道中、次は競い顔を赤くした体格のいい大人が國枝演じるジョン・シュトラテルンに声をかけた。
黙っていれば職人気質に見えてしまいそうな気難しさを象徴した角張りある輪郭をしていたが、気前の良い様子であり、今にも國枝の肩に組みついて語り出しそうな様子である。
曰く、灰色猫の足元が特に靴下を履いたような様をそのまま名にしたらしい飼い猫のホワイト・ソックスを見かけたら帰るように声をかけてほしいとのことだ。
そしておまけ――正確には報酬の前払いとして、青果店が明日ゲリラ特売を企てているために狙い目だという特大級の秘匿をリークしたのだった。
体格のよい相手に抱え込まれると一層のこと、生まれのルーツによる骨格や身長の違いが引き立っては、國枝は小さく見えた。
「ジョン、今度は飲みに参加すればいいんだ。みんなお前のことを酒も呑めねえガキだと思っているが、オレはお前がいいヤツだって紹介してえんだ。ついでに今日の連れも街で困らんようにしてやる。根無草のお仲間だろ」
「冗談よしてくれ。連れはともかく、少なくともジャパニーズの私はアルコールの分解に疎いんだ。君たちみたいな大酒呑みには、素面の君が大喜びして聞くような話は肴にもならんさ。そ、れ、か、ら、彼は私の助手として雇った真っ当な人物だ」
「難癖つけるんじゃない」と、遊びたい盛りの大型犬を遠ざけるごとく顔を押し返した國枝は、軽口を叩く字面とは反して語りかけてきた男に愛想よく申し訳のないような顔をして見せて眉を下げるのだ。
家での彼はもう少し偏屈の目立つ人間であると認識していた色葉は、垣間見た処世術に感心しながら邪魔にならぬ場所で黙って直立していた。
「確かに連れにはよくしてほしいんだよ。見てくれ、電柱みたいになってる。不憫だろ、緊張しいでね。ただ、しかし釣り合うコストが急性アルコール中毒っていうのはいただけないだろ? リスキーにもすぎるってものだぜ」
わざとらしい演技でせせら笑う姿は自虐めいており、諦めのつかなかった男に重い一撃の言葉でとどめを刺した。「大体、フローライトが六面体に割れる場合と八面体に割れる場合の違いなんて酒場じゃなくても興味の有無がはっきりしすぎてるじゃあないか。仮に実践したところでウケもしない」
「調べさえすれば知ることのできる時代だからこそ、アーカイブネットに頼る人間は無知なんだってアンタを見れば連中も理解して興味を沸かしそうなんだけどなぁ。紙の本をわざわざ好くやつもあんまり出会ったことないんだ、前向きに考えといてくれよ。ここらの本屋どもは諦めすぎでつかえやしねえってンだ」
その言葉に國枝は肯定も否定もせず片手を上げるだけだった。
勝手に歩みを再開した國枝を追った色葉が半身で振り返り、男に頭を下げる。
 それからも國枝が特別にすすんで人々と接する様は多くはなかったが、みな付かず離れずとする態度を一貫として会話を楽しむ後ろ姿を色葉は眺めていた。
誰とでも話すわけではないものの、適度に街に親しみをもって接する様子は、誰しもに彼が本来は怪しい人物であると察せさせることはない。
事実としても色葉は大抵のところ、彼の後ろで会釈をするばかりであったが、國枝――ジョンの連れである新入りという設定であったためか言葉を交わした人間のほとんどは早く街に馴染めるよう慰め、時に励ましてくれた。
そんな調子でたまたま通りがかりにあいさつした老婆に大層に気に入られた色葉の腕にはリンゴがいくつか入った紙袋が抱えられていた。
昔の男に似ていると語る老婆になかなか離してもらえず、既にもみくちゃにされた後のように疲れた色葉を隣で見て國枝は腹を抱えて笑うのである。ついぞ、二度、三度目とした助け舟はなかった。
 こうしてのどかな街並みを見ていると、次第に、まるで縁がないと思っていた穏やかな生活がきちんとこの手に収まっていると思えた。
春になって湖の氷が溶けるように、もしくは冬眠から目覚めて暖かな陽光を浴びるように、色葉の緊張はいつしかするすると解けていったのである。
時間を止めてしまうかの如く、冷たく心臓を縛っていたサテンのリボンは艶やかで美しいものであったが、街並みは家の中から想像するよりもずっと温かく、鮮明な色であったのだ。
いまや緊張は解けたリボンのように無意味に足元へ落ちている。そんなふうに色葉には思えた。

「それで、彼は言ったんだ。『宇宙人が本当に進んだ技術を持っているならば、我々が見つけるより早く彼らは我々を発見するだろう。技術が進んでいるならば、わざわざ遅れている惑星に目を付ける理由はなんだ? 侵略にしたって、すでに鉱脈はすり減り、木々は多く切り倒されてきた。海洋汚染も温暖化も未だ楽観視はできない。かつてよりはいくぶん取り戻したとはいえども、慈善活動をしに来るわけではないだろう。せいぜい残り少ない地球の資産を奪われぬよう、まだまだ未知が多い海底やマントルの層を構成するものらを知ろうとしたほうが有意義じゃないか』。言いかたは異なれど、そんなことをね。つまり彼自身だけで完結する部分でもメリットがほとんどない、と、いうわけだ」
 國枝が他者を進んで語ることは少ないが、マーティン・ベティオールに対しては特によく舌が回った。
皮肉って語る言葉のわりに、國枝の言葉には他者を下に見たり、鬱陶しがる様子はないのだ。
おまけに一般的に普遍してある言葉の枠では遠回しでも、最終的に狂人であるかのように表現される人物を語れば当然の範疇である。
色葉がそれらを聞いても、一聞には悪口に掠ってしまそうな表現さえもがマーティンを形容するために使っていると思うと軽口に収めることができてしまう。それほどまでに実に奇妙な人物に聞こえるのだった。
 共通の話題として聞き出した色葉の要望は、彼の名前を出さないことを条件に叶えられ、日本語のやりとりによって國枝が彼を独特な言葉で表現することを聞いている。
自分達を横目で気にする人間がいないわけではかったが、だからといって内容が知れるわけでもなければ、特別に白い目でも見られることはない。
國枝が時に、マーティンに対して抱く興味が消化されないことが慢性化していることに焦れったいと顔に出しかける度に色葉は面白がる。
ここ数日の会話の中で最も國枝本来の人間性が垣間見えることが興味深くてたまらなかったのだ。
「ごもっともですね」
 掠れた喉で笑いながら時たまに相槌を返し、会話を楽しんでいた色葉は目を細めながら言葉を差し出す。
色葉が話題を振り、國枝がこんこんと説明するように話をする形式は会話というには少々かたくるしいものの、ふたりは互いに有意義を自覚しながら言葉を交わしているのだ。
「恰好いいだろう? そりゃあ聞こえはね。前述のとおり、彼は未だ影でオカルト雑誌を愛読しているんだぜ。それに、我々がアジア圏に居たころにはいつも通信手段の最後に『市場で電子アーカイブ化される前の、つまり紙の"ムー"のバックナンバーを見かけたら送ってくれ』と付け足していた。こちらが一言一句違わず覚えるくらい執拗にね」
嫌味と意味のないネタバレを付け加えて「彼は本当にただの人間なのになあ。仮に神の御業だのとするものが本当にあって、彼がそうとしか言えない偉業を成し遂げたのならば手のひら返してひれ伏すつもりなのかね」と、マーティンのことのようで彼ではない別の何かをせせら笑った。
確固たるという判断材料にはなり得ない言葉の断片たちであったが、少なくとも、この時の國枝はマーティンを揶揄しているように見えて、その実まったく別の何かを嘲笑ったのだと色葉は強く感じたのだ。
寂しいような、どこか突き放すような、とにかく水底へ沈む澱を複雑に眺める横顔を何もできない様子で、また俯瞰した場所から見ている気分だった。
 細めた目頭に寄るしわを見つめながら、色葉は、仮に國枝が揶揄した言葉通りにどちらかを嫌うとしたら、それはマーティン・ベティオールのことではなく他の民衆であるとよく理解する。それだけは確かなことだと思えたのである。
「もはや、実は本当の世界の姿が見えているのは彼ただひとりだけで、我々理解できない側の者こそがふざけた存在でないか。と、錯覚するな」
「確かに。私たちの関係は文通の感覚でやっていることではないのに感覚が麻痺しそうだ。いや、やっぱり私がおかしいのでしょうか?」
「まさか。私も彼に関しては驚かされないほうが少ない。そんな彼から学びを得るために付き従いたい稀有なやつが存在する事実は理解するが、四六時中とはさすがに彼の弟子のことが心配になる」
「なるほどね。お弟子さんも苦労の絶えないことでしょうが、学ぶということは存外そういったことと私は思いますよ。それで、実際に雑誌を送ったことはあるのですか?」
 國枝の口ぶりから弟子についての詳細は随分とぼやけたものと察しを得た色葉は深く考えることをやめ、単純に、弟子がいる人なんだな、とぼんやり思いながら答える。
脳内に偏見だけで出来上がってしまったマーティン・ベティオール氏の像に弟子の存在を付け足そうとしても、これまた氏についていけるような大層に偏屈をした人物が思い浮かばない。
もしくはよほどの不憫を擬人化して絵に描くことになるだろう。
 麻痺していた感覚が再びにこの話題は愉快な内容ではないかと思い出し始めてたまらなくなる。
口角が持ち上がるのをごまかしながら尻目に隣を見ると、國枝は真剣な顔で記憶から過去の出来事を引きずりだしていた。
そして、はやりのこと、面倒臭そうな、あるいは色葉と同じように呆れや笑いを堪えたがる眉根の曖昧をしたまま返した。
「ああ、ああ。たしか、一度だけあった。市場で本当に偶然見かけた際に送ってやったな。後日、ボーナスだって色を付けた礼をされた。金銭でね」
すぐに喉がククッとなるような笑いをこぼして一度だけ、國枝は顔を背けた。
そして咳払いをして顔を正面に戻すとき、色葉の視界が掠めた横顔は生真面目な普段通りの表情だった。
「奇妙としか……言いようがないひとですね」
信じられない、と、色葉が肩の力をストンと落としながら答える。
もはや何をしてもそれは常軌を逸しているようにも思えたものだ。
その色葉の仕草を肯定するようにわずかに笑いをひきずった震え声が返ってくる。
「全く同感だ」短い一言であったが、間違いなく最も簡潔に、そして話題に適した返事だった。
誰しもが、この偏屈の塊のような人物像に評価をつけることはできない。
 話題は尽きないものの、笑い疲れつつもある國枝の目元が乾いていく前に色葉は視線を逸らす。
気付けばだいぶん街の中心部へ来たらしく言葉の切れ目に口を閉ざすと、そこらじゅうから各々の生活を営む人々の気配と生活音がしていた。
「ええ。それで……ええと、ここから先は?」
「おっと、だいぶ来ていたね。案内しよう」
街は中程まで進んだのか、麓よりも存分なにぎわいを見せている。
雑踏に人々の話し声が混ざる。一つ道を折れると段差や階段の多い路地は人々の足音でリズムを奏で、幾重にもなる一つも一致しないはずの声たちが一つの歌のように聞こえた。
石畳の凹凸は歩みを続ける者の足を押し返してさらなる一歩を促し、色のついた家家の壁が聳える街は祭りでもないというのに一層のこと華やかに人々を迎える。
季節の花は足元を飾り、かつてのガス灯にデザインを寄せた街灯は昼間のうちにガラスを眠らせていた。
店先でロートアイアン製の突き出し看板がキイキイと軋みながら揺れている。
全てが國枝の話の通りだった。美しい街だ。
 圧倒されるまま、さらに噴水の広場を過ぎたあたりで最も盛り上がりを見せる大通りを折れる。
國枝の誘導でするすると路地へ進み、市街の複雑な地形を往くのだ。
小さな段差を補うために階段に近いアプローチをもつ道を進むと、先には洒落たカフェテリアがあった。
奥まったほうの路地に沿って存在するだけに隠れ家と紹介されそうな風貌をしていたが、それにしては堂々としすぎたテラス席が設けられ、シンボルツリーの黄色くなった葉が静かに散っている。
例に漏れずこういったカフェは大通りにあってもおかしくない建造物であるが、わずかにはずれた場所にひっそりとした体で存在しているのだ。風通りの悪い構図をする道でもない。
ともあれ、落ち着いた様子といかにも洒落た外観に色葉は感嘆の声をあげた。
喜びや感動というよりは、感情の中に恐れ戦いた色を濃く滲ませているのである。
対して、國枝は表のブラックボードへ視線をやりながら伺うように片眉を上げるばかりだった。
「いかにも大通りじゃあ、なにかと落ち着かないんじゃないかと考えてね。とはいえ、そこそこな人気店であるらしいが」
「ええ。すこし、いや、だいぶ、緊張します」
 自身の両手それぞれの指を絡め、身じろぎをする色葉は、國枝が様子を窺っていることを意識すればするだけ緊張にひと呑みにされていく。
周囲が自分を見ているわけではないことを重々に知っていても、今の色葉にとっては人前に出ることや、外で長い時間を滞在することは初めてのことに違いないのだ。
顔が熱くなっていく。女々しく赤面している自覚を得て、治まれと思えばさらに熱を増していくのだと悲しいほど思い知る。
手のひらを前方に向け、顔を隠すようなそぶりをしながら色葉は逃げたくなる足を一歩、と後ずさる。
そのすぐ後方には國枝が居た。
「なに、極端に価格帯が高い場所でもないさ。ドレスコードがあるってわけでもない。なにより駅前のコーヒー屋だってカフェテリア形式だろ、そういう敷居ならば安心したまえ」
「形式じゃなくて外観がもう、なんか、なんかすごいじゃないですか」
「インショップじゃないだけで? 何が 道中、次は競い顔を赤くした体格のいい大人が國枝演じるジョン・シュトラテルンに声をかけた。
黙っていれば職人気質に見えてしまいそうな気難しさを象徴した角張りある輪郭をしていたが、気前の良い様子であり、今にも國枝の肩に組みついて語り出しそうな様子である。
曰く、灰色猫の足元が特に靴下を履いたような様をそのまま名にしたらしい飼い猫のホワイト・ソックスを見かけたら帰るように声をかけてほしいとのことだ。
そしておまけ――正確には報酬の前払いとして、青果店が明日ゲリラ特売を企てているために狙い目だという特大級の秘匿をリークしたのだった。
体格のよい相手に抱え込まれると一層のこと、生まれのルーツによる骨格や身長の違いが引き立っては、國枝は小さく見えた。
「ジョン、今度は飲みに参加すればいいんだ。みんなお前のことを酒も呑めねえガキだと思っているが、オレはお前がいいヤツだって紹介してえんだ。ついでに今日の連れも街で困らんようにしてやる。根無草のお仲間だろ」
「冗談よしてくれ。連れはともかく、少なくともジャパニーズの私はアルコールの分解に疎いんだ。君たちみたいな大酒呑みには、素面の君が大喜びして聞くような話は肴にもならんさ。そ、れ、か、ら、彼は私の助手として雇った真っ当な人物だ」
「難癖つけるんじゃない」と、遊びたい盛りの大型犬を遠ざけるごとく顔を押し返した國枝は、軽口を叩く字面とは反して語りかけてきた男に愛想よく申し訳のないような顔をして見せて眉を下げるのだ。
家での彼はもう少し偏屈の目立つ人間であると認識していた色葉は、垣間見た処世術に感心しながら邪魔にならぬ場所で黙って直立していた。
「確かに連れにはよくしてほしいんだよ。見てくれ、電柱みたいになってる。不憫だろ、緊張しいでね。ただ、しかし釣り合うコストが急性アルコール中毒っていうのはいただけないだろ? リスキーにもすぎるってものだぜ」
わざとらしい演技でせせら笑う姿は自虐めいており、諦めのつかなかった男に重い一撃の言葉でとどめを刺した。「大体、フローライトが六面体に割れる場合と八面体に割れる場合の違いなんて酒場じゃなくても興味の有無がはっきりしすぎてるじゃあないか。実践したところでウケもしない」
「調べさえすれば知ることのできる時代だからこそ、アーカイブネットに頼る人間は無知なんだってアンタを見れば連中も理解して興味を沸かしそうなんだけどなぁ。紙の本をわざわざ好くやつもあんまり出会ったことないんだ、前向きに考えといてくれよ。ここらの本屋どもは諦めすぎでつかえやしねえってンだ」
その言葉に國枝は肯定も否定もせず片手を上げるだけだった。
勝手に歩みを再開した國枝を追った色葉が半身で振り返り、男に頭を下げる。
 それからも國枝が特別にすすんで人々と接する様は多くはなかったが、みな付かず離れずとする態度を一貫として会話を楽しむ後ろ姿を色葉は眺めていた。
誰とでも話すわけではないものの、適度に街に親しみをもって接する様子は、誰しもに彼が本来は怪しい人物であると察せさせることはない。
事実としても色葉は大抵のところ、彼の後ろで会釈をするばかりであったが、國枝――ジョンの連れである新入りという設定であったためか言葉を交わした人間のほとんどは早く街に馴染めるよう慰め、時に励ましてくれた。
そんな調子でたまたま通りがかりにあいさつした老婆に大層に気に入られた色葉の腕にはリンゴがいくつか入った紙袋が抱えられていた。
昔の男に似ていると語る老婆になかなか離してもらえず、既にもみくちゃにされた後のように疲れた色葉を隣で見て國枝は腹を抱えて笑うのである。ついぞ、二度、三度目とした助け舟はなかった。
 こうしてのどかな街並みを見ていると、次第に、まるで縁がないと思っていた穏やかな生活がきちんとこの手に収まっていると思えた。
春になって湖の氷が溶けるように、もしくは冬眠から目覚めて暖かな陽光を浴びるように、色葉の緊張はいつしかするすると解けていったのである。
時間を止めてしまうかの如く、冷たく心臓を縛っていたサテンのリボンは艶やかで美しいものであったが、街並みは家の中から想像するよりもずっと温かく、鮮明な色であったのだ。
いまや緊張は解けたリボンのように無意味に足元へ落ちている。そんなふうに色葉には思えた。
「それで、彼は言ったんだ。『宇宙人が本当に進んだ技術を持っているならば、我々が見つけるより早く彼らは我々を発見するだろう。技術が進んでいるならば、わざわざ遅れている惑星に目を付ける理由はなんだ? 侵略にしたって、すでに鉱脈はすり減り、木々は多く切り倒されてきた。海洋汚染も温暖化も未だ楽観視はできない。かつてよりはいくぶん取り戻したとはいえども、慈善活動をしに来るわけではないだろう。せいぜい残り少ない地球の資産を奪われぬよう、まだまだ未知が多い海底やマントルの層を構成するものらを知ろうとしたほうが有意義じゃないか』。言いかたは異なれど、そんなことをね。つまり彼自身だけで完結する部分でもメリットがほとんどない、と、いうわけだ」
 國枝が他者を進んで語ることは少ないが、マーティン・ベティオールに対しては特によく舌が回った。
皮肉って語る言葉のわりに、國枝の言葉には他者を下に見たり、鬱陶しがる様子はないのだ。
おまけに一般的に普遍してある言葉の枠では遠回しでも、最終的に狂人であるかのように表現される人物を語れば当然の範疇である。
色葉がそれらを聞いても、一聞には悪口に掠ってしまそうな表現さえもがマーティンを形容するために使っていると思うと軽口に収めることができてしまう。それほどまでに実に奇妙な人物に聞こえるのだった。
 共通の話題として聞き出した色葉の要望は、彼の名前を出さないことを条件に叶えられ、日本語のやりとりによって國枝が彼を独特な言葉で表現することを聞いている。
自分達を横目で気にする人間がいないわけではかったが、だからといって内容が知れるわけでもなければ、特別に白い目でも見られることはない。
國枝が時に、マーティンに対して抱く興味が消化されないことが慢性化していることに焦れったいと顔に出しかける度に色葉は面白がる。
ここ数日の会話の中で最も國枝本来の人間性が垣間見えることが興味深くてたまらなかったのだ。
「ごもっともですね」
 掠れた喉で笑いながら時たまに相槌を返し、会話を楽しんでいた色葉は目を細めながら言葉を差し出す。
色葉が話題を振り、國枝がこんこんと説明するように話をする形式は会話というには少々かたくるしいものの、ふたりは互いに有意義を自覚しながら言葉を交わしているのだ。
「恰好いいだろう? そりゃあ聞こえはね。前述のとおり、彼は未だ影でオカルト雑誌を愛読しているんだぜ。それに、我々がアジア圏に居たころにはいつも通信手段の最後に『市場で電子アーカイブ化される前の、つまり紙の"ムー"のバックナンバーを見かけたら送ってくれ』と付け足していた。こちらが一言一句違わず覚えるくらい執拗にね」
嫌味と意味のないネタバレを付け加えて「彼は本当にただの人間なのになあ。仮に神の御業だのとするものが本当にあって、彼がそうとしか言えない偉業を成し遂げたのならば手のひら返してひれ伏すつもりなのかね」と、マーティンのことのようで彼ではない別の何かをせせら笑った。
確固たるという判断材料にはなり得ない言葉の断片たちであったが、少なくとも、この時の國枝はマーティンを揶揄しているように見えて、その実まったく別の何かを嘲笑ったのだと色葉は強く感じたのだ。
寂しいような、どこか突き放すような、とにかく水底へ沈む澱を複雑に眺める横顔を何もできない様子で、また俯瞰した場所から見ている気分だった。
 細めた目頭に寄るしわを見つめながら、色葉は、仮に國枝が揶揄した言葉通りにどちらかを嫌うとしたら、それはマーティン・ベティオールのことではなく他の民衆であるとよく理解する。それだけは確かなことだと思えたのである。
「もはや、実は本当の世界の姿が見えているのは彼ただひとりだけで、我々理解できない側の者こそがふざけた存在でないか。と、錯覚するな」
「確かに。私たちの関係は文通の感覚でやっていることではないのに感覚が麻痺しそうだ。いや、やっぱり私がおかしいのでしょうか?」
「まさか。私も彼に関しては驚かされないほうが少ない。そんな彼から学びを得るために付き従いたい稀有なやつが存在する事実は理解するが、四六時中とはさすがに彼の弟子のことが心配になる」
「なるほどね。お弟子さんも苦労の絶えないことでしょうが、学ぶということは存外そういったことと私は思いますよ。それで、実際に雑誌を送ったことはあるのですか?」
 國枝の口ぶりから弟子についての詳細は随分とぼやけたものと察しを得た色葉は深く考えることをやめ、単純に、弟子がいる人なんだな、とぼんやり思いながら答える。
脳内に偏見だけで出来上がってしまったマーティン・ベティオール氏の像に弟子の存在を付け足そうとしても、これまた氏についていけるような大層に偏屈をした人物が思い浮かばない。
もしくはよほどの不憫を擬人化して絵に描くことになるだろう。
 麻痺していた感覚が再びにこの話題は愉快な内容ではないかと思い出し始めてたまらなくなる。
口角が持ち上がるのをごまかしながら尻目に隣を見ると、國枝は真剣な顔で記憶から過去の出来事を引きずりだしていた。
そして、はやりのこと、面倒臭そうな、あるいは色葉と同じように呆れや笑いを堪えたがる眉根の曖昧をしたまま返した。
「ああ、ああ。たしか、一度だけあった。市場で本当に偶然見かけた際に送ってやったな。後日、ボーナスだって色を付けた礼をされた。金銭でね」
すぐに喉がククッとなるような笑いをこぼして一度だけ、國枝は顔を背けた。
そして咳払いをして顔を正面に戻すとき、色葉の視界が掠めた横顔は生真面目な普段通りの表情だった。
「奇妙としか……言いようがないひとですね」
信じられない、と、色葉が肩の力をストンと落としながら答える。
もはや何をしてもそれは常軌を逸しているようにも思えたものだ。
その色葉の仕草を肯定するようにわずかに笑いをひきずった震え声が返ってくる。
「全く同感だ」短い一言であったが、間違いなく最も簡潔に、そして話題に適した返事だった。
誰しもが、この偏屈の塊のような人物像に評価をつけることはできない。
 話題は尽きないものの、笑い疲れつつもある國枝の目元が乾いていく前に色葉は視線を逸らす。
気付けばだいぶん街の中心部へ来たらしく言葉の切れ目に口を閉ざすと、そこらじゅうから各々の生活を営む人々の気配と生活音がしていた。
「ええ。それで……ええと、ここから先は?」
「おっと、だいぶ来ていたね。案内しよう」
街は中程まで進んだのか、麓よりも存分なにぎわいを見せている。
雑踏に人々の話し声が混ざる。一つ道を折れると段差や階段の多い路地は人々の足音でリズムを奏で、幾重にもなる一つも一致しないはずの声たちが一つの歌のように聞こえた。
石畳の凹凸は歩みを続ける者の足を押し返してさらなる一歩を促し、色のついた家家の壁が聳える街は祭りでもないというのに一層のこと華やかに人々を迎える。
季節の花は足元を飾り、かつてのガス灯にデザインを寄せた街灯は昼間のうちにガラスを眠らせていた。
店先でロートアイアン製の突き出し看板がキイキイと軋みながら揺れている。
全てが國枝の話の通りだった。美しい街だ。
 圧倒されるまま、さらに噴水の広場を過ぎたあたりで最も盛り上がりを見せる大通りを折れる。
國枝の誘導でするすると路地へ進み、市街の複雑な地形を往くのだ。
小さな段差を補うために階段に近いアプローチをもつ道を進むと、先には洒落たカフェテリアがあった。
奥まったほうの路地に沿って存在するだけに隠れ家と紹介されそうな風貌をしていたが、それにしては堂々としすぎたテラス席が設けられ、シンボルツリーの黄色くなった葉が静かに散っている。
例に漏れずこういったカフェは大通りにあってもおかしくない建造物であるが、わずかにはずれた場所にひっそりとした体で存在しているのだ。風通りの悪い構図をする道でもない。
ともあれ、落ち着いた様子といかにも洒落た外観に色葉は感嘆の声をあげた。
喜びや感動というよりは、感情の中に恐れ戦いた色を濃く滲ませているのである。
対して、國枝は表のブラックボードへ視線をやりながら伺うように片眉を上げるばかりだった。
「いかにも大通りじゃあ、なにかと落ち着かないんじゃないかと考えてね。とはいえ、そこそこな人気店であるらしいが」
「ええ。すこし、いや、だいぶ、緊張します」
 自身の両手それぞれの指を絡め、身じろぎをする色葉は、國枝が様子を窺っていることを意識すればするだけ緊張にひと呑みにされていく。
周囲が自分を見ているわけではないことを重々に知っていても、今の色葉にとっては人前に出ることや、外で長い時間を滞在することは初めてのことに違いないのだ。
顔が熱くなっていく。女々しく赤面している自覚を得て、治まれと思えばさらに熱を増していくのだと悲しいほど思い知る。
手のひらを前方に向け、顔を隠すようなそぶりをしながら色葉は逃げたくなる足を一歩、と後ずさる。
そのすぐ後方には國枝が居た。
「なに、極端に価格帯が高い場所でもないさ。ドレスコードがあるってわけでもない。なにより駅前のコーヒー屋だってカフェテリア形式だろ、そういう敷居ならば安心したまえ」
「形式じゃなくて外観がもう、なんか、なんかすごいじゃないですか」
「インショップじゃないだけで? 何が心配だっていうんだ、西洋の建物なんて見慣れたものじゃないか。それとも今の君にはまだ外は辛いかのい」
 このチャンスをみすみす逃してしまったのちに響くことを考えては、今この瞬間に踵を返すのはよくない。と、國枝は色葉を捕まえようとして咄嗟に手を伸ばした。
そして色葉の肩を励ますように叩くと、そのまま抱き寄せて共に一歩を踏み出す。
後ろから支えて共に歩みだそうとする姿は、仲睦まじい男女でも介護の必要な老人に連れ添う姿でもなく、たどたどしい足取りを実践形式で正そうとするダンスの練習のようだった。
「歩きかた、忘れてしまったかい」と尋ねられると、歩くことはそんなに難しいステップではないはずだったはずが、色葉の中では途端に自信が失われていた。
「ほうら、取って食いやしないよ……仕方ないな。君の一歩は臆病だから、外玄関で喚くことには始まるものもない。言いかたを変えようか。諦めてくれ」
「いや、これはこれで恥ずかしいのですけど」
「強引にいかせてもらうつもりなのでね、まだ余裕がありそうで安心した」
「よ」という言葉と共に、ぐい、と引かれては油断から膝をガクリといわせた色葉が、まるで慣性に従うだけのぎくしゃくした足取りを続けて身体を前に進める。
とにもかくにも、まずその心を落ち着かせることに努めるのだ。
普段は多少の身長差で上から見下ろすはずの國枝によるエスコートに芯まで緊張して指先を眺める。
ぬるいものの確かに血の通った温かさが自身を導いていく様に、心音がいくらかの平静を掴みかけていた。
「つまり私は、今の君はここで失敗するよりもすごすご帰ったほうが後から落ち込むと考えるのだが、いかがかな。耐えきれぬなれば振り解いて逃げればいい」
 もし、これが女性だったら腰を抱いてエスコートするものなのかと思うと、あまりに自然にやってのけたことに一種の恐怖を感じる。
こうしてかたく、肩を縮こめたままの色葉を誘導した國枝はドアを押すのだった。
一歩の歩幅が普段の半分くらいになっていることを指摘こそしない國枝であるが、色葉に一切目をくれることなく歩幅を合わせている。
そして、緊張を誤魔化すがあまりに頬の内側に歯を立てかけた色葉に「しつこい小言はしたくないが、癖になるからやめなさい」と、もはや畳み掛けるようにぴしゃりとした言葉を投げかけるのだ。
ついぞ返す言葉もなくなった色葉はたった二文字でさえうまく音にできないような、悔しいばかりのような、たどたどしい返事をする。

 席をとり、カウンターに並び、そしてメニューボードから好きなものを選んでオーダーする。
入店からトレイを受け取るまでのたったこれだけをこなす数分が色葉にとっては延々のことのように思えていたが、その実、過ぎればどうってことはなかった。
つまるところ、國枝以外の人間と話すことは感覚で受け取る判断としては初めてのことのように思えたものの、大したビッグイベントにはなり得なかったのだ。
緊張ゆえか、反対に肩透かしを食らった気分か、その数分は砂のようにするりと指先を過ぎてしまって印象に残ることはなかった。
 代わりに、色彩を引き立てるインクブルーの丸皿に対してワンプレート方式に盛られたポテトやサラダの量を見て色葉は困惑をしたのだ。
椅子に座り、山脈の縮図と対峙するような皿を確認してやっとのこと、緊張に固まっていた時間がどっと流れ出したのだと思うほうが余程に合理的なものとすら考えられたのである。
嵩張るリーフレタスと、質より量であるとばかりに盛られたポテトの向こう側では、二つに切り分けられ鎮座するベーグルサンドがある。
おまけというべきか、とどめというべきか、パスタスプーンでひと匙すくったカボチャサラダがずんぐりとしているのを認めるとめまいがしそうだった。スプーンの縁が銀色に輝くのがやけに目に刺さり、一枚の皿がまるで広大な野と、そこに高く聳える山のように思えたのだ。
 派手に盛られ、さらにスプラウトを始めとするレタスやトマト、そしてハニーマスタードで甘酸っぱく味付けされたチキンが切り口を乱さず、慎ましいふりをして断面から覗いている。
さらにベーグル生地の隠れる下でどのように並んでいるのか想像するだけ腹が満たされそうだ。
それらの味を想像して掻き立てられたものに思わず唾を飲むが、ベーグルサンドが崩れてしまわないように刺さっていたピックを抜いたきり色葉の手は止まっていた。思考だけが絶えず、目の前の食事に逡巡している。腹の虫が切なげに鳴くのを聞かされていたのである。
 確かに目の前に食事があると思うと掻き立てられる欲が、唾液を湧かせた。荘厳な山のようだと表現をしても、美味そうなものは美味そうであるし、腹は減る。
悩むとすればせいぜいのところ、空きっ腹に急におさめようとするせいで驚いた胃がすぐに根を上げはしないだとうかということだけであると色葉は思っていた。
しかし、いざ目の前にすると、ハンバーガーのように豪快に齧り付くものなのか、それとも上品にナイフを使うものなのか判断がつかない。
唾を呑み、意図せずおあずけを食らっている色葉は舌で自身の下唇をなぞってから、ちらりと視線だけで國枝を見上げる。助けを求めているのだ。
その視線に気付いているのかいないのか、丁寧に手を拭いてから涼しい顔でアイスティーから伸びるストローへ口をつけた國枝の行動を窺いながら、色葉もまた自身がオーダーしたエルダーフラワーのコーディアルを口に含む。
 グラスの中で透明に光る氷を見て、上擦って滑る感情でままならない己を落ち着かせられると思ったのだ。
望んだ温度に対してすぐにほのかな甘味を感じ、鼻を抜けるミントが香る。一呼吸後から追いかけてくるエルダーフラワーのほころぶような香りも嫌いではない。
ふわりと香るのは花特有のものではあるが、華やかさの中に香料ではない生花の匂いにそっくりである燻る酸味のような、舌をひっこめたくなるようなえぐみに近い雑味を微かに含んで抜けていく。
抽出したシロップらしさというよりも、より鮮明にして柔らかな花びらのシルク地に似た表面や、連想してどこかみずみずしくしたたる果実の肌を思わせる。
シロップの原液を割ったそれは夏の名残があって爽やかなところが好ましいが、個人の嗜好を語るならばもう少し甘いほうが好きかもしれない。
 率直な感想を覚えた瞬間、舌を引っ込めたくなる。手のひらを返すように途端にチクチクと刺すかの如く強い刺激に目を疑ったのだ。
ただの水割りであると思い口に含んだ炭酸水の思いもよらない刺激に思わず口元を手で覆う。驚きに反射の反応を示して吐き出しそうになるのをこらえて嚥下する。
いがいがとした棘を飲み込む刺激はきっとこれに似ている。そう思いながら上半身を屈めた。
 驚きのせいで三割り増しほど強く感ぜられた風味付けつきの炭酸水を飲みくだしてから、ストローの飲み口よりもすこし下を摘まみ、改めてコーディアルシロップを炭酸で割ったドリンクを恐る恐る眺める。そして仇を存分に認識して再びストローを啜ったのだ。
一度認識をしてしまえば今度は驚くことも、慌てることもなくその味を堪能することが出来た。
 やはり甘く華やかな様は豊かにたくわえたシルクの如く質感や、蕾が開花としてほどける瞬間や、花びらの贅沢な質量の想像を掻き立てた。ほんのわずかに感ぜられる程度に含む雑味を、柑橘を絞った切り口ある香りが束ねる。そして炭酸が喉を撫でる感覚は閃光に似ているとすら思えた。
ひとつひとつが直線状に存在し、次々に表情を変えては味覚を刺激するのだ。
喉をくだっている頃にはそれらは一つの花束を眺めるような気持ちと、爽快感に変わる。
最初から、これらがどういった趣旨のドリンクであるかを理解していれば美味と感じることに迷いはない。
 しっかり味わってから口元を紙ナフキンで拭うと、他人事のように涼しい顔をしては流し目で店内を満たす音楽や人の話し声へ耳を傾けていた國枝を睨んだ。
首を傾げて笑みを浮かべる國枝の反応からは"記憶を無くす前の色葉"もまた、炭酸を口に含んだことが無いということを曖昧ながらに理解したためである。
つまり、内心で反応を楽しみにしながら、白々しくも何の興味もなく周囲を見回している"ふう"をしていた、と、いうことだ。
途端に悔しいという感情が色葉の中に芽を出す。
「せ、先生……!」
「私は君の意見を尊重したまでさ。停滞と衰退は似ている。新しいことにチャレンジしようとしている君をどうして止める理由があるんだい」
「私は前に並んでいた客の注文を真似ただけなのです。オーダーとして普遍的な組み合わせかと思って、だから、特別興味があったわけではないですからね」
「別に誰へ言い訳をする必要もないだろう。他人の真似であっても真似ると決めたのは君だ。卑下する必要なんてないじゃないか。私も次は飲んでみようかな」
 笑いながらナイフとフォークを手に取り、ハーフサイズのベーグルサンドへナイフを入れる。
内側にクリームチーズが塗られ、オニオンスライスと生ハムが乗せられた極めてシンプルなサンドを一口分に切り取っている國枝を、色葉は悔しげに眺めていた。
エルダーフラワーのコーディアルをストローで啜り、舌が慣れると酸味のほうが大きく感じられるようになってきたグラスを見下ろす。
そこで、色葉は、ふと一つ思い浮かぶ。
気付きを得た疑問は、水っぽいインクが途端に紙面の上で滲むことのように目を剥く間もなく大きく広がった。
「……先生の食が細いように思うことは今に始まったことではないのですが」
「うん?」
 ナイフとフォークを操っていた國枝が顔を上げる。
色葉は眉根を寄せた。
根拠はないが、この風景がどこかでは疑問あるもののように思えていたのだ。
「アイスカフェオレにしなかったんですか? せっかくコーヒーがおいしいお店なんですよね? 外で人が話していましたけど」
その言葉に、今度は國枝が眉を顰めた。
「君の前でコーヒーをいただいたことはあったかい。何の話かよくわからないのだが」
互いに鏡写しをするようにして首を傾げている。
 色葉はストローの端を無意識のうちで噛み潰していた。比例して目が細くなると、視界の先がぼやける。
思考の中で自身の唸り声が内側から聞こえることが感覚としてより近くに知ることが出来た。
 同時に雑踏は遠くなり、グラスの中で炭酸の弾ける音が聞こえるかのようだ。
パチパチと鳴る小さな音と、肌に弾く粒の感触。
もやをかき分けて自身を知ろうとすれば、薄皮のような今の自分はたちまち炭酸の泡が肌を撫でることと同じくして簡単に溶けてしまいそうだ。
 あと少しでこの感覚の正体が掴めそうな気がするのに。
その"気"が明確なものでない以上は、それすらもが錯覚ではないだろうか。
自答するもう一つの声に視線を上げようとすると、すぐさま溶けた氷の均衡は崩れ、空間を裂いて軽やかに響く。透明に澄んだ音を鳴らしたのだ。
グラスの様相は変わって、炭酸の中に沈む氷を見ていた色葉は唸り声の言葉を続けていた。まさに一瞬の出来事であった。
「うーん? 家でお飲みになられているところは見たことがないのですが、確かお好きでしたよね? ええと、二層になっているカフェオレ……甘くないもので、気分と体調にあわせて甘味料を後付けする、のが……いつも……いつも?」
「ふむ」
 相槌か彼もまた自問自答の記憶を辿ってるのか、と、いうことを色葉が知ることは定かではなかったものの、國枝はひとつ仮説めいてひらめくと指を弾き鳴らして笑った。
「いや、いいや。それは存外に思い込みじゃないかい。コーヒーと紅茶のカフェイン含有量の話は置いておいても、やはり目覚ましのイメージがどちらかなどいわずもがな、だろ?」
概念というものは曖昧な定義を模索する会話の中で大きな存在を占める。
自分たちの出自や経歴と重ねて、色葉はすとんと落ちた納得をした気になって頷いた。
「ああ、飲用は紅茶とはいえ、経歴と概念のイメージから断片的な情報を曖昧なまま繋ぎ合わせて補完した記憶を正しいものと思いこんでいる、と。確かにそうかもしれません。肯定にことたりないのと等しく、否定をする確固たる言い分もありませんから」
「そう、まさに過去に居た場所の話のイメージも手伝ってね。あそこに居た者たちは実際に選ぶならエナジードリンクよりもコーヒーと語るものも多かったし、カフェイン錠剤なんて流し込めば味覚すら認識することもなく簡単に得られるとして、むしろ危険視されていた。結局のところ、最も手に取りやすい形式をしているのもインスタントコーヒーであったし、当然の帰結だ。私は疲れているときにコーヒーを飲むとよく胃を痛めるから、たまに飲もうと思うときはいつもミルクで割っていた。君も見たことがあったかもな」
 國枝は考え込む色葉を他所にサラダの葉ものを食み、丁寧に咀嚼し、飲み下してから付け足す。
「ずっと霧や靄の中に居て、断片が浮かんで来たら正誤なんて構わずそれ頼りにして突き進むのは正常なことだ。しかし、私が本当に紅茶よりもコーヒー好きならリビングは豆だらけだぜ」
「ええ。後半のこと、すごく同意します。もはや拠点を変える度に一等先に電気を通して冷暗所を確保するところまで想像できますよ」
行儀悪くもフォークでポテトをもてあそんでいた色葉は深く同意する。
「ははは、紅茶もコーヒーも、一応はどの街でも好きなだけ手に入るインスタントの最安値で楽しくいただけているつもりだけどね」
馬鹿げた想像にも気を悪くすることなく、同じくマナーの欠片もなくフォークで空を掻いた國枝は機嫌よくストローを咥えていた。
「毎日嗜めど善し悪しなどわからないのだし、大して変わらんさ」
 会話に区切りをつけるようにして周囲を盗み見れば、殆どの客がハンバーガーを食べる際のように包み紙を上手く剥いて齧り付いているように思える。もちろん、ナイフやフォークを使って食べるのも間違いではない。上品な恰好をした女性客はしなやかな指先でナイフを操る様も散見される。
 結局のところ、選択肢というものはいくつか用意されていて、それを自由に選び取っていいはずなのだ。この世の中というものは案外”そういうもの”なのかもしれない。
國枝がまるでこの世の摂理のように語る当然のような綺麗事の口調に似た思考をしながら、そう結論付けて色葉はフォークとナイフで切り分けたベーグルサンドを口へ運ぶ。
やっとのこと食糧を得た口腔に真っ先にハニーマスタードの甘味を感じる。マスタードの僅かな辛味がさわやかに後を引き、野菜のみずみずしさを助長していた。
新鮮な野菜のザクザクとした食感も良く、食事を楽しむということをようやく思い出すようだ。
美味しい。そう呟く前には二口目となる塊にフォークを刺していた。
 密度ある特徴的なベーグル生地をナイフでうまく解体し、時にこぼれた具をフォークの背に乗せてうまく生地に返してやる。そして具ごと貫き通してから小さくも大きくもない塊にして口へ運ぶのだ。
よく咀嚼をし、嚥下する。乾いた生地に奪われる口腔内の水分を他で補うかのようにしてドリンクのグラスへ手のを伸ばす。
 食卓は和やかであることが在るべくとして美しいことであるが、実際には会話は減っていく。
会話をしたくないのではなく、互いの間合いで進んでいく食事に水を差す会話よりも、食後にホットドリンクでも飲みながらに会話するほうが都合が良い。
他者の話し声や、カトラリーたちの扱われる音。椅子を引く雑音。立ち上がる際の衣擦れ。革靴の踵が床をつく軽やかな音。
軽快に鍵を叩くもののあくまでゆったりとした調子であるピアノジャズの音源が空間を満たしている。
 通りに面した大きな窓際の席は避けたものの、奥まった位置まで差し込む光を計算して配置された間接照明と空間の調和が心地よいまどろみを生み出すのだ。
ぼんやりと色葉を眺めていた國枝も、自身の皿に乗せられたベーグルサンドや山盛りの野菜、ポテトをゆっくりと丁寧な手つきで口へ運んでいた。
「君の暇つぶしに最適であろうものを扱うような場所を幾つか選定している。そこらを眺めながら行動の軸としては食糧確に動く予定だ。君は何か欲しいものはあるのかい」
國枝の皿にはまだ三分の一ほど残りが乗っていたが、色葉の食事が終盤に差し掛かる頃合いをみてこの後のことを示した。
「そうですね。替えのシャツはもう一、二枚欲しいのですが、他にはすぐに浮かばないです。なので特には」
「そう。じゃあ大きく予定を変えることはないかな」
 そう目を細めたかと思うと國枝はゆっくり息を吐く。安堵したかのように柔らかくはにかみ、そして遠くの窓を一瞥した。
その表情が一瞬にして凍り付き強張ったように思えた色葉は倣って窓のほうへ視線を向けようとしたが、國枝がより早く椅子を引いて立ち上がったために、それが何か確かめるに至らない。
身体を傾けて視界を確保しようとすると、國枝の大きな手が肩を押し戻して阻んだ。
コートに見せかけて着こなしていた白衣を翻すと胸ポケットからクリップに挟まれた紙幣を数枚差し出してウインクをした。
「……少し、席を外す。追加で欲しいものがあれば頼めばいいし、いま必要が無ければ取っておいて。好きな時に使うと良い。すぐ戻る」
 所作こそコミカルであるが、普段行わない仕草に色葉は首を傾げた。
「え、あの」
國枝は微かながらに首を左右に振り、鋭さを滲ませた瞳で色葉をじっと見つめた。視線は視界の先ではなく背後を睨めつけている。
その動作こそが、何を意味するのかを察し得て心臓が掴まれた気になる。
色葉は立ち上がりかけたが、それより早く言葉が制する。
「なに、君が心配するようなことではない。気になることが出来た。確認程度だ。ゆっくり食べていなさい」
 小さく手を上げて背を向けた國枝は一度、顔だけで振り返り、深く頷いた。
姿こそ無言の背中が主であったが、「意味が解るね」と、言われた気分だった。肩を縮こまらせながら、平常心を装って送り出す。
「ええ。ついでにはす向かいのベーカリー、ボードの掲示があるんですけど、焼き上がり時刻の直近を確かめてきてもらってもいいですか」
「もちろん。せっかくのブランチにすまない。互いに忙しい身なのになあ」
茶番めいた言葉を交わす。
ゆっくり食べていろと言われても、食欲など一瞬にして失せてしまったのだ。
グラスに手を伸ばす。
幾分うすまってしまった炭酸水が甘ったるく喉に張り付く感覚から逃れるように色葉は店員を呼び止めた。