ったように、それでもどこかほっとした様子で口角を弛める。
「確かに、ちょうど今しがた、雨に濡れた気持ちの悪さを思い出していたところだった」
その顔が笑うという表現には満たないまま、スプーンを持つ手を下ろし、眉を下げる。
「……ごめん、俺――」
そう言ってからハッとし、言い直した。
「すまない、いや、よくない軽口を言いかけた。私もほかの可能性や、君へどう伝えるか悩んでいたのだが一晩で整理しきれていない部分があった。はっきりと言いきってどうしたらいいかはまだ正しさが分からないくらいだ」
 空になった皿を重ね、カウンターに上げる。それからキッチンに回り込み、空になった皿たちへ水を張る。
「しかし我々にとって重大な内容だ。それを含めて話そう」
「はい。心の準備をしておきます」
片付けを申し出た色葉に感謝の言葉を繰り返し、テーブルを拭くと國枝はジャケットの釦を外しながら言った。「先に湯を浴びてすっきりさせてもらうことにするよ」
 見え隠れする"國枝"という人物と、彼の自称する"先生"という像の内側に対して色葉はまたもやひとつの言葉を発する機を失っていた。そして今更になって遮ることもしなかった。
なにより胸へ灯った奇妙な感覚に心を惹かれていたのである。
 "悪い意味での"ビッグニュースというものが自分か國枝のどちらかだけが損得をする根底ではないことを理解している。
死なばもろとも、もしくは道連れ。共倒れ、が正しいのだろうか。あるいは共の生還だ。
それしかない。
 一度はきれいさっぱり忘れた頭で比較的に覚えたての似た響きや意味を連想する言葉を並べる。そのうちの幾つかは正しくない意味でもあるかもしれない。
それでも、そんな間違いは瑣末なことだ。
まだ見もしない悪い未来よりも、ずっと知りたいと思っていた國枝という人物の内側を垣間見たような状況に安堵している。
色葉は彼の後姿を見送りながら不意にひとつの感想が浮かんだのだ。
よかった、彼は本当に人間だ。と、そう感じたのである。
 過去に由来する出来事をほのめかす内容や、相手が意識をしないようなところで知らない人間の名を呼ぶことは、言ってしまえば筋書きさえ破綻しない限り演技でも似たようなことができる。
しかし、今さっきの彼は等身大の國枝という――少なくともひとりの人間だった。
だからどうこうとしてやろうと思うことはない。
ただ、抱いた自分自身さえもが理解不可能ながら胸を占める大きな安堵が、たまらなくあたたかなもののように感じられるのだ。
同時にそんな気持ちごと丸呑みにされてしまうようなことが後から語られるかもしれないことに不安を覚えた。奇妙な寒暖差の境目に立たされている。
陰のようにぴったりと張り付いて後ろから知らない声がかかってくるのではないか。そこらじゅうから恐怖を象徴するような目が開くのではないか。
ありえないと理解しながらも己の不安という感情がなにかしらのかたちを得て具現化をするかのような想像に急かされた色葉はシンクでコックを捻り、水を流した。
洗うべく皿の一枚に手を伸ばし、滞ることない水のさらさらとした音を聞いている。