店内の中腹に位置する席から窓までは距離があるというのに、彼はいったい何を見ていたというのだ。
そう思いながら窓を見やっても、流れる街並みがあるだけだった。
色とりどりの服を纏った人々が足早に、またはのんびりと、しかし明確な自身の意思を持って、ときにはそうでもなく。とにかく過ぎ去っていく。
流れゆく景色が他人事のようにながれていくこと、それだけは変わらない事実である。
 ストローを半開きの唇からわずかに離して密やかなため息をついた。
連絡手段がない以上、なにより自らそれを許して送り出した手前で追いかけるのも諦めた色葉は息をつく。
何をしたところで、どれもが滞りなく合流することに不便が生じる。結局のところ半分浮かせた腰を再び椅子に落ち着ける他ないのだ。
 手持ち無沙汰と目の前の皿から発せられるプレッシャーについぞ耐えきれなくなると、色葉はベーグルサンドと向き合った。
ため息ばかりがでる。意味もなく髪に触れている。
何度も継ぎ足したような憂鬱の象徴は連なり、何かと口を開こうとすれば「はあ、」と何かを言いたげで、それでいて何も言えないといわんばかりの形ばかりが募っていく。
目の前に並ぶ色彩の本質も最初こそ美味しいと感じたはずが、心配ごとのせいですっかり失せた食欲で臨む気にはなれなかったのだ。
 日本人には確かに多い量ではあるが、食事量としては食べきれないと特筆するほど多くもない。
 退屈とはまた異なった停滞が、少しずつ迫ってこの場所を取り上げていく。居心地が悪い。
そう思いながら色葉は、客の去ったテーブルを片付け清掃をするウェイトレスに、早く帰れとだけ思われぬようにカトラリーたちを再び手にするのだ。
胸につかえたものは不平不満か、不安か、それとも平静を装おうと出るはずともいえた意味もない派手なひとりごとか。
 とにかく手持無沙汰も相まって、誰もすぐそばでは自分を気にするわけもない環境を良いことにする。そしてカボチャサラダの中からダイスカットされたチーズを引きずり出した。
まるで解体作業だ。行儀が悪いことは当然知っている。
漫然としていれば絶えず流れる人混みですらひとつの概念として、それは視界に入るオブジェクトになる。
誰がどうであり、彼がなにであるか、などとは瑣末なことで、絶えず流れる通りの一本というひとつは、思考を遮る線を引かない。脳を刺激する新しい情報にはなり得ないのだ。
そうしていなければ思考はたちまち不安でいっぱいになりそうだったのである。
 やはり変わり映えのないフォークがチーズの辺を掠めてダイス状を歪めていく。
ゆっくりと圧力をかけるとやがて耐えかね、樽の形に似て圧縮を逃がせず膨らみ続けていたチーズはパックリと割れてしまった。
――はたして今この瞬間においてチーズから失われたものはなにであるか?
とんだ茶番だ。チーズに自我はない。
少なくとも、人間に知覚できる範囲ではチーズに自我はないのだ。
ストローが炭酸水を汲み上げる。花の香りを掠める。
なにもかもが空いた席を埋める思考のタネにはならない。
「当然だ」と、自答したあたりで、色葉は煩わしく前髪を掻き分ける。
胸が忙しない気分だ。一体なにが起こっているのか気になって仕方がない。
 何度も座面の上で居住いを正していると、カフェテリア内の雑踏からふいに聞き覚えのある旋律が聞こえた。
一音一音がいやに間延びし、時に音が外れている。かすれた音が音感を違えて半音下がることもあるようだ。
 なにの音だ?
色葉は考えを巡らせる。
脳の芯では浮かぶそれが、伝達の経路をたどる最中にもやがかっていく。
曲名が中途半端な主張をすると、出所を探ろうとする感覚が思考に引っ張られる。
おそらく知っている。そう強く確信できる音と旋律だ。
記憶を手繰り寄せる。語感が鋭くなる。
喉元まで言葉が上っていた。
すぐ傍で革靴の足音がする。
「――くちぶえ」
 ひらめきに伴う呟きと共に顔を上げると、先ほどまで國枝が掛けていた椅子の背を引く男がいた。
 電柱のように長身で、カラスのように薄暗く怪しいものを象徴する見るからに重たく黒い生地のロングコートを身に着けている。
夜から這い出た影の如く出立ちにくすんだ顔色がよく沈み、ますます不審者のレッテルを貼りつけるのだ。
白くなりつつあるが、地の色であったであろう黒と混ざりあい全体は灰色に見える髪を整髪料で撫でつけ、耳には極小ぶりである銀のピアスをしていることが窺えた。
ダークグリーンのトレイに彼のオーダーした山脈のようなワンプレートランチを携えている。
 健康的な食事の盛り付けとギャップある圧のある姿は、まるで崖っぷちで佇む獣との邂逅とも錯覚できた。
しかし、よく見れば据わった眠たい目や長身ながら丁寧も滑らかとしてする所作は今に捕食をしようとする獰猛な獣よりも、影から手を回し、気付けば雁字搦めをする強かな蛇のようにも思える。
 一見は上品な中年から初老に片足を突っ込んだ男性像であるが、まるで値踏みをして舐める視線に色葉は床につけていた足の裏に思わず力を込めた。
突然に現れた人物を前に呆気に取られていたのだ。
 互いが言葉を口にしないしばし沈黙の後、男はぱっと目頭に皺を寄せては胡散臭いほど人の好い笑顔で色葉へ声をかけた。
「やあ、素敵な髪飾りのお嬢さん。向かい、いいかな? って、言おうと思ってたんだよね。しっかし、やっぱ男かあ。おまけに立ったらそこそこデカそうだ。身長の話ね。ま、いいや。邪魔するよ」
 気付けば彼は手早くコートを脱いで背もたれに掛けると、色葉に有無を言わさずどっかりと椅子に座った。
「はあ、疲れた」と、吐息まじりにわざとらしい声音をしてはネクタイを緩める。
そして訝しむ色葉が先ほど聞いた旋律を再び奏でる。独特な気の抜ける口笛の音だった。
描いた音の流れを一度は断ち切り、そして続きを口ずさむ。
「忘れがたき故郷(ふるさと)~ってね。兎、追っかけたことある? この時代に流石にないよねえ。僕もだよ。ジビエで食ったことあるくらいだな。で、君はジャパニーズだろ」
「あ、あの。人を待っているんです。すぐ戻るつもりだと言っていたので、そこに座られるのは、ちょっと」
 粗雑に手を拭き、畳んだとはとても言えないように重ねただけの手拭きを隅に追いやる。
そして男は自身の内胸ポケットを弄りかけ、急に思い出したように言葉を継ぎ足した。曰く、「煙草はやめたんだった」。
「そもそも、全席とも禁煙ですよ」
男は色葉の呆れた言葉を相手にすることなく、切れ長をする蛇の目で人懐こく笑った。
「知っているよ。君の話したこと、ふたつとも。さっき、いかにもアジア人の男と話しているのを見たし、僕が口ずさんでた母国の古い童謡に反応してた。しかも、気づいてないだろうけど、今この瞬間、僕たちは日本語で話してるんだよね。それも流暢に」
 不意を突かれたもので、色葉は言語の概念を失念していた。
「今さらただの日本好き現地人にはとても見えないだろうね」細まっていた瞼の筋肉が緩み、彼の瞳の色が覗く。
何の変哲もない瞳孔すらもが蛇の持つようなものに見える。錯覚だ。
探るような目が深く地を抉って潜んでいる。
皮膚のすぐ下を這う感覚がぞわりと肉を撫でる緊張感に、色葉は唾を飲んだ。
己が彼を疑わしく思うが故にそうだと感ずるものなのか、慎重に構える色葉は食事をする手をすっかり止めたきりで身を固くした。
「緊張しないでいいよ。試したわけじゃない。僕も、煙草は少なくとも三年前には辞めたんだけどね。人付き合いで長らくクセになってたもんでさ、未だたまに出るのよ。まあ、嫌煙家だからその態度……ってワケではなさそうだけどさ」
当然のように話をしていた言語に気付くと明らかに自覚するほど背筋が粟だった。指先が強張る。
何にしても、彼が追手でも追手でなくとも、自分のことを怪しまれるのは得策ではない。
唇の内側を無意識に噛み締めながら色葉は逡巡する。
「君はアジアよりもアジア圏外の血に寄った外見に見えたから、最初はいま不在をしている彼のガイドか、それに類してぼったくりをする親切人ふうのクソガキと思ったんだよね。こう見えて僕は正義感が強いんだ。でも、同郷なら話は別さ。少しでいいから話さない?」
男は横柄にも椅子の背に腕を回し、偉そうにカトラリーの先端を照明に透かして眺めていた。
もちろんのところ、ナイフやフォークが透けるわけでもないためピカリと目につく鋭い光の角度を思いのままに傾けるに過ぎない。
まるでこの世の全てを手に入れたような傲慢な体勢と恰好で弟切は目を焼く光を、すい、と手元に移した。
「どこもかしこも当たり前に言語が違うとさ、疲れるんだよね。日本語って、舌を丸める発音がすくないからさあ」
暗がりで火を眺めるかのような顔がときどき何かを懐かしんだ様子で笑みを浮かべ、語りかける。
その様はまるで十年来の友人と再会して喜んでいる様子にも似ていたが、あいにくのところそれは一方的に与えられるものであり、色葉の体を通り透かした郷愁であった。
見た目こそいかにも陰鬱をする悪役のような人物像を抱くものの、接してみれば存外、人の好い性格をしている。
しかし、色葉は瞳の奥に硝子片の鋭さを真似て突きつけた警戒を解かないままで水分を含んだ。中身の減ったグラスに突き刺さったストローが音を立てる。
 國枝は利用されないためにあえて自身の無知を呈する手段を上げていたが、目の前の男にそれが通用するとは思えない。
色葉は腹を決め、愛想の良い架空の人物を演じることにする。
記憶喪失ではなく、のらりくらりと親の脛を齧ってきた碌でなしの息子だ。いい歳で家を追い出されて――正確には飛び出したのだったかもしれないが、とにかくジョンに拾ってもらった設定を咄嗟に組み立てる。
名前は本で読んだもので覚えているちょうどいい脇役から拝借することにした。
最大限の警戒をしながらも、目の前の男には不憫な思いも想像する。
 心のどこかでは母国語を恋しく思ってるのかもしれない。それはきっと、目の前の男にも、自身にも言えることである。
何より追手ならば顔が割れているはずである、と、言い訳めいて甘んじると口を開いた。
「私も人見知りでして、不快にさせたらすみません。話をするのは構いませんよ。ただし同行者が戻ったときに席がないのは不憫なので、隣のテーブルでお願いできますか」
 もはや答え待たずとしてすっかりテーブルを乗っ取って食事の準備を整えていた男は目を丸くした。
「え? 声、遠くない?」
「席を立っている彼とは久々の再会なので失礼をしたくないんです。個人的な都合としてもね。ですからあなたには悪いのですけど、もし思うことがあるとするならば少しで良いと言ったあなた自身を恨んでください」
「辛辣だね~! つまり、少しじゃヤダなあって言ったら一切を断るってことでしょ? いいよ、いいよ。わかった」
 手を打って楽しげに笑う男は素直にベーグルサンドとドリンクのセットが乗ったトレイを片手で掴み、隣のテーブルに置き直す。
 それから椅子の背凭れに掛けたコートと、いつの間にか足元に置いていた鞄を移動させるのだ。わざとらしくも参った、降参だ、と大袈裟な手振りをする。
茶番を楽しむ声の調子は掠れながらも若さが残っているが、顔はやや疲れたような様をしている。恐らく、外見から得られる情報よりは少しばかり若いはずであろうと色葉は推測していた。もし理想的と言われて順当な家庭のある例えで実子がいれば、成人前後といってもおかしくないのは確かである。
「君は観光? 僕は長くここにいるような気がするけれど、ネットアーカイブで見られるタリン旧市街の写真みたいなこの街は嫌いじゃない。坂が多くて、要塞じみてるところがあるけど、ここにかつての領主邸宅を兼ねた城のひとつやふたつあったらそりゃもうなにかと話題になったろうねえ」
 勝手に打ち解けた気でいる男は黒くて長い体を折り曲げ、鞄を漁る。
そして装飾はほとんどないが、決して安物でもないらしいことが窺えるツヤ消し加工の名刺ケースから一枚のカードを取り出した。
丁寧に両手で持つことはなく、まるでチラシ配りのような指先の仕草で色葉の前に突き出したのだ。
ずい、と鼻先に差し出された名刺はマットな質感のきちんとした名刺だ。見るからに気を遣ったつくりをしている。
 そこには彼のフルネームと、ローマ字による綴りが記載されていた。
日本に本社を置くらしい企業のロゴや理念が添えられた、いかにも硬派なそれらしいものである。
つまり、文字の体裁と同じく極めてお堅い様子でありながらも、用紙やレイアウトの気遣いように見落としてしまいそうな些細から無意識下に堅実ながらクリーンで人々の生活に近しいイメージをすり込ませているとも言えるものだ。
色葉はぼんやりながらも、そこそこにいい会社なのだろう、と、いう感想を浮かべるが、それを受け取ることはなかった。
「僕はオトギリ。弟を切るって字面は物騒だから、花にも同じ漢字が当てられたヤツがいるってことでイメージはクリーンによろしく。義継は……先に字面みせておいてなんだけど日本人なら代々善人ぽい名前だなって思いつくだろうし、割愛。貿易商の営業をしてるもんで、よく飛び回ってるんだ。名刺、いる? 連絡先が載ってるんだけど」
一枚のカードを指先で弄び、親指と人差し指で摘まみなおした名刺をひらり、と泳がせる。
"弟切義継"と綴られた明朝体を色葉はじっと見つめたが、見慣れた母国語に対して、まあ、無難な読みだろうな、と思うばかりだった。
「名刺は結構です。私はあなたの商談相手ではないですし。一期一会を楽しみたいなら不粋なくらいでは?」
 ジンジャーエールのグラスを眺めていた弟切は、先ほどまでのがさつと打って変わって丁寧な指先でグラスを持ち上げ、ストローに口をつけた。
断られた名刺には一切視線をやることなく、器用に片手でもとあった場所へ収める。そしてケースごとを胸ポケットに押し込んでからため息をつくのだ。
 酔っ払いでもないというのに、酒の回ったような愚痴に悲痛が混ざる。
言葉や動作は大きいものの表情は落ち着いている様が不気味であるとも思えたが、彼の話が事実であれば単に気の置けない交流を求める中年男性そのものにも見える。絶妙なバランスを保つせいで、いやに胡散臭く見えることがいかように損をしているかということを知るのは難しいことではなかった。
「ひどいねえ。同郷ってだけで兄弟みたいなもんじゃないか。もうこんな歳になると年下はみな可愛がりたいもんだけど、せっかく知り合ってもみーんなこんな感じなんだよねえ」
「はあ」
「そりゃさ、年齢的に確かに弟みたいなものだけどさあ、さすがに切り捨てたりしないよ。それこそ侍なんてどんだけ昔だよって! ていうか同郷ならジャパニーズサムライが本来のイメージと違うの丸わかりだろ。冷たくされると『いいじゃんケチ!』って思うときがあるよ」
 野菜の色が映えるよう選び抜かれた皿の上で転がされていたチーズを色葉はフォークで突き刺す。
そしてその足でカボチャのサラダをひと掬いして口へ運んだ。
やっとのことマッシュされたカボチャの和え物と再会したチーズはきりりとした引き締まった塩味をもたらす。
 しばし無言の食事が続く。
言うべきか、それとも言わないべきかを考えていた色葉であったが、意を決したかのようにようやくひとつ言葉をこぼした。
ちょうど、弟切も諦めてカトラリーを皿のふちに立てかけた瞬間のことだ。
「正直に言わせていただくと、外見がちょっと怪しいので怖いのかもしれません。このように一般的な感性だと思うのですが、どうお考えで?」
弟切は一瞬、鳩が豆鉄砲を食った顔をした。
無言の食事の中で行ったきりの言葉に対して、自分と少しばかり歳の離れた子には面白くなかったのだな、と思っていたのだ。
そして色葉が申し訳のないような顔をしているのが途端に面白くなっては肩を僅かに揺らし、喉元で笑った。
笑い方は國枝がするような静かな笑みにも似ていたが、どこかくたびれた様子の弟切が行うといやに悪巧みのようにも見える。
掠れた息遣いが時たまに喉に引っかかる、から風のようであった。
これに悪意を見透かそうとするのは偏見だ。そう言い聞かせて色葉は頭を振る。
「……ちょっとした名前のジョークだよ。わかりにくかった? そうだな、ま、名前なんて突き詰めても最後は記号だからね。外見はなあ、ビジネスっていうのは一定値こういうのが好かれてる。求められるんだもん、仕方ないよ」
 ビジネスという言葉を強調しながら、弟切は一度は胸元のポケットに収めたはずの名刺ケースを取り出して左右に振ってみせた。
存在を知らしめるような手振りに振り回されたケースを同じくビジネス用の鞄にしまう。
のちに少しばかり鞄を漁り、それから急に荷物の整理を始めるのだ。
その姿に先までの絡みつく視線などはとうに失せて、忙しいビジネスマンにはよく見られる昼の幕間に思えた。
「大丈夫、大丈夫。怖い見た目のヤツ相手にもそれをちゃあんと言ってくれる君が、わりかし素直でいい奴ってことはわかったよ。ありがとね」
目をくれず整理を続ける弟切をよそに、突拍子もなく始められた荷物整理のために一度テーブルによけられた文具を色葉は見ている。
 透明の栞か、薄いカードのようなものが光っていることが気になったのだ。
あまり注視するのは良くないものの、端に金色の箔押しロゴとミュージアムの名称が刻まれているだけの圧倒的に余白が多いそれに無意識で目が奪われたのである。
「……まあ、僕の感謝よりも君の興味はこっちのほうにあるみたいだけどね。その栞、気になる?」
いつの間にか顔を上げていた弟切が揶揄する嫌味っぽい柔い言葉の棘を向けた。
弾かれたように棘の出どころへ顔を上げると「美術館マニア?」と、口端だけ吊り上げた蛇の眼があった。
「あ、いや! ……いえ、ごめんなさい。失礼を」
「博物館か美術館か、あとはサイエンス・ショップに行けばよく売ってるくらいメジャーなやつだけど、いいでしょ。僕も嫌いじゃあない。なんたってあのマーティン・ベティオールの作品で最も安価に手に入るものだ。ロット量産品だから日本円換算の価値でも千円しないけどね」
 弟切はまるで伏せたカードを配るようにテーブルに這わせたまま隣のテーブルから栞を差し出した。
「世界的に称賛される厄介者、世紀の大発明家。アーティスト。哲学者。人によって彼を定義する言葉は変わる。あとなんだっけ。UFO呼べるんだっけ? さすがにそれは胡散臭いね。最後のばかりはオカルト売りの詐欺師じゃんか」
「さすがにUFOを呼べはしないのではないですか」
「どうかな。仮に本当に呼びだせるなら彼も宇宙人とやらの仲間か、そもそも擬態だったりして。まあ、そんな感じで噂に絶えない彼が唯一、いかにもおもちゃらしいものとして作った作品だね」
おもちゃらしいもの。それを聞いて色葉は首を傾げた。
 弟切が差し出したカードに触れることはなかったが、無色透明の単一な素材で――正確には施設や提供元のクレジットとする帯が下部に設けられたカードだ。
色葉にとっては単にワインレッドの帯に渋いゴールドのラインが引かれたデザインを深読みしているようにしか見えなかった。
「残念ながら、まあ、通常の作品傾向からして、これはおそらく文化学習施設とのタイアップでいやいや引き受けたんだろうけどね」
いつまでもテーブルを見つめている色葉に痺れを切らした弟切は栞を引っ掴むと、つま先でカードを軽く叩く。
 途端に衝撃の波を行き渡らせる光が走った。それからゆっくりとクレジットが記載されたほうが上を向くように縦方向を回転させたのだ。
すると水の中で乖離する油のようにアクセントとしてのデザインと思い込んでいた金色が絞り出されて浮き上がっていく。
「ホタルイカの光みたいだろ。生物のもつ発光の原理から応用して着想してる。なぜ評価されるかというと、一応、構造としての仕組みもほぼ同一のものを模しているか、取り出しているんだと」
サンドアートの構造やオイルタイマーの一粒のようなそれらが発酵しながら丸い形に帰結していくのである。
「一見、一枚ペラにみえるけど極うすい透明の箱なんだ。これに先の構造を合成した擬似的な液体金属を流す。振動など特定の状況で発せられるエネルギーに反応し、金属はニューロンを顕微鏡でみたときのような樹状突起を模した図形をフィボナッチ数列に基づいて描く。個人的に、なかなかいいアート作品じゃないかと感じるね」
自分の作品でもないというのにやたらと自慢げに評論家然として語る弟切は栞をテーブルに置き、血色が薄い指の背で透明を先よりも強く弾いた。
「衝撃での強さでスイッチする階層や液体を軌道に吸着する技術自体は大したことはないが、彼のこだわりを垣間見るか、意図を深読みするかで評価が変わる。抽象作品とも言い切れないテーマだけどさ」
 するとまるで吸い上げられるかのように金属は透明の箱の中で伸びの良い線を描き、一瞬にして図形を描いた。
まるで巨木が突然現れたかのような衝撃を受け、色葉は改めて視線をやった。
咲きこぼれる緑というよりは冬枯れの木を思わせる。しかし、法則を用いた緻密な軌道は確かに、学問の区分上では憚れるものの、確固たる根拠なくとも語る部分では類似性を見出すこともやぶさかではない細胞たちをミクロの世界で表すことに似ている。
そして勢いで行き渡った液体金属が描く図形は傾斜ある階層を下り、時間をかけて下部に滴り、溜まる。
過程を経て色葉が最初に見た透明のカードである姿に戻っていくのだ。
 それを植物――ひいて生命の繁栄と衰退を表しているのだと考えれば、弟切の語る作品の定義や価値の賛否に頷かざるを得ない。
黄金の枝を漫然と、正確には少々心を奪われて眺めている。
感性に強く訴える恍惚の中では、既に逆再生をするかのように枝を衰退させていく液体が煮えたぎる血液のようにも思えた。
 胸がつかえるようにざわめく作品を直視し続けるのは時に恐ろしいものだ。それでいて、この勢いと金属の伸びが心地よいのである。
目眩がしそうだ。それほどの衝撃を伴う魅力とくれば、今の色葉にはそれらを表現するために最も適切な言葉が思い浮かばない。
恐ろしいほど美しい。と、表現するにはあまりに月並みであり、相反するもの同士が引き立たせる事象を並べた比喩で表すとすれば、これはもっと調和のとれた美しさである、と、抗議したくなるのだ。
 取り憑かれ惹き込まれる金属の色を前に、色葉はまさに背の肉を通り越して身体の芯として通る骨から打ち震えるかのような感性を知る。
「すごい! もう一度、もう一度、見せていただけませんか?」
「もう少しリッチなやつだと見た目はあまりかわらないけど箱自体の層が複雑になって、エネルギーの強度に合わせて液体金属の流れる階層がより多く切り替わるようになる。これはの図柄は二種だったかな。下に落ちきる前でも再描画はできるけど感動したいならば沈殿するまで待ったほうがいい。すこし時間がかかるし、もし、気に入ったなら今日の記念にあげようか」
急な申し出に色葉は目を丸くした。
そしてめいっぱいに指先までをこわばらせ、しっかり開くと、両の手のひらを突き出して半ば叫ぶ。
「え! 大丈夫です、そういう目では見てませんから……! 決して卑しい意図では」
叫ぶ勢いのつもりが大した声量にならない声は周囲の誰に興味を持たせることはなく、軽快な音楽がフロアの通り道を踊っていた。
昼間の風景ひとつの域を出ない会話が続いている。
 弟切は元喫煙者の名残か、焼けた喉のようにも、息苦しさを紛らわせたようにも思える声で笑った。
今日一番に声を上げたさまは捻くれたことばかりいうわりには、快活に見える。
ひとしきり笑いに伴う無為の言葉を発散してから身を乗り出し、情熱的なまでの興味を寄せて色葉を見つめた。
「君って無欲だなあ。千円しないもの、躊躇する? 液体金属の色が気に食わないとか?  逆に、何なら欲しいんだ?」
色葉の答えはさして重要ではないとして、弟切は自身の中で二分される人間を思い描くのだ。
「経験上として、出会う同郷は円安続きに嘆いていて施しなら例え無価値でも喜んだり、見知った気になれる同郷の存在とは好ましいコミュニケーションをとろうとする僕みたいなやつに分かれたりするんだけど、君は違うんだ?」
「……少なくとも、私はあなたのような人に会うのは初めてです」
その言葉を満足そうに聞き、頷くと弟切はついに色葉が内心で恐れていた言葉を切り出す。
悪意はなく、コミュニケーションを取るための術を自然に切り出す様は彼が自称する職業さながらである。
「ところで、ええと。きみ、きみ、って言ってるけど、君の名前は一体なにくんなのさ。ミスター? 今日の記念に、名前くらいは聞いてもいいだろ」
 駆け引きのような沈黙があった。
ここで腰が引けていることを相手に悟られることがあれば、恐らくその時にはすでに相手の腹の中である。
これは相手が弟切でなくとも、誰に対してもそうだった。
更に言うならば、責められたところで色葉自身が嘘をついている自覚があっても、正しくして自身が何者で誰であるのかという問いにはむしろ自分が聞きたいほどである。
故に、ついにこの疑問を投げかけられたことに恐怖じみた感情があったとしても、後ろめたさや、言葉が弱気になるということはなかった。
つまるところ色葉が何を返答したかと言えば、僅かな言葉の後に、当然のように偽名を名乗ったのだ。
 もし、これが咎められるべきことであるならば、むしろ引きずり倒して自己の証明を問い詰めたいものである。
そう思うと、どんな嘘も全くの嘘ではない気がしてくる。
自分には"色葉"という名前が与えられているが、その正しさを証明できる公的なデータは存在しない。それこそ、この"色葉"を誰であると定義することは誰でもできてしまって、誰にもにもできないことでもあるのだ。
「ルーカスです。ルーカス・シュトラテルン。今更ですけれど、私から大した話は出来ないですよ。その、話をするのが、得意ではないので」
「ふうん。じゃあ、愛称はルーク? 僕もそう呼ばせてもらおうかな」
 最初に演じる役を定義しておいたように、読んだ本に出てきたよく見た名前と、國枝が名乗った姓だ。
声色は揺るがない。しかしながら、そんな嘘の全てを見抜いたかのように弟切が目を細めたために一瞬、居心地が悪くなって椅子に座り直す。
その様子を取り合うことなく、テーブルに肘をついていた弟切は重心を傾けて腕の支えに身体をすっかり預けた。
斜めに下がった場所から見上げる視線が色葉を真っ直ぐ見ている。
「はあ。ご自由にどうぞ」
 なし崩しを不本意に思う「はあ」という返事に気をよくした弟切は豪快に口を開き、いかにも楽しそうに食事を再開した。
乾いて草臥れてはいるが、ナイフやフォークを捌く指先の動きはしなやかでありまるで楽器でも演奏しているかのようだ。
踊るナイフに対し、弾力を持つ生地であるはずのベーグルは美しい断面を簡単に開いてみせた。
肉も、野菜も、まるで店で使いまわされているナイフとは思えない洗練なる軌道のいかにも力を入れてなどいません、と、言いたげな澄まし顔にすぱすぱと切り分けられていく。
そして次々に並びのいい歯列の向こうに吸い込まれていくのだ。
咀嚼の最中、時おりに眉を顰めることがあれども、色葉にその意図は図ることはできないでいる。
ただ、上機嫌に語るうちはこの食事は彼にとって美味なものであるのだ。
 食事中に会話をする行為は行儀の悪いことにもみえるが、彼の食事は、口に運ぶひとくち分がやや大きいこと以外では何一つ疑うことがない。大した知識がなくてもわかる。彼の所作から察することは食道楽ということだ。
所作がいかにも美しく、マナーの程度を場所で使い分けている。
他に形容するならば可能性はティースプーンのひとさじほどであるが、食を楽しむその様の追求と貪欲さから、料理人なのかもしれない。
 色葉はそういった思考を巡らせ、追加注文しては受け取ってきた季節のフレーバーウォーターに風味が薄いとけちをつける弟切を見て、そうだったら最悪だな、と、ぼんやり思う。
フレーバーウォーターのフレーバーは良くも悪くもフレーバーにすぎないのだから、水に気になるほどの臭みなく飲めればなんだって構わないと考える色葉はぬるくなりつつある炭酸を飲み込むためにストローを鳴らすばかりだった。