惑う人々の悲鳴や怒号が、まだ先を見通すことのできる細い路地にまで響いていた。
色葉は月光の白を落とし込んだような色の石畳を走り抜ける。ぎゅう、と押し出された不安を飲み込む。
竦んでは棒に成り下がる役立たずであるとしても、進むためにはこの足を動かすほかないのだ。故に駆ける。
駆ける、駆ける。
細く長い髪の毛の一本が肌を掠め、時に呼吸に喘ぐ口元に入り込んでは不快感をもたらした。
しかし、この瞬間においての色葉にとっては不快のひとつふたつは一緒くたに振り払うものだった。
 指で剥がす髪の毛先が口腔内から引き摺り出されるおぞましさも、普段であれば背を振るわせた息苦しさも、頬を叩いて奮い立たせることで打ち消す。
 そんなことより、早く姿を、今は不在の彼の顔を見て無事を確認しなくては。
身が引き裂かれるかの如く不安に見舞われて臓器は緊張する。胸の内から震え上がるようだった。
 肺は硬くなったゴムのように、走り出してまもなくすぐに根を上げて呼吸が苦しくなっていく。
酸素を吸った途端に押し戻されるのだ。息をあげて身体を縛り上げる見えないものの正体は、不安ではなく、甘えた体たらくに堕ちた心臓の悲鳴だったのである。
 体調を戻すことを優先した末に運動という負荷から遠ざかりかけていた肉体が思い出す苦痛では、もはや呼吸という動作として今この瞬間に息を吐いているのか、吸っているのかが曖昧な気すらした。
 足が躓く。
思考の割合に対して、すぐに解決することはできない不安を抱えることが割合を多く占めていくことに気をとられすぎていたのだ。
身体がぶわっと、浮く。火照った内臓が急速に冷やされたように感ぜられる。
前に進もうとして折れた上半身に、低くなった視界。それから、やや長い毛髪に伝わる力の大きさが波のように順ぐりに撓み、靡くことで伝播を可視化した。まるで毛先だけが置き去りを食らったかのごとく遅れて膨らんだシルエットを描く。
それらが視界の端を欠いた瞬間、まさに「あっ」と、いう間もなく、長い時間を経て欠けたり、割れたりとした石材の一部に足を取られかけて色葉は体勢を大きく崩した。
 革靴の踵が石材の大きくかけた隙間に引っかかるのだ。
傾いた上半身を起こした先に見えるさらにも狭い路地を我先にと往こうとする人混みに一瞬怯む。
道にものが散乱していたり、人の波にて自身の足が踏まれる心配が少なかったりするならば、靴など脱いだほうが走りやすいのに。
そう考えつつ色葉は奥歯を噛み締める。
それでも事実として危険を考えればどうしようもないことだ。
目先の惨状が序章にすぎない可能性が拭えない以上は悪路を駆けるよりも、長い目で見た目的の完遂において手札となる安寧をとるべきだ。
 決意を腹に納得するよう唾を飲み込み、爪が食い込むほど拳を固く握りしめると人の波を押し返す勢いで半身に身体を翻して割り入った。
このパニックから逃げ出そうと押し寄せる人々の大きな波から逆らって走る手前、止まればあっという間に波に飲まれることを想像するのは難しいことではない。
引っ込みがつかなくなるかのような成り行きを疎みながら、我先にと己が可愛さに他人を押し退ける人間たちと同じことをするのだ。
 間隙を縫い、時に独善の行為をぶつけ合い、奪い、勝ち取って道を割る。
幸いにも埋もれるほどの身長ではなかった色葉はもがいた先に腕を突き出して自身のための道を作る。 
そして突き出た腕を嫌な顔で押し戻されると、より眉をつりあげ、他人を押し退けることもやむなしと強く己を奮い立たせるのだ。
この場では誰もがそれに甘んじている。責められる謂れもなければ、後になって犯人探しも出来まい。
だからこそ、事実こそが何よりの証明であることに、勝手をし始める前から色葉自身も揉みくちゃにされて身体の至るところを強打していた。
 誰もが自分だけは助かりたい、と、考えているとして違いない。
嘆かわしいと語ることも祈ることも間もなく、平穏かなぐり捨てた人々は往く。
自分のものではない靴が転がっている光景を見るたびに、散った花や潰れた果実が映像表現において何を暗喩するか、と、いうことが刷り込まれるかのごとく概念の理解に色葉の心臓は冷えていた。
それが暗喩であればどれほど良いか。まさにフィクションにおいてその表現がいかに特定の事象を象徴し共通概念たるかの過程を見せつけられている。
物語が現実に置き換わる瞬間を目の当たりにしている。履き捨ててかまわない生命など存在しないのだ。
そんな当たり前のことを突きつけられている。
力の抜け落ちそうな膝を、腿を叱咤して色葉は自身の下肢を殴りつけながら歩を進めた。
 銃声はその後も幾つかを聞いたが、街の中心付近から一等音が遠のいたように聞こえてはそれきり人の声だけだ。警官によっていくつかの施設内や障壁になりうる建物に囲まれた場所へ誘導された人々から、正誤を問わない情報が伝播する。
 東へ駆ける人物がいただとか、主犯者は自決しただとかという曖昧で根拠なき情報が飛び交っていたのだ。
風船に似て、手を離した後も飛び続ける空気袋と持ち手に何がぶら下がっても誰一人として責任を取らない。
こうして姿なき犯人に怯える家々の扉は人間が瞼を閉じるが如く固く閉じられ、通りに面した市場の商材であった果物や花は散々に踏み荒らされてしまっていた。砕ける果肉や、踏みにじられる花を見て色葉の感情が褪めていく。
こんなにもいとも容易く奪われ、失われていくことを憂いていた。涼しげな後姿が瞼の裏で揺れている。
 そこで一瞬思考が停滞する。はた、と進み刻む時間に引っかかりを知るのである。
"こうやって"というまるで過去にも経験があるような口ぶりを、自分自身に問いかけるのだ。
動揺よりも先に嘆きが喉に到達する"私"は何を得て、何を失っていたのだろう。
いままでも抱いていた疑問の抽象はより具体性を求め、指の間をすり抜けるは時の砂ではなく、柘榴のように不規則をしつつも物質に沿い割れた生ぬるい肉から滴る脂ぎった血液に思えた。
 改めて考える。
生命の重さや、生への執着だけを柔らかな肉から抉り、掬い上げては丁寧に天秤に乗せる姿を。
それに対して傾きの精度だけで審判を下し、価値を分岐させていくことのおそろしさを。そしていつか負けを知る己の価値の行く宛を、である。
こわい。こわい、こわい。こわい!
 無意識に追いやって封じた記憶を呼び覚ますきっかけになってしまいそうな暗闇を覗き込み、突沸した怒涛の感情に身体を吹き飛ばされたかと錯覚をする。
それほどに悍ましい感情が、一瞬にして色葉の脳を染め上げたのだ。
 毒のように滲み噴き出す感情が胸に蔓延り、水のように細胞へ染みて呼吸を乱していた。
どんよりと肺の辺りが重い。呼吸の循環が滞る。
何がこの身体を突き動かしているのだというのか。
なぜならば、この身体には蓄積されてきた生活の礎なる知識はあるというのに、自分自身のことはまるでがらんどうだ。
少し迷えばたちまち何が正しいのかわからなくなる。
――ならば、その迷いが足を止める理由として納得できるのか。それこそ、天秤の傾きによって二者択一をするなかで、選ばない理由になるのか。
自問自答が繰り返される。
 怖いから、何が正しいのかわからないから。
どうしたいかわからないから。
それが足を止めたせいで指をすり抜ける事象に対して納得ができる理由になりうるだろうか。
納得に至らずとも、もう一方を選ばない十分な理由になりうるだろうか?
なによりこの衝動が心根の知れぬ不安や恐怖を前にして立ち止まることをよしとするのか。
問いかけを振り払って、革靴を鳴らす。
 芯から震える腿を自ら何度も殴りつけて足を進める。
一歩でも先へ、今すぐ行かなくてはならない。
路地の先では、石畳の溝に血が伝っていた。
溝に沿って伸びる色のあまりに鮮烈なことに、胃の内容物が迫り上がる感覚に似たものを覚える。
目眩のするような感覚や目の前の異様な非日常に思わず後退り、口元に手を添えた。絶句している。
 開けた場所には警戒色の規制線が張られ、警官が無線機を用いて連絡を取り合っている。
忙しく担架で運ばれていくのは黒いスーツ姿の男が目立ち、先を急ぐ救命隊員の時に怒声と見紛う大声が飛び交う。
目の前で担架に乗せられた姿といえば痛みを堪えてか細い唸り声を張り上げていた。
改めて眺る惨状に思わず顔を逸らし、しかし確かめたいことがあって再びその姿をみる。
救命隊に運ばれる白い布とエージェント然をする姿は通り過ぎたあとであったが、周囲の会話から銃撃を受けた人間は脚が主な患部になるようで命に別状はないらしい。
青ざめた顔の怪我人が潜めた声のひとつが根拠なき仮説を呈している。
「わざわざ脚を狙うばかりなんて、まさか悪いのは撃たれたほうじゃないか」
「それならまず、追われる理由があるはずじゃない。どちらにせよこんなに小さな街で恐ろしいことに変わりはないわ、こわい!」
鼓動が内側で強く打つ。
 先生だ。先生がやったんじゃないだろうか。
直感的にひらめくのだ。
ならば尚更に先生はどこへ行った――?
 聞こえる断片から察し得るに、それらは狙いが逸れて脚に直撃したのではなく、もとから脚を狙って放たれたらしいのだ。
概ね怪我の位置が付近と一致することに疑いを持つ救命隊の声を盗み聞く。
それから規制線内の開けた場所に集められた怪我人を見渡す。
怪我をしたのは女こども、そして男性のうちでも比較的に身体が小さな者、老人の幾人か。
つまり、見るからに人の流れのなかで不幸なことにも揉みくちゃにされて負傷した民だった。
ぐるりと見渡してから、すぐそばにいた警官に色葉は駆け寄る。
「すみません! 怪我人のうちに白服の男性は居ましたか?」
 掴みかる勢いをする色葉の言葉に対して、規制線の前に立っていた警官は身体をやや後方に逸らしてぎょっとしてみせた。
自分の発していた言葉が日本語であることに気付いた色葉が慌てて言い直すと、警官の男は最初こそ迷った表情をしたが、顎に指を添えて思い出すように視線を動かした。
思考をする間も息を整えることで精一杯だった色葉は膝に手をついて上半身を丸めながら、荒い呼吸を繰り返した。時に咽せ込んで、片膝を着きかける。
「いや……自分は見てはいない、かな。悪いがまだ立て込んでいてな。安全確認中でもあるからここで待機するといい。怪我人でなければ、広場へ誘導したいが、下手に動くのはよくない。それに、本当は個別対応はしていけないんだ。誰だって大事なひとが心配な気持ちは一緒だから、なおさらに」
「そう、ですか。……わかりました。広場に行ってみます」
「いや、君! 勝手に動くんじゃない! 落ち着きなさい」
 来た道を戻りかけて、振り返る。血が滴っていた石畳を一瞥した後、ぎゅっと目を瞑った。
國枝が生きているとしても、何事も無かったかのように素知らぬ顔で広場に居るわけがない。無事かどうかもわからないのだ。
色葉は項垂れ、静かに首を振った。
「……大丈夫です。危険なのは承知ですが、同行人の無事をただ待つわけにはいかないのです。自己責任でかまいません。なるべく迷惑かけず身を守る努力はしますから。その、重度の心配性で。たとえ死んでいても、私が見つけてあげたいんです」
突き放した言葉で彼らの使命や義務に対するプライドにを傷つけただろうかと思い、心配性という言葉を付け足す。
あまりない経験に狼狽える様を隠せない若い警官に一礼し、両の頬を手で叩いた色葉はよろついた足取りで路地裏へ向かって歩き出した。

 土地勘のないまま細い道へ入るのは不安があったが今はそれどころではない。
洒落たフレームの街灯が見下ろす石畳、かつて鉢植えの花が飾ったはずの路地を抜け、打って変わってつぎはいだ痕跡のあるコンクリート固めの堅牢な造りの印象を受ける道に出る。
なだらかな面が広く歩きやすい道に、チョークで落書きされた絵を踏みしめて進む。
締め切った窓の向こうで飾られた花が色葉を咎めるかのようにだんまりとしたまま路地を見ていた。
物陰には猫ばかりだ。あちこちで昼寝をしていたり、退屈そうに伸びをしながら物陰より静かに突然の来訪者を窺ったりしている。
先程まで響いた銃声には警戒をしているようで、それが人間によってもたらされることもよく知っているようだ。
いくつもの瞳が色葉を突き刺す。影を地に縫い付けるが如くの眼光で警戒していたと思えば徐に立ち上がり、身を翻して何処かへ消えていく。
あからさまに避けられると道の冷たさや暗がりがより強調され、心細くなる。
 居場所がない――正確には"どこに存在して許されるかということ知らない事実"を、痛いほど現実と知らしめられている。
心情に重なり引き立つ悲観のその度にため息をつき、色葉は足を速めた。
 一帯の路地はやがて別の広場に出る。
広場の周りを囲うように張り巡らされた路を亡霊のようにふらふらと歩き続けていた。
いつの間にか空はごうごうと鳴り出して、街を圧し潰しては重苦しい色をしている。
 今にも雨が降り出しそうな地上はすっかり色を無くし、雪原を思わせる白衣を探し人の目印にしようとも天候の暗がりにくぐもって余計に國枝という存在を翳らせていた。
「先生……どこに、いらっしゃるのです」
 足がもつれて派手に転ぶ。
手のひらの側面に擦り傷ができてじわりじわりと血が滲む。高そうな服の生地が汚れる。
歯を噛み締めて感情の昂りを堪えるも、噛み合わせる歯列がガチガチと鳴りだすのだ。
ぽつ、と雨粒が落ち、乾いた地面に暗い色を落とした。
喉が引き攣っていた。