見知らぬ土地を歩き回りすぎて、家からここまで来た道も思い出せないでいる。
そもそもを語ればより己に文句を言ってやりたくなるものの、無駄を極めてお目当てが見つかるわけでもあるまい。
行き場のなくなった苛立ちや焦りに似た視線は燻り、胸の中で留まらなくなる。
たまらずどこかへ当たり散らす前に、せめてものこと口のついていないものへ、と、瞬時に弾き出した色葉はじりじりと集まる曇天を睨みつけた。
その厚みこそ、いずれ風の流れによって疎らに散る定めを持つ雲であれども、いまはそれこそによって太陽が見えなくなっている。
太陽が見えていれば、常に遠くに見えている尖塔との角度でおおまかな方角を理解できたのだ。しかし、それすらも忌々しき水蒸気と副産物の水滴らが拡散する曖昧な光に封じられたいま、これからどうすればいいのだ。項垂れる。
せめて太陽の輝きがうっすらと漏れる程度に曇ればよかったのに。
まるでこの状況に同情を重ねるように滴り、しかしながら絶妙をした重々しさで居座る雲が恨めしい。同時に、いよいよ惨めに思えて仕方がないのだ。
 次第にひらいた間隔で控えめな雨粒が降り出し、湿り気を帯びた風に乗って微かに鉄錆の匂いが混じる。
それが鼻腔を刺激したとき、色葉は勢いよく顔を上げた。
そして急く気持ちと反対に固まったまま身体は立ち上がれないまま、這うように辺りを見渡す。
遠くの方できらりと何かが光を反射したように思うと、転がるように走り出した。
 返事でもない。合図でもない。
示し合わせたものなど最初から一つとして存在しないというのに、もはや出処が思い浮かばぬことに、説明がつかないからこそ、馬鹿なほどファンタジーを信じたいのだ。
 明滅する光が淡い蝶の飛ぶ姿を思わせる。
不安がために何かと理由をつけて信じたい。
それがある意味では正しい防衛機能である。
同時に、絶対は存在ないし、第六感の証明だって定かではないのだ。
 誰に言い訳するためのものでもない屁理屈を並べ、説得力を持たせようとし、結局は絡まった糸のような姿のまま抱き上げたものを胸に抱いて走る。
引き返すための道を覚えることを忘れ駆ける愚か者の姿を、窓辺の花瓶は見送っていた。
「せ、先生……?」
 喉がぜいぜいとなっている。息を吸い込んだ色葉は掠れた声を絞り出していた。
驚いた赤毛の猫がサッと物陰に隠れていく。
伝い歩きする壁にツル性の植物が見え始めるといよいよ閑散とした地区に迷い込んだのだと自覚する。
より古めかしい姿はどこか童話の世界を思わせるのだ。
そして錯覚かもしれないという疑念を拭えないまま、風に乗る血の匂いと思わしきに似た深く、そして脆い縁(えにし)を辿っていく。
 導かれた先に、やがて家というには簡素ながら作業小屋用途にはしっかりとしている平屋が現れる。
角材を積み上げる組み方で建てられたもので、その全容や突拍子もなく閑散とした場に建つ姿からも人間が常駐する施設には見えない。
まさに首を捻りたくなるほど急に現れたように感じられたが、結局のところ倉庫か作業小屋か、催事などで使用した仮設小屋の名残と考えるのが無難だった。
「これはまた随分……いかにも何かありそうなお出迎えで」
少し先へ目をやれば林に近い場所へ建つ小屋を前に色葉が呆然としていると、足元に待ち構えたような黒猫の目がある。金色の瞳だ。
真正面から物怖じすることなく、立ちはだかるかたちになる色葉を眺めているのである。
それから、「ナーン」とも「ミャーン」ともとれない独特の一声をあげて踵を返すのだった。
 目で追うばかりの色葉を一瞥し、導くこともなく僅かに開いた玄関扉の隙間に身体を滑り込ませてくぐって行く。
もはやその後ろ姿と毛並みは、何にせかされるわけでも、喜劇の沿線上に働く不思議な力めいたものがあるわけでもなかったが、雨から逃げられれば今は良いと思ったのだ。
 どうしても錯覚であるとしか説明できない血の気配がこの場所で収束すれば良いとは思っていた。
気配が重苦しく思えるほどに不安が膨らんでからは駆け出した際の焦燥など一転し、信じた第六感めいたものがむしろ外れてほしいとばかり考えていたのである。
 探している人間が怪我をしている状況で見つかることなどひとかけらも望んでいないのだから、当然だ。
心細くて、寒い場所に長く居たいとは思えない。
蝶番を起点にぶらぶらとする扉をそうっと開き、猫に倣って身を滑り込ませる。
外観からして気配の感じられない物であったが、想像の通り無人の小屋に暖はなく、色葉は両腕を撫でさすった。
視線を巡らせても黒猫の存在はすでになかった。
器用なものだと思いつつなるべく足音を立てず、呼吸すらもより静かに廊下を進み、リビングに入る。
 瞬間、視界の端に影が走った。
「動かず答えろ。聞きたいことが――」
その声音を耳が拾う。鼓膜に触れた途端に脳が鮮やかなまでの理解をする。
焦がれていたのではない――正確には焦がれていたが、色葉が瞬時に理解をして警戒を解くことができたのは、何よりも、國枝以外の声を聴いた経験が極端に少なかったからだった。
だからこそ理解できる。およそ自身に向けられたことのない低く圧のある声音であっても、それが國枝の発しているものであると気づいて安堵したのだ。
 忠告を聞くことができなかった色葉が後ろを向くと、真後ろぴったりにやや疲れた顔の國枝が立っていた。
背に押し付けようとしていたであろう銃口が脇腹を突く。國枝自身も銃口を向けた先が己を先生と呼び慕う無垢そのもので間違いないと気付くと驚いて目を丸くした。
「せ、んせい……先生? ほんとうに? 先生だ、よかった! ご無事だったのですね!」
明るい声を上げ目を輝かせる色葉の口元を手のひらで覆い隠して塞ぐと、もう一方の手で肩を掴み、國枝は窓の少ない部屋に雪崩れ込んだ。
自分よりはやや小柄にも見える人物に半ば抱えられた色葉は、返事もなく荒々しい行動をする様に対して國枝だと思っていた人物が罠だったかもしれないとやっと考えついて肩を押し返そうとした。
「危険だ、暴れるんじゃない」
「本当に、先生ですか」
 覆い庇うように自身の上にある身体に語りかける。
「いかにもね。君のために煮たりんごを飽きたと一蹴されたり、古典デザインの装飾品を強請られたりした君の先生そのものだろ」
胴と腕の隙間から顔を見上げると周囲を強く警戒した様子のままであるが、先ほどよりも角の丸い返事であった。
「ええ、私も。売り飛ばせるように純金のほうが良いだとか、デザイナーを雇えばいいだとかいうことを妥協案として提供された、あなたの成果物です」
「それは笑えないな」
冗談を語る雰囲気ではないものの、色葉は床に押し付けられながら「本当に」と、返すことで精一杯だった。
「驚いたよ、探しに来るなんてね。後ろ姿はまだ騙しが効くし、反射的にも初手の対応をしたが、君も驚いたね。平気かい? 道中の怪我だったり先のせいで精神面に不調が出そうだったりは」
「ええと……とりあえずは平気です、今のところは」
「こういう時は警官の誘導に従いなさい。我々の追手ならば少なくとも、人目のつく場所では動かない」
 周囲の安全を確認し、色葉の上から退くと國枝は窓の脇にかかるカーテンを手早く閉めた。
そしてその他の言葉一つなく部屋を出ようとする姿を確認すると、埃を払っていた色葉は慌てて声をかけた。
「どこへ行くのです」
「この部屋だけカーテンが閉まっていると怪しまれる」
囁くように語りながらも唇の前に人差し指を添える國枝は手に持っていた白衣を色葉に預けてそっと部屋を出た。
扉を閉める前に一度振り返り、眉根を寄せては強い口調で言いつける。表情は僅かに強張っていた。
「窓の前にもそばに立つものではないよ」
「へ?」
「外から狙える射線上に立つなって意味」
その言葉の意味を改めて理解すると思わず白衣を握りしめた色葉は一歩ずつ横歩きのまま距離をとる。
背には冷たいものが張り付いているかのように怖気立っていた。
 まもなく全ての部屋のカーテンを閉めてきたらしい國枝は出た際と変わらず、そうっとした足取りで戻ってきた。
テーブルの下で膝を抱える色葉に対し、やっと普段通りの顔を見せると同じく膝を折り、怯えを滲ませた額に濡れて張り付いていた前髪を剥がしてやるのだ。
「雨が降ってきたのか。まるで捨てられていたみたいにして、かわいそうに。寒くはない? 温かいものを出せなくてすまないね。白衣でよければ羽織っていなさい」
「……先生こそ顔色が悪いですよ」
「はは、薄暗いからそう見えるだけだろうな」
 色葉の右側に同じく座り込む。
そして片手でポケットを弄り、弾薬に触れる。偽装目的で小分けにした保存用の箱が濡れていないことを確認するとショルダーホルスターからコルトガバメントを引き抜くのだ。
「撃ったのですか」
「暫くぶりだからね、本当に我々を狙っている確信が持てるまでは自己防衛程度に。足止め以上の武力行使はしないさ」
片目を瞑ったまま銃身をさまざまな角度から眺めたのちに、マガジンキャッチを押し込んで弾倉を取り出す。
茫然としていた色葉には、金属のパーツが稼働して僅かに立てる音が遅れて聞こえてくるような気がした。
「相手がよほど馬鹿な動きをしなければ命に関わる場所に当たる狙いはしていない。約束は、まあ、首の皮一枚だろ。そう、むやみやたらではない」
「そうではないですよ」
「……怒りでも落胆でも言いたいことは言えばいい。私自身があらかじめ了承して願っている」
そう語る國枝の声にゆるゆると力なく首を振る。「先生の無事のためなら撃つべきで間違いなかったって意味ですよ。あなたは正しい」
俯く眦に穏やかさを浮かべることが國枝の返答だった。そして器用にケースから弾を引っ張り出すと手早くを給弾する。
 無言だ。
簡単に命を奪うことのできる道具に触れる相手の集中を乱すようなことをしてはいけないという意識も手伝うと、微かな金属音が耳元を掠め、息遣いがそこにあるだけになっていた。
色葉は膝を抱えたまま俯くことしかできないでいる。
國枝もまた、周囲に張り詰めた緊張を疑っているばかりだ。
そのどちらもが今の状況の互いに必要なことであり、話したいことはいくつもあるというのに、色葉の喉にはいざ言葉が出ない。
なにより、場をずしり、と、重くする血の気配はまだ近くにあるところで、何をどう切り出せば良いのか皆目検討がつかなかったのだ。
「怪我、してますね。血の臭いがする」
「鋭いな。右側に座ったのは気遣いのつもりだったが、ふむ、余計だったかな。既視感のあるやりとりだ」
やっと絞り出した言葉に返ってきたものはあまりに簡潔だ。
 あっけらかんとすらする態度や、返答めいてあからさまをしながらも話題の本質をうまく避けた國枝に言葉に、色葉は隠さず嫌な顔をした。
怪我さえ肯定されなければ掴みかかっていたかもしれない。と、思いつつ、目頭に皺を寄せ、眉尻をつり上げる。
「誤魔化さないで」
体感にして三秒の沈黙が走るのだ。見えない何かが聳える圧に色葉は息を呑んだ。
 対して、手のうちに匿ったカードを棄てるべく選択をした國枝はおどけて肩を竦める。
そして、沈黙は破るというほどの勢いもなく、國枝は妥協の末に参ったという手ぶりをして真実を語りだした。
「こちらはあくまで足止め目的でも相手はやる気満々だった。事実確認ができるまでは詳細を伏せることを許してほしいが、動揺することがあって集中を欠いたんだ。掠めただけだよ」
撃鉄を起こしたまま安全装置をかけると、ホルスターに銃を差し込む。
「ならば、いや、そういうわけで。ここで少し休ませてくれるかな。緊張続きで少々参ってる」
 テーブルの脚に身体を預けきって姿勢を崩すと國枝は瞼を閉じ、口元から長く息を吐いた。
「あ、当たり前ですよ! ほかに、他に私に出来ることはありますか?」
「大声を出すんじゃあない。ともあれ、すぐに戻ってやれなくて悪かった。不安にさせたね」
自身の申し出に対して慌てて身を乗り出す色葉を宥め、瞼を閉じたままの國枝は自身の尻ポケットを弄った。
懐中時計を突き出し、受け取られたのを確認してから手探りでベルト通しにぶら下がるカンを外した。
「どんなに遅くとも一五分で声をかけてくれ……そう遠い顔をするな」
 長く下がるチェーンを巻き取る色葉に投げかけられる疲労の滲んだ声が冷たく湿った部屋に響く。
まるで勢いを増した雨音に簡単にかき消されてしまいそうな声だ。
「私がそんな顔をしているだなんて、どうしてわかるというのです」
嫌な気はしなかったが、どこか対抗心や好奇心に似た感情で吐き出す色葉に、何をも恐れない國枝のしっかりとした声色が刺さる。
「わかるよ。伊達に付き合いが長いわけではないからね」
眠りかけるような指先がピクリと動きゆっくりと持ち上がると、距離を迷うことなく正確に色葉の指先に触れた。
カサついた爪をやさしく撫でて、微睡の言葉は続く。
「君もよくやった。お客人を連れてこないだけ感心する。かつて身につけたことではあるが、私が今の君に新しく教えたことじゃない」
「そんなわけない。必死で貴方を探していただけですから、運が良かっただけです」
「適当に褒めているわけではないさ。事実として連れてきてないのだから、上出来に変わりはない。そうだろ?」
 言葉そのままの意味ではなく皮肉を躱してよく考えろと暗に語る國枝の様子を見て、色葉は眠りを前に置き去りにされないことを密かに安堵した。
張り詰めた緊張が緩むならば僅かでも休息をとってほしいものであるが、取り残されれば無力な自分は不安に苛まれるほか抗う術の一つもない。
そしてこの一五分をどうして過ごすつもりなのか、國枝はぽつりぽつりと取り止めのないことを言いたい様子であることがたまらなく救いに思えたのだ。
「ええ。では、強いて言えば、家で静かに過ごすことの賜物……でしょうか。あの家、一部で床が鳴りますからね」
 茫洋とする薄暗闇を見て、意図を汲み取ったつもりの返答をする。
とってつけた忍び足が尾行をされなかった尤もらしい理由だなんて、自ら口にしても馬鹿げていると思う。
色葉はそう考えていたが、当の國枝は今に眠りにつくかのような体勢のまま満足げにクツクツと喉もとを鳴らす笑いをこぼした。
瞼の裏にその光景や床の鳴る家を曖昧ながら思い浮かべているのだ。そして相槌はより深く同意を示すのである。
「ああ……」と、漏らすぼんやりした薄い唇の弧に対しておそらくはより具体的に、バスルームの少し手前でよく鳴る床を彼も思い浮かべているのだと色葉は想像した。
「言えてるな。管理は行き届いているが、床は踏みしめて気付かねば目に見える破損でもない。少なくとも、そんなところを毎日と成人男性ふたりに踏みつけにされれば仕方あるまいということだぜ」
「そのうち穴が開くのかも」
「勝手にしろと許可が出ればこちらも好き勝手するのだがね」
國枝は付け足す。「いつ放り出すにも困らない家だ。庭は放ってもある程度生きていけるからこそ手入れができる」
語る言葉を聞けば故に彼が庭へ興味を持つことは当然であるとも考えたが、本来の前提として家財は持ち込んだものではなくそのまま借り物を使っているのであるし、より人間の生活に直結する管理・維持にコストをかけるのも家の所有者としては順当な判断だ。
あくまで管理上の結果と、ただ一時の住まいとして選択する者の意見にすぎない。
「結果的にそんなおろそかがあっても庭いじりが好きな人間が借りに来るならば、日当たりは気にしても雑草のほうは大して気にしないだろう」
「その根拠は?」
「元々うつくしい造りをしている庭だからさ。ただし庭いじり好きにとって最初から出来上がりすぎている庭はつまらない。そんなの庭いじりじゃなくて庭管理の引き継ぎじゃないかと思うだろう。だからこそ雑草がぼうぼうの中で本来は様式としてうつくしい姿をしていると知ったら、動かずにはいられない。刺激されるだろ?」
 淡々と事実や思想を仮定して語り続けるだけの言葉が何かの比喩に思えるほど直接的に思えてくる。
色葉はその様を見ると余計な深読みばかり考えてしまうのだ。
数時間前の発砲事件や、血の臭い。雨。不法侵入した薄暗い部屋。明るく穏やかな日常から転じて変わる景色に収束する出来事の数々である。
それらが國枝の言葉ひとつひとつに過剰な影を落として、意味も根拠もなく疑いを呼ぶ。
彼の言葉にどんな意味が含まれているのか、この状況で心情や次の行動に何を考えているのかを勘繰り、言葉を恐る恐る返す。
もし、仮に言葉の多くに事実として別の意味を含むのだとしたら、自身の答えが適切であるのかもわからなかった。
失望はされたくないな、という利己に極まりない思考にも責任をこの状況ばかりのせいにして色葉は言葉を止めない。
こういう時の國枝にとって最も失望する出来事は、語りかけた相手が口を閉ざしてしまうことだとは色葉も常に想像をしていたのである。
「ある程度は荒れているほうが整地をして自分好みをすれば良いと思うはず、と? 確かにただ美しいだけより愛着のある部分があったほうが世話のし甲斐はありますね」
「手を加えることがどう作用するかなんてやってみるまでは想像にすぎないことだ。自分が失敗するヴィジョンを最初から見てるやつは少数派だよ。いや、少なくとも、新しく家を借りようとして失敗するヴィジョンを見ている人間は結果的にその場所を借りる選択を決めない」
「……先ほどから話されているのは本当に庭のこと、ですよね?」
 疑問を呈すると重なって猫の目が開く。
アーモンドの目尻が上がる様が細められると、それらはいくつもの意味を含んでいることを肯定するかのようなミステリアスを深めるのだ。仮に本人にその気がなくとも、色葉の身体を警戒に転じて身構えさせるためには十分すぎる表情である。
久々に瞼を開けることに無防備を滲ませることがないことも手伝って、やはり目の前の人物に敵わないのだと色葉は思い知る。
「他に何があるっていうんだ? むしろ、他に何の話をしているつもりなのか私が聞きたいくらいだ。さあ、切り上げる時間にしよう」
「まだ十分も経っていませんけれども」
 國枝は訝しげに色葉の顔を見遣った。まだ疑われていると考えて顔を顰めたのだ。
「誤魔化しなんかじゃないし、やましいこともないからな」わざわざ言って聞かせる。
 それからテーブルの下から天板を指差した。振り立てた人差し指と背後の茫洋とした中に浮かぶシャツの色、負けじと紙のように白く体温の下がったであろう肌だ。
身体の動作に伴って光の当たる面積が変動し、浮かび上がる漫然とした色を眺めてはその正体である國枝の言葉を待っていた。
 外から窓を叩く雨は幾分か静けさをしていて、小雨が降っているというよりは室内の冷たさを含めて澄んだ水面を前にした静謐に近い。
呼吸や衣擦れがすぐそばで聞こえるのだ。唾を呑む。
サアサアという音は極めて遠く、外の世界に隔絶されてやはり梢にも満たずとして耳に触れていた。
「雨が弱くなっているからだよ。全く使われていない場所ではないようであるし、長居するのも良くない。帰れずとも街の外に近い場所へ移動したい」
 テーブルの下から手を着いて這い出た國枝は姿勢をゆっくりと二本足の立ち姿に戻すと、中腰のままで極めて気配を消し窓際に近づく。
そして窓の正面には立たず、壁面に背中を隙間なくつけると首だけを伸ばすのだ。人差し指をカーテンの裏側にさしこみ、控えめにめくってこの家とも小屋ともつかない建物の周囲を確認した。
「奴らは一旦引くにしても、警備や巡回に見つかると面倒だな」
 色の褪めた唇でそう呟きながら苦虫を噛み潰した顔をするとカーテンに影が映らないよう姿勢を保ったまま廊下へ移動する。
その後ろ姿をぼんやりと認めていた色葉はようやく彼の怪我の全容に気付き、あまりの衝撃を受けて勢いよく立ち上がった。勢いを余ってテーブルの天板に頭頂部を強く打つ。
天板から跳ね返ってくるような圧に挟まれ、外部から物体をぶつけられる痛みというよりも身長が縮んだのではないかと想像するほど「潰れる」という表現のほうが似合う痛みに見舞われたのだ。
「ウッ」と、噛み締めた歯の根をすり抜けて呻きが漏れる。頭の芯が到達した衝撃を吸収し、それらが今度は中心となり外側へ痛みを放出するかのごとく酩酊に似た余韻に気分の悪さを覚える。
空のパンをレードルで打ちつけたようにぐわんぐわんと響く衝撃は平衡感覚に重くいき渡り、より無様にもがいた四肢の動きで色葉はテーブルの下からやっとのこと這い出した。
「おいおい、どうした? 大声が出せないからって暴れるなよ」
 目眩のように白む視界から回復しつつある中で見つけた影に縋って色葉は問い詰める。
厳しく凄む目に一つの反応をくれることもなく、もはや言葉など意味もないと判断した國枝が自らの腕で窓のからの射線に入りそうな大男の姿を押し退けた。
色葉は押し除けられる上を離すまいとたまらず國枝にしがみついた。
瞬間、苦痛に歪む目頭の皺をめざとく知って、同じく色葉の胸は強く痛んだ。
彼と同じ痛みを知ることはできずとも、心を痛めるに十分だったのだ。
得るべき結果は同じとしても、ここで必要なことは敵を撒くことではない。無事に家へ帰ることである。
硬直したと思えば、歯の根が合わぬと唇を戦慄かせる色葉を國枝は一瞥もくれない。視線の先は窓の外へ向けられる意識に引っ張られている。
「……先生、やっぱり、帰りましょう。そんなに血が出ているなんて聞いてませんよ」
「言っていないからね。傷は浅い。元から他人よりやや血が止まりにくいんだ。体質に留まる程度だから、君が気にするほどではない」
 血の滲み始めたシャツの生地を色葉の視界に入れないように身体を翻し、極めて平坦に、そして口早に言い切る。
黙ってしまえば置いて行かれてしまいそうな雰囲気に圧倒されるが、ここで言わねばもはやこれ以上に伝わる機会がない。
色葉は國枝の手首を掴み直すと真正面を向かせて顔を突き合わせた。
「そういう問題じゃありません! どうして言ってくれないんですか。頼りない? どうせ何もできないから?」
「だから、聞かれなかったからだよ。大きい声を出さないで。ここで心配だのどうだのと言って足しになるのか? 感情論が役に立つ場面じゃない。それくらいわかるだろ」
 「だから」を語る声色が乱暴になる。顔を歪める國枝が掴まれて響いた傷の痛みに耐えていたのか、単純に自分のことがめんどうくさくなったのか色葉には判断する余裕などなかった。
ただ、てらてらと嫌な濡れかたをするシャツの生地に吐き気を催す。
その悍ましく冷たい様子で流れていく温かな生命が今この瞬間も國枝から失われているという事実が恐ろしいのだ。
そうやって生命を消費することが彼の語る「自分にできる数少ないことのひとつ」として課すものであるのならば、それをよしとすることを咎める人物がいなくてはどこまでも己を犠牲にしてしまいそうに見えたのだ。
「はぐらかさないで。言いたいこともわかりますよ。じゃあ、あなたはいつこれをちゃんと聞いてくれるというのですか」
こんなことが罷り通って良いはずがない。
「私はあなたを心配したいんですよ。例え自己満足でも、それを強いるものこそが"色葉"であるとしても、あなたにあなたのことを大事にしてほしいと思うのは……紛れもなく私の本心であって欲しいんです。この気持ちはだれにも否定出来るわけがない」
間髪なく続ける。國枝は困惑をして、なによりこの言葉の檻たちから早く逃れたいとすら考えている。
対して色葉は獣のごとき鋭い眼光で突きつける強い意志を喉もとに充てがっており、今度こそ「言っていない」、「聞かれていない」という言葉を許さなかった。
「いくらあなたが私をよく知っていると言ったって、決してこれは譲ることができません。私だってただの馬鹿じゃない。尚さら現実を知って立ち回るべきだ」
「……信頼していないわけじゃない。ほらみろ、こうなりたくなかったんだ。私に気遣いをすれば今の君は他人を撃つことができるっていうのか? 殺すんだぞ。これを言えば、感情論抜きでそういうことを求めなくちゃいけなくなるのが嫌なんだ。せめて君の意思で撃つならばともかく――」
 國枝が後ろでに手をかけていたドアが閉まる。電気の通らない吊り下げランプが僅かに揺れていた。
まつ毛を伏せ、鼻筋を晒す俯きが弱く光を映している。
強い感情をいくつかの勢いに区切った色葉が荒げた息が、途端に切羽詰まる。
泣きそうに絞り出して、今にもこぼれ落ちてしまいそうだ。
僅かに見上げる視線の先にある國枝の表情は、厳しい顔をしていた様から少しずつ情に絆されたように気の毒を露わにした。だらりと下がった腕に伝ってゆっくりと血は滲む。ため息が場を覆った。
奥歯を噛み締めて軋む音が鳴る。長い呼吸だった。
「悪い、変に昂った。もうやめさせてくれ。先の続きは言いたくないし、言わせたくないんだ」
「ここですごすごいうことを聞いて下がれば、あなたは家に帰る前にあっさりと私を庇って死ぬかもしれない。本心では難しくても、いまの私をわかってください。私をちゃんと知ろうとして。私には今この瞬間以上にあなたにこれを理解してもらえる時がくるとは思えないのです」
 温度のない余韻だけが間を繋いだ。
これらの言葉がこの状況を劇的に変える何かにはならない。足しにはならない。國枝の言うとおりである。
吐いた唾は飲めぬと毅然とした態度を貫こうとする色葉にも垂れ下がる沈黙と緊張、そして少しばかりの後悔が滲み始めていた。
「それから、私だって生きるか死ぬかを実際に強いられれば迷いなく撃つでしょう。大丈夫です、今までも共に逃げてきたのでしょう。今も昔も私は己の中にありそうな人を殺めない美学なんて褒められたものではない自覚がありますよ」
呼吸を揃えることに、触れることに臆病になるとはこういうことである。色葉は確かな理解を以って言葉を続ける。「怖いのは同じです、私も。……たぶん」
「――わかったよ。ここで延々と言い合いをしてもメリットなんかないんだ、理解の努力はしよう。私たちの生活で与えることと得ることは表裏の関係に近いしな。ところで、情けないのだが、消耗していることは話しただろ」
普段より姿勢が良いはずの國枝は、肩の力を抜いておどけると僅かに前傾に身体を崩した。
そしてドアに身体を預けてゆっくりとしゃがみこむ。
 色葉があわてて膝を折り視線を合わせると、國枝の横顔――その額には脂汗が浮いていた。
途端に焦りの感情にひっぱられた色葉が彷徨わせる手を止めてやり、ゆっくり下ろさせる國枝は慈しむように目尻を下げ目を細めてみせた。
普段の平穏があればすぐに忙しなくなる色葉の思考に安堵をもたらす仕草であったが、状況や彼の表情が手伝ってはこのときばかりは説得力がない。
その事実をうっかり口に出そうになりそうであったが、色葉は言葉を飲み込んでずるりと崩れた姿を眺めることしかできなかった。
「イエスかノーで語るなれば、傷が痛いのは当然だろ。だから己の気を張る意味でも言いたくないんだよ。大丈夫、君は悪くないからね。それで? 故に、どうやって"心配"してくれるんだ?」
 息を呑むばかりにとどめと國枝は語る。その表情は少しばかり挑発的であり、色葉に先の会話の皮肉を突きつけていた。
そうでありながら期待は薄く、語りかけるというよりも独り言にしか聞こえない口の中のつぶやきだった。
「仮に君の要求に私がどう答えたって、残念ながらこの場を打破する決定打にならない。では、次は君が答える番だ。怪我の申告を聞いて、何ができる? 不安が疑念へ育てば我々の間だけでも意思の疎通が難しくなる。君の望むものの結果と思うならば、きちんと己の言葉に責任をとりたまえ」
肩を揺らす色葉を前に、國枝はゆるゆると顔を上げる。
いかにも先だって導く役割り然として与えられたそれを全うする薄い笑みだ。
色葉はゾッとしていた。本当に放っておいたら死にそうであると、心の底から知らしめられたのである。
「厳しいことは言いたくないが、それがこの世の道理である」
「わかっていますよ。まず止血です。いや、応急セットはないのか……先生、すぐ戻りますから、少し離れても――」
 思考がから回って顔が火照る。冷静になれと言い聞かせれば聞かせるほど、湿気も手伝って脳が茹だる。
肺が詰まったかのように重くなる。
いつの間にか苛んでいた耳鳴りが消え去っていた。
むしろ静かすぎるくらいの鼓膜に、再び雨脚が強まる気配を感じるのだ。
部屋がより暗くなったと思うのは時間経過による日の傾きでも、自身の心象でもない。
薄い金属板の上で絶えず細石がはねるかのように窓を叩く音が聞こえる。
 雨が止めども、日が暮れればより気温は下がり続けることを考えるのは難しいことではない。
「……先生、先生。帰りましょう。今すぐ。タオルか何か探してきます。傷口に当ていて。手当の詳細は家に帰って行います。耐えられますか」
せせら笑う声は広い部屋によく響く。
「ああ。これから土砂降りにならなければね」

 小屋にいくつかある部屋を漁り、引っ張り出してきたタオルを服の上から國枝の傷口に押し当てた色葉は思案していた。
直接として傷の血を拭うにはタオルの清潔がより確実であるべきだ。
しかし、服の上から押し当てても外に出て絶えず雨に晒されれば同じく衛生に疑問がある。なにより、体温の低下にすら与するのではないかと思える。
 その場しのぎの手当を受けながら國枝は続いていた沈黙を割った。
髪を一纏めに結い直し、袖を捲り上げた色葉は俯いたままの視線だけで彼を見上げる。
「君はまるで私に興味がないものだと思っていたのだがね、少し……いや、大いに意外だ」
「ちょっと、どういう意味ですか」
 声の圧を強めて語る言葉に目もくれず互いを語る姿は、互いに向かって語りかけるはずがまるで独りよがりだ。
國枝の言葉がそうであるように、色葉がときに開く口もまた、独りよがりであった。
言い合いではない。互いが苛立ちを一方的にぶつけているわけでもない。
ただ、独白であるだけの言葉が泳ぎ、それが庭に揺らぐ透明なさかなのように思えた。
優美なひれがたなびく分だけ思考の余地が与えられる。
時間を進めないままから回りをする副産物として重い酸素が漂う空間だ。
「君が君の感情を知りたいがばかりに私を詮索しているのだと思っていたのさ。曖昧な自己を確かめたいから、私に問いかけをする」
「無意識の域まで含めて考えれば……完全に否定してまで返す言葉は絞りきっても出ないでしょうね」
否定も肯定もなく、色葉は頷いた。
己にはどちらの感情をも自覚し得たが、ここで求められるのは正しさよりも色が白いのか、それとも黒いのかということだけだったからだ。
 無言のまま色葉は小屋の中から勝手に頂戴してきた物資のいくつかから片面パイル地のガーゼハンカチを取り出し、傷口を覆った。
そのまま血を含んで重くなったフェイスタオルを細長く折りたたむ。
「純粋なものでもないと思っていたんだよ、今の今までも、昔の君にも」 
 國枝の傷口は焼き切れたかのようにも見えるが、宣言通りのかすり傷でもない。
確かに彼の傷は銃創といってもひと口に語って深刻なものではないのは明白だった。
鋭い金属――例えるならば瓦礫から飛び出た鉄筋の鋭い面につっかけて皮膚がざっくと破れ、さらに上辺の肉を抉ったのだと考えるほうが想像に易いと思えるのである。
もちろんのこと転倒してできる並大抵の傷よりは十分に危険のあるものであったが、少なくとも、溢れ出る血液がその全容の認識を妨げたことで不安が何十倍にも膨れ上がっていた色葉にとっては一種の安堵をもたらしたことには違いなかった。傷自体がいますぐに國枝の生命を奪うことは考えられない。
 今の彼に危機が迫るならば体温の低下と失血の程度がいかようであるかである。そして極度に緊迫した状況に耐え得る体力がどれだけ残っているのかということだ。
壁に背を向けて座らせた國枝を見て色葉は安堵するとともに、それでも継続して薄く心が削がれていくようだった。
「言葉にせずとも伝わる感情というものは、きっと存在しない。だから過去の私からは伝わらなかったのでしょう。けれども、きっと、私はずっとあなたのことが気がかりであったのだと思いますよ。そうでなければ、今もこんなに焦ったりはしない」
 細く折ったタオルを國枝の肢に巻き付けてきつく縛る。
手当のためとは言えども患部を中心とする周辺に強い圧をかけられた國枝は片ほうの瞼を強張らせて痛みに耐えていた。
歯を食いしばる、ぎりりとした音が色葉の耳にも届く。「ごめんなさい。でも、その場しのぎとは言えども正当に手当のためです」
項垂れたままの國枝が小さく頷く。耐えようとする弱々しいながら短い呼吸と、そして程なく先の話題に対する「そうかなあ」と、珍しくも弱音らしい弱音が絞られた。
簡単ながらきっちりと患部の当て布を縛り付けると手当を終え、ゴミや血のついた布らをビニール袋に突っ込んでいく。痕跡を減らしてから國枝の腕を引いて立たせる色葉は、同じく堪えて平坦にした感情でようやく答える。「そうですよ」と、感動もなければ極めて簡潔な言葉だった。
「……大丈夫です、先生。帰りますよ。少なくとも、今は我々に住む権利の分け与えられたあの家へ」
「責任を取れっていうのは教育半分だよ。足手まといになるのは事実だ。ご免だよ、こんなの。血さえ止まれば傷は浅い。死に直結はしないさ」
「聞けません。私があなたを背負います」
 白衣を脱ぐとすっかり寒そうな姿を前に上着を返そうとして肩口から折りたたんだ白衣を開いた。
あとは袖を通すだけと広げたのである。國枝を促す。
「それから、人は案外かんたんに死ぬものです。あなたならばよく知っているのでは?」
「白衣は、君が持っていてくれよ。まだコートも買っていないし、白に汚れは目立つから。汚したくないんだ」
 たかが白衣であるとも考えられるが、少なくとも彼の口から聞いた過去を鑑みればそういった思考を理解できないわけではない色葉は、苛立つことなく素直に己の行動を謝罪する。
「……すみません、言いすぎました」
代わりに自身が肩に掛けていたジャケットを手早く脱ぎ、問答無用で國枝の上半身を覆うと、襟止めをしっかりととめた。
「走りますからね。襟止めがあるのですから、ずり落ちないでしょう。雨除けになりますし、ぱっと見で明らかな流血は分かりません。住民の目くらいは、きっと怪我人救助として欺けますよ」
それから白衣を丁寧にたたみ直し、小脇に抱える。「いえ、もし、その有事にはうまくそう欺いてみせましょう。他人にとってのあなたが"そう"あるように、この私が定義する」
色葉は挑発的に國枝へ雄弁を語ると、言葉とは裏腹にさやしく手をとった。
「はは。君の真面目さと、ある種において極めた純粋を惜しみなく注がれることが……贅沢にも恐ろしくてたまらないことであると思ってしまいそうだな」
「あなたが線を引いているだけですよ。別に弱いところをみてもあなたは私の先生に変わりありません。恩恵を受けておいてなんですけれども、うまく噛み合わせたクローン技術の成果物を生かす術を持ってるあなたのほうが恐ろしいのですからね。大抵の人間にとっては」
「いまさら」
己の背に身体を預けることを促すと、まもなく観念したように寄せる体温が感ぜられた色葉はゆっくり立ち上がる。
そして小さく答えた。
「そうですね。今更なんですよ。でも、間に合うんじゃないでしょうかね。まだ当分はふたりきりですし」
ドアの向こうに聞こえる雨粒と、背後の温度を確認して色葉は一歩先の地を踏みしめる。
つらつらと答えれば返ってくる言葉も今はまだない。