歩は緩やかに速度を落とし、小高い土地をくだる。
遠くから眺めると絵筆で点をいくつも描いたかの如くであった街が、色彩に溢れた精巧な煉瓦造りであると再認識できる。
視力と距離の兼ね合いをはかれば当然のことであるが、近づくたび一つ新しいことに気付くような情報による視覚への刺激に色葉は感嘆の息をつくばかりであった。
 山中と語ればあまりに余った表現であり、丘陵といえばどこか物足りない。
中間らしい緩い坂の景色から黄葉と煉瓦たちの経年による劣化、故のうつくしさ――様々に長い時間の経過を最中に生き、どこかくぐもってかすむ街並みを眺める。
秋らしい自然と、古びた街。それらは色葉にとって暖炉のある部屋にいる気分にさせた。
暖かく、更に他人の気配がするため、と、いう意味合いももちろん存在していたが、主な理由は住んでいる屋敷において暖炉がある部屋を彷彿とさせたのだ。
より形式的な応接間にある、客人をもてなすための家財たちを眺むことに似ていた。
 気取っているわけではないし、応接間とは違って様式美を狙ったわけでもない。
ただ整然とする中でも美しいと思える感性の一致が色葉の中では、歳を重ねた木材や、ディテールの凝った彫物や人体の作りに合わせて利便かのされた家財のシャープなシルエットと近いと感じたのである。
美しき作りものだ。
 この街もアクセス次第では一大観光地だったかもしれない。
そう考えながら色葉は無意識につま先立ちとなり街の全容を改めて眺めようとした。
 歴史として度重なる戦火の一部を逃れ今も面影を残す古い街並みは煉瓦造りの建造物が多く、鉢植えの緑がちらりと鮮やかに覗いている。
まだ距離のある小高い場所からでも常緑樹や植物が多く見られ、一見すれば無愛想にも見える煉瓦の聳える街を明るく飾る景観をより詳細に想像できるのだ。
人々の生活や、市場の様子、雑貨屋に、チェーン展開の企業マーケットなんかも当然に存在するだろう。
店屋の並ぶ通りの色彩を想像すれば、使い古されたパレットの上を眺めることにも似て、訪れる誰しもの無意識に存在するノスタルジーの概念をよく刺激する。
 例に漏れず、色葉の胸にもそういった懐古に似た親しみを覚えるが、外に出ることの潜在的な恐怖を拭いきれない心臓の鼓動は激しくなるばかりだ。
 いや、これは坂道をずっとくだっているから。
歩きやすい道で、おまけに緩いとはいえども勾配を下るばかりなのだから足がよく動く。だから、運動に対して心臓が懸命に血液を送っているのである。
 色葉はゆっくりとした言葉を心中で何度も唱えて自らに言い聞かせた。
「疲れたかい?」
 は、として色葉は声の主である國枝を見た。
家を出たばかりの頃は意気揚々と前を歩いていた彼であるが、いつの間にか自分と並んでいることに驚く。しかし、それは不快ではなく、すぐに温かい気配であると思える。
外は壁に囲まれることなくずっと広いものであるために、少しばかり寒いものだと感じていたことも手伝って、色葉の眉は自然と吊り上がっていた様から眉尻の角度を下ろした。肩にもずいぶんと力が入っていたのだ。
口数が減り、ずいぶん閉ざしたままであった唇を割ると、運動に対して水分が不足している口腔内が粘ばるように重たいと感ぜられる。
「率直にいうと、少し。情報量が多いからかな……」
 色葉は乾燥した目頭に僅かなしわと疲労を寄せて答えた。
気遣いの問いかけに返ってくる言葉が、努めて何もない体裁をしようとしていることを國枝は確かに悟り、喉元で極めて小さな笑みをした。
「私もだ。君に関しても然もありなん、といったところを察するが、緊張しているとも語っていたからな。余計に辛くはないかい」
柔らかくほころび、問いかけをする國枝は真綿の中に温もりを感じるような言葉とは裏腹にさっさと話を進める。
「プランBもきちんとあるんだ。安心していい。無理をして得る"良いこと"など――いや、これは感性にもよるが、大抵は至って健康時の場合より少ない。一握りに満たないだろう。同じ道を通っても余裕あるほうがたくさん素敵なことを見つけられるだろうことは道理であるほど見えきった答えだ」
 國枝は街のはずれもはずれといっても過言ではないあたりにある極めて簡素な木の柵と、門扉というには杜撰な通り道を視線で示した。
その顎先につられて顔を上げる。視線が上がった角度のぶんだけ目下に広がる街の様子がよりよく見てとれた。
「丘を降りきったら、柵沿いを少しだけ散歩しよう。道中の民家では個人経営の定食屋があってね。季節の野菜を中心の前菜と簡単な肉料理のランチはなかなかだそうで」
「へえ」
「食事の気力が少なければ、肉屋の惣菜で扱っているカスクートもいい。切り落としの端材を使用した買得品のようにみえるが、実はこれを目的に寄る客もいる。その味の詳細までは知らないが、ここの肉は家でも二度ほど出したな」
「なるほど。わくわくしますね、先生が情報通で良かった」
やや疲れの浮いたた表情は抜けないが、声色のトーンが明るくなった色葉をみた國枝は安堵し、軽口を続ける。「買いかぶりはよしてくれ。さすがにそれらの情報は君のために集めようと思って集めたんだよ。少しでも良い日にしてやりたいと私の勝手で考えたために、そうしたに過ぎないがね」
照れ隠しを半分含んだ様子で瞼を伏せる。
そして視線がくすぐったいと言わんばかりに肩を竦め、プランBと名付けられた計画の展開を続けていくのだ。
「その後、ここへ戻るのではなくそのまま北北西の門へ向かって歩こう。ベーカリーがある。普段は食事用の固いものばかりだから、味付きのパンでも買おうか。運が良ければ付近に花と果物を載せた手押し車の移動販売が居るんだ。街の中央から来てるから、興味深い話を聞けるだろう」
それらは郊外に位置する場所ではあるが賑わいある市場の気配のより詳細を十二分に想像することができた色葉の表情が和らぐ様を見て、國枝もつられた穏やかで続けた。
「悪くないだろう? 私も先に語ったランチがすこし気になるしね。朝の市より規模は小さいが、似た雰囲気の場所を中心に。どうかな。不安ならば街の外周沿いの小さなエリアでもいいからね。君の考えを聞いても?」
「素敵と思います。しかし、街のほうへ行けるならば見てみたいとも考えるので、実際に少し歩いてから決めてもよいでしょうか?」
「もちろん。郊外も寂れたわけではないが、双方が双方にしかない良さがあるものだ」
 日は家を出る前より南中の角度に近づいている。
散歩気分でのんびりにのんびりを重ねてあるいた場面もあったために、実際にはこの場所まで時間を多く要しており、いつの間にか昼近い時間帯であっても不思議はなかった。
先に示された提案に沿って昼食のことを漫然と考える道中、ふと、簡素な木の柵が続く境界に小さな人影があることに気づく。
唐突に現れたかのように思える存在に対し色葉は当然のこと身体を強張らせたが、國枝が色葉を隠すように半分前に出ながらも危機感もなくつぶやく。
横顔のままの鼻先を色葉から確かと見ることはできなかったが、あの家のリビングで紅茶のカップを前にした際とさして変わらず悠然とした様であり、なにより堂々とした声色であった。
「心配しないでいい、ただの子どもさ。むしろ、君がどうしてあの子どもに後ろめたいことがあるっていうんだい」
互いに視線を交わすどころか、半ば相槌のような色葉の返事にすら國枝は振り返らなかった。それでも二人は歩き続けるのだ。
やはり振り返らないままである國枝が背後の――内心で拭いきれない不安から肩の丸まってしまっている色葉へ向かってぴしゃりと言い放つ。
「姿勢を正しなさい」
 やがて人影は距離が近づくことに比例して遠目であった色彩が鮮明な輪郭を得る。
それは麦穂よりもやや赤みのある癖毛をうなじのラインに沿って外向きに跳ねさせたミディアムヘアが特徴的な少女だった。
身長は色葉からみて腰骨ほどの高さである柵よりも低く、手足の様子からは子どもにしても小柄である。目に見えてまだ幼いのだ。
そんな様子の子どもにセミフォーマルの体裁をした服装は大仰ではないか、と未だ意味もなく他者を疑う色葉は観察がてらにぼんやりと考える。
ぼんやりとした視界にふわりと揺れる裾の少女はつまらなさそうに手持ち無沙汰とばかりとして身体を揺らしていた。
しかし、更にその姿の詳細を見てとれるようになるとその一見しては婦人服としか思えない服には、襟元に控えめなツバメの刺繍が施され、婦人服よりもわかりやすく可愛いらしさを記号化したレースがたっぷりと袖口を飾っていることに気付く。
艶やかな光沢を持つブラウス風の白い生地を胸部直下でコルセットのように締め、切り返しからふわりと広がるシルエットのワンピースだ。
襟元を飾るリボンタイは細身な姿であるが、上品ながらも幼い子どもであるバランスがよく計算された出立ちだ。間違いなく彼女のためにしつらえられた一着である。
その推測から比較的に富裕層に近い身分とすら想像し得た色葉は、先とはまた異なる意味合いをもってして肩を竦めた。緊張をしていたのだ。
 直に少女は街の外から歩いてくる色葉や國枝に気がつくと、わかりやすく顔を明るくして駆け寄った。
「ジョンおにいちゃんだ! 今日はひとりじゃないのね」
「……えっ?」
あまりに見当違いな名前を呼ばれていることに驚いた色葉がぎょっと目を見開いて國枝を見たが、彼は色葉を制するようにも見える恰好で片手をあげ、呼びかけには素知らぬ顔で言葉を返していた。
駆け寄る少女の肩を丸めた手のかたちで優しく抱きとめ、それから彼女の肩より後ろにくっついていたひとつの枯れ葉を悟られぬようにそうっと取り払ってやるのだ。
「やあ、エミリー。調子はどうかな」
「さっきまでは元気だったんだけど……。ねえ、となりのひとはだあれ?」
「ああ、彼は私の助手だ。元より中性的な名前が気に食わなかったそうだが、ついこの間、実家からも飛び出したらしい進行形の放浪者でね。縁切り宣言ついでに新たな名前を絶賛募集中さ。まだ不確定であるから、役職名であるがどうぞ"助手"と呼んであげてやってくれるかい」
 まさしく自分だけが取り残されて進んでいく自然な流れに色葉は混乱しそうになったが、國枝がまるで事実を語る口ぶりであったために毅然を努める。
このようにしてとうとうと進む会話を同じく交互に見比べていた少女が首を傾けると、國枝の言葉は彼女に淡々と口調で答えをもたらした。
「私の容姿はここら周辺国では少々やりづらいんだよ。もっとくだいて言えば、なめられるわけだ。他の大人とは見た目がけっこう異なるだろ」
 生地が厚いとはいえどもその上着よりも下に凶悪な拳銃を持ち合わせていることなど微塵も感じさせない所作で白衣の裾を靡かせると、まるで彼女をダンスに誘うような格好で上半身を屈め、また、とどめのように首を傾げた。
幼い少女にとって眼前のめいっぱいに映るその構図は國枝の語るルーツとしての"東の特徴"が濃い容姿よりも絵本の中を思わせる一瞬でもあったが、國枝はさっさと幕を引くと色葉の背を叩いて前に促したのだ。
「それがどうだ、反対を見てごらん。比べてではあるが私の助手は背が高いし、線は細いが目が鋭い。私が金銭の授受においてみくびられそうになったら前に立たせるんだよ。そのために新しく雇うことにしたんだ」
「きんせんのじゅじゅってなあに」
「私が言いたいことに限っては、お金を払って店屋からものを買うことに関係しているよ。エミリーや街の者ならば一ユーロでも買えるものが、異邦人の特徴がある私には二、三ユーロで売り付けてもわからないだろうとしてくる賢いやつが世の中にはいるのさ」
瞼を伏せるその声色は柔らかな旋律のようであるが、まるでおどけては半ば嘘である発言をおもしろおかしく彩るのである。
利口を努めて話を聞いていたエミリーは途端に顔を赤くし、頬を膨らませた。そして感情の行き場をみつけられず、愛らしいストラップシューズで小石を蹴り上げるのだ。
高々と舞う小石から、彼女の本来の性格や快活とした様子が窺える。
「なにそれ! いじわるだわ」
「残酷だが、大人の世界ではそれを賢いともいうんだな、これが」
「よくわかんないよ」
肝心なことの明言をかわしながらひらりひらりと掴みどころのない会話を楽しむ國枝にエミリーはぶすくれて拳を握り込む。
「……おにいちゃんは、いいひとよ」
「ああ。私がいいひとかはさておき、少なくとも、この街で話した人間はいい人たちばかりだね」
 國枝の反応に納得がいかないエミリーは怒りにも似た感情で顔を真っ赤にし俯いていたが、不意に色葉へ鋭い視線を向けた。
その色に貫かれ、色葉はぎょっとして言葉を失いかける。不覚にも、呑んだはずの息が喉に引っかかり圧迫感を得たと共に、反射として身体が跳ねるかの如くその場で慄いた。
國枝以外の他者から大きな感情をぶつけられるのは初めてであり、至極単純なことにも勢いの強さに驚いたのだ。
そのエネルギーの大きさもさることながら、正確にいえば、色葉が戸惑ったのは睨めつけられたことではなく、事前の打ち合わせも一切なくでっち上げられた設定の詳細でもなく、少女が自分たちの存在を当然のように知っているということだった。
「助手さん、とってもステキなかみのけね。あたし、くせっ毛だからうらやましい」
「え? はあ。ありがとうございます」
健気な一面を持つ少女・エミリーは続ける。
「ねえ、ステキな助手さん。ケチのスミスじいさんにはちょっとくらいつよい言葉を言えばおとなしくなるし、おにくやさんのマダムはハンサムな男にレディあつかいをされるとオマケをしたくなるのよ。つくすタイプなんだって。それからせいか店のフレディおじさんはおなじしゅみの話でもり上がるとアニキ風をふかせたくなるから、いろんなことをきかせてくれるわ。それから、それから……おにいちゃんがこのまちをきらいになるのはいやなの。おにいちゃんがこまらないようにしてほしいの」
國枝のそばを離れ、色葉のまわりをぐるりと一周してから覚えたエミリーが首を傾けながら顔を綻ばせた。
細められる灰緑色の瞳が光を多く取り込み、傾く重心にしなだれる癖毛が柔らかな頬の曲線を強調する。
恥ずかしがるようにも、泣きたいようにも、またはこの世の不条理めいた事実に嘆き大家のようにも見える表情だった。
あまりの迫真としたまっすぐな視線に色葉は圧倒される。ゆえに、どこかおぼつかないような気の弱い返事をすることしか出来ずにいた。
「え、ええ。きっと努めましょう」
「悪いね。彼、元々が緊張しいなもので、まだ土地にすらこんな感じだ。黄葉した木の一本一本に挨拶しようとするくらいにね。愉快な人間だろ。でも、優しいやつだ。よろしく頼むよ。……さて。ところで、今日はゲイルは一緒ではないのかい」
 國枝がすかさず助け舟をだし自然と彼女に話題を振ったが、また新しい名前が出てきたことに色葉は目眩がしそうだった。
軌道修正の末にそのゲイルとやらが本当に登場してきたらどう挨拶をしようかと考え始める。
「おにいちゃんがいればしんぱいないわね。なんたってあたしのおばあちゃんのことも元気にしてくれたものね。はやくここになれるといいね、助手さん。おだいじに。あと、ゲイルなんて知らないわよ」
「ああ、彼を気にかけてけれてありがとう。助手の君も石になる前にあたりをすこし歩いてくるといい。身体がもう少し温まればマシになるからね」
目配せの意味を感じ取った色葉は屈んで彼女に視線を合わせると、なるべく丸く、そして甘くなるようにと作った微笑みを湛えて小さく謝罪をした。
「ごめんなさい、エミリー。次にお会いする機会に恵まれたら、またきちんと挨拶をさせてください」
「ええ、ミスター。ていねいな紳士みたいなところがまたとてもステキだと思うの。会えるのをたのしみにしてるね。つぎは名前が決まっているといいね。それからごめんなさい。すこしおにいちゃんとはなしをさせてちょうだいね」
 服の裾を摘みあげ、たっぷりと惜しまぬ量の布を使ったワンピースに美しい曲線を描く淑女のように振る舞った少女を見つめ、ちいさな手と握手をしてから色葉は立ち上がる。
踵を返すとすぐに泣き縋るような大きな声がした。
「それでね、おにいちゃん! ゲイルったら! 聞いてほしいの」
「ああ、今度は一体なにがそんなにエミリーを悲しませたんだい?」
 嵐のような怒涛を背後にし、それから國枝と彼女が会話をしている様が視認できる程度の距離を保って色葉は周囲をぶらつく。
木の根元に生える地味なキノコや、これ見よがしに奇怪な色をするキノコ、低木の中で小ぶりに咲いた白い花や、寒暖差で染まったり、枯れたりしてはより黄色くなりつつある草原――秋らしい風景をひと通り眺め歩いた。
このあたりにもリスなんかが居るだろうかと考えて足元に木の実が落ちていないか時おり地面を見る。沢山の色彩があたたかみのある様子で感じることができる、さわやかな一日だ。
肺を満たす空気は澄んでおり、冷たさに急かされる。
不思議と気分は悪くない。
時間が流れる感覚が心地よく、時たま寒いくらいの風に吹かれても色葉は機嫌良くあたりを折り返し散策してきた。
 未だ視界のほんの僅か離れたところでは前屈みになる勢いでプンプンとしているエミリーと穏やかに答える"ジョンおにいちゃん"もとい國枝の声が聞こえてくる。
会話はちょうど盛り上がっているところらしく、はしたなくも色葉は耳を傾けていた。
「……なんだって? それはひどい話だ。エミリーも立派なレディだ、言って良いこと悪いことがあるだろうに」
「きづいてくれたのはおにいちゃんだけよ。おかあさんのドレッサーをながめていたら、今日はとくべつにってリップをぬってくれたの。でも、にぶちんゲイルはわかりっこないのよ。かわいいのはふくばっかりだって!」
怒り心頭で語っていたエミリーは國枝の言葉を聞くと蒸気が抜けたようになり、途端に静かになった。
どうやら化粧をしていることに意中の人間には気づいてもらえなかったようだ。
可愛らしい話というか、傍迷惑な痴話喧嘩というべきか、色葉は盗み聞きの末に中途半端な感情を鼻からはき、再び散策を続ける。
そしてしばし沈黙ののち、今度はもじもじと身体をくねらせて恥ずかしそうにエミリーは國枝に尋ねた。
「ね、ねえ、にあわない? あたし、かわいくないのかな」
「いいや、とっても素敵だよ。君の笑顔は明るいから、その色がよく似合うね。確かにゲイルは君の化粧には気づけなかったかもしれないが、見た目がいつもと違って急に女の子らしく見えて焦ったんじゃないか? ここだけの話、ゲイルは君に悪い気は持っていないと思うんだ」
「ほんとう? あたしだって、ゲイルしかいないわけじゃないけど、でも、ゲイルが他の子ばっかりと遊んだら……悲しいわ」
 スカートの裾を握り込んで落ち込む彼女を見ては、微笑ましく顔を緩めて眉を下げた國枝は片膝をついて視線を合わせた。
握り込んでいる手を大きな手が包み、言葉を交わしながらゆっくりと指を解く。そして皺になりかけた生地をそっと伸ばしてやってから、内緒話をするように口元を手で隠して囁き合うのだ。
 色葉には内容を察し得ることもできなかったが、割って入る気もなくそれを遠くから眺めていた。
しばしの内緒話ののちにエミリーは笑みを浮かべ、國枝もまた大きく頷く。
「ああ、もちろん。直接なにかしてやれることはないが、もし、私が先にゲイルに会ったらそれとなく言っておくよ。もちろん、君の気持ちは伏せよう。代わりに、同じ男である身から客観的に見てもゲイルは君を悪い目でなんか見てないと感じる、と言ったことも内緒にしてくれるかい?」
いたずらに笑った國枝がウインクをしながら言葉を付け足した。
「私がゲイルに怒られてしまうのでね。大の大人が恰好悪いと恥ずかしいよ」
「ほんとう? ありがとう、おにいちゃん! あたしもだまっておく。いつも助けてくれるものね、やくそくするわ」
再びひそひそ話をし、白衣から包み紙に入ったキャンディを取り出してエミリーに握らせる。
 元気付けられた彼女は頷くと、服を見せるようにくるりとその場で回った。大袈裟な動作に合わせてはドレープのためにたっぷりと惜しみなく生地を使用したスカートが円を描くほど美しく広がり、揺れた。
それから、まだ同じ高さに顔のある國枝の頬にキスをし、エミリーが満面の笑みで走り去っていった。
途中、振り返った彼女と目が合うと手を振られたために、色葉も小さく振り返す。
励ましを得ては調子良く――本来の彼女に戻ったらしいその瞳は、強く弾けるような光を湛えた純粋を溢れんばかりに放つ愛らしい少女だった。
思わず息を呑むほど、美しく意志の強い瞳だ。
 未だ片膝をついたまま見送る國枝の横顔に色葉はゆっくり近付いた。
「将来有望だったろう。まったく、素直な子どもは愛らしいものだな」
「女児を口説いてるかのような構図でしたが、振られたのです? "ジョンおにいちゃん"は」
嫌味のような言葉を物ともせず國枝はおどけて答える。片眉だけを吊り上げて自嘲するが如くの演技がわざとらしいものだ。「これが、残酷なことにも元から眼中になかったらしい」
「それは……魔性ですねえ」と、大した興味もない色葉が無感情に呟くと國枝がふふっと噴き出して肩を揺らした。
「俗っぽいことを言う。まあ、私も最初こそは彼女の人間性など微塵と興味なかったのだがね」
「へえ。語弊のある言いかたに聞こえますけれど。彼女に知られたら悲しみますよ」
「彼女がレディであることに違いないが、私はこう見えて一途なつもりでね。事が起きるわけはない。とはいえ、まあ、証明ができないのだから問答に意味はないか。ならばと自由に定義したまえ」
 國枝の言葉こそは柔らかく他者を尊重をしているが、じとっとした猫の目は『いつまで馬鹿な茶番をする気であるのだ?』と暗に訴える。
そう思うと途端に冷ややかにも思えたが、眩いものを愛でる優しい表情で遠くを見つめる横顔をもう一度だけ少女の立ち去った方向へ向けた。
長く呼吸を吐き出すことと共に大袈裟に膝へ手をつき、勢いをつけて立ち上がる。
そして汚れることも厭わず地面に着いた膝の生地を手で払うのだ。
湿った土や、朝露の名残り、砂利や小石は彼のスラックスを確かに汚していたものの、気にする様子なく語った。
「見ず知らず……というか最近街に降りて世間話をする男に、ついにネタ切れした彼女は祖母のことを世間話のひとつとして語ったのさ。食事を嫌がるってね。詳細を聞くと私にはただの秋バテに思えたが、少々不憫に思えたもので手助けをした」
何をしたのだ、と聞き返す視線がついぞ言葉になる前に國枝は先回りの回答をしていく。
会話の中でようやく横向きのままでいた枯茶の瞳が輪郭をなぞり、目尻の側で色葉を視界にとらえた。
「それとなく話をするなかで祖母の出身らしい土地を推測し、そのあたりで名の聞く食材を用いた甘味の伝統レシピを教えたんだ。当時はまだ思い出したような暑い日もあったから、仕上げにオレンジピールの苦味で風味づけするのを忘れずにってね。それから、要は水分を意識的に摂らせるように指導したのさ」
もちろん、上がり込んで診てやったわけではないからね。と、言葉にはされない余白を勝手な想像で補った色葉は、それらの状況を今現在も目にしている場所で思い浮かべる。
「祖母の出身が遠方だったこともあってか、試したことのないレシピであったが効果ありだったそうで。よく食べてくれたそうだよ」
 國枝の人の好さや子ども相手とはいえ巧みに操作する語り、そして人間として尊重されながらも想像だにしないところで利用価値を吸い出されている哀れな少女の笑顔が人形劇のように、漫然と色葉の脳内で繰り広げられていたのだ。
もちろんのこと色葉は彼が純粋な悪人でないことは前提として十二分に理解をしているつもりであるが、この街の人間にあえて接触をするとすればどんな意図を示すかということの下心を知っている。
その前提をあらかじめ知った第三者として、再現する光景の意識を泳ぐ色葉ですら國枝という人間の善悪を真意で推し量ることはできない。
なにより少女の無垢もまた、この状況では"無垢"とかいて"きけん"とよみがなをふっても釣り銭が返ってくるとすらいえる。
 もし國枝という男が分別をつけない悪人であったら、彼女は今ごろ――。
無防備に相対する最も絶望的な思想が横切り、色葉の背骨は逆撫でをされたように震えが駆け上がった。
砂やすりが舐めた後の如くゾッとした衝撃が走り、粟だった腕を服の上から撫でさする。顔の上で血の気が引くと頬肉の裏が冷たくなった。
「せ、先生が善人でよかった。事案で訴えられなくて本当によかったです。本当に。エミリーもそのお喋りでよく今日という日まで生きてこられましたね」
 いくら困っている子どもからとはいえども全く気付かれることなく、聞く本人すら意図に明確な善悪をつけないないまま、言葉巧みに家族の情報までを聞き出していたという事実に改めて驚く。
ひとつひとつの事柄が強い衝撃として色葉に襲いかかり、紙にも引けをとらぬほど顔を青白くさせた。目眩がする。
先ほどまで当の少女・エミリーと親しげに話していた言葉たちに対して舌の根も乾かぬうちに、と、絶句するも、涼しい顔で返ってくる言葉の調子は何ひとつ特別な意味をもってして変化することはない。
事柄に対して受け取る感性に口出しをしないのは常であっても、否定も肯定もしない國枝を、色葉は訝しんで見ることしかできないでいた。
「なにも彼女とてそこまで馬鹿ではない。まず口をきくまでそこそこ時間を要したさ。確かに子どもの素直さを情報源にするつもりだったことは否定しない。ただ、彼女の場合は祖母の件からか、想定する円滑な関係のための必要以上に懐かれてね。例外だよ」
頬についていたコーラルピンクが鮮やかなリップグロスのキスマークを名残り惜しく拭う。
その動作で背けた顔の先にある表情は見えない。
「やめてくれよ、私は少なくとも逃亡する理由のあることをしているわけだからね。君にまでがっかりされると複雑な気持ちもなる」
 肌よりも艶のある、オイルを配合したリップグロスが光る。反射の中で貝の内側や薄絹のように妖艶な粒子状のラメを一層ひき立てていたが、拭われてしまってはすぐにくぐもった。やがて拭い残しの弱々しい光も肌が拡散する色の中にいずれ消えさってしまうのだ。
 惜しむかの如く自然に力の抜けたその指先が、あまりに繊細なガラスの花弁に触れるようなすがたかたちとも感じられる。
日常にありふれるものでありながらも魔法のようにいつか溶けてしまうそれを、生活という営みを國枝は愛している。
慈しみという言葉が最も適切に思えるからこそ、追われの身というものは彼にとっての地獄であり、同時に贖罪として課されているものなのかもしれない。
色葉はそう思いながら、会話を続けた。
ちら、と互いを見遣り、再び互いが少女の走り去った道を見る。
「なるほど。それは本当に、ただ単純なだけに、引き際を誤りましたね」
その言葉は当然のこと國枝を悲しませ、彼は眉をすっかり下げてはどこか寂しそうな横顔を続けて囁く。「そうなのさ。参ったことにね」
次には普段通り、小難しい小言をいうが確かに快活である姿があった。
何を理由としても、やはり無垢の子どもたちとの交流は、國枝にとってなによりも日常の象徴として尊ぶべくであるということがありありと窺えていた。
「今回はゲイル少年と喧嘩したんだと。彼女の洒落た恰好に対して言葉がなかったのだろう。微笑ましいよな。彼女らに被害が及ばぬよう程々にするべきとは常々考えているが、なにぶん他人と話すのは物珍しい気持ちになるもので。あまりに惜しくて言い訳をしたくなる」
「そのお気持ちを想像に察することはできますよ。自然なフェードアウトでなくてはなりませんしね」
 子どもが子どもの頃のみに持ち合わせる無垢ゆえに何の偏見もなく機微を素直に受け取ることができるのだ。
それは穿った角度から見るまでもなく最も汚れなき純粋をしているが、時に好奇心と同等に人間という性質(さが)を掻き立てる。
自制心が未熟である子どもが、隠れては誰にも話さず消えゆく"よくお話しをするおにいちゃん"の後ろ姿に気付けば、十中八九は追いかけるだろう。
そして服の裾を掴む。言葉は「どこへいくの?」。
想像に易い。まるで予知夢のように白昼堂々、その姿の幻を演劇に仕立てることができるであろうと色葉は自負した。
紛うことなき悲劇がぼうっと口を開けていることにも、幼い子どもにはわからないのだ。
さらにその時間を進めた際に起こるであろう事故を防ぐために、國枝は時に自身に言い訳をしつつ、彼女らの日常に変わらぬ愛を抱き続ける。
時に慈しむ心を分け与え、時には危険な行動を叱責する。どれもこれもが彼女らを尊び、守るべきものと考えるが故の行動だった。
彼の考えていることを更に想像することになった色葉は、自身の表情が國枝と同じようにはにかむ日差しに似る穏やかを湛えていることには気付いていない。ほどける陽光が視線の先に降り注ぐかのようだった。
「それで、先生はそのゲイル少年とも交流が? よそ者の私たちでも子供と話して怪しまれないなんて、日本でもあるまいに本当に珍しいことですね」
「まあね。そもそもの話、私たちがなぜ信用もない適当な名前でも本来きちんと管理されている屋敷を当然のように借りられるかというと、支援者のひとりでもある"マーティン・ベティオール"という名を身元保証人に指名しているからというのがひとつのネタバレさ」
 想定外の事柄を前にして目を丸くするのは色葉だった。
「つまり、じゃあ、適当な名前でも借りられる家というものは別に適当に管理運営された場所というわけではないのですか。曰く付きだとか、借り手がいればなんでも良いとかでもなく?」
「曰くの有無は私の決めることではないからね。不必要の死体はわざわざつくらないし、私にとってこの世には適当な名前でも問題なく借りられる家か、借りられない・借りたくない家しかない。空き家を勝手に借りることに関してはこの言い分を適応しないが、ここ数年は滞在期間のある擬態した生活が多かったからね。経験則」
何か勘違いをしているのではないか、と眉を顰める様を見るとふつふつと悔しくなる。
「ここの見極めができないと最悪は足がついて死ぬ。ベティオール氏がね。身分工作のためのカバーストーリーには別の支援者がごまかしに手を挙げてくれるパターンもあるが、カードは易々きるものではない。だから、身元人無し可は少々の治安に目を瞑れば最高だが、中途半端な適当は一番ダメだ」
おまけに「彼の名前を書くのも一苦労だぜ。目眩しのためを兼ねるが、彼は我々以外にも有望株の若者に援助を行っている。不動産業相手とは詐欺犯罪と信用価値の駆け引きさ。互いに面倒極まりない。一芸持ちの"ふり"も簡単じゃあないんだ」と面倒を語り、首を左右に振りながら無感情に宣っていた。
 國枝がこんこんと語り続ける一方で、色葉は悔しさでもはや不必要に不毛なほど叩きのめされていた。
勝手な想像を膨らませたのも自分自身であると痛感して色葉は負け惜しみのように「屁理屈!」と罵り口調で言うことしかできなかった。
「今回は口のかたいそこそこ真面目な管理人らしいが、誰にと言わずとも骨董屋敷を安易と貸したことをなんとなく知る人間には怪しい人物ではない、という認識が広がっているように感じるよ。愛想切り売りの店屋に従事する者でなくとも、麓あたりの人間は我々を稀有には見れどそれが嫌な視線ではないのは顕著だ。我々がどこに住んでいるかなど知れたことではないはずだがね。時期との合致だろう」
「土地の人間にどう思われているか、子どもの様子を見るのはたしかに賢いことかもしれませんね。正しく理解することができないからこそ無意識に大人の真似をするというわけですから」
 腑に落ちた言葉を補足するように確かめた色葉に、自身の親指と人差し指を擦り合わせて聞いていた國枝は満足そうに頷く。「よろしい」と、型抜きをしたようにかっちりとした返事がひとつよこされた。
それを確認してから、色葉は疑問を投げる。
「つまり、マーティン……さん、は有名な方ですよね? 尤も、今の私では彼の詳細は存じませんが、フルネームは初めて聞く気はしません。ゆえに、何度か世間という我々の関係だけに限らない場所でも話題に上がることがあったのでは? と、思うのですが」
 自らの言動に対して新たなる思考の延長に、記憶の引き出しについた取手の柄を探すように色葉は呟く。
閉じた瞼の裏側で、眼球が眉間のほうに寄っていくのだ。思い出そうと頭の中をひっくり返す。
しかし出てくるのは白紙のつまらないメモばかりであり、相変わらず記憶はもやがかっていた。新品の紙の上で漂白された繊維の輝きが焼きつく。
そんな想像がごうごうとした渦を描いていると思えた。
もやを払って正しい答えを得ようとするほどに無意識の唸り声は低く、悩ましげを帯びるのだ。
今やマーティン・ベティオールという人物から何かを想像することは困難を極める。
背丈も肉付きも、顎髭の有無も想像するだけ不恰好であり、合致するものはない。
「お金を持っているひと? 彼の人間性はともかく……保証人として指名するには優秀である要素が必要です。信頼とか、知名度とか」
顔の造形から、凹凸に濃い影が落ちるもパッとみる限りでは抑揚の幅が小さい表情をよくしている色葉がぶすくれると、映像と音声がちぐはぐな光景のように思えた。しかし、はやり何度として耳を疑えども色葉はこの時に限って、精神に対する防衛機能の結果もたらした弊害ゆえの、見た目以上に幼い言動をする。
 ついぞ頭を抱え出しそうに身を屈めた色葉を見かねた國枝は、色葉の記憶という白紙に答えを書き足してやるつもりで答えた。助け舟がそっと差し出されるように、思考の海から砂糖菓子を転がしたような姿を引き上げる。
「彼は世紀の大発明家だ。正確には学者に近い。しかも、信じられないことに、非常に優秀だ」
自ら話題を広げることに対して面倒ごとという種に成長を促す水をかけてやっている気分になりながら、國枝は大袈裟な手振りをした。
「支援、投資、寄付……どこから知るか、我々にそれをするのは大抵のところ金持ちの道楽であるが、彼ほどイカれた人間はなかなかない」
眉間に皺を寄せ、腕をこまねく。間を置いてからは人差し指で眉間を揉み込んでは表情をほぐすようにして息をつくのだ。
そのようにして呆れる姿が、色葉にとっては語る人物が個性的の度が過ぎているもので、國枝もまた彼を形容する言葉に頭を抱えている様に似てみてとれた。
「会話は十二分に有意義であるが、私は彼の脳みそがどんな仕組みで動いているのか捌いて確かめたいと常々考えてしまう。しかも、元来に愉快な性格ときたらもう何も言わないさ。圧倒されるぜ。怒涛の嵐を体現した男であるが、本当に、別の場所で会いたかったよ」
國枝の吐き捨てるような一言一句が意味に過剰な説得力を帯びていく。
彼が語る別の場所、と、いうのが追手に怯えず十分な議論と考証ができる環境であるとは言い換えて言葉にする必要もない。
悔しさに歪む表情を見て、色葉は無難に「それはそれは」と返す。大変ですね、とは言わなかった。
「とにかく……いや、閑話休題だ。彼は今世紀、教育番組の工作コーナーでさえ聞かないような肩書きにこだわりそう名乗るが、とにかく機械とそれを人間に対して転用できるような技術が好きだ。我々のような分野や生き物を所詮マテリアルとしか思っていない。名目上は人類の進化と、一度うしなわれた機械との共存にまつわる論と技術について研究している。が、なんだかんだ縁があって、裏の顔は我々の大株主さ」
しかめ面が鬱陶げに続く。
 彼の記憶上に存在する大株主が憎いということは決して当てはまらず、まるで彼の持つおもちゃが気になって仕方がないようだ。
幼い子どもがそれをするならばともかく、いい大人の外見がそれをするとどこか苛立っているようにも見えた。
なにより色葉から見れば彼らはどう見ても『類は友を呼ぶ』繋がりとしか思えないのである。
「アーティストでもあるらしいし、詩人であり哲学者であり、何よりエンジニアのつもりらしい。私は彼を変人とするのが最も適していると考えるがね。つまり、非常に偏見を抱かれやすい諸刃の剣――巨大な広告塔さ。しかし、彼は実力十分、見えないものも信じる。確かに時代は彼を時に狂人とするしかない。理解のできないものを人間は恐れるが、彼もまた秩序に囚われた常人には理解できないものに当てはまってしまうタイプの存在だ」
「あっ、もしかして、前に見た鳩って」
「そうだ。癖の強いひとだよ。かつて今世紀最もUFOを見つける確率があると期待された男だ。その煽り文も気に入ったらしく、のめり込んで以来、未だにオカルトの月刊雑誌を買い集めている。多くのものがアーカイブと配信でまかなえる現在では古本ですら紙の本は普遍的価値に対して最も高級な嗜好品の一つと言われているというのに」
忌々しく呟く國枝であるが、あくまでマーティン・ベティオールの突飛した人間性を時に面倒であると語りながらも、知識や技術を蓄えるその地層のような脳内と技術の存在には敬意を表していることが色葉にはしっかりと理解できた。
「とにかく、私の今回の名も先に語った偉大な発明家の遠縁だったり、親友だったり、また多くは有望株として彼から支援をうける若手技術者である設定だ。つまりどれだけの適当を名乗っても疑った管理人の電話に氏が出れば、それだけで私は今回の架空人物であるジョン・シュトラテルンにも、かの有名なジョン・レノンと同姓同名にもなれる。有名人のお墨付きでね」
「ジョン・ドウにも、スミスにも?」
名無しと普遍的な名前の形容に対しても國枝はせせら笑いをするだけだ。
「そうだ。金を積めば誰にでも偽造のチャンスは一度くらいあるかもしれないが、氏のおかげで我々はただの名無しでも山田太郎でもなく、とびきりの箔つきだという前置きを忘れてくれるなよ。時にVIP対応も夢じゃない」
「すごいというか、空恐ろしくなるはなしですね」
「そうかい? じゃあ、もうこの話はやめにしよう。偽りの生活もそのうちけりをつけるつもりだ」
「え?」
その意味を聞き返す前に國枝はさっさと進む。
 けりをつける。つまり、必要がなくなる、という言葉の行き先にまつわる死生を想像せざるを得ない。
彼は一体なにの意味を想像して語るのだ。
不必要に疑うことでなくとも、自分達の置かれた環境を改めて考えれば決して無駄な思考ではないのである。
「あの、」
「待たせて悪かったね。さあ、行こうか。君も先の彼女らに再会すればどうするべきかと立ち位置を悩むだろうから、今回は街のほうに」
 先を読まれたかのような誘導に苦笑いを浮かべながら色葉は返事をする。
出鼻を挫かれると、改めて仕切り直す気もごっそりと削がれてしまっていた。
「……え、ええ、子どもが苦手なわけではないと思っていたのですけど。助け舟をありがとうございました」
「はて、なんのことかな。助かったと思うなら次に名乗る名でも考えておきたまえ」
「わかっているじゃないですか」
彼の言葉の全てが、決して悪い意味だけではないと自身に言い聞かせる。
 そして勢いのある少女の姿を思い出しながら、確かに可愛らしいが返す言葉の隙間もない純粋に目眩がした。
うらやましい、と思うよりもあまりに眩く、尊いものは自分とまるで違ういきもののように思えたのだ。
最初ほど嫌悪するわけではないが、どう接するべきかほとほと困る。
しかし言葉の手前、あるかもしれない次の機会を現実的に考えると、その時にはきちんと名乗るための用意がある"助手さん"でいようと心に決めていた。