談話室で見つけたらしいチェスの盤面を持ちだしてきた國枝は、薄く埃の被った盤面と駒の数々を丁寧に拭き上げ、更に乾いた清潔な布で拭う。
装飾がされた豪奢な箱の中から取り出したそれらを外気に晒したのだ。それらは明らかに古いが質はよく、もう半世紀この美しさを保つならば付加価値が高まるようなものだった。
このようなものたちがポンと置かれている屋敷に対して色葉は思わず苦笑いを浮かべる。
表情たちを写す白と黒の石材を磨き作られた冷たい駒に、ごく薄い膜のような水分が付着し、ピカリと反射を強くする。
これらが晒されたのがより強い光源の下であれば、間違いなく共鳴して走る光が鋭く目を焼いただろう。
下瞼をぴくつかせるだけでその動作を見ていた色葉は、國枝に教わる通りに紅茶を淹れているところである。惹きつける冷たい石材から視線を外してカップを温めるために使った湯を捨てた。
 古ぼけていたために後日棄てる予定であるボウルに湯を棄て、ついでに使い終わったカトラリーや、食器を潤かしておくのだ。
放っておくと水分の抜けた汚れたちがこびりつき、それらは『おざなりにすればしただけ、この家にある美しい色彩の食器たちが本来必要のない痛みを追うことになる』と國枝が語ったが故の行動である。
そこまで易しい言い方でなくとも理解ができる。
それらを洗うのも手間であるし。
皿を洗うことを考えてはじめて、この言葉たちは自分を咎めるためではなく食器に気を遣って放たれたのだと思い知る。
雑草は雑草と言い切るくせをして自然に存在するものや形あるものを慈しむ彼が、色葉に牽制するための言葉だった。むしろ、雑草抜きをした際の会話があったからかもしれない。
それらがなければ、面倒ごとをする己を想像した際にスポンジを持つ手つきが優しいものではなかったことにすら気付くことはなかった。
己のがさつに気付き恥じ入る間もなく言葉は転がる。
「先生はお優しいのですねえ」
「うん? 今日は褒めちぎりたい気分なのかい。それで、何の話だったかね」
皿のことを話す様に対し國枝は拭き上げた駒を繊細な指先の動きでテーブルに並べると、会話自体にはさして興味の薄い顔で頷いた。
「……まあ、褒め言葉と受け取っていいのかは複雑だな。私は所詮、言葉を交わせないものに気遣いをしてその気になってるだけだぜ。謙遜すらなくして自己評価は『繊細でも優しくもない』。突き詰めるところ見え透いた自己愛だ。よくいう『恥じるべき』だろう」
そのように言葉を否定する姿は時たまに、責任を問い詰めて自らの心を折りたがっているようにみえる。
今だってその表情は明るくはない。常に雨が降るようにと、心中を明るくならないようにしているのではないかとすら思えるのだ。
「君のことも、結果論からくる責任感に突き動かされているだけではないかと考える日々だ。むしろそれ以外の感情が伴っているのか、私がきちんと……君を見ることができているのか不安だよ。言葉は常に上辺を漂うだけではないかとね」
それらの端々が色葉にとっては、國枝が生き急いでいるふうに見えていたが、実は彼なりのただの事実確認にすぎないのかもしれない。
國枝という人間による國枝という人間の価値観で量った國枝という人間の分析なのだろう。
走りすぎないように、速度を落とすことを知っている。その速度が他と共存するために適切であり、並び歩くことの利を見抜く術を知っている。
しかし、それでも、次にはあっけらかんとする様が時には、非常にアンバランスな佇まい見えるのだ。
線を決して超えない。博愛じみていて、しかし懐には入れない冷酷だ。
気楽に記憶喪失をしている者を前にしているが故に、己の憔悴を見せないよう努めて気丈に振る舞っているのだろうと思うと気の毒に思う。
自分も地に足をつける努力をせねば、と活を入れるばかりだ。
そう勝手に思考を広げて色葉は鼻を鳴らして息を吐く。
 科学が発展して謎の一部が謎でなくなったように、言葉を交わして複雑を紐解けば実のところ"色葉"と"國枝"を絡める謎などないのかもしれない。そうとばかり考えている。
話はとうに終わっていると認識しながら横で茶葉を蒸らすことの要点を説明する國枝を見れば、露知らずに訝しげをする顔とつき合う。
話を全然聞いていなかった、と目よりずっと後ろのあたり、中心の思考で『しまった』と考えていると國枝は肩をすくめて掠れた笑みをあげた。
テノールの声域で時に鼓膜に触れる、少しばかり乾いたくすぐったいものである。
視線で隣の男を見やれば、三日月のように細められた瞼の切れ目からめいっぱいに虹彩の色を見ることができた。
白く飛ぶような光を遠くからじっと覗き込んだ涼しげが背を撫ぜる。追いかけて、茹だる熱が脳をかすめて過ぎ行くというようなぼんやりした場所に身体が思いを馳せるかのような錯覚を運んだ。
「……つまり、私の話は右から左というわけか。構わないよ。少しずつでいい。そもそもこれから遊ぶのだから、覚えたとて今日はすぐ忘れてしまうさ」
「あっ、すみません。気が逸って……教えを求めたのは私なのに」
「全然。話が長い自覚があるのでね。長いだけの話を聞くより有意義な脳の刺激だったならば素晴らしくって仕方ない。今の君に最も必要なことだ。よかった、そうならば私も嬉しいよ」
一切の嫌味なく明るい表情をした國枝が微笑み、指南を試みたティーポットのなかでえぐみに変わる色がでないうちにと紅茶をさっさとカップに注いだ。
「君の生活に、一日ひとつはベッドのなかで思い出せる"いいこと"があることを私は何より望んでいる」
 日に焼けてとろけた蜜のような色のストレートティーが注がれ、チューリップの美しい絵柄を抱えるカップを差し出される。
これを乗せたソーサーごと受け取ると同時に、二人はどちらからともなく椅子に着いた。
背もたれはやや低いが、凭れ掛かる体勢を楽にするためによく設計された傾斜の一人掛けだ。
色葉は長く息を吐き、それから思い出したようにつまみの品々をエントランスホールにおける談話スペースに並べる。
椅子と揃えて最適な傾斜のテーブルへ料理を並べるとあっという間に歓談だけで場所を占めてしまいそうだ。
色葉は手に取る頻度の低いもの――具体的には飲料以外のほとんどをサイドテーブルへ追いやって、紅茶と小皿に取り分けたチーズやドライフルーツたちを手元のそばにしっかりと囲う。
その最中ですら早速チーズをかじりながら、駒が外の空気を十分に思い出して目を開くように輝くのを待っていた。
甘ったるい砂糖漬けが喉をくすぐるために、塩味を求めているわけでもないのに色葉の物足りなさを満たすために選ばれるのは常にチーズだ。
反対に、日常の中で紅茶を愛飲していることの多い國枝がつまんだり、紅茶の中にざらざらと注ぐのはドライフルーツばかりである。
自身の手元に置かれた皿にも等分のチーズとドライフルーツが乗っていたが、互いの皿を見比べてから國枝は身を乗り出すとフォークを器用に使って色葉にチーズを多く分けてやった。
「平等は素晴らしいことだが、私には多いよ。君もそっちの方が好きだろう? チーズのほう。私が手を付ける前に、すこしもらってやってくれ」
「では、私のドライフルーツと交換しますか? 互いの好きなもののほうが少しだけ多くなるように」
椅子に座るための自然と上目遣いになる色葉を、中腰の体勢でいる國枝が見下ろす一瞬があった。
呼吸の吸い込む間を、まるで『ぽかん』という形容にしてから國枝は肩をくすめた。
「気遣いは無用さ。この紅茶はストレートだがね、それはさすがに糖分の過多だろう」

 國枝の操る言葉はあまりに優しく、そして眠くなる。耳の奥がきゅう、としてあくびを誘うのだ。
そして時に炎の頭を大きく揺らして消える蝋燭の火をも思わせた。
故に、話を聞いては途切れる線のような記憶のうちでも、空白を埋めようとしては、言いようのない穴の部分の存在を気にしている。
「そうか。父母のような役割の男女の記憶が朧げにあるところまでは確かで――そしてこの私の顔にはあまり見覚えがない。と、いうことは君のこころは身体を推測するために人間の基準に親しい言葉である"齢"でいえば、十二か三ほどの時分まで防衛のために記憶を破棄をしたのか」
 目の前に構える紙片越しに確認することのできる國枝の姿が、僅かに前屈みをして背を丸めると思考を始めた。
俯きの角度に落ちる影とそれにより一層と涼しげをしてみえる顔。顎に添える指先。足を組む姿に、立襟の黒い服。
それをよく引き立てる白衣の色や裾の丈に、腕や屈んだ上体で翳る様子から覗くは澄んだ金属のアクセサリーだ。すべてが彼をよく賢い人間に仕立てた。
見れば見るほど、認識の上に張られた薄い膜を掻くように様々な側面を、整然としないまま混ぜ合わせた複雑と、わずかな混沌に似た形容し難きを体現する。
色葉にはよくわからなかった。それだけが確かとして思考する脳の中に染みついているのだ。
 凭れ掛かるに便利な椅子でも、彼の重心は斜めにならない。肉体の背の正しさとしても、ゲームを楽しむプレイヤーとしても姿勢良く、背筋を伸ばして盤面に向かっていた。
偏屈だが、なによりも几帳面だ。真面目だ。
今は背を丸めてもいるが、その普段における姿勢の通り、彼は誠実を心がけてもいる。
クールタイムである今この瞬間では流石に姿勢を崩しており、時たまの行儀の悪さを見せることもあるが、本来は國枝が品性良く生きる躾をよくされて育ったことが色葉にはよく理解できるのだ。
比べるならば色葉は、最初こそ楽な姿勢でいたが、ゲームが盛り上がってくると次第に食い気味の前傾姿勢になっていた。背凭れと別れを告げて久しく、体を半分横たえて行うためにはゲームは白熱しすぎている。
談話室の隅にある簡単な丸い天板のテーブルと椅子を次までには移動させてこようと企んですらいたのだ。普通のカフェテーブルは背も正しやすいと考えているくらいである。
つまるところ、己にはできぬ誠実であると感じていた。無論のこと、これは互いが互いのために努めようとする結果である。
誰が怠惰で誰が正しいという問答ではなく、色葉にとって自分が楽でいる姿勢とこののめり込みからして自分は一点集中型と悟る話だ。
比較することで己を知り、色葉はなるほどな、と思うばかりだった。なるほど博愛主義者が歴史上でしばしば尊ばれ奉られるわけである。
國枝という人間は表面上は極めて博愛を務めているが、その実、生活感が薄くてふとした時に同じ人間か疑いたくなるのだ。
そこで凝視をして初めてその穏やかが作り物であるのではないだろうかと疑う。
庭での出来事があったように彼にも煮える思いがあるのが確かであると知っている以上は、優しいところも人間味の薄いところも全くの嘘ではないにしても、時折恐ろしいように感じられた。
全てが理想を描いたような形に近いのだ。
そのことの適切を証明するかのように、アイコンマークの簡単なイラストと手本のような字、そしてマス目と矢印の構成たちが箇条書きでリスト化された紙片を与えられている。
これ握っては今まで卓上の盤につんのめったかたちでいる。
率直にこの紙に記されているのはチェスにおけるそれぞれのコマの動かしかたのルールであり、かなりかっちりとした風体で整った情報たちだ。
走り書きにしては丁寧で、きちんと書けば模範的な文字たちは自分のものと異なって、平坦の並びだ。
そばに色葉が書き出した文字たちは、アルファベットの縦線が特徴的であり、hやfにおける縦の一筆が長い。読みにくいわけではなくとも、近くに並ぶ規則の正しさをみると気後れをしたのだった。
 重ね重ねと比べることに意味はなく、悩みも六◯秒と引き摺らないうちは、感性の受け取ったことに対する率直な感想だ。
知り得ることが断片的な今この瞬間に覚える感情の数々は鮮やかであれど、人間ひとりを理解するには到底及ばない偏見だ。一側面に過ぎない部分で判断はするべきではない。
 今に手に持つ握りの強さと肌の温度でへたれ、歪みをみせた紙片をなにひとつ気にせずでいては、あまりの勝てなさに顔を赤くした色葉はむきになって再戦を申し込んでいた。
慣れてくると、駒を初期位置へ並べて"次"を申し込む準備だけが上手くなっているのだ。
色葉にとってアナログゲームを嗜んだ記憶は存在しないが、配置を誦じるに困ることはもうない。
ナイトとビショップの配置に対して、「聖職者よりも騎士が近くに居たほうが防衛に賢いはずでは?」などと迷うことはもう一瞬たりとしてないのだ。
今しがた玉座を奪われたはずの王を蘇生法で叩き起こして、箱庭の盤面にその家臣を誂えてやる。
余裕綽々に『相手をしてやる』の表現がよく似合う國枝は、慣れない色葉に手加減することなく早々に打ち負かした。
そして負けたばかりだというのに"次"の準備を手早く整えた色葉は「手加減はしないでほしい」と度に念を押して求めるのだ。
 まるでゾンビのような王が玉座に座り、泥のようにへばりつく。もはやぐずぐずの"何か"と化したようなそれらを國枝の率いる軍勢は何度でも討ち取りにやってくる。
何度も何度もそれが繰り返されて、もはや勝ちたい理由に泣きたくなりながらも、それでも挑むだけだった。
勝てないことに苛立ちはない。悔しいだけだ。
慣れぬルールだから仕方あるまい。
そう言い聞かせども、手をつけるからばそこそこの成績を収めたい色葉は頭を回した。
ぐるぐる、ぐるぐると輪を描き、回り続けて、鼻の奥が熱くなっている。
乾いた喉に唾を飲み込んで、拳は強く握りしめられているのだ。
いずれはから回って焼けた脳の負荷を身体が一手に引き受けて鼻血が噴き出すのではないかと思いながらも、引っ込みがつかなくて再戦を求めていたのだ。
あまりに勝てない色葉は顔を赤くしてもう一戦をせがみつづける。
それを聞いて最初こそ頷いていた國枝だが、腕を天井へ向けて伸ばし、凝り固まった筋肉をほぐすような仕草を見せるとついに再戦を断ったのだ。
両手を肩の高さに持ち上げてひらひらと振ると表情を大きく崩す。
「やめだ、やめだ。負けず嫌いはよくわかったが、サイクルがおざなりになっては意味がない。君はも引っ込みがつかないのだろう。次はトランプにしよう」
 上肢の屈伸運動を何度かすると、やっと買ってきたトランプを取り出してカードをきりはじめた。
そして國枝が不意に発したのが、実際のところの自覚しうる色葉の記憶の話だ。
些細な疑問を皮切りに全てを失ったわけではない色葉の、個に対し強く印象的ではない部分として分類された記憶の枝に辛うじてしがみついた葉の葉脈を読むような言葉が連なるのだった。
対戦にかかる時間と集中力の比例を簡単な数字に出して再戦を断り、流れを変えた國枝は、数字順に並べて収納されていたカードたちを手の中でよくシャッフルするのだ。
半分放り出し、滑らせるように伏せたカードを手札用に分け合うと、余りを山札として積む。
色葉はそれを眺めながら手で己の顔周りを煽いだ。
 ルールがわかってきただけに負け続きが悔しいが、國枝は娯楽を楽しむのがうまいらしい。
まるで捕まらない蝶のように色葉を弄ぶばかりで、彼が何を考えているかよく理解をし得ない。
それに、と付け足して、色葉は自身に言い訳をする。「遊ぶ機会がこれきりというわけでもないし」。
チェスは歴史もある遊戯であるし、次にこの盤を囲むまでに書斎にあるであろう指南本を一冊でも多く読んで知識にしてやろうと考えているのだった。
頭の中では次に預けられた機会で國枝を討ち負かす想像をしている。
 想像に耽るなかで冷や水を差して正気に戻す言葉があった。國枝が色葉の断片的な言葉をまとめて具体的な数字を出したのだ。
一二か、三。その数字を頭の中でぼんやりと反芻しているたのである。
「ああ、ええ。そうですね。その方々のことも明確ではありませんけれど……これは単純に成長過程ゆえ脳の許容量によるものと私には思えるので、忘れたのではなく、先生の推測で正しいのではないでしょうか」
中指と薬指で数枚のカードを挟み、人さし指先は頭部のこめかみあたりを叩き、絶えず刺激している。
「とはいえ君は子供ではないし、常識に付け足しをした少々に小賢しくあくどい知識まである。精神年齢が、とも簡単に言えまい。そもそも君の現状を既存の何かに当てはめるなら数値をなくしては推測を出ない。他になにかわかりやすい指標を求めるべきか」
 國枝は一度、言葉を区切ってから続ける。
「何が言いたいかというと、いうところ反抗期のやや長引いた高校生から成人前くらい……を一般的に想像する概念で仮定をして接していようかと思うのだが」
「ええ、いたずらばかりする子供よりはその企みがもたらす被害を上手に見積もることができますからね。我ながらのことで自称するのも、その、本来は憚るべくが美徳ですが、意思表示として語ると、私は損得を前にして聞き分けのいいほうと思います」
自分の扱いを何かに比較してもぱっと分かりやすくなるわけでもあるまい。
そういった様子で興味もなく手札を確認していた色葉は、ぼんやり付け足した。そして「手始めにババ抜き」と聞かされてすぐに手札からジャックのペアを捨てる。
「高校生という言葉の表現は外見に対してかなり厳しいですけど、概ね一致の常識と抜けた個の判断力としては、まだかわいいとして許せるのはその年齢くらいまでと思いますしね」
ちょっとだけ利口と傲慢を見せかけたかもしれない、と思い直して付け加えたことをお見通しの國枝はそのことに対して何かを指摘することもなく頷く。
「同感だ、その美徳であるべくとする価値観を含めてね」
「ついでに……というには強いこじつけですけど、先生のこと、聞いてもいいですか」
 國枝がペアのできたカードを捨てていく。
色葉の申し出を聞いた國枝は目を伏せたまま鼻で笑う。
それは小馬鹿にするものではなく、微笑ましいものを見るような息遣いであったし、次に出てくる答えが簡単に想像できる。
真面目な内容を語ると思わずのところでまるで針金の入ったような背筋をしていた色葉であるが、安堵をして背をもたれた。
小さな緊張の連なっていた背には強張るまではいかないものの筋の張った感覚が僅かに存在する。
気が抜けた瞬間につってしまいそうな繊細を前にして色葉は自らを液体と定義するような無理のある想像をして身体の力を抜こうとしていた。
「『ついでに』ね。本当に疑わしい接続詞だな。構わないよ、局所的な秘密主義に触れない程度ならば。お手柔らかに頼む」
 カードを分け合う動作はまるで手品師かのような手つきであったが、カードを捨てる動作をする國枝の指先は丁寧だった。
胸の位置よりやや下に吊り下げられた楕円のプレートと、チェーンタッセルを組み合わせたアクセサリーが揺れる。
静を思わせる彼を構成する様々なうちでもっとも動きを印象的に見せるアクセサリーだ。色葉の目にはこれが大きな部分を占めて國枝という男の認識を構成していたのである。
特に変わった見た目でもないがその姿が光を翻して目に焼き付く光を見て、色葉は國枝から与えられたものの数々を思い出す。
例えば、姿を思い出すこととして次に浮かんだのは、飾り棚を兼ねる目的のために木枠にガラスをはめ殺した観音扉戸を持っている食器棚の前だ。
ティーカップを値踏みするかのようにじっくりと選び眺める國枝の後ろ姿を思い出していたのである。
確か、その時に彼はついでに木枠に彫り込まれた簡単な装飾までもを気に入っていて、と考えて連想ゲームは続いていく。そういえば、ベルト通しにチェーンを括り付けて懐中時計も持ち歩いていた気もする。
 記憶を手繰り寄せてその姿を鮮明に思い出そうとするならば、その時計も全くの無地ではなく装飾がされていたはずだ。
そういった豪勢なデザインが好まれる時代ではあるものの、それにまみれて飾るわけではないところに好感が持てる。
國枝が手にしているものの大体は古典的なデザインを有しているもののメリハリがついているものを好んでいるように見える。
用途や頻度によってそのデザインの緻密や量にこだわりがあってうえで私物にしたり、気に入ったりしているのだろう。
現に國枝が絶賛しているところをいくつか見た中でも、「こんなものを?」と色葉が思ったことがないと言えば嘘になるのだ。彼の気に入るものの大分類に共通点はあれども、興味の行き着く先は実に様々だった。
話題の精度を高めるため、また疑問の根源を探るための思考することに脳の多くを占める色葉は、ほとんどを無意識のうちにして國枝の胸元を一本指で無遠慮に指し示す。
「……そうですね、ええと、まず、先生は真面目そうに見えますが、アクセサリーなどにも気を遣うほうなのですか? 貴石ではなく、金属や木の彫刻などに興味の反応を見ることができます」
指先の動きや色葉の視線に釣られた國枝が、視線だけ動かした後に思わず胸元に触れる。
細かなチェーンの目は机を挟んだ向こう側、つまり色葉の側から見かけるとまるで金糸を編み込んだように滑らかながらに美しい姿をしている。
質の良いシルクの豪勢な織物や、たっぷりと生地を摘まんで膨らんだ様を形作る淑やかなサテンリボンの細工。それらの艶を思わせるのだ。
國枝の指の間でチェーンタッセルのこぼれた一つ房が這い、きらめく。
「ふむ」という思考と思考の隙間に挟まるような息遣いが二人の間にはあった。
「質問の答えは……そうだな、正確には私の興味の範疇ではないな。仮にこれではないきらびやかの数々にして、豪勢なデザインなどは素晴らしいが『それが好まれた時代と背景における潜在的な美意識がどのように普遍として根差したか』という話が絡むほうが興味深い」
色葉の言葉を受け、改めた価値を秤に乗せて選びとった國枝は"興味深い"を自称するそれらを瞼の裏に浮かべていたのか下瞼をふっくらとさせて語る。
薄く水分を纏う眼球に光が多く反射していることからも、彼が嘘偽りなく強い興味を示していることが窺えていた。
はっとして大袈裟な咳払いをしてから続ける。
「……より生活の近くへ話を戻そう。身につけるという意味での話ならば、服は宛がわれたものを着るのが一番楽だし、好きだ。余計なことを気にしなくていいし、無駄な思考にリソースを割きたくない」
飄々と述べる様に返す言葉もない。
「個人的には服はなんだっていいからね、他が抱く私の表象から著しく乖離しない"それっぽさ"ならなんだっていい。与えられればまず間違いない」
そこまで言われた瞬間には色葉は早々にお手上げだと言いたくなってしまった。
 率直に話題が広がらないと感じたが、彼の語るそれは確かな楽を選び取り、かつ他の望む表象からも離れないために最も適した考え方だ。
効率と正しさでいえば賛同するべくであるし、彼の主体性の低さをある意味では詰ることもおかしくはない。
己の返答に何がふさわしいかを色葉には考えることが出来ない。
精々のところ目の前の彼が白衣を上着に羽織っているのも必要に応じて立つ場所や、色葉にとっての"先生"であるために応えてしていることなのかもしれない、ということだけが思考としてそれなりの根拠を有して存在していた。
こうして締まりないまま唇を薄く開いている姿を見た國枝は、自身が正直に質問に答えたが故にのちの会話に繋げられない様を察して付け加える始末である。
「無論、身嗜みは気にする。選択肢を減らすことと不潔は異なるしね。君にとって私がそういったものを好んでいるとして見えるならば、私が慕っていた人物の好みがいつの間にか移ったのかもしれないな。最後に弁解をしておくならば、今は埃の被った知識になるが場に適したタイと香水は選べるつもりだ」
途中で己の主体性の無さに自覚を知ったらしい國枝は言い訳だと分かりながら最後を付け足す。
その頃になると色葉は、國枝の語る人間関係の方に興味を示していたために、空しく通り過ぎる。
 國枝自身の持つ自己の蔑ろを知ると、國枝の周囲に存在した人物を聞く方が早い。それは、このやりとりの当事者であればだれもが思いつくに易い話であった。
「慕っていた人? 異性に浮かれるようにも見えないのですけど、もしかして、特別な人がいらっしゃったのです? 女性という意味ですよ。それとも、尊敬していた人ですか。先生の先生だとか?」
顔を俯け、興味を純粋な様で覗き込む色葉が首を傾げる。
すると國枝が口元に拳を添え、先の咳払いから時間も経っていないというのにあからさまな咳払いの二度目をした。
それからどうしてもおさまりが悪いのを誤魔化すようにカップを呷るのだ。
「ティーンエイジャーを相手するように扱うとは言ったが、まさに思春期のそれに目を輝かせるなんて。君も大概だな」
僅かに視線を逸らす目の動きが気まずそうな様を察した色葉は、もしかして本当に女性のことを指していたのかと想像をしては、気恥ずかしさが伝染してしまう。
故に真似をするように喉を湿らせて誤魔化すのだった。
「いや、ホラ……アイデンティティの探究者としては同じじゃないですか。それに先生から先生のことは聞けないので、周囲の人物のことを聞きたかったのです。本当ですよ」
妙な空気が流れて、むずがゆくなる。
自分のことでもないのになんだか照れくさくなって顔が熱くなるのを色葉は感じていたのだ。
「……あまり得意な話題じゃないみたいだ。すまないね」
思春期の浮ついた気まずさではないあたり、恥ずかしいだとかいう話ではないのだろうと思って色葉は素直に謝罪をする。すると國枝も静かに頭を振るだけだった。
「気にするほどじゃない。どちらにも会うことはもうないしね。そうだな。物心つくころからの付き合いだったから、そうではない自分を知らないんだ。もしかしたら地層の感ぜられるような変哲もない石ころのほうを好きになっていたかもしれないな」
 國枝の持つ純な興味の範囲を示せば、きっと砂粒の圧縮されたような石などが好きなのだろう。
例にあげる感性の例が華やかなことを影響にあげることからやっぱり女性だろうか、と想像をする。
そして彼の放った『どちらにも』の意味を一足遅れに理解して顔を上げると、國枝は素知らぬ顔をしていた。
ただ、視線はやはり合わせないあたり、色葉の詮索は正しくあるように、彼には大事な女性も師も確かに存在していたらしい。
人間が生きていれば当然として出会いようのある肩書の人物たちであるが、改めてを彼が持っていることにひどく安心をする。
そして、安堵の次に来るからかいに似た親近感に嬉しくなっていた。ただ平静をしようとする顔に浮かぶ薄い笑みに対し、「君がろくでもないことを思っているのはお見通しだからな」と悔しげに言った國枝の言葉によって、山札からカードを引きつつ手札をゼロにするためのゲームが始まるのだ。
 翻弄されるばかりのゲームに対してやたら興奮していたが故に少し早く巡る血や、話に食いつく姿勢の好奇心で身体が熱くなっていたこと思い出すと、今は落ち着いていることを裏付けるような汗を背に感じた。嫌味のない、体温の上昇と外気による冷却で上下する純粋な感覚の話である。
暖かな空気がまわりきらず少し寒い場所だというのに、よく味付けのされた飲食物や脳を興奮させる娯楽があるとそれをすっかり忘れることが出来ていた。
袖や、脇や二の腕などの生地がよく触れる重なりや厚みの集約をした箇所が汗ばむまで至らずともじっとりとしているのだ。
片手だけで袖の釦を外すと余りの生じるシャツの生地を仰いで涼しい空気を取り込む。
「すみません。掴みのきっかけ程度だったのですけど、まさかそんな反応が見られると思わなくって。私が本当に知りたいのは世間に対して私の思う常識が正しい常識であるのか、ということです」
自覚をすると体感する温度が現実の低さを思い出して、高揚した気持ちが鎮められていく。
「すり合わせるために、近頃の世情の幾つかを聞きたかったのですよ」
カードを捨てる。國枝がちら、と色葉をみてから己の手札を視線で一巡する。
下唇を巻き込むようにして噛み潰しかける様を見せてから、國枝は山札に手を伸ばすのだ。
 特に興味も示さずにさも当然の応答をする。
「まあ、質疑応答を続ければいつか行き着く話だよな。それに改めて気付く速さはもちろん、会話の頭から本題に触れないところも交流術としてなかなか賢いじゃないか。世間の情勢を知るのは私のことを知るよりずっと大切なことだ。当然の話だけれどもね」
カートを引くたびに目元を細めていたが、三枚のカードを引いた後、國枝は肩の力を少し抜く。
ペアを作るためのカード拾いが続くことを想像しては憂いかけていたらしい。
揃った後に堂々とカードを捨てると、次にきちんと色葉へ視線を合わせて答える。
「これから語る世界の鱗片を想像すると、まるで巨大な隕石が落ちる直前か、太陽の寿命を聞いた後の、つまり、今日まで想像上に過ぎない世紀末のようだが――しかし、衰退した世界は存外優しい。それは先に理解をしておいてくれ」
 まるで眠る間に大地を巡るほどの遠い時間を語るようだ。
色葉はそう思っていた。
思考をして、水の中で國枝の言葉に耳を傾ける。
「ああ。今日における君のための時間はたっぷりあるんだ。望む通り、この世界を少し遡った話をしよう」
手の中のトランプを握ったまま、椅子を通り抜け、覚束ない床に沈む。
床板を超え、階下の部屋に敷かれたペルシャ風の刺繍がめいっぱい施された絨毯の絵柄を泳ぐ。想像の話だ。
身体は時間という平面な軸に融合をして、空間の奥行きを見上げていた。