簡易的な応接スペースのようにソファを配置しているリビングルームの南側で、國枝の向かい側に色葉は腰を降ろした。
國枝が頭を撫でてくるから好きにさせてやったのだとも言い訳をしながら気恥ずかしさをやり過ごそうとした色葉が改めて離れ、自分用のマグカップに温かい紅茶をたっぷりと淹れきたところだった。
そして座面はおざなりにしても背もたれだけは綿を入れ替えるなどの手入れをしていたらしいソファに背をすっかりと預け、深く息を吐く。
再び起き上がりはしたものの、肩から身体の流れに沿うようにかけた毛布にすっぽりと収まった國枝がそれらを見送ってからグラスの縁を視線でなぞり、口を開く。
今や空のグラスだ。残った水滴に映る反射の色が、逆さまの内側に小さな色の世界を形成している。
 彼が今に発する言葉たちは、よく回るそれを平時の軽口と同等であると考えるには随分と穏やかな声色だった。
「まあ、そういうわけで君の所感でいうと、私は私の内臓を新鮮に――健康な便宜上の同一体にしたいがために実験を繰り返すマッドサイエンティスト、だと……ふむ、面白い。普通は思っても言わないほうが明らかに賢いところも含めてね」
考えなしではなかろうと促されて答える。
「……私の中では解決をしなかったし、恐らくひとりでは解決することもなかっただけです。ならば聞くほかないでしょう」
間を空けてから、色葉は呟きに等しい声量で答える。そして自分のために淹れた温かい紅茶を啜った。
本心では國枝を休ませるためにそばに求めた温かい手を離れたということもあったが、結局のところそれに耐えられなかったのは他の誰でもない國枝である。
身体を休めるために瞼を閉じたはずが、國枝は五分も堪えきれず口を開いたのだ。
感動の半減もいいところではないかと皮肉めいたことを考えつつも、まだ十分に灯を胸に残している色葉が言葉に返事をする。
故に、このやりとりが疎らに続いていつもと変わらない対話が延びきって続いていたのだ。
「仮定が事実だとすると、きっと今頃の君は口封じとしてズタズタの肉片になっただろう。床板の木目を泳ぐ夢を見ていることだぜ。永遠という停滞の中でね」
 物騒を口走る言葉を疑ったが、彼をマッドサイエンティストとする際に共に語られるのが"猟奇趣味の殺人鬼"という表現なのである。
当然のこと必ずしも結びつく必要もなく、根拠もない。
全くもって面白おかしい話であるが、これは國枝が目覚めてすぐの色葉に選択を迫った際に聞かせた脅し文句だ。
故にこの生活で、想像だにしない突飛はすべてこの表現に帰結する。
それほどに二人の印象に強く焼き付いて、普遍への疑念や、互いが互いの持つ多面的な個をすべて知らないが故の傲慢を時に顧みるための一つの合言葉のようになっていた。
いかにもなステレオタイプな表現や音の響きが特に気に入ったのか、國枝は気紛れか思い出したかのように引用をするが、色葉はなんてことはないと軽口に返す。
事実としても彼がマッドサイエンティストでもなければ殺人鬼ほどの共感もできまい倫理の欠如があるわけでもなかったのだ。
なによりそれらを想像をした際に、彼の微笑む顔を想像するわけがない。
國枝のことを少しばかりしか知らないというのに、色葉は己の主観のみで『少なくとも、自分の知る國枝先生とは結びつかない』としか言いようがなかったのだ。
滑稽にも盲目であり、どれだけ低く見積もっても、國枝という男を表すための根拠を誰ひとりとして証明してくれなくても、國枝は自分を心から害する気はないはずだと過信していた。
「私はピンピンとしていますよ」
「で、あるならば"そういうこと"さ」
 すっかりペースに飲まれた色葉が、穴の空いた箇所から空気が漏れるような息遣いで「はあ」と返事をする。
國枝はキッチンに常備しているものではない使い切り用の角砂糖をテトラパックに詰めたものを転がしながら、自らもコロコロと鈴を転がすように笑った。
「さしずめ私はテセウスの船で、君はスワンプマンだな。そう、思考や理論を問う題材としての。仮に弱る身体の様々を入れ替えて延命を試みる私と、一般常識や根底のパーソナリティを持ったまま個のための核を失った君。『正体』は何かってはなし。私たちの根幹は何なんだ? 君は何だと思う?」
 ザララと音を立てる角砂糖がテトラパックの面にあらわれて、長い時間の経過で角を落としていく。
その様に目を奪われている。
ひとりの人間を個として、個たたしめるものが何なのか。何が残っていればその人間が同一性を保っていると語ることが出来るのか。
思想に依存する問答に、ひとつだけの間違いない解など存在するわけがない。
問答は問答のまま、目を伏せる。
「さらに人造生命体――ヒトクローンであるという意味で考えれば、一部はダブルミーニングでもあるだろうな。私たちに適応される場合のこれらの設定はさ。二一世紀半ばまでの流行りで語るなれば、劣悪な私欲に満ちたマッドサイエンティストの私はいつかの未来で君に討たれて、君は晴れて自由の身ってやつだろうね」
言われてみれば、薄暗い研究室に生き埋めにでもされる卑劣な倫理に踊らされた研究者の姿が想像できないわけでもない。ただ、やはり色葉の想像する姿が國枝に結びつかないだけだ。
よくあるシチュエーションとしての展開を理解は出来ても、登場人物が國枝であったとしたら、共感は出来ない。
「まあ、うーん。言いたいことの理解はできますね」
「流行り当時の景気も加味すれば、君は私を討つがそれは必ずしもハッピーエンドではない……なあんて、明るいんだか暗いんだかわからない演出が好まれるのかもしれないが。エモーショナルだろ」
「ああ……」そういったように、歯切れが悪く、ぼんやりとした共感が流れる。
もはや暇つぶしの軽口に話題は流れているというのに、何を返すのがこの絶妙に息詰まる空間で適切か理解ができないのだ。
しまいにそもそもの分岐をする前の大本になる話題を振ったのは自分なのに申し訳ないと膨らむ複雑で「ううん」と唸り声が漏れる。
「悪かったよ。本当に。馬鹿にしたわけではないさ。なあ、明日も明後日も、いや、いつだって。そんな君の言葉をたくさん聞かせてくれよ」
「それがあなたにとって、どんなに馬鹿げたことでも?」
「もちろんじゃないか。答え合わせの日を待ちわびて空想を重ねよう。そして國枝という人間が至ることの出来なかった解をせしめて、証明をしてくれ。ああ、だれでもないこの私にね」
 國枝は目にいくつもの光を浮かべ、そして力強く頷く。
視線が色葉の胸に根を張って蔓延る不安を一瞬のうちに焼くのだ。
しっかりとした声音に肌がざわつく。
なぜだかうっかり涙が出てしまうのではないかと思うほど強く、そして真っ直ぐに、言葉は色葉の感覚を受け取る全ての器官に打ち響いた。
はっ、と息を吐いて思い出したことであるが、呼吸を一瞬だけ忘れるほどの、それほどに大きい衝撃だった。
「積み木は一気に崩れるほど面白い。不確定という要素は解を求める学問では厭われるかもしれないが、本能に正しくそして忠実に生きるには最高に酸素を旨くするスパイスに違いない。私は君と、実質答えがないだけの問答を無駄だとは到底思えないような話をたくさんしたいよ」
ざあっと一面に花が咲いたように、目の前に光が弾ける。
口元が締まりなく笑みを描いてしまう。春と夏が一気に来たかのように、今に身体を動かしたくなるのだ。
そんな衝動に駆られながら、同時に、國枝のことを再確認をする。
 この人にとって知識や思想を得ることは、人間が生きるために食欲に飢えては求め、食欲を満たすことに夢中になることと同じなのだ。所謂三大欲求のように、食欲や、睡眠欲や、排せつの欲と同じなのである。
さらに正確にこれを言うならば、それが学問として正しいか否かなど些末な問題で、彼は個を保つ人間が考える星の数ほどある思想を聞きたいらしいのだ。
人間に三つ数えられるもののうちのどれかが広義の知識欲に置き換わっているのか、もしくはこの人には本能に数える欲がもう一つ存在して、第四の欲求が知識や思想をひとつでも多く頭に入れて理解をしたいという欲なのである。
冷静な分析の反面、國枝の言葉によって目覚めた温かい感情を確かめるように胸に触れている。次に緩む口元を覆い、最後には恥ずかしくなって色葉は顔の全てを両手で覆い隠した。
ぬるくてカサついた手が頬に触れ、風呂上がりが冷めてきた身体がまた熱くなってくることを自覚する。
温かい飲み物はもういらなくて、今は氷をたくさん入れて冷え切った水が欲くなってしまった。
感情を直球に言葉として向けることはとてもエネルギーが要るように、それを受け取って昇華することにも、エネルギーが要る。
思考は比較的平静の近くにいるが、狭間で振り回されている身体がずっと茹でられているかのような感覚をしていることもまた、確かだった。
「たとえ研究対象だからとしても、そこまで直球に言われると、少しばかり恥ずかしいのですが……。先までの自分の発言が恥ずかしいのですが」
「君が恥と思ってそうなるなら……ふむ、自室に戻ろうかな。気を悪くしないでほしいんだ。想定外を君が言うから口数が回ってしまった。私のほうも少しばかり気恥ずかしさからのからかいとは言えど、君が嫌なら立派なハラスメントなのだから。すまない」
 毛布を空いているソファに移しさっさと去ろうとする國枝に、色葉は掴みかかりそうになりながら毛布を奪い取るための手を伸ばした。
「駄目ですよ! せめて、あと……そう、そう、三十分はここに居てください。お身体の調子が安定していない状態ではとても返せません! あなたが居なくなったら困るって、昼も言ったと思うんですけど!」
毛布を取り合って腕を大きく動かし、手繰る毛布を引っ張り合う。
國枝は大きな動作で毛布を奪い返すと片方の口端だけを上げ、瞼を細める。そして強く挑発をする表情をし、喉をクツクツと鳴らしながら面白がる視線で色葉の輪郭をじっとりと撫でるのだ。
「……なんだ、明らかに取り乱してたろうに発言の大体は覚えているのか」
「だから! 恥ずかしいんですってば! もう、もう! とにかく横になっていてください。お願いしますよ。お願いですから。ソファがあまりに固いならば他所の部屋からマットレスでもなんでも引っ張ってきますから」
毛足の長い塊があっちへ行ったりこっちへ行ったりして、その過程をいたずらにして肌を撫でるものは柔らかな生地であるのによく摩擦を生む。
どんどん熱を上げるやりとりに、同じく興奮した声色の國枝が苦言を呈する。
どうにも簡潔を求めて、短い単語の組み合わせのようなひとことだ。
「力が強い。毛布が千切れる、離しなさい色葉」
「だめです。先生が、諦めて、ください!」
一音一音に間を持たせ、それでも勢いをつけた言葉と共にする運動で毛布をすっかり奪い取ると、色葉は自らの足元に投げ捨てた。
暖かな毛布の塊は床で黙っており、この部屋で二人以外の全ては今までもこれからもずっと静寂を漂わせていることを強調するばかりである。
そんなことも気に掛けず、肩で大きく息をしていた二人は見つめ合っていた。鋭い目で、せめぎ合う意思を競わせていたのだ。
くだらないこととわかりながら、睨み合って、じっと構えている。時間を浪費して、視線だけの探り合いをしている。膠着を継続してばかりだ。
こうして極限まで引き伸ばしたそれが自重でぷつりと切れる頃には、どちらからともなく「はは」と気が抜けるような笑みが浮かぶばかりだった。
その"くだらないこと"が急に面白くて仕方のないようなことに思えてくるのだ。
 ひとしきり、声を上げて笑い合う。
色葉は汗に薄っすら膨らんだ髪の間に熱気を孕んで、滲んだだけの汗を抑えるために額を拭っている。
顔を突き合わせる向かい側で國枝はジャケットの襟を摘まむと、手を前後する動きで襟元の生地をはためかせて胸元に涼を取り込もうとしていた。
「いい運動だったじゃあないですか。この調子であなたを動かせば楽ですけれども、他の部屋は今更あかりを灯しても温かくなるまで時間を要します。我慢してください。無理はなさっておりませんか?」
「ああ、大したことない。食後の運動には持って来いだった」
ソファにどっかり座る國枝は腿のあたりに肘を置いて前かがみになると、首を垂らして下を向く。
草臥れたような姿に、髪の短い國枝も汗でうっすらと髪を膨らませたり、顔を赤くしたりといった端々から先の攻防の余韻を感じることが出来る。
つい盛り上がりを見せたところに無理をさせただろうかと曖昧に手を彷徨わせたが、國枝はそれを不要だというかのように制止をハンドサインでして見せた。
息を整えると、今度はきちんと顔を合わせて語るのだ。
「今は君のこと、頼もしいくらいさ。大丈夫。ついでに、ちょっと内臓が出てきそうな程度だしね。……嘘だよ、怖いな。きちんとした生活をすればこんなに困る身体ではないから、明日からはもっと気をつけるよ」
 その言葉を聞き終えてから、色葉は眉を顰める。
「何をおっしゃるのです。流石に無理があるお言葉ですよ。機械の充電とはわけが違うんですから」
指先同士を絡め、手遊びで誤魔化しの間を繋いでいた色葉が、気のまずさに負けて自身の髪の毛に触れる。悪癖ともとれる、行動の癖だ。
「……でも、確かに、先生もお疲れでしょう。自意識の過剰でもなく恐らくの事実を語りますが、その心労には私のことも当然あるでしょうし。ごめんなさい」
会話の中で謝ったり、へりくだったりすることはあれども、しっかり頭を下げて謝るのは初めてである。
色葉は絨毯の刺繍柄を眺めながら、頭を下げ続けていた。
驚いてそのつむじを眺める國枝はしばらくは黙っていたが、次第に自身の首の後ろや側面や、鎖骨のあたりに触れて気を逸らす。
落ち着きがないようにも見える動作は返答の内容を決めあぐねたようでもあったが、次に開いた口ぶりは答えは初めから決まっていたかのように明確とはっきりした言葉たちだ。
正確には、会話を始める"出だし"に迷っていたのである。
「君のせいだって? まあ、そりゃあ……君が寝込んでいるあいだはずっと緊張に満ちていたし、反動があっておかしくない。想定の範疇さ。語弊を恐れずもっと強く言えば、『当然のこと』ってくらい」
 色葉に顔を上げてほしいと伸ばした手を一瞬とめて、自身の指先を見る。
時々欠けて、不揃いに伸びた爪だ。細かい傷のたくさんついた指の背だ。
慰めるように肩へ触れることを辞めた手から力が抜け、空を彷徨っては、行く先を失くしている。
結局のこと丸めた手は何に触れることもなく、言葉が通り過ぎるとすっかりおろされて仕草を辞めてしまっていた。
「逃亡というのは、追手の影に怯える日々のことをいうだけで。……追手は、私が知る私の中で二番目に嫌いな人間なんだ。それだけでずっと憂鬱さ。よく飽きもしないとも思いもするしね」
「ええ」
相槌が小さく聞こえる。蝋燭の火が今に消え入りそうな声だ。
國枝は空白を呑み、続ける。
「だから、事実として君に非と思えるようなことがあっても、余計な勘違いはしなくていい。もっと自信を持ちなさい。決して君の記憶のせいだけとは限らない。なんなら私は君の記憶は戻ってもいいし、戻らなくてもいいんじゃないかと思い始めている」
誤魔化すように髪の毛を耳に掛けながら、すっかり冷めた紅茶のマグカップを再び手に取って色葉は笑った。
「ええ」、「ああ」と曖昧に相槌だけの返事をしているのだ。
どの意図を選び取ろうと意味しても色葉にとってはまだ理解も共感も出来ないことであり、あまりに言葉が出てこなかった。
こういうとき、どんなふうにすればいいのだ?
思わず視線が下がる。紅茶の色に、逆さまの自分が映りこんでいた。
世間話というものはどのようにしてやり過ごすのが良いのか、まったくわからない。
いままで経験してこなかったわけでもないはずなのに、飲み込んだ言葉は二度と浮かび上がることなどなかった。
それらは飲み下せば、憂鬱など底に追いやって溜まっていくだけなのだ。
消化されるわけではない。そこに追いやられて溜まっていくだけである。目を伏せたまま、頷く。
「……ありがとうございます」
衣擦れが囁く。
國枝が静かに首を振ったのだそうだった。
「今は残酷に聞こえるかもしれない。しかし、君にもその意味がすぐ分かる。記憶がないことに苦しみがあるなら、記憶がないことで救われる幸福だってあるということさ。事実としても、私から言わせれば君もすでに気付かずに通っている。客観の極みではあるがね」
その末尾に付け足された言葉によって、それを判断する主観がどうであるかは異なることを強調している。
少なくとも、國枝から見ても悲劇と言って通用することを、"今の色葉"は素通りできるらしいのだ。
悠然と靄の形容で漂うそれらがたちまちに明確な疑問に移り変わっている。
ただ、そう表現されれば、どことなくそうでないかと思うのだ。
流されやすいのか、事実なのかすらわからない。
「はい。それは……そうなのではないかと思う瞬間がまったくないわけでは、ありません。明確ではないですけれど。私も同意します」
ただ、胸にひっかかりを覚えるのだ。思わず、苦し紛れに渋い紅茶を啜る。
ズズズ、と唇が空気を巻き込んで音を鳴らすことを行儀が悪いと咎めようとした視線が横幅からじろりと力強く姿を捉えたが、特に返答として語る言葉はない。
とはいえ、不躾を承知しながら重くて暗いものから逃げ出そうとした色葉には、ある意味ではちょうどいい演出であった。
強いて語れば、これらのただ気を紛らわせるだけの行為とすでに火傷をさせるだけの熱などなくなったカップの中身が、あとどれだけの間を持たせるのかを気になっては、口を開閉していた。
しかし、待てば待つだけ奥行きを広げていくわけでもなく、邪魔な思考が渦のように大きく幅を取って入ってくるのだ。
目を逸らせば逸らすだけ、壁は厚くなって立ちはだかる。
「……ねえ、先生」
 睫毛が震える。泳ぐ夜の気配は更けるばかりに、照明はシェードによって拡散されては煌々と照らすばかりに。
そして水や紅茶や、ガラスは光を美しく反射させ、部屋にいくつか存在する時計たちはただ淡々と時間を切り分けた。
絨毯やファブリックの刺繍は目を眠らせ、古い家具の息遣いが静かに生きている。
「今現在が束の間の平穏ならば、明日もお風呂、沸かしましょう。先生もゆっくりすればね、それはもうぐっすり眠れると思うのです。寒い季節に向かうばかりですし、温かさが精神的にもに良いとおっしゃったでしょう。……でも、差し出がましい言葉と存じますけど、煙草はやめておいた方が良いのではないですか」
「馬鹿言え、これが初めてだよ。見つけた煙草だって言っただろ。ほとんど好奇心だよ。アルコールは好かないし、たまには悪ぶって酩酊したかったのさ」
呆れたようにわざとらしく声を上げ、肩を竦めてはいたずらな目をした國枝は背を向けて語る。
「怖気づいたせいで火を付けるに至らなかっただけで」
ダイニングテーブルのそばで一度は引き出しにしまった文具箱を取り出すと、焼き印の施されたふたをあけて色葉を手招いた。
「夜にこんな話をすると、眠る前に思い出してしまうだろう? 考えなくていい。知っているかい、ベッドの中の反省会なんて大抵ろくなことにならないと相場が決まっている。だから、君にこれを与えよう」
 顔の前に差し出された花を前に、色葉は思わず目を鼻の前に寄せてその姿を眺めた。
その姿はパステルカラーのアクリル片のようだ。はっきりとしていると表現するよりは眠くなるような色味をして、たっぷりのミルクと共に混ぜ合わせたように柔らかい色の花びらをたくさんつけている。
茎として伸びた先端から幾つも枝分かれした先の一つひとつに終点で小ぶりな紫色の花をつけている、小さな植物だ。
緑と聞いて想像するよりは幾分か青の強い茎や葉を思うと、乳白色のベースを思わせる色味たちがなおさらおもちゃに使用されるような色たちに似て見えては、どこかかわいらしくすら思える。
しかし茎の様相を見るに、これは國枝が切り取る際にもっと根に近い部分をすっぱりと捨ててしまっただけで、本来は結構な草丈のように思える。茎の強さに対してや、枝分かれをする多くの道筋を辿るとそう思える。
これがもし、元来に背丈のひくい植物であれば、バランスが悪いと率直に感じるのだ。少なくとも、成立のし得ないレベルでのバランスの悪さというものは自然界におけるイレギュラー以外ではなかなか存在しないものである。
もしかしたら、昨日のうちに庭で見たことがあったかもしれない。そう思うと雑草抜きをしたせいで――正確には引きちぎられては植物が内包していた体内の水分をぶちまけて青臭さを増していた庭を思い出す。視覚で得る情報を頼りに、鮮明に記憶は思い出される。
まるで今もこの場所に、鼻腔内で再現できそうなほどの青臭さは記憶に新しい。
反射的に、思わず鼻の頭に皺を寄せて色葉は呟く。
「これは……?」
「折角だから手紙のような方式で書こうとしていたものに封蝋をするとしたら、昨日散々に抜いたような花たちのなかの一つでも閉じ込んでやろうと思ったのさ。それを開封することがあったとして、当時を思い出すものがあればそれをきっかけに記憶はより鮮明に加速をして思い出すことが出来るからね」
 受け取ることを促しては胸元に紫色の小ぶりな花を押し付ける。
自分の催促によって差し出される曖昧な手つきを確認してから、は、と國枝は手を開いた。一瞬の反応が遅れてから、手から翻り落ちる花に慌てた色葉は前かがみになり、両手で受け止める。
二つの手の側面同士をぴったりと触れ合わせ、指先を少し丸めては水を掬うような姿勢で、受け取ったのだ。
棘とまでは表現する必要はないものの肌に僅かに刺激を与える産毛程度の質感を指先に感じながら、ずっと眺めているとあくびが出そうになる花びらの色へ視線を吸い寄せられていた。
「宿題だ。余りものではあるが、明日の暇つぶしにでも花の名前を調べたまえ。花の見た目からキク科であるのは確実だろう。日本国においても極端に聞かない花ではないね。開花時期はもちろん、草丈は君も想像できるもので概ね正しいだろう。ヒントはここまで……というか、もはや答えの見えているシルエットクイズのような例だが。ここの図鑑は英名か学名ばかりだから、まあ、それくらいでもいいヒントだろう?」
「ええ……植物なんていくらでもありますよ。庭にあるということは観賞用かもしれないですし」
「なにもブランド物の品種当てクイズなんて誰も言っていないさ。そこまで求めたら超難易度以外に言いようがないぜ、流石に。我々は園芸のプロでも何でもないし」
花を眺めていた色葉が、表情の薄い顔で國枝を見る。
何か複雑を知るのではなく、単純に『このひとは急に何を言い出すんだろうか』とでも言いたいような、困惑を滲ませたものだ。
フローリングの上をうろつく國枝に向く視線が厳しくなってくると、國枝は首を縮めた後にソファへ戻り、自ら毛布を広げ寝転びなおす。そしてクッションを枕にすることも板について色葉を見つめた。
この間に言葉は一切のやり取りを必要とせず、國枝は色葉の心配性に対してコミカルに応えただけだ。
互いの距離と意思を尊ぶための健全な気遣いが芽を出したのである。
「旨みがないだって? ならば報酬を用意しよう。そういうことだろ。そうだな、今日は私が勝手に街へ行ったからね、次は君も連れて行こう。大丈夫、寝過ごしそうでもちゃんと起こして誘うと約束する」
 楽しげに語る國枝は毛布から顔を出して、まるで内緒話をする子供のように笑う。
「目立つ通りに洒落たカフェテリアもあるし、路地のほうへ向かうあたりの隠れ家に美味い店があると朝市で会った果物売りの店主から聞いてね。隠れ家というわりに通という程度の観光客には知られて親しまれているらしいが。それはつまり肩透かしだとしても、路地裏付近と言って想像するより治安は良いはずであるということだ」
「……店主がグルでなければ、その言い分を理解は出来ます。けど――」
「『けど』、どうしたって? 意地悪なことを言うなよ。性善説の過信は良くないが、疑り深いだけで得たものを数えることになど片手も必要がないし挙句の果てに、余計なものは山ほど抱える」
花を見つめたままに緩慢な動きの唇で語る色葉を見る目が、企みをして輝いていたものから打って変わって困ったように目尻を下げる。
「やはり、怖いと思う気持ちがあるのかい」
 声量が抑えられた問いかけに色葉の心臓がどきりとする。
國枝の言葉に対して結果的に翻弄されているように感じることや、それが己のなかで自己を定められないことに対する不安が他人のせいとして露わになっているのではないかという恐れが言い当てられたかのように、脈を打った心臓が怯えた。
まるで中心を撃ち抜かれたかのように、その衝撃の大きさに一瞬で返事をしようと用意した言葉を忘れてしまったのだ。
その様を認めて尚も会話を途切れることをさせずに、國枝はその言葉にどんな返事が来たとしても用意していたかのように続けている。
「少なくとも。その店主相手に君の心配事は実現しないさ。君を誘うんだ、簡単でも根拠といえるものは調査済みに決まっているだろう」
呼気程度で頭を揺らす花と、その中心に身を寄せ合う小花を見つめて、それから色葉は國枝を見た。
「たまには他人の作った美味いものでも食べよう。花の名前がわかる頃には君もきっと頷く。この生活で買い置きして利便性のある食材なんて、想像より少ないからね」
薄暗い不安など必要がないと屈託のない笑顔を浮かべてから、國枝は瞼を閉じる。穏やかな顔だ。
その想像の中で、自分は外に出て食事をすることに喜びを見せているのだろうか。それとも、買い置きに汎用性のある食材を想像しては己の言葉に染み入っているのだろうか。
 経験がすっかり抜け落ちてしまった色葉の想像では、この家の中という生活で生じる漠然とした不安が、家を内包する世界の大きさぶんだけ拡大したものが街には広がっているのではないかと思えてしまうのだ。知らないことなのだから、恐ろしいに決まっている。
そこで初めて自分のことを考える。いつも、國枝が何を考えているのか、だとか、かつての"色葉"が何を考えて今の"自分"とどれだけ異なっているか、だとかを考えてしまう。
色葉はそのことに気付いて初めて胸の内に、今の自分が空虚な反転であることに気付くのだ。
 今の自分は、目覚めてからの自分は、本当に自分の意思で笑っていたのだろうか。
それを証明するために、何を材料にして己を納得させればいい?
返事をしようとして開いていた唇がその隙間を一回り小さくする。
今の自分は"楽しいこと"を想像して笑っている?
笑えているのだろうか。――一体、どんな顔をしているのだ?