「私も君に気遣いをしすぎていたのかもしれない。そう思ったんだ。だから今のやりとりをなしにするまでいかずとも、これを今日のしがらみにするのはやめよう」
 前置きをした國枝が相好を崩し、前髪を揺らしていた。
首が傾けられ光を通す角度を変えた瞳や、普段の涼しげを思わせながらも丸く下がる目尻にどこか危うさが浮かぶ。
その瞳の奥で照り返す強い夏の薄片が目に訴えかけたのだ。
しかし、今の彼が続けようとする唇には企みごとをするような悪戯心をくすぐるものがあって、決して恐ろしいものではない。
故に、誘われるように色葉は胸を膨らませた。事実としてもその表現にとどまらず、実際にも上半身が膨らんでいるのではないかと思うほど息を吸い込んだのである。
「いいかい? 一〇を数える。目を開けたら、簡単なミニゲームをするよ。すぐに終わる家の世話さ。その後に娯楽の片手間でつまめるものを用意する。そうしたらもう、君の望む場所で君の望む楽しい遊びをするだけだ。たっぷり時間をとろう」
 緊張のまま半分は丸まったかたちで固まってしまった色葉の手をやさしく解き、伸ばしながら、思い出したように國枝は呟きを付け加える。
服の皺を伸ばすが如く、丁寧に指先までを優しく触れて緊張を取り去る國枝の旋毛を、椅子に座った色葉は見ていた。
「確か……談話室に古いチェス盤もあったな。じゃあ、今日という日すべてが娯楽だ。負けを多く重ねた方が風呂を洗う。今夜は冷えるというし、しっかり湯に浸かって温まりなさい」
庭でぼうぼうに生えたハーブでも摘んで湯に浮かせれば爽やかだと國枝が提案をして、色葉は頷く。
「悪くないです」
「ここは湯につかるには確かに不便もある造りだが……我々は一応は風呂文化育ちだし、実際に入浴はリラックス効果も期待できる。大枠はそんなプランでどうだい?」
「ええ、ええ! そうしましょう」
 途端に目を輝かせた色葉の様子にほっと息を吐くと、國枝はやっと元気を取り戻したひとつ目を覆うように手で影を作る。
その様に抵抗はしなかったものの、憂いを覆い隠されたせいで前の見えぬ色葉にわかりやすくするため息遣いで笑みをするのだ。
そうしてここに怖いものなどなにひとつないのだと語りかけるのである。
言葉はまるで魔法のように、ほんのりと色づく砂糖の甘味や、ツノが立つまで攪拌を続けたながらにやわらかな弾力をもつホイップクリームを思わせる。
または布で閉じ込んだたくさんの羽毛に包まれて寝転ぶように、朝に芳しさを振りまく花実の香のように。
あたたかく沈みゆく幸福のすべてを仕草で語り、想像を何倍にも膨らませる彼の言葉は、放っておけばたちまち色褪せる日々というものに彩を添えるには充分だった。
 心地よい暗がりに、隙間を埋める声がする。
「決まりだな。さあ、目を閉じるんだ。いつまで見ていたって、私の手相に攻略のための裏技などは書いていないのだからね」
色葉の目は、國枝の手のひらが被さった血の通う影を見ていた。
つまり、國枝からも色葉の目がどんな表情をしているかなどわかるわけがない。
それだというのに恐ろしいほど息の合った空白を読んで、瞼と瞼が触れ合ったか否かの頃に言葉は続きを語り出した。
色葉はといえば自身の瞬くまつ毛が触れ合う感覚を知りながら、國枝の言葉に次を逸ってその繊細をよりよく震わせるのだ。
「ルール説明をしよう。私の口がゼロになったら屋敷中の窓を全て開け放って、クロスで簡単に埃を取る。目につくゴミがあれば回収をして……先にここへ戻った者が勝ちのゲームだ。簡単だろう。君はエントランスホールを挟んだ屋敷の東側で、私は西側。いいね?」
「質問は?」と囁く声に、未だ数え始めてもいないゼロを待ちわびて、色葉は唾をのむ。
返事はすぐに続いた。「ありませんよ」
「――三、二……一、」
提示のされた数字からゆっくりと下り、『ゼロ』、その言葉が重なる頃だ。焦れる心臓に想像を重ねてはときめく脈動を抑えつけている。
その頃になればすっかり調子を戻したかのように、斜の生意気を知る記憶喪失をして空っぽの男がここにいるばかりだった。
しかし、この小さな箱庭の寂れた家は、目を逸らし続けるだけの冷たい世界は、かくして愚か者の彼を無垢とは呼ばないのである。

「ゼロ」
 その言葉を合図に席を立ったふたりがリビングのドアをくぐろうとしたとき、國枝が「あっ」と声を上げた。
曰く洗濯を忘れていたらしく、色葉を引き留めては足先をバスルームへ向けるのだ。
目の前に吊るされてはよく焦らされ、やっと手に入りそうな娯楽を前に方向転換を余儀なくされた色葉は眉を下げる。
昂った気持ちが萎んでいく。その自分勝手も、『ちょっと良くない』態度だという自覚があって、心臓が小さくなるのだ。
しかし、洗濯をしなくては昨日のうちに汚した衣服が居た堪れないのだから、仕方ない。
 吐瀉物が飛んだ服を洗うのは当然のことだ。
だが、この生活が以前はより逼迫したものであったことが推測されるからか、はたまたその経験が脳の地層に刻まれているのか、それ以外の衣服は『あまり汚れていないならば別に良くないか』とも思うのだ。
色葉は率直にそう考える。
清潔を保つことは大事だ。逃亡において欠いた余裕のせいで衛生概念の水準が落ちるのも当然のこと。
今現在すべきとされるものは色葉にとって優先事項ではない。しかし、吐瀉物の飛んだもシャツもあるならば、洗濯は確定事項だ。
なにより、すべて一見には綺麗なシャツでも國枝がそれを望むのならば、自分が何を思おうがそれに従うだけだ。
仕方のないことだ。少しばかり空気の抜けて萎んだ気持ちを慰めて、色葉は國枝を追いかける。
 昨日の今日で早々にニ、三枚を汚したシャツを含む衣類を洗濯してから、今度こそゲームと称した部屋の埃を簡単に払う。
大抵は色葉のシャツだ。金色の刺繍が施された襟と細身のシルエットを特徴として持ち、まだいくらか糊の面影を感ぜられる様子のシャツである。
それらを眺めてから、色葉は肘より少し下まで捲った袖から露出した腕で額を拭う。そして息を吐いた。
本来、機械を機械として構成する複雑かつ、緻密な造りは水が嫌いだ。正確には電力を通す機構が剥き出しとしては水と仲良くない。
長く水と触れ合う仕事を主にする洗濯機も、衣類を揺らし溶液と混ぜ合わせるその円筒状に直接の機構を取り付けないにしたって、流石にそれなりの時間を手入れされることなく放置されれば働かなくなるのも頷ける。
 色葉と國枝は桶代わりにあまり背の高くないバケツを探してきてはぬるま湯で懸命に石鹸を溶かし、つけ置きと揉み洗いの手作業をしてからなんとか衣類を干したのだ。
動かなくなって置物と化した古い型の洗濯機を恨めしげに眺めて、たらい桶の中で懸命に働いていたのである。
シャワーカーテンを吊るすスライドリングを通すために頭上の高い位置に存在する銀色のバーに、衣類を着せたハンガーを丁寧にかける。
すると横から國枝の手が伸びてきてハンガーを奪い去る。「皺をきちんと伸ばさないと」
ハンガーを取り外すと、ペラペラのシャツにおける肩のあたりの生地を摘まみ、勢いをつけて下に煽る。
乾いた音が鋭く鳴って、思わず色葉は肩を跳ね上げて目を丸くしていた。それを他所に國枝はハンガーにかけ直し、生地の前と後ろにそれぞれ手をやっては胸のあたりを叩く。
最後に肘や、脇などのたまった皺の起こりやすい箇所を丁寧に伸ばす。
「消費社会は人間の都合にとてもいいが、大事にしてやれば安物でも少しくらいは体裁よく保つものさ」
干し終えたシャツの生地に優しく触れる指先が語る。
これらには想定より多くの労力を要したためか、桶を片づけ、換気扇のスイッチを押してバスルームを出るとき、ふたりは決して口に出しはなしなかったが『やっと終わったな』と肩の荷が下りた気になっていた。
しかしそれも束の間に、國枝が昨日のうちにわざわざ洗い直したぼろ布を裂いて作った掃除用のクロスを片手に、ふたりはとんぼ返りをするようにリビングを出たのだ。
 本来のゲームを継続するためである。屋敷中の窓を開けるためだ。
施錠されて久しいためか重くなったロックを跳ね上げてはガラスをはめ殺した一枚の枠板のような窓たちを開け放ち、冷たい風を通り抜けさせる。今は薄く埃を被っているが本来は定期的にオイルを与えられ磨き上げられていたであろう家具や、湿気を孕むことを繰り返して埃がかたくなっていた窓の建具をクロスで軽く拭きあげ、ときに紙くずや布物から落ちた繊維を拾う。
そしてこの屋敷に散見されるささやかながらに凝った調度品や、時たまにある置き去りの写真や小さな絵画、そして重ねた年月を感じる骨董品。それから、古い製法独特の歪みを持つガラス窓たちを眺めながら色葉はようやくリビングに戻ってきた。
なにかと家具や、機械や、骨董ともいえる色とりどりの色彩が残ったままの屋敷に対し、こんなにも強盗に入られた形跡もないのもなかなかに珍しいと色葉には感じられた。
仮に、それはもう素晴らしく面倒見のいい所有者による管理が行き届いていたにしたって、これほど状態がよいなら貸家でも別荘でもと欲しがる人はいくらでもいるだろうに。
率直にそう思考をし、首と視線をぐるぐるとして見やり、言いつけ通り屋敷における東半分の範疇であちこちを回ってから戻ったのだ。
 ――もし、もしもだ。仮に、國枝の話は全部嘘であり、そして不可解を肯定するためにあの安く食い尽くされたサイエンス・フィクション映画みたいな現実だけが実は正しくて。
この日々を獲得するために薄暗さよろしく、存在するかどうかもわからない地下に本来の家主の、生きているものか死んでいるもののどちらかが転がっていたらどうしようか、などと想像を掻き立てた。そうでないにしても、事実上としてこの家が家財の一切を放棄されているところから相当な曰く付きなのは確かだろう。
ただの親切な家具付き貸家ならばこの家は家主に事欠かず安泰であるはずだからである。
もはやこれら全て蝋燭の火の揺らぎのような幻たちなのではないだろうか。
そんな愉快な想像ばかり膨らみ、思わず身震いをする。
 どうしたって人間の生活が寄り付かず気配が薄い廊下や使う頻度の少ない部屋は、リビングルームよりずっと寒い場所のように感じられるのだ。
リビングの明るい木板のドアを潜ると、長々とした探検を兼ねた色葉が戻るまでの間で西側の清掃をとっくに終わらせていた國枝がキッチンに立っていた。
黒パンの切れ端を並べ気持ちばかり多い溶かしバターを垂らし、それを伸ばしては熱したフライパンでよく焼いているのだ。
ただでさえ日本人には固く感じるようなパンに対し、ただ焦げ目をつけるには過剰で、揚げ焼きと言い表すには少しばかり控えめな焼きかたで色を濃くしていたのである。
そして転がしながら十分に焼き目をつけた後にグラニュー糖をたっぷりと振りかけるのだ。
「味見、頼んでいいかい」
リビングに入り、シンプルな絨毯を踏むか否かの足の運びのうちに、色葉の気配を知っていた國枝から声が飛んでくる。
顔を見るより早く味見を短く促された色葉は、おどけて片方の頬を膨らませながら手に持っていたクロスをごみ入れに投げ入れて応えるのだ。
言葉のまま素直にキッチンに導かれ、食器用に使う洗剤でよく手を洗う。手から水気をふき取ると、既に皿に上げられていた縦長い一本を摘んだ。
 ところにより熱されて水分の抜けた箇所は簡単なラスクのような食感にも似ているが、カサつくような簡素な堅焼きパンにバターの風味が滲むと途端にじゅわりとした豊かな風味が広がる。
もとよりバターやハムなどを乗せて食べることをよしとした保存特化の性質を持ったパンだ。食べ慣れない身としては、このような方法でも、バターなどの油分を追加する調理法でやっと素のまま食べるに優しいとすら色葉には思えた。
なにより、ぱっと見る分は簡単なラスク風や揚げパンを作ろうとした挙句のなりそこないに見えなくもないのだが、その中途半端にかたさのある面としっとりした面を持ち合わせているのがたまらないのだ。緩急の差に手が進む。
バターだの砂糖だのと何に合わせてもそれなりの味になるものだ。この緩急にこそ意味があり、それ以外は極めて普遍的なものである。
焼かずのものとトーストの間といえばそれまででもあるが、こうやって手を加えられた細切れの外見をしていると、ただ焼くよりずっと特別なもののように思えていた。
ラスクのように焼き上げた鋭さもなければ、揚げパンのような油こさもないこれを形容詞しようもない。トーストより特別を思わせる気の高揚を膨らませるこれらは、ひねりがないながらに焼きパンとしか言いようがなかった。
 色葉はほとんど無意識で唇の端を舐める。
決して、飛び上がるほど美味いわけではない。
味だけで言えば、バター、砂糖、少々の塩もあるかもしれないという程度にありふれているだけなのに。
これを思うのは二度目だ。しかし、『なのに』という語彙で思考を繋ぎ合わせている色葉がそれを自覚をする頃には、もう一本、と手を伸ばしていた。
食感が独特でつい忘れそうになるが、熱に溶けきらずざりりと粒がわずかに残る砂糖もいい。バターには塩味も含むために、よりかき立つ柔らかい甘さに、ほうっとした思いを馳せる。
ふっと自然に力を抜いたように身体の緊張が解けるのだ。この後の楽しみも控えて、疲労すら溶けて消えていくようだった。
「おいしいです」
 撚りを合わせる疲労が解けて力のうまく抜けるようになり、ふにゃりと顔をほころばせた色葉の表情を横で感じ取る國枝は、ふ、と同じく柔らかな息を吐いていた。
油分が多いわりは弾けるような音もせず大人しくいるフライパンを眺める國枝は、まじまじと隣に立つ人間の顔を見ることはないが、それを平穏として噛み締めるのだ。
「それはなにより。戸棚にチーズがあるから、適当に切ってくれるかい。近くにあるドライフルーツは大きめのスプーンにふた匙ほど頼む。皿はなんでもいい」
指示をされて半身で振り返るところに、手を二つ並べて抱えるにちょうどよい大きさをする塊のようなチーズと、開封したパッケージを折り込んでクリップで留めただけのドライフルーツが籐のかごの中に大事に置かれていた。
どちらも國枝が紅茶を嗜むとき、ティーポットの蓋をひっくり返した大きさとほとんど変わらない豆皿に乗る分だけを目安にしては"おやつ"として食しているものたちだった。
「これ……こちらは先生のおやつ、ですか?」
「よく見ているんだな。なかなか鋭い。今日は君もいるから、平たいミニプレートに乗るぶんを好きなだけ、と指示を修正したほうがわかりやすいかな。頭を使うことをこれからするからね、体のいい糖分摂取や、箸休めの塩味になるだろう?」
キッキン備え付けの引き出しからペティナイフを取り、チーズを眺める色葉は横目で國枝を見る。
「あの、やっぱり疑問でしょうがないのですけれども、先生。本当にきちんとした食事をされているのですか?」
ダイスカットと、ただの薄切りではどちらがいいんだろうか。
一瞬だけ悩みもしたが、遊びの最中につまむ前提を考えると、視線を向けずとも指先でとるに優しいほうがいいはずだろうな、と思い直して色葉は皿の上でそれらを構えると一・五センチ角にチーズを切り落としていった。
「もちろんじゃないか。俗にいう根拠のない三大欲求の話をしなくとも"寝食はしないと死ぬ"というのは、身体の仕組みとして常識だろう? それどころか三食おやつ付き、紅茶は好きなだけ飲んでよい。贅沢ここに極まれりじゃないか」
「おやつが必要ってことは絶対足りてないですよ。おやつという言葉でごまかさないでください」
訝る色葉の言葉をひらひらとうまく躱し続け、國枝はクッキングヒーターの電源を落とす。「なんだよ、"おやつ"と先に言い出したのは君だろう」
顔色は一つ変わっていない涼しい顔で、声だけで茶化した國枝の言葉に、色葉も同じく表情を変えずに答える。
「あなたの話し方を聞いていて――しかも、専攻の学に食い込むような内容の話をしているときのあなたならば、これを"間食"と語るはずなのが目に見えているからですよ」
フライパンをもちあげて傾けると、かたくなったような音を立てて細切れのパンたちは白くて大きな皿に身を投げ出されていく。
それらばかり見る國枝は、色葉との会話にも楽しげを浮かべて曖昧に笑うだけだった。
「まあ、まあ。話を戻そう。それは君が私の語る『三食おやつ付き、紅茶は好きなだけ飲んでよい』のうち『おやつ付き、紅茶は好きなだけ飲んでよい』の部分しか知らないからさ」
 変わらぬ薄い笑みの顔をしては、丁寧に防湿のされた紙袋から銀のスプーンで掬ったグラニュー糖をふりかけている。
 まるでじゃれつく猫をあしらうような態度をしながら黒パンしか持ち合わせないような質素な料理をしていた國枝であったが、ついに、ふふ、と呼吸の規則を乱すように笑いだすと唐突に呟く。
「まったく君も仕方のないやつだな。本当にしたかなのないやつだ。保存に有利な食品の大抵はまずいか、かたい、のイメージだろう。その通りだよ。すぐ疲れるし、腹が膨れたって脳は簡単に錯覚をする。食べる気からしてしないさ」
パントリー風の収納扉を開けると國枝は色葉もよく知った型で焼かれた、一般的に食パンと呼ばれる四角いパンを両手で丁寧に取り出した。
その透明のビニール袋に収められたパンの姿を見るだけで、柔らかな口当たりが再現されるかのように思われる。目覚めて二、三日、初めて見た明らかに柔らかい主食に思わず唾を飲むことを色葉は感じる。
色葉の反応を予測していたかのような國枝は大層に強気の顔で堂々とし、ビニール袋から取り出したうちの半斤から使用する分だけを切り取る。
大体のところを八枚切りの規格に近い厚さに切り取るのだ。
そして市場で購入してきた朝採れ野菜を手持ちの調味料を和え、ハムと共に、薄いパン生地がたわむような弧を描くほどたくさん挟んだ。
テーブルの材木の特徴やパンの地色が濃いばかりに重く、重厚感のあるように見える食事たちがこの食卓ではよく並ぶ。しかし、『仕方がない』と言って取り出された食パンはまさにあっという間にひとつひとつが可憐で、そして並ぶと豪華な、いかにも慣れ親しんで食欲を誘うような見慣れたサンドイッチとして並べられたのである。
「白いパンは柔らかく甘い。だが、その分、保存目的にやや劣る。喜びたまえよ。我々にとってはかなりのご馳走なんだぜ」
 ゲーム中の食事にふさわしく、いかにもつまむという意味を通すに適した品々を作りあげた國枝は、トレイにそれらを抱えて階段を上る。
紅茶の作り置きは無粋だと言われて白湯を詰めた魔法瓶を持たされた色葉は、もう反対の手にチーズとドライフルーツを転がしたミニプレートを持ち、ぼんやりついていくばかりだった。
 冷たい廊下を進むと、自分達の足が過ぎ去ったところに人間の気配が息づいては温かな場所にひだまりが広がっていく錯覚をする。
こうやってあかりを灯してやれば、十分にひとの暮らすにふさわしい家であったのだ。
それでも時間が経って気配が薄れると、たちまちこの屋敷の窓や鏡には悪魔が映るし、日々は幽霊のようである。
不安に火を灯せば蝋のように滴り、だんまりを続ければ蝋は凍りついて延命をする。代わりに心臓までもが冷めていくのだ。
季節の終わりのように、すべての事象が極めて曖昧だった。気付けば新しい何かが普遍の顔をしてそこに居座る時分を思わせているのだ。
サシェの美しい花実の香りがすると頭がくらくらするような錯覚をする。しかし、確かなことにずっとここに居たいと、どこかで思えている。
 痺れは心地のよい停滞だ。
眠りは、心に安寧を与える。
夢は、あたたかくて、甘い。
自覚する間も無く、この瞬間、不安は不安ではなくなっていたのだ。
ここには薄暗さに蝕まれた師と、空を通り越して透明の生徒が居ると指をさされたって、自分たちには小さな幸福があると思えた。
仮に、誰に理解されることがなくてもいい。
もしもの、仮の話だ。この屋敷の外に衰退して目を閉じるだけの寂しい世界があっても、私にはささやかなこの日々があればいいだけだ。
ただそれだけ。
だって、そうでなければ、いっそ果実の腐ったように甘ったるい日常などは一日と待たずにして身体中を焼け爛れたものにすると思えたからだ。
現に自分が逃げ出していないことの理由として思考を繋ぎ合わせるように、そう色葉は自身に聞かせている。