「本当によかったのですか? 一番風呂だなんて……譲られない限りはとても恐れ多いつもりでしたが」
 普段からとろけたような色のうち右側面だけを編み込み、残りを掬ってハーフアップにまとめ上げた髪は洗髪の後に丁寧に乾かされている。
首を縮めるように頭を下げて様子を窺いながら、色葉は國枝の姿を認めて言葉を発したのだ。
目の前に垂れ下がる髪の毛たちのうちで枝毛のひとつを既に見ていたために、以前自分が気にしていたと聞かされて習慣的に塗り広げたオイルに色葉は意味を感じてはいなかった。
しかしオイルの存在を華やげるために付与された香料は性別を問わず纏うことのできる香りを意識しているのか、いかにも甘かったり、ムスク調だったり、強い柑橘ではない。
ふわりとついて回る香りまでもを煩わしいとは思わなかったのである。それらが意味することは、主張を控えたそれの残り香が早朝の冷たい空気の清潔に身体が醒めるようで気分がよいということである。
この家や國枝との距離は、どうしても手探りの中で妙に重苦しくなる瞬間があるのだ。故に、色葉にとっての切り替えや気休めには持って来いというほど最適だったわけである。
 締め付けられてはくびれる髪のシルエットなど最初からなかったかのようにストンとした長い髪たちを首の後ろでゆるく一つまとめにしては、細いゴムで括っている。
こうして、時に揺れる前髪や毛先が甘さの少ない石鹸のような香りを振りまくのだ。
掬って結ぶ髪型では溢れた髪の多くが首や肩に垂れ下がっていたが、一つ結びによって首元は惜しげもなく晒されていかにもスッキリしていた。
重くかかる色がない今この瞬間、色葉の男性らしい骨格が露わになり、物理的な凹凸によって影を落とす顔がよく生活に小慣れて見えた。輪郭がはっきりとしている。
襟のつきのシャツに、濃い色のジャケットでも羽織ればそこらじゅうの人間と何も変わらないのではないかと、色葉でさえ思うくらいだった。
行動を伴うたび首をスーッと通り抜ける弱い風の感覚や、耳たぶがスカスカする感覚をもどかしくしては色葉は結びきれず一部残した横髪を指先で躙る。
手持ち無沙汰に髪へ意識を向けながら、新しく用意された柔らかな寝巻きに袖を通した姿はリビングルームの入り口に立っていた。
そして先のように、『一番風呂は恐れ多いものであった』と告げたのである。
「堪能した後によくも、まあ」
 しっくりと濡れた、悪く言えば厭世を思わせて煙る声の笑みは夜を思わせる。
それはいわゆる色ごとに惑わせるのではなく、ただ単に太陽が沈んで浮き彫りになる影の中の光だ。
いつだって最初に目につくのは影ではなく光であり、それでも主たる環境によって目に入る光の姿は異なるのである。
つまるところ常に最も光の当たる部分を見ているだけだというのに、光が当たっている部分の差異だけでよく脳は勝手な判断をするのだ。
今この瞬間に於ける國枝という男の場合、ぼうっと浮き上がる様が白く健全を欠いた。
今の彼は蝋で死人を再現したかのように冷たいように見える。
冬が近づくたび、夜が早くなるのだ。その横顔を見るたびに勘繰るばかりであった。
 思考を連ねる線が燻り、捻じ曲がる。
日照時間が短くなり、暗い色が地表を占める割合が増えると落ち込みやすくなる人間もいるらしい。
しかし、少なくとも色葉の前にいる國枝は、日中とさして変わらずでおり、彼の自称する卑屈や面倒臭さは際立つことはない状態だ。
だというのに、感情の起伏を大袈裟にはしないはずの國枝の顔立ちにはやけに影が落ちて見えたのである。
言葉の数々を疑っても意味はなく、つまり、導かれるのは『夜の感傷に過敏を知るのは色葉のほうである』ということだった。
知らぬ感傷をしている。
行き着いた先で丸く膨らんだ線を描く疑問が、曲線をなぞり、跳ね返って問いかける。
何に?
「いいんだよ。罰ゲームと称して押し付けたことは大抵の怠惰で考える"面倒なこと"だろう? 誰かが疎ましく思うような面倒事を、事情はどうあれども肩代わりした者には感謝したくもなるだろ。少なくとも、私は感謝してる」
遅れて問いかけに応える自分が居る。
きっと、自分の知らない後ろめたさがあるだけだ。
色葉はそう考える。
それらの思考をよそに、煙草を咥え、灰皿の上に燃え焦げた紙片を掲げた國枝は肩を揺らして笑うと部屋に入るように促す。
 向かい側へ腰を下ろそうとダイニングテーブルへ近づいたが、テーブルに固形の蝋や、罫線もない紙たちが広がっていることに気がつくと簡単な応接スペースに値するソファ側に色葉は腰を下ろした。
テーブルの上にあるものはレターセットだ。
二つ折りで洋型封筒へ綺麗に収まるだろうと推測するのは簡単で、そして國枝自身の持ち物は少なく、大事にする割には物に対して執着が薄い。
気紛れに持ち出されたこれらが本来は彼のものではないことは明確だったのである。
こんな、と言えば失礼かもしれないが。と、誰にするわけでもない前置きを浮かべながらも、色葉は明確に想像をする。
少なくとも逃亡をしていた生活だ。今にものを投げ出して逃げる必要のあるかもしれない日々のなかに嗜好品を得る機会や余裕があっても、これほどまでに手間のかかり、下手をしたら足のつくようなものにわざわざ金をかけて持ち歩くわけがないのだ。
故に、強いられる必要があって認めた手紙ではないであろうが、気を遣って別の場所へ座った色葉は半身を捻り、國枝を見た。
 煙草を咥えていながらも嘔吐くほど煙る白は纏わず、火のつかない草葉の詰められた筒をただ弄ぶ姿だ。
何をしていたのか察するために周囲へ目を向ければ、部屋は紙が燃えた後の微かに苦いような焦げ臭さが充満するだけだった。
ただ、紙を燃やしただけの、変哲もないものだ。
しかし感覚を鋭く尖らせていると、不意に鼻腔に含むそれら一片に鉄が混じるように刺さり、僅かに眉を顰めたくなる。
反射的に口や鼻の近くへ手をやりかけたが、色葉は会話を続ける。
「でも、罰ゲームですよね?」
「頭がかたいな。じゃあ、掃除をしたひとの特権でいいんじゃないか。先の通り、君は私がちょっとやだなあ、と思うことを文句ひとつ言わずきちんと遂行してくれた」
背凭れの天面にちょこりと手をやって身体を捻ったまま、首を傾げる。
目を伏せる國枝の言葉に続きを待っていたのだ。
「私は嬉しかったのさ。別に一番風呂がどちらだっていい。特筆して語ることでもない。だが、君の仕事を嬉しく思った私は、一番風呂までせしめようとは思いはしなかった。これならおかしなところなんてどこにもない。そうだろ? どうだろうか」
「罰とは……? 普通に頼まれてもやりましたのに」
國枝は大袈裟に肩をすくめると片肘をテーブルに着き、その先の手のひらに頭を預けた。
崩れる姿勢で、胸元を僅かに寛げた黒いジャケットの立ち襟が國枝の頬を掠める。目を細める薄い表情と夜の光が導く國枝の姿は彼の輪郭に対する印象をずる賢さにすっかり着せ変えていた。
 指先が煙草の中腹を摘んで口を離す。
「今日の全てが娯楽と言っただろう。考えてみたまえ。バツの方がおまけだよ。バツはゲームという名詞にかかる言葉だ。ならば本質はどこまで追い求めてもゲームじゃあないか?」
色葉の眉がギュッと寄る。
頭にクエスチョンマークを浮かべては、納得の落としどころを探して首を捻っているのだ。
「言っている意味は理解できます。ただ、そもそも、と思うならば罰と娯楽の共存は難しいのでは? あまりよくは聞こえませんね」
「……わかった。君と私では着眼点が異なるな。確かに、常日頃、ニ四時間として複合的な単語の仕組みはいちいち意識しないものだ。今すぐ価値をすり合わせをする必要はないが、私は、これらは君がゲームとして楽しめるうちは娯楽として与えようと考えていたよ。君を罰して正しさに誘導しようなどと考えはしない」
過ごした時間の短さゆえにこの価値の違いに簡単に納得をすることはできないのだ。
故に詳細を次の機会に預けては、今の自分の意図を國枝は語る。色葉は「はあ……」と歯切れの悪い相槌をしながら説教じみた"先生"の話を聞いていた。
「誰が何を考えているかの本質などわかるまい。だが、君が何かを差し出しても良いかなと思うとき、他人も似たことを考えている場合があるだろう。己の考えるに似たことを他の脳が考えつくまいと思うほうが、随分な傲慢じゃないか?」
 ありがたい話よりも火などついてもいない煙草の先に視線をすっかり奪われて、國枝が遊び描く円の軌道へ目が吸い寄せられる。
それに取り分けて深い意味はなく、彼が何かをそれらしいように理屈を捏ねる際の手持ち無沙汰でよく行う仕草だ。
その振りがたまたま煙草を手に持って行われ、色葉は本能的に獲物を狙う猫が如く目を向けざるを得ないのである。
ふらふらとする軌道が次第にじれったくなり、無意味に、宛てもなく苛立つ。視界の端に気を取られてしまって、思考がまとまらない。
 國枝の長たらしい説明口調には幾つかの意味がある。それらのうちでも今の彼が意味するのは、最も目的とする意味を見極めるために頭を使う割合を占めることを許さないかのような言葉数だった。
つまり、今この瞬間で合致させることの出来ない価値観は後のアイデンティティ足り得る可能性があるのだ。國枝にとって、普遍の正しさに簡単には誘導したくはない話題であるらしい。
色葉自身も薄々察している。これらを擦り合わせようとして語るなれば、太陽が昇って朝が来ても終わりやしない。また何度も沈んで、飽きもせず月と交互に昇ってくるだろう。
しかも、そこまでしても、簡単に終わる話でない。簡単に想像のつくことだ。
きっと、長い付き合いになる國枝と延々に繰り替えす"価値"という問答なのである。
「もちろん、良いことがそうで在れば、悪いことも同じくね」
 対話を次回に預けようと頷きかけた瞬間――は、と色葉は目を瞠る。
大人しく、今この瞬間は"罰ゲーム"という単語にまつわる思考を放棄しようと考えたときのことだ。息を吸い込もうとして喉が引き攣る音がした。
 はっきりとした勢いで立ち上がると、大股で近づき、無遠慮に國枝の手首を掴む。
強い力に思わず逃げたがった國枝の背が飛びのこうとすると、椅子のかたい背もたれにぶつかる。掴まれていない腕が封蝋をするための道具たちを薙ぎ払う形になり、テーブルから転げ落ちていった。
遅れて、鈍い金属がやけに耳について鳴るのだ。封蝋の柄を描くヘッドパーツが絨毯越しに固い感触を知って発したのだ。小さく、明るい色をした蝋の塊が絨毯の上で弾ける。
コマ送りのような世界で、金属音は反響のように頭の中でゴンゴンと鳴り続けては、吐き気を催す。
 次第に金属の音は実際に鳴り続けているのではなく、警鐘のように感じる血の流れか、動悸の産物であることに気付く。
色葉の乱れた息遣いに、國枝のじっとりした汗が浮かぶ。
焦りでも、恐怖でもない。國枝の感情は明確に動いて目を大きくしているのだ。
しかし、その筋肉が動いた結果として外見から認められる動揺はあれども、実際の感情を察することは出来なかった。
「待って、ちょっと待ってください。先生、私が戻るまで、なに……してたんですか」
低い声がゆらゆらと震えている。
心臓が冷たくなり、真冬の水に似た血液が滴る。逃げるように反らした背がそのまま固まりそうだ。
色葉の声色を遠くにして、二人は互いに冷たくなる身体の温度を自覚していた。
目を見開く様と声色に追い詰められ、國枝は動揺を浮かべては耳たぶの後ろにあたりに自らの指で触れた。
視線がぎこちなく、今しがた無意識に耳に触れた指先を追っていたのだ。
「何って……てがみ……いや、日記を、書いていた。それだけだが。内容? 聞きたいのか? それはあまりに自分本位で明日には記憶ごと抹消したくなるようなやつに違いない。ああ、悪かった、焦げ臭かったんだろう? 日記は感情の整理には良いと言うが私には向いてはいなかっ――」
「違う。こっち向いて」
 言葉が強く横面を叩くようだ。
國枝はすっかり色葉の焦りに染められては、緊張に息が上がっていた。
普段ならば本心を隠すようによく回る口が空回りを続けて、もはや自らの意志で止められないのだ。
色葉に遮られてやっと口を止めた國枝の表情は、目を見開き、口を何かの言葉を形作った唇のままだ。
そのまま、笑みを浮かべたい様だけがずっと先を行く口角と息遣いをして肩を上下している。
 彼に自覚するやましいことはない。しかし、緊張は伝染をする際に、その威力は凄まじいまでに色葉の圧を乗せて膨らんでいたのだ。
不安材料を並べれば倍々に増えていく重苦しさは、高々とした石の塀を作るがごとくどんどん積み上げられている。
這いつくばりたくなるほどに重い酸素に首が下がる。肩が怒り、獣の警戒する様に似ていた。答えを得られない怒りは目を鋭くして、國枝を睨みつけている。
そうやって敵意にも似た圧を向ける色葉を認めるそのなかでもやはり、國枝は顔を逸らしているだけであった。
「……いや、ほんと、なにも。一体どうしたんだ? 手首が痛い。優しくしてくれ」
耳たぶの後ろあたりを触れるほうではなく煙草をつまんでいた指先は、取り繕う笑みと共に折り込まれた。火のついてはいない煙草の紙筒を一瞬のうちにして手の中へ握り、そして隠すようにしまい込んだのだ。
「やましいことがないならば、なぜ目をくれないのです。それ、煙草。そのフィルターについているものは、血……なのではないですか」
尚も、國枝が視線を逸らす。
 これ以上に語るまいという強い意思と張り合っても意味がないと早々に見切りをつけた色葉はゴミ箱を見た。
ひっくり返してもそこに新たな紙くずがないと悟ると、次にキッチンへ向かう。
見送った國枝がとうとう深いため息を吐いて、色葉がひっくり返したリビングのゴミ箱へ紙くずやその他のゴミたちを戻していく。
よろよろと立ち上がると手を拭き、次には文具たちを拾い集めるのだ。
エンブレムの焼印を施した薄い木箱のレターセット一式を引き出しにしまうと椅子に掛けていた白衣をとり戻し、そのまま部屋を出ていく。
キッキンでゴミ箱を開ける色葉の必死では気付くこともできない静かな足取りだった。

 肌を驚かせるような冷気に包まれた廊下を滴るように歩く様は、二足歩行ながらにさながら"這う"の言葉が適切に思える。
換気扇が不十分な仕事しかしないために窓と扉を開けていた廊下でとバスルームの境界――床材であるタイルの切り替わりを跨ぐ。
すると、バスルームの湿気とレモンバーベナのツンと尖ったハーブらしい独特の香り。そしてその残り香に名前の由来よろしくレモンに似たどこか苦味と相反する爽やかを共存させた香りにたちまち全身を包まれる。開け放った廊下でも少々はそれらを感ぜられていたが、一層濃くなると、頭が蒸し焼きにされそうだと國枝は考えていた。
香りを、服の地が覆いきらない頭部や袖、それから裾の合間にたくさん浴びて、洗面台の前に國枝は縋るようにして立つのである。
 正面の鏡には目もくれずプラスチック製のコップを手探りに取ると、静かに水を注ぐ。
半分より少し多い水を注いだをコップを手のうちで回し、水を攪拌してから透明を煽ったのだ。
そして行き渡らせた水で口腔内を簡単に濯ぐと、下を向いて静かに吐き出す。
途端に白い洗面ボウルに緩い花びらのような色が広がる。朝に目覚め、解ける柔らかな色だ。
渦を描き排水の蓋に吸い込まれていくそれは、透明なピンクにも似た色のイメージとは結びもつかない正体であり、錆びついた生臭さのある血の滲んだ水だった。
 濡れた唇を無意識に舐め、鼻から息を吐きだすと、雨上がりの生臭さに鋭く切りこんでは痺れにも似た鉄を思わせる嫌な臭いが鼻を抜ける。
再びため息をついて、洟を啜っていた。
前髪が一房と視界を横切って垂れ下がる。鏡の中でくたびれた顔をじっと國枝は見ていた。乾いては光の反射を鈍くするくすんだ目をして、目元の薄い皮膚は皺が寄っている。
あまり元気そうには見えない顔で、偉そうなことも言えないものだ。説得力がない。
自重するかの如く、遠くで考える。数分前のことを思い出そうと思考を巡らせると、妙に眠気を感じるかのように精神を摩耗している。
照明がついてもどこか暗く思えるバスルームの鏡に映る悪魔は、木下闇から遠い夏を覗き込んでいたのだ。
焦点のぼんやりとした眼にいつかの羨望を見る。
「正直……重荷だよ」
 返事のない鏡に手を着いて項垂れる。ほとんど吐息のような言葉が明確な音を成さずに掠れていた。
返事なんて来るわけがないのに、像を結んだだけの反射に弱音を吐いているのだ。
普段ならば馬鹿々々しいと一蹴するようなことに縋っている自分が、國枝には己のことながらひどく滑稽に見えていた。
日記はあまり得意ではないと再確認したばかりじゃないか、自分に問いかけてどうなる?
唇がそう考える自嘲のままに、正確には余裕をなくす脳に反して半笑いを浮かべている。
蛇口から垂れる水滴が、洗面ボウルを鳴らして耳に音を聞かせていた。
『なら、はやく死んでしまえ』
そんな悍ましい言葉を、額を撫でるが如く優しく語りかけられたように錯覚している。
鼻から吸い込んだ湿気が脳を腐らせるように、額と脳天の間で燻っては思考を茹だらせていた。
逃げればいつかは楽になれると思っていたさ。
そう答えようとして視界を上げると、見つめ合う暗い色彩の端に、色葉の姿がいつの間にかある。
 扉の建具をいっぱいいっぱいの腕で遮り、微かに寄りかかって鏡を――正確には鏡越しの國枝をしっかりと見ていた。
手には畳んだペーパータオルを持ち、眉を鋭く吊り上げている。
肩で呼吸を荒くしては、首を低くして隻眼のようにも見える美しいべっ甲の目で睨みつけていたのだ。
その姿を認めては『こういうわけで誘惑に絆されて死ぬわけにはいかないんだよな、今はまだ』と弱気な感情を鼻で笑い、國枝は口元を指の背で拭うのだ。
表情を誤魔化すような仕草だった。
「……仮にも他人の血液がついたものやそれに類するを、簡単に素手で扱うのではないよ」
口を一文字にして機嫌の斜めをする色葉を宥めることもなく、枯渇した喉で掠れる囁きを続ける。
「そいつは捨てたし、君が妙を勘ぐるのは焦げ臭いからだとばかりに思っていたが。まさか悪いことに陶酔する興味で咥えたこれに裏切られるなんて、生命も知性も持たない植物性繊維の圧縮がなかなかの皮肉をする」
 色葉の視線が煙草を凝視するまで、本当に気が付かなかったのだ。正確にはペーパータオルをゴミ箱ではないところに隠蔽した達成感で失念していた。
思えば最初から燃やしてしまえばよかったのに。あとから血の色や量を確かめるなんてしなくてもどういうことかなど察しはつく。
今も大事に握りしめていたそれが急速に無価値を示す。色あせるように、陶酔の興味など失せていってしまった。
さして考える時間も必要とせぬまま水分が染み込んでは重くなり、濡れて口の緩んだ煙草を隅のゴミ箱へ放り込んだ。
文字通りの放物線を描き、それを弾きだした指先は冷たく、目はすでに一切の興味を失せていたのである。
ビニールを被せた樹脂容器に水を吸った煙草の打ち付けられる水っぽい音がびちゃり、と耳障りに鳴るばかりだった。
「平気、なのですか」
「うーん。さすがに保存状態はわからぬし、火はつけなくて正解だろうなあ。今に有害だけではない煙が充満していたかもしれない」
 今度は隠れることなくコップに残った水を煽ると、うがいをした國枝は口をつけたあたりを入念に拭う。
ザアザアと鳴る程度の水を出すようにコックをひねり、コップをよく洗うと水をきって伏せる。
伏せた際に角度を傾けるための取手は傾斜を作り、内側を僅かに覗かせる様から落ちきらなかった水が滴るばかりだった。
角度をつけることで水をきりやすくし、清潔を保つためのデザインが素晴らしいと褒める國枝に対し、いかにも日常を続けようとする様に色葉は強く唇を噛んだ。
色葉の思案がこうして複合的に感情をはじきだしても、國枝にとっては些末なあことであり、並べられたガラス瓶の背丈を気にするような比較が時にむなしい。
今だって互いに気にかけることは別の話題であり――むしろ、國枝の語るそれらは意図して逸らすためのものとすら考えられる。
色葉が胸を痛める様を信用しないのだ。
故に色葉は率直に抱く複雑が、苛立ちに似た焦りが、攻撃的な怒りに姿を変えることをどうにかしたいと考えているのである。
しかし、願い虚しく焦りばかりで煮えたぎる苛立ちは、國枝が普段コミカルに軽口を語るときのような声色によって冷たいところへ突き落とされた。
頭はサーっとまるで表裏を返すことと同義に冷静に切り替わるというのに、腹の底や胸を支配する苛立ちはついぞ吹きこぼれてしまったのだ。
「風呂、空いたんだろ。私もいただこうかな」、という極めてなんともない日常の言葉のせいだった。
「……あなたの話ですよ、あなたの! その身体の!」
突然の怒号に対して『なんだ、急に?』、という表情をしたままの國枝を無遠慮に抱えた色葉は、普段のどこかぼうっとした表情からは想像がつかないような速さで動く。
 驚いた猫のように身体を硬直させた黒いジャケットを纏う姿の襟を引っ掴んで連れ去ると、掴まえた際の荒々しさはどこへやら今更リビングのソファへ丁寧に寝かせる。
襟元を釦のもう一つぶん寛げてやり、首の付け根に指圧をかけて検脈を試みるのだ。間を計り、何度か頷く。
次に口元に耳を近づけて、呼吸に掠める喉笛が嫌な音を立てていないことを確かめる。
そして、表皮から感じる温度が不気味にぬるいことを除けば目で見ることのできる明らかな不調や緊急性を感じないことを思うと静かに立ち上がるのだった。
リビングルームを出ると、屋敷内を足音が響くほど駆け回ってはテキパキと毛布を集め、手元に用意をし、ボウルと濡れタオル、そして沸かした湯をわざわざ水で割ったぬるま湯などを多く並べた。
 次に國枝が何かを考えて姿を見つめたとき、色葉はローテーブルに並べた数々を見渡し、指折り数えていたのだ。
端から端までを二回数えると、思い出して吐き気を催して困ることがないようにとキッチンから紙袋を探し出す。それに蝋引きの加工がされていないことに気づくと内側にビニール袋を丁寧に被せ敷くのだ。改めて眺め、満足をして息を吐く。
それから、角砂糖を一つ見せ、身体を横たえる國枝に問うのだ。
「水など飲めそうですか? 口にできそうならば甘くします。それから、塩も。経口補水液の真似事ですが、それに似たものをお持ちします」
改めて肌の温度や脈を測るために手首にひたひたと触れる指先に対し、國枝は目頭に不快の皺を刻んでいるもののされるがままに自由にさせて目を閉じていた。
眉根が一層寄り、瞼はぴったりと閉じたまま小さく首を振ることが答えらしかった。
一通りまさぐられてから、國枝は肩が広がるほど深く息を吸い込む。そして鼻からゆっくり吐くのだ。
「……君が心配をすることなどない。いつものことだよ、身体の欠陥など」
身動ぐ國枝は、いつもならば余裕を見せているはずが何処へやら毛布の端を掴むと寄り自身へ引き寄せる。
「なに、不摂生が祟ってるだけさ。自覚はないだろうが、君の心身より私の方がマシだよ。やめてくれ、重ね重ねに語るほど"病人扱い"は嫌いなんだ」
そして目の前で倒れかかっているのは自分だというのに、『君はすぐに熱を出すのにそれを言わないで亡霊のようでいる』だの『過去に当事者になった事件の後遺症で強くストレスがかかると君は一時的に物覚えが悪くなる』だのと吐き捨てるように語る。
 まるで親類が会うたびに遠い昔の話をするばかりのイメージそのままに國枝は静かに語るのだ。故に、色葉は静かに聞いてやる。
親戚という血筋の群れにおいて昔話を遮ると面倒であることに対して経験は当然のことないが、母国に住んでいればまま聞く話という概念であることを理解しているのだ。
意地になっている様子ではないが時たまに奥歯を噛み締める様からして、不憫に思われるのを心から嫌っていることだけは理解することができた。
ただ、色葉が相槌をたまに挟んでは静かに聞いていると、國枝は記憶の中で何かを見ているのか次第に目元を柔らかくし、遠くの霞を見るようにしているのだ。
今の彼にとってはそれがせめてもの救いなのかもしれない。そう思うとなおさら相槌以外のことをする選択肢を色葉は持ち合わせなかったのである。
「すまない。大人げなくも八つ当たりだった」そう言い、語りを締めくくった國枝は最後にもう一度、普段よりましてゆっくりした語調で謝罪を口にした。
色葉は気の回らない己を恨みながらも、今の自分には何も言えることがなくて黙っていた。握り拳は膝の上に、腕は突っ張ったままのいかにも緊張をした姿勢で静かな語りを聞いていたのである。
「……それに、君は、たぶん。その、いい。率直に君は、私のことを慕ってはくれたが、きっと同時に嫌っていたんだ。私はそれでもよかったが、いや、本心ではよくないが、とにかくそれが、急に向き合われたら」
 言葉の間にある行間――空白を読もうと勘ぐれば、悪いことも良いことも片手では足りぬように次々に浮かび、唾をのむ。
緊張に対し汗をかいたせいで、髪の上部が膨らんでいるように思える。
頭を振り、手ぐしで側頭部で垂れ下がる房を整える。それから色葉は前を向き、心配が多岐に及んでは不審を覚えた菱形をする目で見つめ返した。
「わからなくもなるだろ」
間をたっぷりとって吐き出したものに感情抜きの結果だけを求めるならば、色葉はその答えに心底気が抜けた。
脱力し、自分もそれになにを返すべくかわからない。
同じくして間を求めれば、その"わからない"が本来誰に向くべくかを無駄に考えて糸が絡み合ってしまう。
そして秒針が一周をするか否かを境に考えることはやめたのである。
國枝が自身の『先生』――つまり師であることを都合よく解釈して、『師のまだ及ばぬ答えに対する応えも同じくして不足し、答えられるものではない』ということにしたのだ。
なにより、その答えは結果として評価するには意味がないに等しいことが明確でも、その言葉を紡ぐ音の表情を見れば人間の感情として大事であるが故の答えであるのが一目瞭然であった。
「そう、なのですか……?」
「まったくもって馬鹿々々しいだけの話になる。不幸自慢みたいだ。これをするたび私欲を施しという体のいいみてくれで覆ったもので可愛がられる。不憫に見えるそうだよ。全く身の毛がよだつほかない。やめてほしいんだ。本当に」
 まるで二人きりの生活は、こんな調子が"普通"なのだからみなまで言ってくれるなと言いたげな語調だ。
つまり、己の健康が相手の健康と同じ基準で量れるとは限らないということである。
しかも、彼の言葉曰く、自分も心身が強いわけではないらしいが故に、この生活における身体への過度の心配は、時にかえって嫌味らしい。
別に國枝はそれに怒っているわけではないが、きっとそれらが続くと互いに息苦しくなるのだろう。自分も調子を崩せば一瞬で理解の出来る状況になるであろうことは簡単に想像が出来た。
ならば、この生活における健康の基準を二人で定めれば良くて、そしていままではそれをして成り立ってきたのだろう。
忘れてしまってこれを知らなかったのだから仕方ないし、互いにそれへ腹を立てるわけでもない。二人は生活を確かに続けてきて、それが本来円滑に行われてきたことも想像できる。
このことを知った今の自分にも取り分けてに嫌悪はないし、以前はしっかり共有されていたことならば、ただ、浮かぶ疑問は一つきりだ。
――なぜ、色葉は國枝先生という存在を嫌っていたらしいのだ?
「君はそうやってなんでもないと飄々を貫くというのに、この身体はすぐガタが来る。堪え性がないんだ。恰好がつかないことこの上ないよ」
ついに背を向けた國枝がであるが、二分としないうちに色葉に向き直して語る。
あからさまな咳払いと共に、だからといって突き放すことは良くないことであるとして改めて歩み寄ろうとする姿そのものだった。
「やっぱり……水、もらおうかな」
色葉が用意したテーブルの数々をみては、洗ったばかりのそれらに水滴が滴る様を見ているのだ。