まるで眠るようだ。
うっかり手を緩めるならば、ヘリウムガスで浮かぶ風船を括る紐を離すことそのままのように気をどこかへ飛ばしてしまいそうなのである。
地につかない足がどんどん地表から離れて、首に絡まってしまうのではないかと思う。
抗わなければ酸欠のように日常を奪われ苦しみ、無知に甘んじれば引力の法則といつかつり合う気の病で首吊りのようになるのだ。
 瞼が持ち上がると、全てが空想じみた霞になる。
もしかしたら、本当は夢を見ていたのではないだろうか。眠っていたのだろうか?
まるで自分に無関係のように思えた。正確には思いたかったのだ。
確かに、國枝の語る言葉は色葉にとっては無関係ではいられないうえに、経歴を考えればあまり聞きたくない話題なのだろうな、と考える。
『だから、仕方のないこと』と、そう言い聞かせるだけだ。
感情をどこにおいても、事実は事象の結果のみで付きまとう。故に、『だから、仕方のないこと』以上も、以下もない。
それが色葉の答えだ。
 ザブザブと足元に広がる意識の水面を掻いて色葉は俯瞰した自分の前に立つと、肉体と魂とを重ね合わせるように抜け殻の座る椅子に腰を降ろした。
魂は骨と肉の檻に収まり、瞼は改めて、現実の肉体として開かれて像を結ぶのだ。
間違いなく、多少なりこの歴史に自分は干渉している。しかも、暗がりによく似通った部分の産物だ。
それだというのに、頭は言葉の意味に理解を示しても、経験の足並みが揃わない。
不思議だ。だからこそ、こういった度に奇妙に形容し難い浮遊感は俯瞰をして身体を抜け出した。
褪せた秋の薄っぺらさを持ちながら濃淡だけ深い色が延々と続く廊下を漂って、気が済んだら戻ってくるかのような想像をしている。
今更ながらに言うことでもないが、自分が自らを國枝と名乗る実質一切が不明な男に騙されているのではなく、明らかに欠落した何かが存在することを事実として確かに思えたのだ。
もしそれらを真っ向から否定しているのならば、どっかりと椅子に座ってはふんぞり返り、背もたれに腕を回すだろう。
仮に自分が無関係であると絶対を言えるなれば、如何にもつまらない顔で聞くような話題ばかりだった。
なぜならば國枝の話は長いし、わざわざ遠回りもする。それがわざとだと理解できるのだ。
気遣いかもしれないし、彼の出す何かしらのサインなのかもしれないが、やむを得ない事情が自分にはあって問い、答えを求めいているのも事実なのである。
特別に親しいわけでもないはずであるのに、踏み込んだ先で感性の噛み合わない自分達を認めていくことになるのがとても息苦しく感じられていた。
ただひとり、誰よりここに己を証明する人間に、拒絶のような遠回りを思わせられることをひどく寂しく感じるのだ。

 國枝はカードをめくり、ペアを作ったカードを得点として手元へ回収していった。机上は依然として黙りこくって、静けさが並んでいる。
正確にはチェス盤がきれいに片付けられて、唐草がベースのデザインをしたトランプが一面に並んでいた。
カードの配置がある程度に出揃うまでは運の要素も多く絡んでくる神経衰弱というゲームは実力や策といったような頭脳戦とは無縁だと思っていたが、僅差で負けた色葉はついに今日のうちで勝ち星を取ることはできなかったのである。
記憶を失くして語るに意味も説得力もないが、少なくとも、短期間における記憶能力には申し分ないと自負するのだ。
言われたこともよく覚えている。目覚めてこのかた、一字一句までいかずとも、それなりに精巧に國枝の言葉を文字に復元できる自信すらあったのである。
だからこそ、色葉は國枝を前にして憚ることなく項垂れていた。
プライドや負けず嫌いという言葉は完膚なきまでにへし折られて、足元に残ったそれらを構成していた基礎の部分を眺めているような想像をしている。
ゲームの内容が変わるごと、事あるごとに『手加減をしないでください』と言い続けたものの、最後のほうはそれを語ることすら恥ずかしくなっていた。
その上で、引っ込みがつかずに同じ言葉を定期に重ねる色葉を見た國枝も気の毒そうな顔をしていたのだ。
紅茶の減りが早くなるたび、反して体温は上昇する。
アルコール度数の高い酒かと錯覚するほどに色葉は頬の最も盛り上がる位置から肉を赤らめ、少なくとも三度はカップの縁と中身をを凝視したのだった。
かくして恥を覚え、背はどんどん丸まっていったのである。
机上のカードが減る度に焦り、記憶は自信を無くして曖昧になる。そのなかで人間の頭部を支えるには結構な筋力が必要だと知るのだ。
そして、ついぞ首が自重に垂れるを楽と知ったのだった。
 話に区切りがついて、話の間にも遊びの種を変えつつ継続されていたトランプゲームに意識を向けようとしたその頃だった。
何度目かわからない勝ち逃げを前にしてか、長く続いた現代の定義についての話のせいか、なんだかどっと疲れていたのだ。
もはやトランプのカード越しに國枝を八つ当たりに近い表情で睨む幼稚さすら存在しない。つけ加える声に僅かに顔をあげるだけで労力を必要とするほどだった。
彼は色葉の要望に応え続けただけなのだから当然のこと負け惜しみに睨まれるいわれもなかったし、世間や記憶喪失に語って聞かせる話が長いのも至極当然のことだ。
『それらに乱された』と、負けた理由の言い訳にでもしたくなる幼稚に支配された色葉はかみ砕くたび未だ己を恥じている。
仮に、トランプゲームの記憶まで無くしたか、そもそもこれで遊んだ経験が少ないにしても、どうしても悔しかったのだ。
國枝の言葉を待っている間にもトランプの数字を見つめていた。
「……この話たちは悪いことばかりでもないよ。我々にもある意味で、もしくは様々な意味で、転機が訪れたしね」
 流石に疲れ果て、再戦をせがまなくなった姿を見送り、國枝はトランプを数字順に並べ直すという片づけの作業を始めた。
「なぜならば、君はあまりに追われの身ではない生活をしているだろう? 自覚がないなら君の辞書に"逃亡"の意味を新しく書き加えるべきだ。しかも、早急にね」
抱えたカードをテーブルの天板に軽く打ちつけ、端を揃える。
手の中であちこちを向いていたカードの角をぴったりと揃え合わせられていく様を色葉は眺めていたのだ。
カードを見つめていた間に自然と國枝が片づけを始めたためである。
その彼の指先は丁寧であり、今日という日の時間を譲ったというのに言われない負け惜しみの言い訳を抱かれていることをものともしない。
完璧に負けたのは自分の方だと色葉は妙に納得がいった。悔しいとは思うものの、彼が相手ならば仕方ないと胸の整理が急についてしまったのだ。
 色葉は皿に残っていた最後の一切れを促されては、手を綺麗にしてからサンドイッチ食み、國枝の手元で改めて整理されていく数字の札たちを眺めていた。
娯楽の中には駆け引きの要素を含むゲームがあったため、頭を使うのだ。ならば、当然に腹も減る。
丁寧に片づけを進める國枝のことを几帳面だと評価しながら、妙に美味く感じる白いパンの地をよく咀嚼していた。
こうしてすっかり綺麗になった胸の内で背を正すと途端に、目の奥が疲れていたように、瞼ではなく眼球の底が重くなるような感覚をしていることに気付くのだ。
目頭を押さえながら色葉は頷いていた。
「疑心暗鬼はあれど人間は人間を尊ぶことが現世の美徳で、地方の生活に紛れて潜むことは実に有利になった。悪事を働く人間はまず見つからぬべくと更に行動を狭めるために……治安についての発言は避けるがね。我々はいわば秘匿の私設団体から逃げればいいだけの話。公共"には"やましいこともないさ。過剰な接点を持たず、ただ静かにしていれば突然に裁判所だの警察だのに連れては行かれまいよ」
数字と色を綺麗に分けたトランプをケースにしまい、一番上に日焼け防止のパラフィン紙で出来たカードサイズのグラシン紙を敷く。
最後に噛み合うツマミが摩耗したケースが些細なことで開かぬように幅太のゴムバンドをかけるのだ。
それからすっかり冷たくなった紅茶を一気に飲み干した國枝は改めて色葉を見つめた。
途端に奥まで覗き込むような静けさが漂う。
「とにかく、ここ二年――いや、満二年とまではいかないか? その間、我々は我々の都合で此度のような拠点変えを一度か二度したが、追手にはおそらく勘付かれていない。この生活もずいぶん長いが、こんなことははじめてだ」
 薄い表情のままでふっと息を吐くように笑むと、自身の側にある皿に残った細切れの焼きパンを差し出した。「もしよければ、これも食べてくれ」
國枝が食事の量をさほど必要としないと発言から察する色葉が、上半身を乗り出してテーブルを挟んだ皿の受け渡しをする。
差し出された皿から得た細切れの焼きパンを、ウサギがニンジンを食むようにポクポクと咀嚼していた。
振りかけた砂糖がつく指先を疎ましくするために次はフォークでも持ち出そうと思いながら、こんな時に箸でもあれば最も良いのだが、とも考えている。
「君に執着をする人間が道半ばでくたばったのならば飛び上がるほどめでたいがね。最近また周囲が不穏な話を聞く。せめて今のうちに生活を楽しんでおきなさい」
階段の下を見るように視線を逸らしかけた國枝の瞳がすい、と横目をして返ってくると色葉を見る。
そして愉快を語るかのようにウインクをしては、膝に手を着いて緩慢と立ち上がるのだ。
「さあ、夜は何を食べる? 実は肉も買っていてね。昨日より豪華なのは約束しよう」
 結果的に日が傾くまで娯楽を楽しみ、片付けのために後追いで立ち上がった色葉がよろめく。
座っていただけのつもりが単純な身体の疲れや、体感のうちでは乱高下したような体温。そして急に行動をしたことの血の巡りで目眩を起こすのだ。
頭は想像より思考を回していたらしい。故に國枝から少し休むように勧められて、素直に頷いたのだ。
そして、当然のように数時間後には後悔をしていた。
 大方のところ夕食の準備が済んでいた食卓を前に、自身も働かなくてはと思うのだ。
「結局のところ、本当に一度も勝てなかった……のでは……?」
風呂掃除をする予定を控え、しっかりと努めるつもりでいるものの、仮眠の上に食事をしたならばついぞとんでもない億劫になる。
現状のバスルームはある程度の清潔は保つものの、湯を張るならばもう少し丁寧をした方がいいだろうとも思う。全くもって國枝の語る通りだった。
しかし身体は少々疲れが残って、食事によって血糖値が上がればついに『ちょっと面倒だ』と、声に出てしまいそうだ。
そう思うからこそ、身体の怠さと戦いにうっかり負けそうになりかけるが、しかし自身のプライドにかけて色葉は袖やスラックスの裾を捲り上げるのだった。
「怠くなっちゃうので、先に掃除をして来ても? ええ、食事が冷めてしまうなら私の意思を優先させる必要はありません」
悔しさを未だ呟きながらバスルームの掃除へ向かう色葉を見送りながら、素知らぬとして澄ましている國枝は本を読みながら言葉を送ってやるのだ。
「温めるだけさ。ごゆっくり」
その声が届くか否かで、言葉が繋がる。
「それと。落ちこんでいるより食事を楽しむ君が見たいから、ついでに顔も洗ってきなさい。勝負ごとには一度も勝てなくても、私のやる気を折ることには君が勝ったじゃあないか。それだけで君はある種の勝利をしているだろ」
言葉を聞いて一瞬、何のことだと思った色葉であるが、すぐに気付く。再三の"もう一回"をせがんで、國枝から『チェスはやめにしよう』と引き出したことだ。
「我が強いという意味で?」振り返った色葉が恥ずかしがるような、恨めしいような視線を向けると、肩を竦める態度とおどけた言葉が返ってくるだけだった。
「さあ? 私のそれに負の側面はないから、君が思うものを答えにしたまえ」