言葉の続きが鼓膜に触れる前に、遠くの方で耳を劈いて弾けるような音がした。
空気を含んで封をした紙袋を破裂させたような音だ。風船が割れる音にも似ている。
ただし、光あふれる昼下がりと活気ある街にそぐわないものであることは確かだ。
鋭く空を裂く音の速さに、同じくして息が詰まる。
 瞬間、華やかな音楽はそのまま電子録音のメロディを奏でていたが、食事を楽しんでいた客らは水を打ったように静まり返った。
沈黙を沈黙と語るよりも早く――正確にはその音の正体を脳が処理して勘繰るより早く「きゃあ!」という悲鳴がどこからか上がる。
声を発した本人か、驚きの淵から恐怖の谷底につき落とされた不憫の被害者か、窓際の女性客が耳を塞いで立ち上がったのだ。
「い、今の、銃声じゃないかしら!」
 震えた声が絞り出した様によく似たが、声を裏返したそれは確かに叫びである。
まるで仇を糾弾するかの如く声色であり、涙に塗れた背負いきれぬ罪の告白にも似ている。つまるところ、極限まで鋭く、本能が剥き出しになった感情が語る言葉はふざけたものでも生半可な根拠でもない。
これは作り物でも縁起でもなく、緊張が一瞬にして伝播する。
「マジかよ!」
「何の騒ぎだ?」
別の誰かの叫び声が上がった瞬間、店内はざわめき出す。
「テロか!?」
 誰かが落としたカトラリーが鈍いながらに耳に強く残る金属音を響かせると、それを皮切りに落ち着きを無くした数人が立ち上がった。
壁面のカウンター席以外では不規則に配置されていたテーブル席たちや洒落た演出のためにシンメトリーを欠いたデザインの店内が混乱をさらに加速させる。
左右対称や雰囲気を統一した空間において安堵を得る人間の脳がひとたび混乱を起こせば、ひと組ごと異なる椅子やテーブルのデザインはこの非常事態において何倍にも膨らんだ不安を煽るには十分すぎたのである。
皿やカトラリー、時に椅子、そして小ぶりの鉢植えをひっくり返してもひとつとして気に留めることなく、我先にと出口へ人が殺到しようとするのだ。
足元で割れる皿やグラスの中の水が飛び散る音、落下に伴って金属音を帯びるものがあるたびに人々は肩を大きく跳ねさせ、次なる発砲音を遅れた。
いとも簡単に、しかも出処もしれぬものに一瞬にして奪われ崩壊する平穏に目眩がする。
 色葉は先ほどまでの胸中と打って変わって、心臓を冷たい手でつよく鷲掴みにされるかの如く強い衝撃が背を駆けた気がして肩を丸めた。
反射的に耳を塞ごうとする。息が詰まって、思考にぐしゃりとした皺が寄るのだ。
芯まで冷えてやっと一つに結びつく不安が嫌な想像を掻き立てる。
――もしや、先生が?
 色葉の脳裏に國枝の顔が浮かぶ。別れ間際、微かではあるが緊張を確かに感じていたように思えてくる。
否、確かに落ちた影を認めていた。
自身も行くと無理を通せば足手まといになると思い席を立つことはなかったものの、時に見る顔の角度を思い出すと、想像はたちまち胸を占めて膨らんだ。
不安に煽られ、パニックをまるで見物する構図で椅子に座っていたが、うちなる不安は色葉が思うよりも育っていたのである。
 嫌な想像ばかりが伸び伸びとした枝葉となり、分岐する未来を結んだ果実はどれも不気味に腐り落ちていく。足元を見ればぐずぐずのそれが肉片に似て、香りは死臭そのものになる。
飾る言葉ひとつなく、ただひたすらに、ぞっとした。総毛立つ。汗が噴き出す。
感情がどんどん追いやられ、肺が凍えていた。
「ごめんなさい、もう行きます」
 口早にそう言って畳んでいたジャケットを抱えようと腕を伸ばす。
しかし、それを遮って弟切は立ちはだかった。
色葉は阻むものを例外なく振り払おうとするものの、ジャケットを引っ張られて服を傷めてはいけないという思いが過って僅かな間だけ立ち止まる。顔は前を向いたまま、弟切の居る方向を視界の隅に映す。
「なぜ前を阻むのでしょう。同行者が外へ行ったきりなんです。巻き込まれているのかもしれない」
「外は危ない。それに周囲の人間は本当に正しくて走り回っているんじゃなくて、冷静を欠いてるだけだ。パニックになってるんだ」
弟切は声を潜め、宥めるようなぎこちない笑みを浮かべる。色葉に席に着くよう優しく促した。
 外でも民衆は騒がしく、パニックになっているらしい女性の悲鳴がする。開け放たれたままのドアから風が吹き込む。
 ゆったりとした音楽が一層のこと不安を煽って、気付けば店には色葉と弟切、それから震えて動けないままキッチンの足元に身を隠す店員が一人いるばかりになっていた。
背の高い観葉植物が倒れ、大粒のバークチップが散らばっている。食べ物や、土や、雑踏で舞い上がった砂のような、埃のような、中途半端にくすんだ匂いがする。
心臓が震えあがって、色葉は唇をわななかせる。
「今は自分の安全だけ考えな。まず、相手は姿が見えない。この場所に入ってきたわけでもない。つまり、僕たちがテロリストの狙いである可能性は低い。機を見て逃げるのはもちろんだけどさ、状況が確認できるまで姿勢を低くして。遮蔽物があるぶん、ここは考えなしに外に出て行った奴らより安全だ」
「で、でも」
「下手に動けば的になるだけだって言ってんの。それとも死にたいの?」
 顔を突き合わせて立った弟切が強く問い詰める表情で色葉の肩を小突く。
すると、内心の恐怖に怯えている色葉の足は簡単によろめき、もつれ、上半身を投げ出すかたちで後ろのテーブルに身体をぶつけた。
流した前髪の房が乱れ、両目が露わになる。隠す理由はないままの変哲もない目に、やっとこの状況が映るのだ。
両の目でとらえる景色がこれから起こりうる凄惨の縮図に思えては、恐怖に支配されて足元がおぼつかないままになっていた。
腕が天板の上で滑り、先ほどまで別の誰かが使っていたフォークが落ちる。洒落たオーク材の床に金属音が響き、芯まで震える音が余韻の尾を引くのだ。
ヘリンボーンの床模様が錯視して見えるほど、冷静を欠いた脳が平衡を失いかけている。
「同行者の無事が気になるだなんて、これでよく言えたもんだ」放心する様子を見て呆れた弟切はテーブルに身体を預けたままの色葉の元へ革靴を慣らして無遠慮に近づくと、顔をより近づけては冷静に言い放つ。
弟切の瞳に映る己と目が合った気がし身体が打ち震えた。その姿は蛇の瞳に反射して怯えて己を見ていた。
自覚することを恐れている。
「大体さ、おかしいと思わない。この国は銃の所持だけでは身柄は捕まらない。だが、君の待ってる人はわざわざそこに行ったか、撒こうとしたかもしれないんだろ? もしくは今さっき発砲した暫定のテロリストが彼を追ってる。大穴で、彼自身が暫定テロリストの仲間かもしれないんだって、考えたことないわけ。いずれにせよ撃って他の人間に当たれば犯罪者になることは違いない」
「それは」
 視線を逸らすなとばかりに射止められて色葉は言葉に淀む。
本心の知れない正義を惜しむことなく弟切は振りかざし、眉間にしわを寄せたまま続ける。
「君の物知らずで騙されていないと言い切れるかい。少なくとも、時に同郷を兄弟のように思っている僕には見捨てられない話だね。僕が警察に付き添おうか。もちろん、重要参考人としてじゃなくて、あくまで保護対象としてもらえるようにさ」
息を吸いこむ間の空白に反論が来なかったことに、意図を察し得ようとした弟切は畳みかけていくのだ。
「警察にも行きたくない、行きにくいワケありなら、僕がうまくしてやってもいい。職業柄、一般の旅行者よりも選べる手段を増やしてやる手伝いくらいはできると思うよ」
「待って、待ってください」
言葉に惑っては目に見えて焦ったり、救いのような言葉に顔を青くしたりする様を深く疑って確信めいたものを見た弟切は、怯えに似た反応から自身には敵意がないとして言葉を突き付けた。
瞬間、時を刻む音が止む。それすら忘れそうな静かな空間の中でそれは耳に届いたのだと色葉には思えた。
「はっきり言わないとわからない? 君は君の異常性に気づくべきだ」
色葉が煮詰めた糖のような色をした双眸を大きく見開く。
指先がビクリ、と跳ねるのが自身でも感じられるほど、弾かれる衝動に襲われる。
「僕には君が焦っているように見える。異常なくらい、命知らずに自分以外を助けたいことは悪いことじゃないのかもしれないけど、多分、騙されているよ。少なくとも、僕にはそう見える」
 相手が心配のあまりに適当なことを言っているのだ。
そう解釈と理解をしようとしていても、またある側面からは十分に納得できる正しさを真正面からぶつけられて心から否定が出来ない。
 記憶をなくしたことを他人事のように思うことは悪いことではない。國枝もそうだと言っている以上、デメリットばかりではないとは色葉も考えていたのだ。
しかし、それを良しとしてきたからこそ、自我の強く宿らない意思や、知らぬことの恐怖に向き合ってこなかったことになる。
己が信じたいものを、信頼に値すると判断し得ることを過剰に偏った思考でまで探し、それなりの納得をしてきて、この言葉に揺らぐことに自信が揺らいだのである。
――じゃあ、どうすればいい?
この不安を、衝動を、肯定していたい欲求を。選択することの恐ろしさを。
「……それ以上、わかった口をきかないで」
「厳しいかもしれないけどさ、あくまで君が心配なんだって。ベーカリーの話をする前に君のことを軽く聞いて少し妙だと思った」
相手を納得させる確信の答えはぼかしたまま、探るような言葉が恐ろしい。
 自分のことが知られてしまうかもしれない。
そう思うと、漠然とした恐怖が耳や目を、思考を、そして感性を、判断し得る心という名の回路を分厚く覆った。
喉が冷たくなる。
処理のしきれない感情が高ぶってどうしようもなく泣きたい気分になる。
自身の身体に生じた高ぶりによる変調を前にし、正気に奮い立てて唇を噛んだ。
目の前の人間を敵であると無理に当てはめてキッと睨む。
「それでも、あなたとはたった一時間も共にしない間柄なのですよ。むしろ、信用できないのはどちらか、だなんて明白でしょう」
「僕は身元を開示して君に自己紹介したじゃない。興奮するなよ、なにも君の知り合いを見捨てろなんて言っていない。こんな状況じゃあしょうがないし、"もしも"があっても悪いのはテロリストだけだ。そういう世界だろ? 秩序ってのは」
先ほどと異なって色葉の張り詰めた様子を察した弟切は声色の角を丸め、子どもに言い聞かせるように優しくして言葉を訂正した。
「ただ、今この瞬間の君にできることを優先しなって言ってるのさ」
「ね」と促す一音を付け加え、ジャケットを引っ掴んだまま強張る色葉の腕を下ろそうと弟切は彼の腕を押し戻す。
色葉は弟切の指を剥がそうとするも、空回った思考で判断の正しさが揺らぐ。
ただ、強い不安に駆られては行き場のない感情を発散するように椅子を思い切り蹴り上げた。
「離して。触れないで」
 絞り出された言葉は、跳ねてがらんと派手に転がる椅子に簡単にかき消されてしまいそうなものだった。
「これ以上語るな。彼は今の私にとって唯一の存在だ! 自己証明なんです。あなたにはわからないだろうが邪魔をしないでいただきたい! 私は私がすべきと思うことを無視して……後悔をしたくはない!」
「落ち着けって。見知った人間がこの後に死ぬかもしれないと思いながら手を離すのは気分が悪いし、なかなかできることじゃないんだよ。こっちだってね」
 テーブルに半分投げ出したままの身体が、指先が彷徨う最中で冷たい温度に触れる。そして震える指先で冷たい温度――銀色のナイフを掴んだ色葉はソースが僅かについたままのそれを弟切に差し向けた。
強い目力を逸らさない弟切の額にもじっとりとした汗が滲んでいた。喉が渇いている。
「それはあなたのエゴに過ぎない。私はあなたと気軽な仲になったつもりはないし。今だって、ほら。私はなんの迷いも無くあなたにナイフを向けられるんですよ」
「何がそこまで君をそうさせる? 本当に彼にそんな価値があるなら見てみたいね」
出来ればナイフを突き立てることはしたくないと語りつつも、返ってきた言葉は嘲笑めいたものを含んでいると色葉には感じられた。
だからこそ、睨みに引く顎の角度はより鋭くなり、言葉は過激を極めたのだ。
突き付けた右手が震えているのを抑えるために、左手を添える。すると、照準が定まったかのように切先は真っ直ぐに、そして明確に、弟切の襟元――スーツの色と同系色のシックなネクタイより僅かに上方である生温い色の喉元に向けられた。
「……これ以上に侮辱や引き留めるような言葉を発せば、切先は今にあなたの血管を穿ちますよ。時間を無駄にさせないでください」
 無言の応酬が続く。
負けず劣らずと厳しい顔をしていた弟切であったが、今の色葉には既に何のひとつも届きそうにもないことに観念して、大きくため息をついた。
 指先の表情一つ見落とすことない探り合いの中で突如、重い沈黙を破った行動に色葉も動揺を僅かに見せたが、弟切はさっぱりと諦めた様子で両手を上げた。
まるで銃を突き付けられた相手に武器を持っていないことを証明する動作に似ている。手のひらをむけ、呆れ顔で色葉の横を通り過ぎると元の席に再び腰を下ろすのだ。
下唇を突き出してわざとらしく太々しい仕草をする。
「あーあ。わかったよ。じゃあ、無事に今日という日を終えることができたら、噴水のある広場に来てくれるかい。後味の悪い顛末ではないことをきちんと教えてくれよ。余計な詮索はしない。僕も仕事終わりは広場へよく行くようにするから、すぐじゃなくたってもいい。明後日でも、その次でも、もっと先でもね」
そして自分は何も見ていない、と、言い張って弟切はグラスを呷った。
「また会おう。な、兄弟」
 安堵によって警戒を緩めた色葉がナイフを持つ腕を僅かに下げ、走り出す尻目に弟切を見る。
「……仮に。私に兄がいたとして、それはあなたではないです。必ずということは約束できません」
「検討してもらえれば幸いだよ。君は無事ならきっと来る」
 先ほどまで怒りや不安の行き場がないままに激高していたとは信じられないほど白い顔で走る色葉の横顔を見送り、横柄に座った弟切は退屈そうな顔をした。
そしてその後ろ姿が見えなくなると、自身のビジネス鞄を一瞥してから呑気に食事を再開するのだ。
 店の中身をひっくり返して客が逃げ出したあとに閑散とした店内は、今や滑稽なほど軽やかな音楽と、残された弟切と、キッチンで腰抜けになっている一人の店員の祈りの声だけが取り残されている。
弟切はランチセットに付随するスープを注ぎ足すために徐に席を立ち、取り分けたミネストローネにたっぷりと粉チーズをかける。
小気味よい調子で"ふるさと"の旋律で口笛を吹きながら、ゆったりとした一穴の筒から粉チーズをそそぐのである。
煮込まれた野菜がたっぷりと収まったカップに粉チーズが雪のように積もる。あたたかなスープの温度にあてられたチーズが香りだすと弟切は機嫌よく唸っていた。
混乱する人々の混沌とした流れを窓の外に眺めながら、チーズを山ほど振りかけたミネストローネを味見をする。
唇を舌でなぞり、首を傾げる。粉チーズの筒に再び手を伸ばしかけてから、やはり、と胡椒に思い直して一振りするのだ。
席に戻り、スープ用の丸いスプーンを手に取り、呟く。
渦を描き、ぐずぐずに煮溶けた野菜を眺めている。
「どうせ最後の最後に死ぬのが変わらないなら、やれ騒ぎ立てるよりもその瞬間まで娯楽を楽しみたいものだよねえ」
 指先は操るスプーンの緩慢な所作で具を掬いあげる。
トマトをベースにありったけの野菜を刻んではぐらぐらと弱い火で煮込み続けたスープに野菜や豆が浮かんでいた。
ジャガイモの繊維がふちにひっかかり、ざらりとした様相をしていると、力無い野菜の賽が浮かぶ様子はまるで地獄の釜の中だ。
「君もそう思わない?」
 ただの独り言であった言葉は、唐突にキッチンで震えていた哀れむべき店員に向けられた。
直後に、いかにも自ら居場所をバラすような慌ただしい物音が響く。動揺してびくついた足がシンク下の収納扉を蹴り上げたのだ、と、安直に結びつけて大差ないといえる有様だ。
同じくして祈りの声が止む。
恐怖で噛み合わない歯の根や殺しきれない息遣いが祈りの声に取って代わると、次第に弟切は退屈で堪らなくなった。
別にとって食おうだなんて考えてもいないのに。と、不満を浮かべたのである。
そして空振った行動の行く先であったものの代わりにスプーンのふちを噛む。
 砂を噛み、銀紙をすり潰すような不気味な感覚は胸を締めて不気味を演出した。しかし、昼下がりのこの街は本来、美しいものだ。だった、と言い方がより適切である。
 今や混乱の只中で、店内の美しい音楽に対比して窓の外から響く人の声や騒音を聞くと、まるでサーカスがやってくることに湧くような移動式の旧い娯楽を思わせた。
窓一枚隔てて傍観をしている。
混乱する街の様子を俯瞰に推測してはほう、と息を吐くと、弟切は唇の切れ間で細い三日月のような弧を描いていた。
「さてはて。ピエロの中身にシンパシーを抱く観客がいたとして、いざサーカスの最高潮でそいつは何を思うのか。実に滑稽な見世物だよな、今度の箱庭も」