弟切は機嫌をよく足を組み直し、語り出す。
もはや崩れた態度にマナーの字はなく、ナイフとフォークを扱う手先が異様に丁寧なだけだ。それこそ、最初からそうだったではないか、と非常に穿った見かたで弟切を評価していたことに色葉も気づく。
会話に難しいことはなにひとつなく、ページをおろしたてにした脳でも追いつける内容だった。
この街の普段の様子や、有名な料理、市場に並ぶ果物の種類が移り変わって行くことの詳細。安く食材を買うことができる穴場スポット。
常に互いが互いの興味を探り合うほど希薄な関係であることと食事を提供する場所で会話をしていることから、専ら会話の内容は娯楽としての食についてが主だった。
そこから周辺の地理を思い出し、いかにも「そういえば」と、切り出して観光や生活のことに話題が広がっていくのだ。
食事と会話のバランスはほど良く、それらは次第に色葉にとっても心地の良いものであると思えた。
自身は巧みな会話も思いつかないために相槌を打つばかりであるが、活字と向き合う日々が続いていた感覚器官に肉声というかたちで情報が入ってくることのそれだけで舞い上がるほど新鮮に感じられたのである。
 空間にはこの場に流れる音楽と共に明るい声が飛び交い、それらは昼間の光を拡散する粒子のように輝く。
人々の営みを思わせる世界がうまく噛みあって、まるで劇中の一幕を眺めるように回っていることがどこか不思議でならない。実際にもそこに自分の座る席が用意されていることが妙に浮ついて、それでいて胸が重たくなるような現実感に見舞われる。
反対に、今この瞬間にも目の前で上機嫌をする彼は「夜なら近くのバーでグラスでも傾けてもっとイイ話ができるのに」と、口にするほどの饒舌であった。
 未だどこかでは現実離れしたように思う心情と、過剰に固く結ばれていた緊張が和らぐことを感じている。
完全に疑うことをやめたわけではない色葉も、弟切に対して特別製で厳重な警戒網をもって身構えるのではなく、身を守るために万人に対して許さない一線としての門を閉ざしているだけだ。
当初は彼に対してもっと外側に締め出していた距離に比べると格段に縮まっている。
気のいい会話と、判で押したように量産する堅苦しくて真面目という印象よりはちゃらけた部分がある性格である弟切に流されている。
その自覚があるにしてもなきにしても、この怪しいと思えばどこか気の抜けたことばかりいうような態度が、色葉にとって目の前の男を害のある人間ではなくしていくことは確かだった。
時おり見せる彼の鋭い目つきや、皮膚の下を這う意味深が思い出したように警戒を呼び起こす。その度にいやにいやに棘のある唾を飲み下す。
「なあ、ルーク。君さあ、この先のベーカリーにはもう行った?」
ルーク。親しげにそう呼ばれてハッとする。
自ら定義した偽名の役に対してうっかりしていた。
そう言わんばかりの密かな焦りを指摘されないように、分厚く繕った冷静を被る。
「いいえ。半分旅行のようなものでして、あまり知らないんです。興味はあるのですがね。例えば、場所だけは把握しているみたいに。窓から見えるほうの店と、坂の先ならばどちらがよいのでしょう。おすすめなどありましたらお聞きしたいです」
「ああ、もちろん。いいよ。いいに決まってる。僕の唯一の娯楽は食べることといって過言ではないからね」
 弟切は大きく頷いて右手の親指と人差し指をこすり合わせた。それから口端を片方に吊り上げ、微かに奥歯を一回鳴らした。
それから手持ち無沙汰にすら飽きて、手拭きを取り寄せると丁寧に手のひらを拭うのだ。
思い出しながら比較をしているのだろう。大袈裟な沈黙が彼の指を弾く音で切り替わるのだった。
 まるでタイミングを示し合わせたかのようにちょうどよく店内の音楽は午後の微睡を象徴するかの如く変調し、聞き手に違和感を生じさせることなくゆったりとした旋律が美しいものへと移り変わる。
まもなく、店内は甘い香りが立ち込める。
パンケーキのように柔らかく甘い粉ものや砂糖入りの卵液が焼ける匂いと、ラテにトッピングされるキャラメルソースの匂いだ。
ほうっと、吐く息に合わせて胸から緊張や疲れが抜け落ちていく。匂いや音楽が感性に語りかける。
それらはカフェタイムには少し早いものの該当するメニューの準備や、混雑を見越して早めに来店する客をそれらの商品に誘うためのパフォーマンスだった。
 弟切も漂い始めた空気が先とは異なることに気が付いたのか尻目に店内を見回してから、色葉に先の質問に対する答えを与える。
血色が良いとは評価できない唇を舌がなぞってしめらせる様すら、食事のための所作らしく思えた。
食に関してだけは、そんな間違いがどうにかまかり通ってしまいそうなだけのうんちくや、知識や、仕草を持っている男が、弟切その本人であるのだ。
座面の上で、肩をすぼめた色葉が答えを聞いている。
「……そうだね、個人的には、階段坂のところのほうが好きだね。おすすめはカンパーニュだ。無難にも思えるだろうが、ここのは素材の香りがとても良い。すぐに違いがわかるだろうよ」
 娯楽と意気込んで見せた言葉とは裏腹に、与えられたものは至って普通のものだった。
もっと悪く捉えたとして、その程度の感想であれば、例え一度たりと口にしたことがなくとも語ることができるだろう。漠然としている。
色葉は見せぬ心の底――無意識も深いところでそんなものかと拍子抜けした。
「コーヒーにあわせるならナッツ、紅茶がよければ柑橘類のピール入りにすればいい。どちらにもベースは同じドライフルーツだけど、季節で一部内容が変わることに合わせて絶妙に配合を変えるから飽きがこないし、仮に飽きてもディップやトッピングでアレンジしやすいバランスだ。シュトーレンはまだちょっと早いけど、この系統なら期待できんじゃない」
「へえ」と薄い相槌をすると、理由を察した弟切が唸る。
「言葉だけだとそりゃそうだよなって思うでしょ。仕方ないなあ」
『これだから素人は』と、型抜きをしたように表現される呆れが聞こえてきそうな声色だ。
ギラリとした色をのぞかせ湿りけを帯びた目が細まっていく。
彼の奮起する様が、色葉にとっては蛇に睨めつけられたことのように思える。圧倒されれば、空間の手綱はあっさりと奪われてしまう。
「教えてやるよ、若造」
「そんなに若くはないですけど……」
「ああ、うん。君に友人がいないことはよくわかった。いいか、この世は常に比較――対比でできてるわけ」
 指先の些か伸びすぎと言われる長さの爪が、雑にテーブルを叩く。
癖なのか、聞き手の意識を集中させるためか、定かではないが長く響くものではなかった。短く二回だけ慣らして黙ったきりだ。
ストレスや圧を与えるためというよりも、彼自身がこうすることで気分が切り替わるのだろう。
色葉はそう推測しつつ、段階的に小難しく、そして面倒臭くなっていくそれに相槌を打つのだった。
「もしマルとバツだけならもっと世界は簡単だろ。今の話題に例えて美味いか不味いかの話ね。最初からマルとバツがある前提なんじゃなくて、マルの精緻を問うて比較した結果、篩にかけられた一定が出てくる。それが満足するための平均をクリアしないから便宜上バツと呼ばれるのさ。比較してマルの評価が上書きされていくだけであって、ただただまずい料理なんかない。根っからのバツはなかなかないんだよ」
それはまた暴論らしい言い草であったが、捉えようによってあながち間違いではない。
味覚が答えを弾き出すとき、過去の経験から知る味や、それに近いものから大体を想像する。そしてその想像を上回るか、否か。
存外に美味という言葉は一定の共通概念ではないのだ。
なるほどたしかに、他人の舌よりは信用のできる持論である。
色葉は妙な説得力に促されて相槌をし、会話を進めていく。
脳内を占める彼の持論と岩のようなパンの外見がぐるぐると回っていた。
「堅焼きパンがうまいってなんにも知らなくても言えると思うなら、君はずいぶん浅いね。わかる? 誰でも食べているようなほど日常に親しく、味が想像できる概念なんだもんな。しょうがない。均して安定した品質を出せねば広く愛されることはない。だが同時に、つまり、君のようなことをいうやつは平坦なそれしか食ったことないってことだ」
息継ぎが気道を掠めてひゅるりと中身のない息遣いが喉を掠める。
「しかし、そんな簡単の概念を踏まえた比較をする意味にこそ布教のしがいがある。しかも、"比較にて勝ち上がって"名をあげる意味を考えれば簡だ。そのパンには他と比べて突出し価値を見出す要素がある」
 わざとらしく嘆き、こんこんと語りながら弟切は左右に首を振る。
そして座面から腰を浮かせると色葉を手招いては小さな声で囁いた。「時に騙されるのも大事だろ、お馬鹿さん。悪いことじゃあない」
促されて中腰になった色葉も、ほとんど無香料といって差し支えないであろう整髪料が微かに香る距離でもたらされる言葉へ耳を傾ける。
「本当はこれ、教えたくないけどさ。いや、騙すつもりはないって。先の言葉は君がクソ真面目でつまんねえって意味で言ったんだよ。冒険しなければ大陸だって見つかるのはずっと後だったわけだし」
その言葉をちらつかされ、無意識のうちに心臓が期待に跳ねた。
「その店の酵母系パンの酸味が気になるなら買うべきクリームは冷蔵棚の中段にある赤いふたのやつね。メーカー自体は可もなく不可もない評価のところだけど、あそこのパンと一番相性がいいのは間違いなくこれだ。売れ筋は有名メーカーのだと言われても騙されるなよ」
「あ、いいですね。そういう情報は興味深いです。すみません、もっとマニアックなものを言われると思って」
 食べることが唯一の娯楽と聞いてイメージするよりもずっと細身である弟切は、その言葉を今までも幾度となく聞かされてきた、と、しておどけると呆れて語った。
冷ややかですらある視線が触れるか触れないかのところで色葉をなぞる。
それから椅子にどかりと座っては周囲を憚らない声量に戻って指を振り立てた。
「だって、言ったってわかんないじゃないの。一口にペイストリーといっても好みがわかれるし、さらに分岐する種類がわかるの、君? この周辺じゃあどこも主食はパン。味や見た目が想像しやすくて、日常的に食されるものっていえば勧めるのは自ずとそうなるよ」
カトラリーに映り込む間接照明が煌々と目に刺さる。
「はあ」と、色葉は答える。
かつてサラリーマンと呼ばれた人々は――正確には現在も具体的な名称や労働環境を変えて存在している人間同士の結びつきの強い職業であったら、上司に叱られるとはこんな気持ちだろうか。
渋々に話を聞く感覚を学びながらも目の前の男の熱量ある語りはどこか興味深く、多少にモヤつく気持ちは受け流してやることにして耳を傾ける。
自分から聞き出したものであるのだ。こういうとき、楽しめる要素があるうちは相手に好きなだけ語らせてやるに限る。
こういう気質とも呼べる、精通した知識を楽しげに披露する様には見覚えがある色葉は、どこかこなれた様子で場を進めていくのだ。
「それにそんな舐め腐った聞き方で覚えられるの? バゲットじゃなくてカンパーニュだからね。しかも、ただの黒パンでもなくって、ドライフルーツがはいっているやつ」
 そう言ってわざわざナイフの切先でトレイを小突いてみせてからナフキンの上に置くと、カジュアルな店で細々と切り分ける作業に飽きたのか包み紙ごとベーグルサンドを両手で持ちあげる。
「そんなわけで、少なくともその店の良さが最も理解しやすい一品さ。それが君の味覚でも悪くないっていうなら、次の機会に恵まれたときには僕の個人的な好みで贔屓する一品を薦めるてあげるよ」
そして豪快に齧り付いた。密な性質をする生地を噛み取ろうとする歯にかかる圧で押し出されたレタスの青々とした切れ端が、ソースに塗れながら皿に落ちる。ぺしゃりと横たわる色さえもが鮮やかだ。
 いい歳ををした大人の、しかもやや老けている容貌をした弟切が楽しそうにベーグルサンドに齧り付く姿はどこか不相応だ。
視線を巡らせれば周囲の人間の三分のニほどは同じことをしているというのに、彼の姿は異質に思える。
色葉はその言いようもなく空恐ろしい感覚のまま、眉を顰めていた。
そしてつい言葉にして苦言を呈したのは、ちょうど、一口が追いつけなかった弟切が自身の口元を汚したソースを指先で拭ったときだった。
「ちょっと、いい大人が行儀悪いですよ」
ソースを拭った親指を舌で舐めたのはほとんど反射的な行動であったが、まるで躾のように咎める声を弟切はものともせず、やれやれと肩をすくめるばかりだ。
彼にとってこの程度を無作法としないのは仮に皿を舐めることをしたわけでもあるまいからとも、ここがドレスコードを求める高級店ではないからとも考えて定義できた。
「いい大人だと思っているから行儀悪く見えるんだよ。歳としても、どんぶり勘定の良し悪しとしてもね。たかだか生物学で成体として扱われても、人間は独立して複雑な個を持っている。額面上の区切りだけじゃあ中身は見えない。逆に子どもだって残虐性を持つじゃん。なら、大人だ子どもだって定義自体が曖昧過ぎやしない? 本当にそれが子どもならば許されるわけ」
「子供でもなかなかしませんよ、店でなんて。スケールが大きすぎて屁理屈と語ることすら不適切に思えるので上塗りはよしてください。と、いうか、自分から言っておいて疑問符で投げかけるのは、つまり同意が欲しい程度の持論ということでよろしくて?」
「いいや、僕は僕の好きにするよ。でも本当に君に考えがあるなら、このつたない僕に参考意見を授けてはくれると思っただけさ」
 険悪ではなくまるで意見をすり合わせるためだけのほとんど意味のない応酬が続くと、弟切は手を拭き、テーブルの上で指同士を絡め組んではやや前屈みに意見を求めた。
好奇心が刺激されて目は溌剌とし、ほくそ笑むかのような口角にえくぼの影が濃く刻まれている。
その光景が色葉にはやや遠のいた景色に感ぜられた。水を打った衝撃と伝播が呼んだのは沈黙ではない。
しかし、肌をざわめかせる広がりには、背骨と肉の境目を確かめるかの如く撫でさすられている気になった。
視線を逸らせば戦ってもいない不可視のものに敗北する気分と妄想が忍び寄ってきて、弟切のことを無言のまま見つめざるを得なかったのである。
「失礼でも怒らないから、ね。教えてよ。君は何を考えている?」
逃げるかのような溜め息をひとつこぼす。
それから色葉はコーディアルの炭酸を呷った。
ストローでちまちまと吸い上げるのではなく、残り全てを流し込む勢いで喉に下し、弾ける気泡の感覚を知る。
浅く息を吸い込んだのだ。
「あなたの食事は先のような一部の行動を除けば一般よりもきれいな食べかたをするのだな、と思いますよ。ただ、飽きっぽいんじゃないですか」
包み紙ことを両手で持ち上げていたサンドを静かな所作で皿に戻す。
それから紙ナフキンを一枚手に取り、弟切はテーブルの上で撫で付けながら丁寧にナフキンのしわを伸ばした。
テーブルを拭き、また指先を清めるとトレイ上のカトラリーを規則正しくしながら言葉の続きを待つのである。
「うん、うん。それで」
「それらはあくまで他者との交流手段であるというのが真意に見えます。事実、あなたは食を心から楽しんでいると思えるし、所作が見苦しいわけでもない。他者に嫌な印象も与えることはありません。しかし純粋にしてそうであるならば、なぜ作業めいて口に運ぶのです? そういう打算と奇妙の塩梅を子どもには容易として真似することはできない」
言い切るとテーブルの木目に爪をかけながら一度視線を逸らした。
しかし、それからの沈黙を自ら容認することはなく、出かけた言葉を最後まで紡ぐ。
表情は苦し紛れをする様にもとらえたが、色葉の声色には一切として迷いはない。
相手が自分に何かを求めるとして、自分が提供することできることができるものが極端に少ないからだ。
なにより、弟切の獲物を見る目から逃れること自体が容易なことではないためであった。
「ここからは言いかたがより悪いかもしません。あなたはわざとその一面だけ見せつけていますよね。分岐において効果的である手段を選択し、優位に立っていると相手に錯覚させながら下手(したて)に掌握しようとしている。その稚拙を示して先立つ言葉こそが私には恐ろしいもののように映る。だから、私には仮にあなたが大人でも子供でも行儀悪く見えるのだと思いますよ」
そこまで聞き届けて、目の前へ恐る恐るに視線を戻す。
 弟切は目を見開いていた。
促されて話したとは言えども、これを真正面から向けられれば顔を顰められるだろう、と想像していた色葉は驚いて同じ表情をした。
あからさまに気まずくなってすぐに視線を逸らす。あまりの速さに弾かれたようにそっぽを向く形になった。
ついぞ勝手に戦っていた気になっていた見えざる何者かには負けたな、と思いながら、弟切への言葉に付け足しをした。
「今さら気を悪くしても謝れませんからね」
元より嘘偽りや挑発ではないからこそそれらはご機嫌とりらしい意味を持つわけでも、その場しのぎの謝罪でもなく、事実と考えを淡々と述べた。
詰られる謂れもないのだ。
「それは構いやしないけど、きみ――」
 影が蠢く。
まだ心ここに在らずとしてぼうっとした胡乱と、動揺の絵の具をぬるま湯で溶かしかけたような残滓を引きずった弟切が中腰で席を立つ。
その細長い身体を間接照明や窓からの光が照らすことで生まれた影が色葉の視界の隅に被ったのだ。
弟切の血色悪い指先がぴくりと動いて腕を伸ばしかける。