大層な手間も仕込みも要らないと國枝は語ったものの、ただの硬い水よりも味のついたほうが飲みやすいのが確かなのである。
現に彼の身体は疲れて弱っているであろうし、己の渇いた喉が唾を飲み込む際の味気なさに苦痛を覚えることは色葉自身もよく理解と共感ができることであると考えている。
だから、きっとそうなのだ。一人きりでそう完結していた。
疲弊する身体に糖を与えることが一瞬だけのまやかしや、仮初のことだったとしても、その瞬間に気を逸らすことには向いている。
それだけは事実なのだ。感情などと曖昧を語るのではなく、この人間の造りに対して糖が何に作用して行き着くのかという根拠に基づいている。
そんな勝手な気遣いでありながらも、最終的に風味付け程度であればわざわざ文句も言うまいと色葉は砂糖をグラスに落とした。
少量沸かした湯で砂糖を溶かし、それからサラサラと冷水を注ぎ足す。
最後に銀色のスプーンでグラスを攪拌すると、時にふちを掠める甲高い音がキンと鳴る。冴える頭を遮っては打ち鳴らすような音に眉根を寄せかけてから、攪拌の手を緩めた。
 糖が溶けだした液が混ざりあうにつれて濃度のムラが瞬発的に生まれる。最中に渦として引き込まれる屈折の陽炎を描き、煌めくのだ。
溶液と渦を眺めている。同時に、國枝が教えてはくれないことのいくつかに対する共通点を頭の中で探していた。
レモンでも搾れはより飲みやすいだろう。ミントを加えたり、砂糖の配分を変えたりすれば年中だって飲めるだろうな。
 眺めながらそのような意味のない事をもことをぼうっと並行する考え事をして、それが口から飛び出してもいないというのに最後に「いやいや」と己を否定しておちゃらけるように肩を竦める。
誰も見ていない、そして見せるためのものでもないことは彼の中ではわかっているというのに、自分を誤魔化す反応で繰り広げられるひとり舞台は言葉を垂れ流すのだ。
そして、自らが発した言葉に連なる疑問がぶら下がっていき、気付けば列を作って長々と思考を続けさせようとしていることに気付いて色葉はついに頭を抱える。
関節を持つ木製人形のようにキコキコと忙しなく、そしてどこかぎこちない動きを繰り返していたのだ。明らかに、水を用意するだけには怪しい動作たちである。
故に、そのような色葉を訝しむ國枝は上半身を起こし、ソファからそれを眺めていた。
眉根をじっとりと寄せて、ただ黙って観察をしていたのだ。
「どうした。例えば虫が出たというような、些細であるが君にとっての大事などがあった?」
「あ、いや……考えごとをいくつか並べてしていたら、手元が随分散らかってしまっていて。すぐお持ちしますね、水」
色葉は力なく笑い返すものの、國枝が寄せた眉が再び穏やかな柳の葉脈をなぞり描くものにはならなかった。
毛布とするには些か厚みに自信のなさそうなそれを腕に抱えて、一度広げ直すと國枝は丁寧に畳み始める。
「大丈夫、大丈夫ですから! あ! 駄目ですからね、安静にしていてください。お願いしますよ」
 銀色スプーンを投げ捨てる勢いで放るとグラスを掴んだまま声を大きくし、大股で色葉は戻ってきた。
今は動きたくても身体が億劫だから急ぐことはないのだという態度を半ばあきれた様子の國枝は見せるものの、お構いなしにズンズンと歩を進める色葉の手元でグラスの水が揺れている。
「ほら、水がこぼれるよ」
 落ち着けという意味で伸ばしたはずの手に冷たいグラスをゆっくりと丁寧に握らされる。
國枝は落ち着きのなさが動作の荒さになるのでは意味がないといった旨の小言を一つするべきかと考えていたはずが、なんだか気が抜けたようになってしまっていた。
グラスの円筒を滑り落とさないようにと國枝が促した手の上から己の両手を被せる。そして指先を丸めてきちんとグラスを受け取ったことを確認すると色葉の手はそうっと離れていくのである。
見た目ばかり大きな男ががさつを気にする間もないほどの行動をしているのだが、そこには"大の大人が"という言葉は結局のところ何かを線引きしては意図した評価に振り分けるだけということを思い知らされるようなほど純粋で繊細な感情の衝動があるらしいのだ。
"ような"ではない。今まさに、國枝はそれらを思い知らされていた。
 色葉は記憶の喪失に対して比較的楽観でありながらも確かに心身を蝕まれている。
しかし、今も自身に存在する感情や思想に従って、この瞬間を偽ることない自分の大きさで過ごしているだけなのだ。
それを目の当たりにするならば怒るに怒れないと考えてしまう。
正確には"小言"であって怒っているわけではないが、これを続ければ後々に響いて、そういった様々な指摘に対する彼の行動理念や、彼が答えにくいことを聞き出しにくくなるのである。
今現在、目の前にいる人間はとても純粋で、知らなくていいことを知らないのだ。
自分がずっと望んだことが今この目の前にあるのだから、彼を守るための小言はいくら出てきたとしても、彼の本質に対し心からの否定するための文句など一つとして出てくるわけがなかったのである。
それも甘やかしというものだろうか、と思いつつも國枝は礼を言ってからグラスに口を付ける。
そしてすぐに気遣いのされた少しばかりの工夫に気付くのだから、眉はついにすっかり下がって困ったままでいた。
「考え事は、そんなにも決着がつかなさそうな大層なことなのかい。……なんだい、ムズ痒そうなその顔は」
 言葉に詰まっては垂れ下がる前髪の中でもひと際に長いひと房を摘まんで気を逸らす色葉を改めて國枝は見つめる。
「その」だの「ああ」だの、「……うーん」と、意味を成さない言葉がこぼれては口ごもる。唇が別の生物のように動いて、肩は内を向く。
言動はあくまで柔らかに身体を小さくしているものの、表情は困っているというよりは怯えたり、抑圧されたりするように強張って固くなっていた。
改めて側面に垂れるひと房を撫でつけるように耳にかけると、煮詰めた糖の――べっ甲のような一つ目は不安そうに眉を寄せた表情をありありと強調して國枝を見つめ返したのだ。
促されては結局答えの出ない問答に対し、國枝が話をきちんと聞いてくれるかを確かめたがっているような、そんな不安交じりの表情だった。
「ああ、構わないよ。滅多なことでは茶化しはしない……努力をするから話してみるといい。共に悩んでやることくらいはできると言っただろう? そりゃあ、無理にとは言わないが」
「いえ、あの。その、先生は……先生と一六八の関わった研究の計画を『死者の続きをするため』といったようなことを語りましたよね」
糖の溶けた水を確かめるように唇を舐めてから、國枝は応える。
「いかにも」
 たった一言に語弊を含む意図はない。理解していても、どこか鋭く刺さる声だ。
その答え聞くや否や自分から話題を振っておいて、思わず肩回りの血の気が引くような緊張に縮こまっていた色葉の肩が揺れた。
「でも、クローンとしての生命体を造るには細胞の複製元――遺伝子に関する情報が要るでしょう。今の技術であれば死者でも遺伝子にまつわるデータを正確に採取できれば一時的に残しておくことは出来なくもないでしょうが、本当に死者のものならば、それを長期間に於いて新鮮を保持するのは難しいはずです」
聞き届けて鼻から深く息を吐く。それから國枝は自らの体調を気にかけては、砂糖水というにはずいぶん希釈のされたなんとも形容しがたい味の水をちびちびと舐めるように少量を含む。
そして自らの胸を撫でおろしてから、明確に落ち着きのない色葉に対し「気持ちがざわつくならば角砂糖でも口に含んでおきなさい」と告げる。
また静かな時間が流れる空白を読むように黙り、その瞬間を見計らっていた。
「……そうだね。結果的に、脳波――脳の活動停止で定義する死後も数時間から数日まで休眠状態に近いかたちで生存できている細胞は存在する。だが、我々の世界における最新の技術を以てしても、相当きれいに取り出せないと難しいだろう。選りすぐって、という意味でね。まず死んでから取り出すものがこの目的に有用とは必ずしも言えないし、それが叶っても、その時点で記録上の最長を目指すには不完全すぎる状態と思われる」
そこまで言い切ると國枝は咳払いをし、自らの手のひらで額を覆った。次に首元に二本指で触れ、最後にもう一度だけ水を舐める。
全てが眠たくて仕方がないようにかなり緩慢とした動きだ。
そして断りを入れると足はいたって平時の通りにソファに掛けることと同じくして床に着いたまま、上半身を座面へ倒した。
行動の流れが何を示しているか十分に理解をした色葉は、一度は畳まれた毛布を広げ、國枝の身体を覆うように伸ばしてやったのだ。
枕の代わりにするようフェイスタオルを巻いたクッションを差し出すと、大人しく受け取った國枝が自らの首と頭の間にそれぎゅうぎゅうと押し込むのだった。
「当然のこと、記録上にある保持の最長は至って健康な細胞から観察したもののはずだ。まず、そもそもを改めて語るなれば、長期的な実験のためのサンプルにする目的で消費期限の短いそれは用意しない。続けたまえ」
 色葉の心配を知らずとして半分だけ身体を横たえた國枝は首を伸ばしながら、何の問題もないとして続ける。
むしろ相手から「続けたまえ」という言葉で催促をされてしまったために、砂糖を口に含んでいた色葉は自らも用意していた水のグラスを呷って頷く。
舌に残るざりりとした触感が気になって、口腔内で舌を丸めていた。
上唇をわざわざ噛んで渋い顔をすると、最後にあまりの甘ったるさに奥歯を噛み締める。
口元に手をやりながら返答をするものの、もはやこのぎこちない会話に二人のなかでそれをわざわざ指摘をすることはなかった。
絶妙に会話がかみ合わないまま、会話を続けていく。
「ええ。ですから、もしかしたらあなたの語る"死者"は、現時点ではまだそれを取り出すことが出来る、あるいは最近までそれができた状態なのではないかと考えたのです。どの時点での死者であるかなんて語っていないし、時間の軸を平坦に俯瞰すればどこにでも生死の概念は存在する。そして……あなたの身体はすこし弱いみたい、で」
視線を彷徨わせ、絨毯の模様を視線でなぞる。
居心地の悪さに手遊びをしながら右手の親指の付け根を、左手の親指で撫でつけてていた。ゆるい指先の往来を感じながらも相手の反応を窺っている。
手探りのそれを続け、言葉がどんどん短く、そして細切れになっていく。
「なるほど前提はそういうこと。それで、君が私に聞くほうが確実、かつ正しさを得られると思った疑問の内容を聞いても?」
その言葉に色葉はドキッとした。心臓が驚いたように跳ねて、一瞬のうちで痛みに変わる。
首の後ろがカアッと熱くなり、底から全身が燃えるかのようにより強い緊張の波が広がったのである。
唾を何度も飲み下し、そして押し出されるように汗が流れていく。
熱いと感じた体温の上昇が汗の冷える様で相殺されては、茹だる脳だけが取り残されている。
目が回ってしまいそうだと色葉は思っていたが思考はいつの間にか遠くへ追いやられ、しかし唇だけは流暢に言葉を紡いだ。
 もはや、これらを聞かねば、疑いを続けるだけの日々に終わりがない。
自覚をしていて、それでも、ひとつの答えしか受け入れる準備をすることが出来ていなかった。
故に身体はこうやって過剰な反応を起こし、色葉を惑わせる。見守ろうとする國枝をよく困らせたのだ。
乾いた唇の皮を舐める舌に、凹凸の感覚を知っている。次第にふやけて、分厚くそこに残る気持ち悪さだけがあるのだ。
言葉より先に薄皮を剥いでやりたい気持ちが、感情と思考の最も遠いところの崖にぶら下がっていた。瞬間的な逃避というようなほとんどの無意識である。
「……その、率直に語ると、私は。私は、あなたのための新鮮な内臓のストックを運ぶケースとして大事にされているわけでは、ない……ですよね?」
「――な、」
 質問に対してすぐに返答をしようとした國枝の喉が「ぎゅ」と不気味に鳴ると盛大に噎せる。
安静と語るには少々無理のある怪しい体勢のままであったため、横腹が引き攣る痛みを覚えながらも上半身を丸めるように噎せている。
次第に嗚咽のように吐き出すような息遣いに変わっていく。色葉は慌てて立ち上がりかけたが、國枝は呼吸の苦しみに喘ぎながら音を時に紡ぐ。
それを理解しようとしては姿勢を低くし耳を澄ませている。すると、音の連続性から単語を推測することこそ出来ないでいたが、呼吸を求めては噎せて吐き出す中に存在する息遣いの調子からあることが浮かぶ。
彼は、笑っているのではないか?
てのひらは色葉のほうへ制止を示して向き、やっと落ち着くとそのままテーブルのペーパータオルを一枚抜く。
口元に宛がうと血の滲んだ唾を抑え、それを素早く内側に折りたたんだ。
そして身体の側面に手を這わせ、撫でさすりながら荒い息遣いの隙間で呟く。「わ、脇腹、がいた、いたい話だ」
ひいひいとして弱々しく、細いながら蛇行する大袈裟な抑揚の声色である。そしてなにより、時に上ずった声には悦楽を僅かに含んでいた。
つまり、國枝の態度やその声を聞く限りでは色葉の憂鬱は本当に杞憂で終わったということだ。
受け入れられるほうの答えが正しい経歴であったことに安堵すると、口の中に未だ亡霊のような気配を思わせる甘味がどうでもよくなっている。
 緊張の糸を切ってがくっと力の抜けた色葉が、國枝が横になるソファとローテーブルの間ですっかり腑抜けたようになっていた。
背中に当たるテーブルの材質を感じながら、上を向くと髪の毛が流れからこぼれて肌をよくくすぐっているのだ。
天井を向いて糸の切れた色葉の呆れた深いため息と、梢の囁くような國枝のクツクツと喉を鳴らす笑みが共存している。
「そうだなあ、確かに君と私は似ているかもしれない。うーん、前髪の分け目なんて、特に。君もそう思ったんだろう? 奇遇だな」
「茶化しはしないって言いましたよね? それとも、ただ笑っているだけ? 屁理屈じゃないですか。私にとってはかなりの深刻なのですよ」
 ほとんど視線だけの移動に顔の角度だけが一瞬ついてきたように僅かな動きで色葉は國枝を睨めつけた。
そして見過ごしてしまいそうなほど小さな動きに反して強い語気ですぐに言葉を返す。
はっきりと物事をいう際の表現を"ぴしゃり"というならば、その言葉にいくつかの形容を思い浮かべることができるだろう。引き戸を扱う様相や、手を打ちつけるような想像だ。
投げつけることにも似ているし、そもそもは"ぴしゃり"自体がはっきりとした言い回しそのものであるともいえる。
とにかく、今の色葉が放ったそれらはどんな意味合いを含んでいても、掻き立てられる情景は乾いた地面に水を撒いた様だ。極端に例えるならば真夏の打ち水のように、かなりはっきりとして意思や互いの立ち位置を白黒させたのである。
強く打ち付ける水が地面を濡らすが如くくっきりと色を分けて、そしてあまりのこだわりや不安の大きさそのものが水の不定形と温度に関わる冷たさを表しているのだ。
國枝はひやっとした水を思わせる語気と言葉で横っ面を殴られたことに目を丸くしたが、すぐに謝罪を口にする。
「君は本当に私が想像もしないことを語る。例えば、明日の朝飯が食えないほどのシリアスだって、君の次の言葉に推測できる可能性をみて覚悟しようとしたのさ」
グラスの口を手のひらで覆うようにして持ち上げ、笑う息遣いを続ける國枝が水を含む。息遣いのせいで時に啜るように音を立て、そして当然のように噎せる手前のようなむず痒さに咳払いをした。
何度か唸り声のように咳払いを数度続けて手の甲を宛がい、ヘラヘラとした声色を続けるのだ。「いや、失礼。行儀が悪かった」
口元が見えない状況の中で、敵意も悪意もないことを声の調子で示しているのである。
そして風味付け程度の砂糖を溶かした水で十分に喉を湿らせると、再び身体を半分横たえて瞼を閉じた。
「率直に、いや、だからこそ。君のその言葉は今の私にとって突飛な内容だったんだよ」
「だって、そうは言ってもね、適合さえすればこの身体の複製元がなにものであってもトランクケースにはなれるということは……十分な疑心の材料です。今の私には」
 照明のシェードが連なる光源を見つめている色葉の視界が反転したようになっていく。
強すぎる光の前で、光源以外の全てが暗がりに思えたのだ。暗がりの色によって褪せた世界で、吐き出すように本心を語る。
まさに抽出された不安そのものが、じわりと滴り落ちたことそのものだった。
ひどく照り付ける陰険な夏の炎天下に引きずり出されたかのような気分になっていたのだ。半ば吐き捨てるような言葉たちが静けさを引き裂いて、空間を縦に渡っていく。
それらの逃げ道を塞ぐ秒針が、また重く濁るだけの空気に『そうはさせまい』と言葉たちが好き勝手な解釈を進めることを細かく刻んで叩き落とすのだ。
呼吸に伴う衣擦れが時間の経過をよく思わせる。
間に、乾いた喉にピタ、と一滴が宛がわれたかのようで、色葉は己の言葉をすぐに後悔することになるのだった。
「ふうん。じゃあ質問だ。仮にわざわざ複製した私の内臓を、たまたま適合する他人Aに。いや、正しくはその他人Aですらなく、さらに成長の負荷が顕著で健康を欠く要素が多い人造人間――便宜上を他人A'に預ける。それら全て満たした状況でまでこの手法を用い、A'に任せることのできる"そこまでの理由"は? 一体何だと語る」
 一節一節に対し、呆れたため息でもつきたくなるほどのわざとらしさを何度も重ねた國枝は、クッションへ横顔を半分埋めているというのにひどく好戦的な表情で問いかけた。
楽しげに瞼は細められ、その中でも視線が下方を向くようにぐるりと眼球を動かして色葉を見る。
そして問いかけられた色葉といえば、抽出された漠然として濃い不安と光源に焼かれた暗がりを見る目に、そう認識をする脳に、恐ろしいものなどなに一つ存在するはずもない。
そんなことを言いたげに大きく構え、涼しい顔すらしていたのだ。
つまり全くおびえた様子も、反対に悟ってみせる傲慢すらも見せることなく、ごく当然として答えるのだった。
「同じ顔を侍らせていれば怪しまれるから。『人権を満足に与えられない人造生命体をトランクケースにすることが現行の倫理認識上において不思議でも問題でもない』と、もしもの仮定しても、同じ顔では外聞が悪い。しかも、有事の際はそれの内臓を移植するなんて、後に死んだ自分をみることになりますよ。それへの嫌悪以外に何がありますか?」
國枝はやはり自信満々でクッションに頭を埋めている。
その姿のまま拍手として手を打ち鳴らし、満足げに何度も頷いた。
「疑り深いな、私とは着眼点が異なるが。そこまで迫られても、こればかりは『じゃあ揃ってしかるべき機関に行って検査をしてもらおうか』としか言いようがあるまいだろう」
既に何度か聞いた『一般的な場所でも、容易に医者及び医療・研究関係に診せるわけにはいけない』ということが、無言のうちに延長上で続いていることを察している色葉に國枝は続けている。
『物わかりが良くて話が円滑に進むのが好ましい』ということを表情が語っているのも、随分とわかりやすかった。
涼しげが頬を掠めていくばかりなのだ。
「明確に"そうではない理由"と証拠がないと全く駄目ならば完全なる手詰まりだよ。率直に言って、君と信頼関係を築くことに尽力してその疑念を希釈することしか私にはできない。残念だがね」
 國枝の語る"できる"、"できない"は竹を割ったようにはっきりしているというのに、自分たちの関係を形容するためには何一つ指先に引っかかることがないのだ。
今後の関係はどうとでも転がっていけるというのに、國枝は滅多なことでは口出しをしない体をあくまで貫くのである。
故に、優しい言葉と真摯な心遣いに満ち溢れた態度で、色葉の不安は解決をする。
國枝は決定的に大事な際に、助けてはくれないらしい。
それが答えなのだ。鋭い切先として付きつけられている。
返す言葉もない。反論も、反発も思い浮かばなかった。
何が不満かわからないまま、何に虚ろを覚えるかわからないまま、頷くだけだ。
解らないからこそ、頷くしかなかった。
「……聞こえは厳しいですけれど、そのお言葉の真剣さを聞けるなら、今は、十分です」
言語化が出来ない。それに、悩む時間は意味がないと理解している。
その経験を感情に振り分けて判別し、咀嚼するために有用な記憶がないのだから。
「でも、いや。……ええ、あなたが何も言わない立場を強く貫き、私のための判断を私に任せるならば――従うのも、変えることができるのも、私ですから」
 目を伏せる色葉に、國枝は目尻を下げる。
言い聞かせる言葉だって、厳しいことばかりではないことを理解しているのだ。
連なる思考のなかで、身を切られるような痛みがわからないまま、煮え切らない靄をかかえているのがたまらなく嫌になるばかりだった。
色葉は何度も頷いている。直に、温かい手が伸びてきて、國枝は年下の子供を扱うように丸めた指先で色葉の柔らかな髪を撫でるのだ。
國枝にとって、自他共に認める"図体は大の大人である"色葉が、妙に心細そうな子供に見えるのが不憫になるのである。
 不憫に思われると、思うこと。
どちらも強いて好ましくは思っていないはずだ。
しかし、國枝は人間の多くが精神的に不安定である際にどうしてほしいのかを知っているはずだと思うからこそ、対処どころか原因すらをも解らないことが判らない姿が流石に不憫に思えたのである。
「そうだぜ。愛の種類は実に様々とは思うが、君はいずれ多くの人間に関わって生きていくことになる。変な依存は御免だよ。君の未来にそんな不安要素を与えたくないのでね。ここは閉鎖的だし、気持ちの理解はできるが……どうかわかってくれよ」
毛布の塊から伸びる手を視線で辿ってくる。
いずれ探るように不安に満ちた視線とかち合う。色葉の顔が、國枝にとっては迷子になって散々泣きつかれたような顔に見えて仕方がなかった。
本質において、色葉が望むことの何一つをしてやれないことを心の内で謝りながら、同時に『できるだけの穏やかな日常を与えてやることしかない』と再確認をしている。
撫でる手の温度で強張りが解ける様をみて呟く。
甘えているわけではないが不安を温度でごまかすことを求めるように僅かにすり寄ってくる頭部の丸みをなぞると、國枝まですべてを飲み込んでしまいそうな不安をそばに感じることが出来てしまいそうだった。
「まるで大型犬と過ごしている気分になるな。他意はなく、君が純に優しいいきものに見えるって意味でね。そういった語り方をするなれば、私は優しいいきものにわざわざ手を噛ませる訓練をしていることになるのかな」
事実に対して抱く感情の大きさが等しくならないだけで、國枝は悪くはないのだ。
頭ではそんな思考をしているのに、ぴったりと唇を閉じて言葉は押し戻されてしまっていた。
答えるように色葉が頭を小さく下げると、「ああ、君は優しいいきものだ。強かになれなくってもいいから、君だけは君の優しいいきものを殺さないで」と応える言葉と共に、また温かい手のひらが髪を梳くように往来を始める。