待ちに待った。と、するのは良くも悪くも、顔の筋肉を強張らせるために充分すぎる時間を表すには特別に上手い表現だった。少なくとも色葉にとっては。
例えば、自発的な引きこもり生活の中で得るフィクションから掻き立てられた外の世界に対して、本来の意味通りに、街には一体どんなものがあるのだろうと思うと心が弾んだ。
話を聞くぶんには、辛うじて記憶上に断片的と残る親しみを持つ日本国とは大きく異なると考えていたからだ。
 その一枚板の所々が欠けた石畳や、現代の建築基準では危ういほど背の丈が遥か頭上にくるような年代もののアパートメント。通りにはカラフルな外壁がそのまま年を経て美しくくすんでいる。
それから人通りのタイミングがよほど悪くなければどれも切り取った風景がそのまま絵ハガキになりそうな路地。花を飾る文化があってそこらじゅうに花を咲かせる鉢がある。
階段や狭い路が多く、いかにも古めかしい街なのだそうだ。
 國枝の口から語られるような外の様子に元来として特別な興味があるわけではないが、と重ね重ねに色葉は言い訳めいた思考をした。
 誰にするわけでもない言い訳をするほどに退屈と停滞で塗り固めた家にいるばかりでは、外を魅力に思わないわけがなかったのだ。
同時に、己が無知であることや未知の光景に自ら向かうことを恐ろしくも感じた。今や足が竦み、顔は頬の肉がひどく引き攣ることを知っている。
だからこそ、かえって意気揚々と実際の外を見に行っては「なあんだ、そんなに怯えるほどではなかった!」と早く言いたかったのである。
過度な臆病はその日に身を以ってして知るまでは「でも」を重ねて泣き喚くものでしかない。
色葉は感情のやり場がないことを現状においてはしかたなしと理解をしても、胸中をどこか暗い影にして苛む日々をただやり過ごすほかの術を知らなかった。
待ちに待った。と、いうその言葉は、こうして期待を実現し、漠然ゆえに意味も答えもない臆病や不安に終止符を打つ意味では重要な一日をよく飾り付けて強調したのである。
 いざこの日が来て色葉は、と、いうと、自身が予想するよりもはるかに静かであり、凪の水面がいっそ鏡面であるかのような心持ちで臨んでいた。
されど水面下の様相を陸の生物がそう簡単に知ることなしと等しく、皮膚や肉や骨の形よりも深くうずもれた場所で脈打つ心臓の煩わしさに眉を顰めるばかりだ。
 秋の早朝に相応わしく、白い太陽が登り始めて暖かくなる。頭上高くまで澄んで高い空と、身体が引き締まる冷気が後を引く。
爽やかとのどかに相反し、この季節にはまだ僅かに早いはずとも思えて凍てつく――から風を思わせる内巻きが枯葉を弄んだ。半ば鋭利になった先端をカラカラと引き摺っていくのである。
 実際のところの今日という日は、他の曜日との違いとしてとも、似たり寄ったりする毎日の中で気付く些細な間違い探しとしても、並外れてわかりやすい違いというものはなかったということに色葉は喜びを感じていた。
正確にいえば、それはまだ驚くことがあったとしても対応が出来そうなくらいには余裕があるということだ。
つまり、今日、待ちに待ったこの日はきっとまだ驚きができる余地がある。
楽しむことを詰め込む空白が少しばかりでも残っているのだ。
せっかく街に出るというのに、緊張を抑えることに精一杯になっていたら記憶に土産の一つも持って帰れないところであったから極めて都合が良い。
そのことに逸る気持ちを抑えながらリボンタイの端を引き膨らみを描く輪を整えた。
 服装は変わらずとも、外出に合わせて身だしなみを整えるために洗面台に立つと、鏡の向こうには当然のことながら色葉の姿が映っている。
向かい合ったまま、片目を覆ってしまうほどの長さの前髪を鬱陶しく思いながら撫でつける。
隠れているほうの目には自分はどのように映っているのかと前髪を払ってみるも、そこには何の変哲もない。
これを確認することもはじめてではない。
 取り分けて語ることもなく、もう一方と揃った色の砂糖を煮焦がしたような甘ったるい瞳があるだけだ。
それらの容姿を保ってきたであろう本人が前髪を垂らしたり退けたりしても目元を隠す理由は見つからない。
両の目は同じ色であるし、周辺に隠したい傷もないのである。
ますます両目の視力が整わなくなる不都合しかないではないか、と、色葉は首をひねるばかりだ。
 眉を掠めるおくれ毛のたった数本が肌を撫でる。くすぐったいというほどではないが、もどかしい感覚はか細く、そして柔らかくなぞり続けた。
「なんだい。悪魔でも見たような顔で」
 かつての國枝の言葉を反芻する。彼にとっての悪魔とは、鏡に映る自分自身という存在を例えたものなのか、それとも色葉という存在自体を示したものなのか。
いくら考えれども相変わらず察し得ることは出来ない。
きっと、色葉という存在は國枝という男にとって、時に重い鎖となることだけが確かであった。
幾度と問答したところで憂いても、今の自分にはどうしようもない。それが確かな答えであることに変わりはなかったのだ。
 いつの間にか薄い笑みを貼り付けていた自身の顔を見る。
鏡にずい、と顔を近づけたまましばし口角を上げてみるものの、すぐに恥が沸いてくるともやを振り切るように頭を振り棚に転がっていた櫛を手に取る。
行儀の悪いことにも櫛の全体を濡らし、水気を切ってから髪をざくざくと大雑把に整えていくのだ。
 結うためのゴムを咥え、鏡の前で細く、癖のない髪を三つ編みにしていく。中腹程で一度結び、耳の後ろから髪を掬うとハーフアップにまとめ上げる。
多少の手入れはすれども、そのわりに艶が少なくどことなくと健全を欠く色を漂わせる髪は、やはり切ってしまえばいいのにとぼんやり思ってしまう。
以前よりは健康的であるが、根性のない佇まいがあった。
己のことながら恥を知るものであって、鏡に映る姿は風が強く吹けば比喩でなくとも"簡単に転んでしまいそう"という表現にそこそこ首肯して相違ないと思えてしまったのだ。
結びやすいよう俯けた顔の角度から鏡を見る。
もとより滑稽な悪魔の姿が一生懸命に髪を結んでいると思うと、変な気分だ、と、色葉は複雑な笑みで一文字の唇を歪めた。
まるで悪魔より道化のようだと思えるのだ。
「……今度から、運動でもしようかな」
 鏡を前に、ぎこちない手つきで結んだ髪は、初日のうちに國枝に結われたものより拙さが目立っていた。
せめて三面鏡であれば勝機はあったかもしれない。
体は成しているもののどこか不満に思う出来を見つめる。しかしこれから出先へ向かうことをはた、と思い出して顔を洗った色葉はタオルで水気を拭い、照明のスイッチを切る。
半身で鏡を見る自身の顔は、やはり変哲の無い、平坦な表情だ。
 奇妙な生活を共にする"先生"が示してくれた"色葉"の姿を今日も模倣する。
身だしなみの一連をそのように思うと未だ妙な感情が挙手をしそうになるが、左半分の顔を覆い隠してしまう髪の長さによって生じる影は心地よい暗がりであることに何ひとつと違いはなかった。
いまはまだ変えようにも根拠のないことは眠れない夜に考えればいい。
ただし、どんなに長くても二分。答えが忘却の副産物であるもやで霞むものの大抵は六〇秒しか悩まないと努めている。言い聞かせるのだ。
どれだけ延長戦の気長にしたって二分間。もっと短くともいい。
そのあいだにひとつの言葉も出ないのならば、それは、正確にはまた次の眠れない夜に回すほかないことも事実である。
 それにしても、と考えを切り替え、今日という日の靴はむしろ普段よりも軽いと色葉は錯覚――己の感覚を自負をして廊下をずんずんと進んだ。
これらの慣れ親しみつつある冷えた空間を満たす甘い匂いは香を焚いているのではなく、一種の生活臭に近いものを感じた。
畳張りの広い部屋で幽かない草が香るように、古い木造でもいつかのやや湿った深い土と削り取ったばかりの木材の残り香がするように、庭の花々やハーブでよくサシェを作ったであろうこの屋敷では、それらがうすく、すこしずつ染み付いて佇まいのひとつになったのである。
明確には形容しがたき生活の気配をひとつの考えに加えるために、思い出せもしない故郷への概念に思いを馳せてはしみじみと表情を緩める。
 その表情を反射したガラスがはめこまれたドアを開け放ちリビングへ入ると、シャツ姿の國枝がショルダーホルスターのストラップを調節していた。
珍しいことにも彼の姿は、普段着用するボタンが多い立ち襟の黒ジャケットではなく、白いシャツに、ウェストコートをまとっている。それから胸元には美しい彫りものが施されたループタイを締めていた。
初めて彼を認識した際と同じく簡素でラフな格好だ。状況に惑う要素があるものの、一瞬だけ目覚めた日の困惑や忌々しき雑草抜きの記憶がよぎる。
脳裏を掠めた記憶に対し、猫を払うかのように追いやって散らすと視線を戻す。
 その先で國枝は迷うことなく、ダイニングテーブルの上で鈍く色を沈ませていたコルトガバメントの銃口を下へ向けたまま冷たいかたちを手に取っていた。
撃鉄が下がっていることを目視で確認してから腋下で固定されたホルスターに納め、素早く白衣を羽織る。
瞬間、白銀の雪原を彷彿とさせるほどに潔癖な白衣の裾が翻り、目が眩んだ。
脱色をされて生まれた僅かに青へ傾いた不自然な白色の地が目に刺さったのだ。
圧倒され、思わず言葉を無くして見つめている色葉をよそに、白衣の上から胸元や肩周りへ触れている國枝はごく日常の出来事のように平然としている。
「今冬はさすがにコートなしでは厳しそうだ」
色葉は言いたいこともうまくまとまらず魚のように口をはくはくとしていたが、彼は肩を縮こまらせては呑気に困った笑いを浮かべるだけだった。
「そ、そうじゃないですよね。先生……?」
 生地の厚みをより確認し、襟元を整えていた國枝は色葉の声に眉を顰めて視線をやる。
会話をしているわけでもなかったところから呟かれた声を拾っては続きを促すように言葉を切り出したのだ。
「護身用さ。大丈夫だ、誰彼構わず撃ちやしない」
「つまり言い換えれば、必要に応じて撃つ覚悟があって、いままでもそれをしてきた……という、ことですよね?」
 不意打ちで殴られたあとに冷えていく思考とは反対に、熱を放つようにじんと眩む光がある。目眩がするのだ。
喉元に支えては湿って滲む言葉があるというのに、下っていくための喉の通りはカラカラに乾いている。
途端に恐ろしい気に満ちてしまったリビングへ、外から聞こえる鳥の囀りがひどく不釣り合いだ。
 國枝は下から上目にじと、と様子を窺う目をしており、色葉にとってはそれが本来の意味よりも何倍と怪しいものに思えた。
そしてゆっくりと両手を挙げて敵意がなければ武器も今この瞬間は手にしていないことを示すと國枝は、普段と何一つ変わらない声音でやっと質問に答えた。「そういうことになるだろうな」
目の前の人物の行動によって、どちらが敵意に対する術を持っている者で、また、どちらが術もなく恐怖する者であるのかという認識が歪む。
まるで凶器を突きつけているのは己のほうなのではないかと錯覚すれば、それが間違いのない真理であると思えてしまいそうなのだ。
顔が凍りつくとは正にこのことで、口腔内ですら氷を含んだように冷たく、言葉を発せようとしても舌が回らない。色葉はその感覚で身体の内側から凍えながら危うい手振りを示していた。
「率直に言って私は人を撃ち殺したことがあるし、受け身とはいえど過剰防衛であるとも理解をしている。罪を償えと縄をかけられれば一生塀の中だろうな。二度と外を見ることもない。だがね、やむなしと言えども、他人を害すことを生業とする奴が他人から害されない理由もまた、存在しない。リスクを持って生きている。つまり、殺意を向ける奴は等しく自分が殺されたって文句ないはずだろ」
「最後の言葉、秩序は許さないですよ」
「ルール上はね。だからヒットマンだって大金と権力がなければ動かせないのさ。故にリスクを理解する刺客は本気で来る。ならば身を守るためにはこちらも相応に対する必要がある。死して全て悪者の自業自得でしかない構造になるのだとは思わないかい。そうでなければ世界は悪人で満ち溢れているものだ」
 沈黙がそこかしこから芽を出し、みるみるうちに色とりどりの花を咲かせていた。
枯れることなく次々と生い茂っていくそれを踏み躙ってまでして國枝の傍に寄りそうという勇気が、色葉には無かった。
覗き込めば引きずり込まれてしまうかのような恐怖が身体を支配していたからだ。
立ち尽くしては言葉に惑い、意味を成さない短い言葉を唇から漏らしている。
「その、価値が……そういうことはわかるんですけど、ごめんなさい。結果論だとしても奪った人が悪くなるんですよ」
 國枝の幾分か血の通った色をしている肌に厳かな朝の日が当たっていた。
革底がフローリングに触れる。風が細い髪を揺らし、頬をくすぐっていく。
 当然のこと、そこに花々の姿はない。沈黙の姿を額に納めて眺めている気分だ。
目に見えるものではないが、到底こえることのできない分厚い壁が、あるいは溝が、深く深くそこには存在している。
怖気づけばそれはいっそう深く隔てて二人の価値を分けた。
色葉は身を固くし、一層つよく根を張るように強張った足の指先を丸めていた。風が吹いても飛ばされぬと強い意志で会話を求めたのだ。
指先は湿っているものの、冷えた感覚は続いて震えている。
「君の考えはそうなんだな。残念ながら悪いことを考える者はいつどの時代にもいて、悲しくもそれの連鎖で今現在においてこの過剰防衛すらしかたあるまいという価値は築き上げられた。秩序は秩序であるが、少なくとも私にとっては秩序程度が抵抗をしない理由にはならない」
 過剰防衛すら仕方あるまいとする國枝はしみじみとした年輪を語るかのごとく、演説めいた手振りをして己の胸元に手のひらを添えた。
そして自ら彼自身を指して愚か者を自負しながらも、生きる術に縋る覚悟と反して凶器を向けることの対価を受け入れていると見せしめるのだ。
「……そんなこと」
 國枝の掌が制止を促して突き出されたために言葉を続けることのできなかった色葉がつんのめったまま口を止めた。
続きを言いたがるそれを否定するかの如く頭を左右に振ると、國枝は嘆かわしく問いただした。
「言いたいことは分からなくもないさ。君だって命を脅かされたら、恐ろしい。だから抵抗をするのだろう。でも相手が怯まなければ? あっさり殺されてやるってことかい。撃つ撃たないはともかく、同じものを向けてやれば少なからず牽制になるとしても?」
 鋭い双眸が突き刺さり、さらに抉るように色葉を見ていた。
明確に敵意とするものがあって向けたものではないが、色葉がひどく責められた気分になるにはあまりが出るほど十分なものだった。
「狙われているのが君ではなくても、例えば、仮に、君の中で替えの効くなどとはとても言えないほど大事な位置に存在する人であれば? 君は同じことを言って無抵抗になれるのか」
「そ、れは」
 二人きりでいる床を這う形容し難く薄暗い感情を踏みつけ、國枝は色葉の横を過ぎる。
曇りゆくばかりの色葉をよそにして、その価値が当然である國枝はすっきりとすらした顔で穏やかをしていた。
俯き言葉を無くした姿を認めては肩を竦め、ドアノブに手をかける。
そしていつまでも立ち尽くしている色葉の名前をガラス細工を扱うかのごとく優しい口調で呼びかけ、ちいさく手招きをしたのだ。
ようやく彼から己へは敵意を向けられたわけでも凶器を向けられたわけでもないと思い出した色葉は、短い逡巡の末にやっと足を踏み出して後ろについていく。
一歩は普段より小さいものの、毅然とする國枝の歩に対して焦らずとも置いて行かれることはない速度を保っていた。
「怖がらせたかな。すまない、今の君には少し難しいかもな。こんなに図体が大きくても、まだ道徳の授業に多感な時期と同じくらいの中身だからね。汚いやりとりがある世界に身を置くと、自分と利益の良し悪しばかりの選択をすることになる」
 廊下をゆっくりと進んでいく。
ジャケットを抱えたままの色葉は置いて行かれているわけでもないというのに、態度の違いからか次第にどこか慌ただしい足取りとして見えて子犬のように國枝に絡まって歩く。
國枝はそれを待つわけでも急かすわけでもなく、ポケットから玄関の鍵を大事に取り出してその先端を振り、続けた。
「仮に善意がよく成り立つ世の中なら、そもそも私たちだって追われの身ではない。一番にわかりやすい例えだろう。自衛目的以外では決して銃を抜かない。約束する。ただ、君の安全を確保するほうが優先順位として高いというのは、悪いがその通りだ。わかってくれるね」
「ええ、はい。でも、私も……なにかできることがあればと思うのは、一緒、かもしれません。私は一体どうすればよいのですか」
「順位はつけども、だからといって低いほうを蔑ろにはしない。私だってベターと思うことは銃を抜かず、そしてなにより君が無事なことだ。平和なときの生活を楽しんでくれればなお良い。私はそれを嬉しいと思うんだ。それだけでいい」
肩に力が入ったままの色葉に國枝は微笑みかける。
細められ、涼しげな目尻の線が下がると張り詰めた空気がふわりと緩んだ。
「ありがとう、色葉。君の言葉は間違いではないし、簡単に私に同意をしなくていいことも理解してくれていて。大変たすかるよ」
 玄関扉をくぐり抜けて鍵をしまう代わりに懐中時計を取り出し、多少の考えごとをしてから切り替えて前を向く。
盤面を眺めながら街までの時間を計算していたのだ。
それから予めリストアップしていた色葉が興味を持ちそうな店たちを思い浮かべる。
どの順番で見て回れば最も効率的に時間を使えるか、昼食の候補などを組み立てておいたものをあらためて脳内で確認していたのだ。
「さあ、行こうか。ここに車という文明の利器はない。そうだな、多く見積もって徒歩で二、三十分は覚悟したほうが良いかもしれない」
チェーンで繋がった懐中時計を閉じるとポケットへ突っ込み、國枝は背を伸ばす。それから楽しそうに笑った。
 過ぎ去ったいえどもまだ僅かに尾を引く泳ぐ夏の残滓――その日差しだけは今日という日では暑いくらいだというのに、同時にすっかりと秋の冷たさを抱え込んだ風が吹いている。背後の山は雲がかかっているが、街の方角はよく晴れていた。
さわやかという季語が似合う空は天井が高く、ややくすんだ色を伸ばしている。
時に強く吹き髪を揺らす風から逃れるようにこめかみの辺りを手で押さえる色葉は、張り切って前を歩く國枝の枯茶色から覗く耳の曲線を眺めていた。
 シャツの上に重ねたウェストコートのせいか暑いくらいの気温が強調される。ゆえにジャケットを羽織れば暑く感じられ、脱げばどこか物足りない。
肌寒さまではいかない冷たさの風によって気付けばシャツが冷えている。
行き場を求めて彷徨う腕には、結局、極力しわにならないように畳まれたジャケットが収まっていた。
それらを察していたわけではないが、不意にも風に促されるかのように振り返った國枝が助け舟を出す。
「落ち着かないのならば肩に掛けていればいいじゃないか。それがいい。羽織紐はどうした?」
「え? ああ、そのための」
「やっぱり今年はコートを買おう。ありあわせだと暑かったり、寒かったりするだろう? 私もだよ」
 手を差し出して示し催促をする國枝に対し、隅へ追いやっていた羽織紐の存在を思い出した色葉はポケットの中で温くなっていた羽織紐のチェーンに触れた。
ジャケットを羽織り、襟のあたりをクリップで固定すると、金古美の繊細なチェーンが胸元で揺れる。
プレート状の前飾りにつり下がり果実のように深い赤をした石が揺れるとシャツに一等あかるくて透明な赤の色を落とす。それが歩を進めるたびに踊り、星に見紛う光の粒を撒き散らしてきらめくのだ。
よく耳をすませば、チェーンが揺れてこすり合うシャラリとしたすずしい音が僅かに鼓膜を掠めていく。
同じくして、その光景に色葉は下瞼を膨らませるかのように目を細めていた。
長らく視線を自身の胸元を眺めていたが、彼の語る正解を確かめるように顔を上げる。
 視線の先ではちょうどやや強く吹き荒ぶ風が過ぎ、同じくして國枝の胸元に長く垂れるペンダントトップを揺らしていた。
 チリリと照り返す金属の色がふと、深煎りの珈琲を彷彿とさせる。強い光と既視感に似た思考の想起が結びついたのだ。
途端に特徴的な香りが鼻を掠め、脳裏に眩しいほどの微睡みを覚える。黄葉した木々を揺らす、黄金の色だ。
珈琲のどこか焦げたような香りを除けば、それは無意識のうちで人々が渇望し、求める安寧に似ている。
記憶にはないどこか概念めいた場所で見たことのあるような白い空間に似ていたが、今の色葉には説明をし得ぬ強烈な違和感が底のほうにのっしりとした重心で存在した。
「どうかしたかい?」
 ぬるま湯に沈みゆく思考を遮る声にはっとする。
色葉が乾燥した空気を言い訳に目元を指で擦ると、再び開く視界に微睡みの感覚は消え失せていた。
黄葉した林が脇にある麓の一本道が広がるばかりの光景が広がっている。
「……いえ。いえ、ええ。そう言えば先生、前に借りた本ですが、読み終えているので後ほどお返しします。随分と借りっぱなしでいました。すみません」
「前に? すまない、どれのことだったかな。手に取るか否かはともかく、自分用の他に君の用事分だけでもそこそこな本の表紙を見たものでね」
「アンデルセン童話集」
その言葉を聞き届けてからまつ毛を瞬かせ、國枝は頷く。
納得したものの、貸し借りに対し特別な興味は示さず答えた。
「ああ。通りでわからないわけだな。それは君にあげたつもりでよかったんだ。不都合がなければそのまま持っていてくれないか? 道中ひまを持て余すならば感想でも語り合おう。私もけっこう好きなんだ」
 再び歩が進み、緩やかな坂をずっと下っていく。
「どうだった?」と聞く國枝の後ろをついていくが、下だりが続く坂であるとつま先が詰まって足が早くなる。
前を向いているだけで次々に足が進んでいくのだ。
早る足もとから気を逸らそうとしながら色葉は周囲に目を向ける。
 路傍の木々は葉に淡い赤や黄を帯び、つめたい風に揺られてはその葉を時に散らしてしまっていた。朝つゆによって張り付いた葉が、味気なく白舗装が剥き出しになった地面に模様のように続いている。
それを見つめ、時に踏みつけながら色葉は脳内で物語のの内容をなぞっていた。
「人魚姫の――もし"私"が、自身が死ぬか憧れの存在を殺めるかの選択を強いられたら、私は私の生を選ぶでしょう。私にとって不滅の魂というものはひどく柔らかい輪郭でしかない。曖昧だ。不確かな存在に意味を見出せない。と、思ったのです。あくまで必ず一人は死人が出る前提で自分から相手かを選ぶという条件の上を逸れず語ればね。けれども」
家を出る前の会話を思い出しては、物語の流れを変えないための犠牲としてを強調して色葉は語る。
「ああ。彼女に共感はできなかった、と。そして『けれども』と、続くということは考えが変わりでもした?」
 過ぎた息苦しさをあえて再び口にするようなことに、切り出すことをためらった色葉であったが、逡巡の末に語る。
視線がふい、と無意識に逃げていった。國枝といえば、足を止めて真剣な顔をしてるのだから余計に色葉の緊張を掻き立てたのである。
「あの、少し話は戻りますが、家を出る前に、人を撃つのかって聞きましたよね。私が納得いかなかったのは生死を他人が決めて結果を押し付けられてしまうことはもちろんですが、いま一番もやっとする部分を語れば、大事なひとのために自らの手を汚してしまえるという美徳めいたそれが最も理解できなかったのかもしれません。その、特別な人がいて、覚悟を天秤にかけるということのすべてが」
 俯く色葉を鳩が豆鉄砲を食ったような顔で見た國枝は、葉が風でこすれ合うように笑い声をあげた。
成人男性にしては僅かに高い、中性的にもかすって感じられる声音が澄んだ空気のせいで遠くまで響く。
「実にまっさらな君らしい! まだ知らないだけさ、真っ白だって無色ではない。美しいものだよ。怖がらなくていいことだ。大丈夫、なにもおかしくはない」
「からかわないで」
 途端に気恥ずかしくなるも淡々と言葉を返した色葉をみた國枝は改めて愛しい無垢を見るように目元を膨らませた。
面白がって馬鹿にすることはなく、まるで我が子の成長をほほえましく思う親心を知っているかのような姿だ。
「悪い、悪い。睨むなよ。確かにそうだ。一説では姫は王子からの愛も確かに求めたが、それよりも深いところ、無意識の中では不滅の魂に救いを求めたのではないか――と、あくまでメインは不滅の魂への強い渇望ではないかとも考えられている。これは当時の宗教的価値観にもかすって、いわゆる魂の本質についての考えに影響された解釈とされるだそうだよ。これを知るか知らないでいるかでまた違っただろうな。君の答えは」
 潔癖な白衣の裾が揺れる。
同じく視界の端で弄ばれる自身の髪の毛の一本一本の鬱陶しさに眉間へ皺を寄せながら、色葉はその光景を眺めていた。
語る國枝の姿や、輪郭や、表情をきちんと己が目で確かめようとしていたのだ。
「もし物語が比喩にすぎず、彼女の求めた真実が本当にそういった解釈に近いとすれば。君の考えだって、物語の顛末とそう変わらない気がしてこないかい」
枯茶色の睫毛が目尻で跳ねあがり、猫の目に似た表情を見せる國枝の瞳が色葉を捕らえる。
"色葉"として相手をするによほど納得のいく答えであったのか、手を叩いて称賛して見せるその昂ぶりについていけないまま、色葉は半分呆れた様に目を細め、前髪に触れる。
途端に躍起になって彼を確かめようとしていた自分もまたどうかしていた、と感じ始めていた。
「はあ。そうでしょうか。どういった意味で……? 彼女は自らを犠牲にしたではないですか」
 上機嫌に声を響かせる國枝の笑いが徐々に小さくなり、年齢や経歴に不相応をして幼い顔から、再び感情の薄い表情になる。
茶褐色の瞳に貫かれたまま、動けなくなった色葉は次の言葉を待っていた。
半分は呆れていたはずの感情が停滞してはじりじりと燻っていく。肌を這い上がる冷たさを感じている。
「彼女については、まあ、結果的にはね。うつくしい"心"を持つのは難しいということにしよう。私もそういった"心"を持つべきであるという意味では、とても未熟者に過ぎない――が、それはあくまで数多のうちから選んだひとつの学問的な一面でこの物語を読み解いた場合の話であるだけだ。別の点から見ればまた解釈は異なるだろう。さあ、では君の"心"は、不滅の魂を何であると解釈する?」
 ざあ、と一際に大きな風が吹き抜けていく。
枝から振り落とされる葉で視界が遮られる。
思わぬ勢いに色葉は言葉を発しようとしていた唇を閉じて、腕を頭の前に構えて巻きつけるように頭部を守った。
「……私は」と、言いかけて、辞めたのだ。
重苦しく積もったものたちを風がさらっていく。
綺麗になった足元に問答の答え合わせが待ちわびていた。
この問答の題にひとつの正しさを求めるのはどこか間違いだとも思えたが、それ以上に言葉を打ち切った理由として大きく占めるのは、今の自分の言葉が誰よりも自分を疑っていたためだった。
薄っぺらい膜を引っ掻くようであったからだ。と、色葉自身が強く感じたのだ。
「なに、緊張はしなくていい。ちょっとした国語の問題というよりももっと砕けていえば、ただ、読み手の感想だ。これに正確さは必要ない。共感をするのか、はたまた自分ならというたらればを知るか。それが君の今後について回って、感性や生きかたに少々影響をするかもしれないという雑談さ。もちろん、それを一生涯守って生きなさい、という話でもない。……ところで」
「と、いうと、なんでしょう?」
 訝しげに返す色葉に対し、國枝は胸ポケットから取り出した本革のカバーが付いたマネークリップを開きながら呟く。
「今の君の気分では軽い食事を摂るのと、ブランチだと思って少々多いくらいの食事にするのではどちらがいい?」