「"引きこもり生活"はどうだった? 退屈だろう。私は階段の往来でね、同じく引きこもりの身分としてはいい運動だった」
 行儀悪くもテーブルに両肘を乗せた國枝は、そのさきで交差するように組んだ指先の背に顎を乗せていた。そして、やや低い位置から色葉を見上げては口端を上げて笑ったのだ。
大人の駆け引きをするほろ苦い酒の上にかぶる奥行きの如く重厚さもなければ、純真無垢とは名ばかりに悪質を帯びて片足を突っ込んだ子どもの悪だくみのように軽薄でもない。
無味無臭。温度は触れるものとつり合って、何を感じることもない。そんな様子を想像すると彼が毅然とする常に近いものと思えた。
論じたい点として、悪意の有無というよりは本来は色葉の想像よりも起伏には富まない國枝の様子が認識に差異を生み出していたのだ。
なによりも、長い時間を共に過ごそうと思ってそれぞれの席に着くのは久々のことだった。
「ええ、まあ」
「意地悪を言ったかな。お前が勝手に来たんだろって言えばいいのにひとのいい奴だな、君は。それで。改めて話でもしようか、面白い本はあったかい?」
 テーブルの上を滑らせるように手をやって國枝は色とりどりのドライフルーツと薄く切ったチーズの乗った皿を差し出した。
色葉は自身の指先を無意識に見遣ってから、もはや何の果肉かもわかりもしないが温かさの象徴をするかの如くやわらかなピンクオレンジが糖の結晶をまとい輝くダイスカットを摘まんだ。
口に放ると、すぐに喉が唸るほどの甘ったるさが鼻腔すらをも刺激し、会話を繋げるために受け取った気遣いの甘さに咳払いをすることになる。
意味もない後ろめたさに似た感情が胸を覆い始める。
「うん。ええ、まあ」
「なんだ、心ここに在らずのようにして。心配ごとかい。それで、ストレート? ミルクティー?」
 おどけてみせたつもりが反応を見て途端につまらなくなった國枝はたまらず立ち上がって、白衣をさっと羽織った。
『それで』という言葉が大したことのないように話題を移り変えていく。
室内の冷たい温度が、白衣を羽織るために伸ばした腕の動きで掻き混ぜられる。
色葉は視線の端でキッチンへ向かう姿を認識しながらやっとのことでぽそり、と答えた。
「ミルクティーで、お願いします」
「ああ、承知した」
 肩身を縮こまらせる色葉を見て、こみ上げる初な微笑ましさを極力こらえながらに國枝は僅かに頬を緩める。
いっそのこと、いかにも緊張をしている様が新鮮に思えてきたのだ。そもそもこうして日中を占めて共にテーブルを囲むのは久々であっても、食事の度に少々の顔合わせはしていた。
故に面白おかしくなる。数年ぶりの再開でもないのに、改まって正す姿勢などどこにあるというのだ。
時たまに部屋にも押しかけたものだが、とまで國枝は内心考えていた。
長らく聞き役ばかりであったからか、相互に話題を提供して楽しむ場に緊張している様子の色葉が顔を強張らせていた。
それをキッチンから見てなおさら微笑ましく思いながら砂糖へ手を伸ばす。
見た目は立派な成人男性のようであるが、多くの記憶を手放してしまった白色は中学生のように思春期の差し掛かりに惑う様にも似ている。そんなふうに率直な感想を抱いていたのだ。
「……すみません。度々に共の食事程度はしていましたけども、やはり、すこし緊張をしてしまって」
「そうだと思った。長らく顔を見ないわけでもないし、無理に会話をする場面でもないから気構えず楽にしていなさい」
 ミルクを注ぎ、國枝は目を伏せた。
自分以外の温度が在る部屋は日光が差し込む以外の手段で空間に光をもたらすかの如く、時間が動き出すことを身で実感する。暖かいのだ。
口角と共に頬の筋肉が盛り上がるのを感じながら言葉を付け足す。
「何も心配はいらないさ。熱したミルクの気配が漂う頃には君も饒舌を取り戻すだろう」

 事実は小説より奇なり、とは、現実に起こりうるものが筋書きのあるフィクションより不可思議なこと。と、いう言葉はよくできている。
色葉はしみじみそう思った。
時を巻き戻して回想することで、伏せるベッドに居たときのことを思い出す。
 退屈を持て余した色葉が國枝に対して求めたことは、肉体に生じる労力を極力少なくして娯楽を興ずる手段や方法である。
その末に弾きだされた答えが読書であると己の中で決着がついたところで、それを頼んだのだった。
「事実が作り物を凌駕し得るならば、逆に、人の脳に生じて観測しうるすべての事象は何かの間違いと少しばかりのファンタジーをかけ合わせれば本当に起こりうるといってもおかしくはないですよね?」
「これはまた想像力が豊かだな。神話が本当のことだったらどうしようって顔を白くしたって、今日日、神も巨人族も大通りを闊歩してなどいないじゃないか。尤も、元素や遺伝子の掛け合わせでさまざまな事象が再現可能か否かと語れば宇宙のどこかでは可能かもしれないが」
「海の底は今世でもなお未開の地ですから、わかりませんよ」
白々しく答える色葉にたまらず國枝は唸るきりだ。
呆れつつもわざとらしく肩を落とし、皮肉に飽きたという態度ままに会話を続ける。
「そういうことを言っているのではないよ。ほら、閑話休題だ。続けたまえ」
 話が逸れてもこの調子でごく真面目に返答をされては聞くほかあるまいとして居住いを正した彼に色葉がゆっくりと告げた言葉が、この長い暇をやり過ごすことの始まりであったともいえる。
「私は記憶喪失の相場がわかりません。ですから、共感をしうるものがひとつでもあれば嬉しいです。そのような題材で本をお願いできますか、先生」
そしてまた國枝の軽口が話の腰を折るようなことを言う前に、「もちろん、頼む側です。ジャンルの詳細は問いません」と息継ぎもする前に付け足した。
言葉を聞き届けた國枝の「ふむ」という相槌が深く頷く。
「オーケー。それくらいの指定ならば定番ジャンルとして確立したようなものさ、まずまず用意できるだろう」
それを聞きなるほどと國枝が語る「期待していい」という言葉は、むしろのこと色葉の心情をいたずらに不安へさせた。
 自分から要求をしておいて、一体どれほどのものが選出されるのだ、と漠然ととするお題へ思考を傾ける。
 のちに期待と不安を半々に織り交ぜまては空白をやり過ごす中で、想像以上にあっさりと彼は最初の五冊を持ち込んだ。
出版の年代も感情に沿う分類も構わず運びこむそれらではあったが、きちんと要求に沿ったものであった。
そして起き上がったほかに気力がある場合だけ色葉はそれらのページを捲ったのである。
いざ読み終えて其々における内容に被りが少ないことと選出範囲の豊富さには驚いたものの、國枝曰く、朝市にてどこからともなく発生する挨拶程度の世間話で巧妙に本の話へ持ち込み、タイトルを聞き出しては書斎や本屋で探し出し調達してくるらしかった。
事実を知らず、実に本好きにはそそる天井までの本棚は存外に俗っぽいラインナップであるな、と、思い込んでいた色葉はより一層の感謝を込めてありがたいと表紙から読み進めたのだ。
しかし、読み終えるまではあっという間だ。つまり、本が運ばれる頻度は増える一方だったのである。
 例えば、知らず知らずに恋をするも互いの境遇のせいで惹かれ合いながらも破滅してしまった愛国者と諜報員のやり直しと二人の命が戦時の動乱で弄ばれる壮大なラブストーリーや、記憶を保持することのできない病に侵される恋人を見ていることしかできないながらささやかな日常の皺をひとつひとつ伸ばして生きるような儚い離別のためのヒューマンドラマ。
記憶を無くしたり、身体が入れ替わったりしながらも惹かれ合う魂の本質を無意識に求めるコメディタッチとそれでも理解を得難い環境や身分の差を無慈悲に描いた超大作。
機械に宿らせた他者の記憶を自分のものと錯覚して生きるヒト型機械生命体の独白、破壊と再生にアイデンティティのアイデアを引っ掛けた二○世紀からみた――現在ではオールドスタイルに分類される――あぶら臭いほど重厚であり、当時の最新を求めながらもアナログチックな機構をチラリズムさせた機械技術へのロマンを詰め込む緻密な設定。視覚に訴えるいかにもな配線が這い伸びるマシンデザインのサイエンス・フィクション。
そうと思えばさまざまな作家がコメディタッチの明るい内容だけで記憶喪失という題材を描いたオムニバス形式の短編集。
 色葉は実にたくさんのフィクションを読み込んだ。
主人公という身体と視点を乗り継いで旅をするように本の中の物語をなぞった。
先が気になってページを捲る手をすすめることもあったし、幸せな結末もそうでない結末もきちんと最後まで見届けた。
しかし、そのほとんどにひとつの共感もできなかったのである。
クライマックスのシーンからチューブをくだるようにエンディングに乗り込むと、途端に強烈な違和感が生じるのだ。
幸も不幸も、大団円も、そこから取り残される一人だけの不満も、結びという全ての瞬間は、主人公と読み手の像を決定的に切り離す。
ただ、物語としての区切りを前にして役者に賞賛の拍手を送る自分が何者であるのかということが浮き彫りになるだけなのだ。
故に本を閉じた瞬間に感情を乗り捨て、次々に本へと手を伸ばした。
 もっと、もっと、もっと。
自分に近しい感情のものはないのだろうか。
フィクションでもいい。
似た境遇を、空白が別のものによって埋まるまで満たしてくれる仮置きのなにかは――。
 現実はそうもいかない、とひねくれるわけではないが、読後に奥付を眺めるのなかで『そうなんだ』と思うに留まる浅い感想が、さまざまに自己中心的に極まりない嫌な気を齎した。自己嫌悪が渦巻く。
しかし、すぐに重ね合わせるからいけないのだと気付いたために、以降はただ物語を楽しむことにしたのだ。
 地続きの延線上に生きている自覚はあるが、所詮はまるで真っ新な自分だ。
情報が少なすぎるが故に、過剰に驚き不安になったり知らぬことに怯えたりすることも、はたまた怒り狂い物に当たることもない。
そして自分には悪いことを吹き込むような悪もなければ、正しいことを教えてくれる善も身の回りにはなかった。
國枝への信頼は極めて客観的に語れば、根拠あるものではなく、絆されている状況に近い。
何度でも疑おうとして猜疑心の器を持ち出せば、いくらでも満たすことの手段がある。
なんでも好き勝手いえるということが、良くも悪くも個という人間性だけを落としてきた脳には都合が良かったのである。
おまけに、彼の口から語られる以外の情報は一切としてないのだから、自分は記憶喪失だと思い込んでいるだけの哀れな人間かもしれないとすら考えたのである。
滑稽だ。
根拠なしに行う問答では、絆されることと再び疑うことを往来するたびに偏見と歪みが固まっていくような気がしていた。
ただひとつ、フィクションであろうとなかろうと、誰かの別人のためのストーリーによる追体験から色葉が学んだのは『可哀想である、と打ち明ければ共感という感情をもつ人間は大抵のところ優しくする』と語った國枝がある意味においては間違ったことを言っていたわけではないということだ。
そしてそれは残酷なことでもない。
 驚きや怯えること、怒ることの感情に支配されてしまえば動揺を必死に取り繕っているうちに相手の好きにされてしまう可能性すらあるのだ。
それならば最初から横柄なくらいに「私は記憶喪失であって困っている」と言っておけば、どうしようもなく返答に困った際にも壊れた音声データのようにそれを繰り返せばいい。
『私は記憶喪失であるから、判断しがたいそれをすぐに答えることは憚られる』と、いうのは実に便利な言葉だ。
事実、記憶のうちでも無事な部分にあたいする常識の分野においても感性から生じる不一致があるのだから、誤魔化しが利きそうだと思った。それに、全くの嘘は語っていない。
罪悪感を抱く必要も意味もない。
なぜならば、本人以外では第三者の誰も彼もが、色葉が持っている記憶や知識の量は憶測でしかはかることができないのである。
 尤も、この二人きりの生活では自分と國枝のどちらが真の常識知らずかは判断しがたいが、あくどくも、ある意味で正しくて便利な言葉を信じ込んでしまえそうな程度には色葉は無垢に回帰を求め、結果的に"そう"なったのである。
 読み終えた本を積む。
勝ち気な性格の主人公の場合、自分のことを知っていると語る人間に大抵のところ一度は『あなたの言っていることが本当だっていう保証がどこにあるの?』というニュアンスを含んだ言葉を返すことは少しだけ理解ができた。
時に怒りで、嘆きで、苦しみの吐露であったが、これだけはフィクションのセオリーに似通うと色葉は思った。
『それでも自分の信じたいものを信じる』。葛藤の末のクライマックスでそう繋がる強さが自分にもいつか生まれるのだろうか、と漫然と考えていた。
自分の過去を辿る時がきて、そういった選択をするかなど想像もつかない。
 身体の動きを止めてまで考えたが、つまるところでまだ國枝以外の人間に遭遇すらしたことのない色葉はすぐに諦めた。正確には、諦めざるをえなかった。
まだ知らない感情だが、揺さぶられた時に咄嗟に出る自分の言葉はどのように他者に突き刺さるのだろうか。
仮に鋭いものであったとすれば、できることなれば、それが國枝に向かうものではないことを切に願う。
そうでなければ、今の自分すら乗り捨てて新しい自己を確立しなければいけないことになると薄々考えていたからだった。
「どうかな、こういうチョイスで」
「ええ。この調子でお願いします。本は当然のことフィクションとして素敵でした。題材の都合から人間性がポイントになるのは想像がつきますけれども、あらすじだけなぞれば似た傾向なものでも実に様々な結末なものたちでね。複数の本の読後としては小旅行をしてきたような気分です」
「それはなにより。気晴らしになったかい? この前より調子が良さそうに見えるが文字を読んでも脳は疲れるから、適度な休憩は忘れないでいただきたい。温かい飲み物だとか、目元を温めるタオルだとか、必要に応じて用意しよう」
それを聞いた色葉は、次に己は可哀想だと振る舞う術を考える。
 あくどい意図によって最初に國枝へ要求したことはリンゴが食べたいということだった。
次の朝にはリンゴを煮込んだものがでた。
飽きたとバレてからは固形物の割合が増え、あの果物が食べたいだの、こんな調理法の魚が食べたいだのと訴えた。
しかし、色葉が病人とは思えないわがままを言ったとしても、実現可能の限り全てを國枝は二日以内に完遂したのだ。
結果として自分のわがままが原因で用意されたものをまだ弱った胃袋に詰め込むはめになったことは言うまでもないが、それでも彼は色葉のわがままに応え続ける。
故に要求は高くなっていく。
自身のわがままと國枝が"色葉"に対して見出した利用価値に釣り合いがつかなくなる瞬間を模索しても、國枝がさっさと叶えていくために見え透いた強いカードという手札を晒す日が来るのはあっという間だった。
「宝石のついた装飾品が欲しいのですが」
 ベッドの上でつぶやいた言葉に國枝は目を丸くした。
いかにも予想外であり、今までなかった種の要求に驚きを隠せないようである。
次に積まれた本の一番上に記されていたタイトルを見て「ははあ」という得意げとも呆れているともとれる顔をした。
昔に流行ったらしいかなりの有名タイトルで、宝飾品について蘊蓄を語りながら口説くシーンが後世においてもよく切り抜かれて紹介されるほど印象的なのだ。
なにより、ヒロイン役の俳優がのちに大女優として語り継がれているが、その彼女の活動においては初期に近い作品であることも手伝ってたまたま知っていた國枝も閃いたらしかった。
「どうしたんだ、急に。今度は大振りのエメラルドがついたリングにでも憧れたのかい」
「ええ、実はそうなんです。しかも、古典的なデザインの。駄目ですか?」
 自分が発した言葉ながらに色葉は『どこにそんな金があるのだというのだ』と言いたくなった。
無理があることは火を見るよりも明らかなことであるが、今の色葉は國枝が断る言葉が聞いてみたくなって発した言葉であったために、この気まずいとしかいえない空気を続ける。途端に空気は淀むように思えていた。
 一方で、國枝は色葉の顔をじっと見つめた。表情は薄いものの夏の薄片を乗せたようにブルーグレイの色が微かに滲んだ暗褐色の目が細められると、企みがばれるのを恐れながら色葉はほんの僅かに口元を強張らせた。
そして他者を騙すようなやり方にようやく恥を知る。
しばし無言の応酬の後、逡巡を終えた國枝は息を吐いた。
「……そうだな。妥協案を申し出るのは甲斐性なしと詰られて言い訳ができないが、純金の装飾品ではだめかい。出来るだけ純度の高いもの。それなら予算の許す限りとびきりいいものを用意しよう」
「金?」
 一見して宝石のカットが光を反射し続ける輝きとは異なる印象を与える純金を引き合いに出した國枝に対して色葉は思わず聞き返した。
資産としての価値と釣り合いはともかく、本の内容に影響されてこれを語っていると察しているならば、尚更に宝石ではないところに妥協案を求めることが疑問である。
本のタイトルにピンと来たように思えたのは自分の勘違いか、試していることが見抜かれて反応を求められているのか。と、色葉は内心のうちで戸惑った。
國枝は何度も頷き、ただ思い詰めた顔をしてはいつまでも続きを語らない色葉に痺れを切らして勝手に話を進めだす。
「石は傷ついたらすぐに価値が下がるだろう。ただでさえ我々の生活はその他一般の市民より慌ただしく、時に乱暴だ。その点、純金は柔らかいし、加工次第で多少の融通が効きそうだと思ったんだ。さらには情勢に極端な左右をされない価値もある。君がいつか困ったとき、売り払えば足しになるとも考慮している。どうだい」
やはりと考えられる範疇で資産価値を選んだらしかった言葉に「なるほど」と答える色葉に対して國枝は困ったように笑ったが、そこには一片の嫌味もなかった。
「なるほど、だなんて、まるでどちらも大して欲しくはなかったみたいじゃないか」
 徐に立ち上がると國枝は窓際に寄り、薄いカーテンだけを閉めた。
一日の間で東から西を旅する太陽がちょうど窓を突き抜けて光を差し込んでいたが、レースの薄いカーテンが閉められたことで細かに拡散をさせられる。
先より光の輪郭を丸めた空間で、國枝は再び着席をした。
手持ち無沙汰からか、掛け布団の首元にあたるカバーを直しながら上半身だけを起こす色葉の身の回りを気遣う。
「もし言いたいことがあればきちんと言うべきだ。無理があれば私が交渉を求めるだけで、君が気にすることは何一つない。さあ、どちらがいい?」
 言葉に優しく促され、色葉は導かれるようにはっきりと応えた。
「じゃあ、どちらも要りません。代わりに……もちろん先生さえ構わなければ、ですが、もっと気軽に部屋に来ておはなしをしてくれませんか」
國枝は一度きょとん、と猫のような目を丸くしたが、すぐに右手を胸の前にして浅く腰を折ると、恭しく頭を下げた。
「もちろん」
優しく目尻を下げるその表情に、この人の気障はこんな目下にまで発揮されるのか、とぼんやり思う。
とんだ人たらしである。
ただ、自分の要望に対する返答が先々まで見越した丁寧であると知れば知るほど、人間を疑うために特別製としてしつらえた猜疑心がすり減っていくのを色葉は感じていた。
 多少の無理という範疇をゆうに超えた題を出したとしても、即座に頭を回転させては妥協案を提示しつつ解決に努める姿みると、國枝が色葉のことを気の毒に思っていることが確かに感ぜられた。いっそのことそれが『"色葉"に不都合をさせると"國枝"が困る』という構図を想起させる邪にさえも思えるほどだ。
色葉と國枝に関しては顕著に働いているとして否めないことは確かとあるが、こうして色葉は不憫に思われることの利点を理解する。
そして色葉という人物を黙らせておくためのわがままが無理をしても、いざ解決してみせようとすることから國枝を根拠あって信頼するに足ると思えたのだ。
 仮に國枝が"ヒトクローン体として研究されていたイロハ"になにかの価値を見出して隔離をしているとしても、宝石や金を買い与えてやると約束しかけることは利益が釣り合わないと感じたのである。
黙らせる手段はこれだけにとどまるわけでもないのだから人質であれば鬱陶しくなれば始末をするし、商品価値であっても過度に機嫌をとる必要はない。
なにより、売り飛ばすにしたって、宝飾品を買い与えるコストがかかるのは利益に対し差額程度にしてもマイナスと感じる要素だ。
それらをいくつも並べて、記憶喪失はこの後に及んだ嘘ではなく事実であると思うことに納得したのだ。
「それにしても、本来の要求を通すためのダミーに宝石という言葉を用意しなくても頷くというのに。ずいぶんいい性格をしているな」
「すみません。だから、後にやはり金を買おうかと言い出したときは止めたじゃないですか」
「好みのデザインなんかがないからって?」
「デザイナーを雇おうかと言い出したときに驚きましたよ。わかっていたんでしょう? 大体、いや、そもそも、そんなお金はどこにあるのです」
 焦りが滲んだ言葉を聞くと、國枝は口の端だけで怪しく笑った。
普段の爽やかさや好青年のような温厚はなく、いかにも悪巧みをした悪い大人がする笑みであって笑みではない上澄みの表情だ。
「さて、どうかな。金銭なんて一時の空白をやり過ごす娯楽のための足しにすぎないさ」
アンティークと呼ばれるようなものたちをみつめる視線や植物を扱う際の丁寧な指先とは打って変わり、呆れや辟易として見せた態度は厭世をして金銭のことを語る。
その顔の、遠くを見るような鼻先を前にして彼は一体どんな価値で生きているのだろうか、と色葉は考えていた。
不思議と彼のそういった側面が恐ろしいだとか、軽蔑をするだとかという嫌な気は起こるに起こらない。

Angraecum will not bloom in this life.

 ミルクティーの香り高い湯気がゆらりと立ちのぼったかと思えば輪郭はぼやける。みるみる境界をなくし、カップから離れると、会話のひとつ往来もしないうちにいつの間にか消えていた。
それでもミルクティー自体が温度を保っているうちは絶えず湯気が立つ。
うすぼんやりとした湯気のあたたかさが頬に触れ、空気の流れに沿って皮膚を這い上がっていくさまが昼下がりの微睡にぴったりだった。
尤も、あたたかいのは食卓の周りだけであり、少し離れようものならば人の気配がない静けさと季節性の乾いた寒気が隅から寄ってくる。
この家では食卓が真昼の最もあたたかい時間を連想させる。そして、色葉にとって最も幸福であるべき家庭の象徴をする場所のように思えたのだ。
「今日はここ最近のなかでも特に日陰や風が冷たいらしいな。これの作りかたは特筆して普段と変わらないが、気温のせいかいつもより熱いと感じるかもしれない。気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
「ははは。肩、緊張しすぎじゃないか」
 扉を叩くように指の背で色葉の肩を示した。
肩の骨にその衝撃が鈍く響くと、高く聳えてあるように見えるがその実ハリボテである緊張がグラグラと揺れる。
 何を取り繕うつもりでもないが、取り急いで間を埋める会話をしたくなった色葉はたまらずリビングルームを見渡した。
視線の動きは漠然としながらもパッと見渡す限りでは目立つ埃ひとつなく片付いた部屋が広がっている。
物は多いほうであるがほとんど全てが収納家具という収納家具に美しく間隔を保って並ぶために、人間の気配は自分以外にはもうひとつしかない屋敷ではこれだけ物に溢れてもどこか閑散とした気配であると思えた。整然としている。
 さらに話題を探して視線を巡らせると、よく整頓され、飾り用途に前面にガラス張りがある扉が特徴的な食器棚が気に留まる。
以前に見かけた際と異なる点をしばし考えていると、呼吸のいくつかぶんを経て中の陶器の最前列が表情を変えていたことに気付くのだ。
目を細め、じっと奥のカップまで柄を覗くと、どれもがきちんと日の目を見るようにと一定の周期でカップたちの並びを直したのだろうと察することができる。
他にもテーブルには角型の小さな空き瓶に切花が挿しこまれ、カウンターの手つきカゴにはお伽噺の挿絵にある絵面のようにリンゴが積まれた。
首を伸ばせば、ちら、と見えるシンク側の水切りカゴの中でさえ、皿やグラスは大きさと用途ごとに整列し干されている。
そのようにして國枝は几帳面であり、生活環境にはある程度の気を遣うのだと色葉には感じられた。
少なくとも、そう思い込むには十分であったのだ。
 色葉はそれらを保つために忙しく動き回る彼を見たことこそなかったが、掃除婦が出入りする様子を見もしなければ聞いたこともないし、勝手に片付けが済む魔法などあるわけがないのだから『そういうことだだろう』と思ったのだ。
「部屋……なんだか少し変わりました? 掃除? 模様替えでしょうか。もしかして、屋敷中を掃除するおつもりで?」
「まさか。我々から見れば十分広い屋敷だぜ。日本の家事情とも異なるものだが、そう感じるのは私だけだったかね。流石に使わない部屋の面倒を見きれはしない」
 見つけた話題をゆっくり語り出した色葉の目を見つめ、同じくゆっくりとした相槌でひとつひとつの音を聞いていた國枝であったが、いきなりの言葉にからりとして少しばかり大袈裟なくらいに笑った。
それから小さく白い皿の上のドライフルーツやチーズを指し示すが如く、数をかぞえる風体でひとつずつ生活に欠かせない役割を持つ部屋たちを指名した。
「キッチン、リビング、時たまにエントランスのテーブル。それからバスルーム。ランドリー。トイレ。汚かったら食事の味がわからない。後者は清潔になった気がしない。あとは……流石に頻度は下がるが、とりわけ本の多い書斎や定期的な手入れを必要とする家財がある部屋」
耳を傾けては熱心に聞いている色葉の前で今も温度をなくしていくミルクティーを改めて勧めると、國枝は継ぎ足すようにして言葉を続ける。言葉を切ってから、細かく刻んだチーズの一片を口に放り込んだ。
よく咀嚼をし、飲み込む。
「それくらいなものさ。それに片付けをしたからきれいになったのではなく、庭と家の周りの雑草をどうにかしたからだろう。君が感じている違いは。随分と光が入るようになったものだよ」
色葉は思わず大窓のほうを尻目に見た。
「おそらくね」とさらに付け足す國枝に対し、飾りガラス戸の向こうで陶器の順番が入れ替わっていることはやはり知らないふりで色葉は答える。
これを今この瞬間でわざわざ話題にしなおしたところで図柄の意味に詳しくなければ、また次の周期で入れ替わった際にでも同じ会話が生じることが明白であった。
故に簡単な言葉で受け流したのだ。「確かに。そんな気がします」
「そうそう。別の部屋を見てごらん。それらなんかは埃が被っているだろう。この前のゲームみたいに窓は時たまあけて、気まぐれに埃を払うがね。それに私が使う部屋なんかはたきをしたこともない」
「それはそれでどうかと思いますけど。あまり誇らしく言わないでください」
 やっと口をつけたミルクティーの温度が想像より僅かに冷めていて、思わずカップの中身を確認した色葉であったが、國枝の言葉を聞くと眉根を寄せては弾かれて顔を上げた。
しかし、國枝は狼狽することも隠したがることもなく至極平然として返すばかりだ。
今にも心の底から「何が悪い?」と言い出しそうな態度に色葉はこめかみのあたりをガツンと殴られたような気分になった。
正確には、ならざるを得なかった。
「床で寝るわけではないし、いつ去る場所かもわからない。もっと劣悪な環境は君も私も経てきた。幸いアレルギーでもない。なら問題はどこにあるっていうんだ? 何故ならば正確にいえばそれらは私の杜撰な感性ではなく、環境がそうさせているようなものだからね。共有の住環境が一通り落ち着いてからするつもりだ」
「ええ……一人の時間も必要だって仰っていませんでしたっけ。共有スペースならば私も掃除をするべくですし、そのぶん一人で過ごすための環境づくりも大事にしてください」
「本のために換気くらいはしてるさ。稀なことではあるが時たま夜は湿っぽくて適わない。とにかく、別に君のためにやっているわけではないから、君は最低限、君のねぐらだけを綺麗にしておけば良い。暇なら庭で後日の風呂に浮かべるつもりでハーブを摘んでくればいいさ」
 國枝は上品な仕草でカップを持ち上げ、ストレートティーを含んだ。そして大して興味もなさそうな口振りで色葉に役目の提案をすると、親指を立てて庭の方角を示すのだった。
茶を嗜む所作の直後にその手振りは少しばかり品に欠く。興味が酷く偏った人なのか、環境がそうさせるのか、色葉は眉根を寄せて呆れを浮かべた。
訝しむことすらあるが、今し方に彼が語った偏りのいくつかはかなり合理的ではあるのも確かだった。
それから少し考え、言葉を返そうとする。
「いや、だから……! いや、いや。ううん」と、形容しがたく噴出する不満やもどかしさに似たものを意味のないクッション材のような言葉で濁すも、ついぞ明確に悪意ない言葉に変換することを諦めた色葉は半分項垂れつつ言った。
「では、そうさせていただきます。先生の興味がない部分はこの私にやらせてください」
 この日以降、色葉は給仕のように國枝へ間食の皿を提供してティータイムを促し、バスルームのかんたんな掃除は國枝の手が及ぶ前に済ませた。
皿を洗うことを申し出ると國枝がそこまでしなくていいのだと言い出しそうだと思い、代わりにこう言ったのだ。
「私が皿洗いを済ませるあいだに、食後の温かいのみものなんてどうです。いま作れば、使い終わった器具は私が洗い物の最中ですし、請け負いますよ。そうすれば効率的です。部屋を出る前に、自分のカップだけ洗えば良いのですから」
そういえば、國枝が渋々にミルクパンを取り出すことが想像ついたのだった。
「あ、私も就寝前なのでストレートがいいです」
「いきいきしてるなあ」
調子のいい色葉のことを國枝は喜ばしく思いつつも呆れを隠すこともしなかったが、そのうちにカフェインレスのフレーバーティーが増えたことには違いない。
 終わったそばから洗いものをして、リビングを出る時間になったら互いに自分の使ったカップを洗う。
シンクに立つことがリビングルームを消灯する気配が近づいた合図のようになっていった。
 他にも朝は毎日水やりをする國枝にくっついて歩き、慣れれば毛嫌いするほど悪くもないと思える香りのハーブをいくつかと終わりかけの花を摘む。そして次の入浴までに使用する準備をした。
キッチンにあった食器の中でも欠けのある陶器のミニボウルを発掘すると、そこへ揉んだハーブや終わりかけの花を詰め、湯をかけて匂いを拡散させるのだ。文化によるバスルームの構造都合上でバスタブに湯を張るのは毎日することではなかったが、それらの香りは一日の終わりに疲れた身体をよくほぐした。
 明日の朝にはまた庭で嗅ぐことになるこの匂いたちが、日課となっていく『朝のうちに済ませること』をすり込ませていく。
どうにか今夜と明日の朝が繋がり、輪を描くとうまいこと回り出すのだ。
色葉は家と庭だけで完結してしまえるという一般的には異常ともとれる環境でも、達成感を見出してよく働いたし、稀に早く目が覚めれば國枝より先に掃除を済ませて、屋敷中の窓を開け放った。
「生活水準が――いや、前と比べて特別金をかけているという意味ではないが、なんだか一気に華やかになったな。丁寧な暮らしとでもいうべきか」
「窓際や食卓へ常に花があればそれはすでに丁寧なのでは? 少なくとも、そういうものを用意しているのは先生じゃないですか」
「ああ、それは流石に私の趣味の結果ではない。延長にはやや掠るやもしれないがね」
「と、いうと?」
「かつて滞在した地域では家が街なかにあったんだよ。その地では、窓際には花があるべき、の考え方だったのさ。文化的な習慣だよ。その習慣を経ていまこの家で私がやっていることを美談らしくいうなれば、花は確かに美しいがのちの花実の成長のために一部間引きすることがある。先立って摘んだそれを挿木のようにするか、長持ちをさせて有効利用しているだけだよ」
 思い出しただけでげっそりするほど疲れる勢いの國枝は目元に皺を寄せていた。
「それは大変でしたね。なぜそんなところに、ということ、差し支えがなければ質問させていただいても?」
街一体で景観を気にした努力をしていて、半分くらいは観光地のような場所であったと語る彼は続ける。
つらつらと単調な説明口調を続けて大袈裟な演技をしていた。
「気に入ったという理由はもちろんあったが、そんな都合の土地なら人種で足がつかないと思ったんだ。移住の理由だって観光で来てからずっと夢中だったと語れば怪しむ住民もそうそういない」
「そういうものですか?」
「花瓶の花も住んだ理由もそんなものさ。わざわざ買わなくとも、暇があれば雑草でも摘んできて瓶に挿しておくことは未だに習慣めいている。かつてはともかく、今は誰に何を言われたわけでもないんだがな」
「私の日常も暇を持て余してやっていることなのでしょうけど、掃除も当たり前になるとそのうちやらないほうが落ち着かなくなるのかな」
ふふ、と笑う色葉に國枝も同じ表情をした。
「確かに定住するならば当たり前であるべきだが、この生活で私のようなことを言い出し始めるとやらなくても人間そこそこ丈夫だと気づいてしまうからね。辛くない程度に励むといい」
「はい」
 色葉は相変わらず自分にとってのやや薄味をする豆のスープを啜る。フライパンで軽く焼き目をつけたバゲットにトマトとツナをビネガー和えしたものを乗せ、齧った。
オイル煮の魚肉が酸味を含んでふっくらとする。咀嚼すると果肉がかたく、ギュッと甘みが凝縮されたトマトが香るのだ。最後に乾燥バジルがはなやかに後を引く。
一部の缶詰食品や少量の乾燥させたハーブ類は手短に携帯できるとして以前から持ち合わせるもののひとつであるらしいが、この快復を祝う食卓に並ぶ品々は比較しても豪勢なものであると色葉は考えていた。
サラダなんかは生野菜であるし、葉物とくれば久々に見かけた気すらする。
杯を掲げる仕草は仰々しいが、一口をすすめてしまったのちに思い出しては白々しく乾杯をして食事は再開された。
どこか甘く、さわやかな風味付けのされた水のグラスを煽る。
こういった生活に特別な思い入れや憧れがあるわけでもないが、水差しの中に浮かぶ輪切りのオレンジがすまし顔をする様は一等かがやいて見えた。
流石にこれは細部まで狙って贅沢をしているのではなく、値引きされていたオレンジの水分が想像を上回って抜けており砂のようにボソボソしたために処理に困った、という経緯である。そんな偶然の重なり合わせであるが、この場をいっそう華やかに彩っていることに変わりはない。
それから地植えは厳禁であるからと鉢で部屋に置いているミントを千切り、洗ってから浮かべて作られたものである。
普段はもっと質素なものだ。しかし上機嫌にたまのこれくらい、と喉を下す。
 逃亡生活も漠然とした言葉しか知らないために、贅沢をすればするほど不安がどこかで滲む。
そして逃げるように会話をすれば國枝の口ぶりで不安も杞憂に変わるのだ。
想像の範疇に過ぎないうえに他のことを気にしている余裕もないはずである色葉であるが、当の國枝といえばこの生活において支援者がいると語る通り金銭の心配はたまの贅沢に過度の後ろめたさを感じる必要はない様子であった。
そう思いながら皿の上を見渡す。
日中はさわやかに晴れているものの、日の当たらないところは肌寒いというのが季節柄である。
しかし本日の昼食の光景を己の感性で見つめると、まるで既に過ぎ去ったはずの夏の早朝かのように感じられて色葉は目を細めた。
國枝も額を風に撫でられる猫が鳴くように上機嫌に語る。
「君の調子も戻りつつあるようだし、今週のどこかで街に買い出しにでも行こうか。そう、一緒にね」
 ここで毎夜、来たるべく発言のタイミングのために唱え、呪文のように染みた言葉を発するときがきたのだと確信して色葉は小さく息を吸い込んだ。
「……ええ、宿題も済ませましたしね。シオンですね。あの花。もっと大きな括りである"アスター"でもおまけ点はいただけるのです?」
ひねくれた言葉にもかかわらず、戯れを返すように國枝は指先までにすら笑みの表情を宿して頷く。
「落第を憂うことほど意味がないことはないだろうな」
正解だ、と答えた声が静かに響いている。
グラスの中で泳ぐミントが悠久に思える昼下がりのことだ。