さざなみの音が遠ざかっては、くたびれたきらめきに息を吹きかけて蘇る正しさの光が居ついた部屋を思い出す。
既に空のカップと、静かに立ちあがろうとする國枝が前かがみの恰好でテーブルに手を着いていた。
ぼうっとしたままの色葉のことを、夜の明けない凪にいるような瞳で窺っているのだ。
色葉の肩が揺れて、視線がすぐそばに像を結ぶように戻ってくる。すると國枝もこの空白には何もなかったのだ、と示すかのように何も言わずに立ち上がる動作を再開したのだった。
深く息を吐く國枝の息遣いが声帯を掠めて、ゆうゆうと泳ぐ言葉たちを紡ぐ静謐の常より、少しばかり高い音を伴ってため息に似た輪郭をなぞった。
「さて、もう一仕事しようかな。君はどうする。屋敷探検かい? 最も西の小部屋以外は好きにしたまえ。束の間でもここは私たちの家なのだから。肩の力は無駄に入ったところで疲労にしかならない」
「あ……先生が使っていらっしゃる部屋は、書斎の隣なのでしたっけ」
 カップを下げる國枝の横顔を見つめながら色葉は呟く。
キッチンに出しっぱなしにされていた、チーズの切れ端を乗せた小皿の縁をなぞっている。指先がつるりとした陶磁器の肌と金色の縁の冷たさを存分に味わっていた。
 彼の部屋の向こうにある書斎がドアと壁一つ挟んだ向こう側に広がっていると思うと羨ましいようにも思えたが、『そんな環境だと部屋から出るのが億劫になりそうだ』と遠くで同時に思う。
それなりに本を読んでいた記憶はある。古い紙の匂いも、経た時間を考慮せずともインクの匂いも嫌いじゃない。
かじりついて読んでいたこともきっとあったと思うが、どうしたってその内容をちっとも思い出すことはできないのだ。
この記憶の欠如は大小を問わず個に関わるものだから、そういった些細を含むだろう。しかしこれらは、もしかしたら、ただ印象に残らなかっただけかもしれないということだって十分にありえるな。
不安になる必要のあることではない。そう言い聞かせて、書斎というほどならば本がたくさんあるはずだ、と思考から飛び出ていた一本を引き出すと長く息継ぎをして展開していく。
この身体に蓄積された根拠のない確信を、きちんと根拠に基づく事実であるという自信を自分のものにできたら國枝を困らせることも減る。
ごく単純な思考で、『國枝先生の部屋の隣が書斎である』という事実がとても羨ましく思えたのだ。日夜読む本を考える間もなく、書斎に足を運べるのだから、それはもう羨んで仕方のないはずだ。
欲張って囲い込むほど抱えて私室に戻る必要はないし、読むタイトルに悩んでもすぐ戻ってこられると思えば本棚の端から端までだって、さして興味のない分野の本だって読み続けられる。
ずるいという言葉で貶める幼稚ではなくとも、明確に羨むという感情が浮き彫りになって、胸がくすぐられた。
 思い出せもしない内容の本たちが途端に愛しくなる。どんな背表紙をしていたのだろうか。
いままで自分はどんな本たちと出会って、どんなことを考えてきたのだろう。その言葉たちの何に影響をされて、私は誰に何を語ってきたのだろうか。
これからの私は、出会う人たちに何を語るのだろうか――。
膨らむこれからが全くの不透明であることからは視線を逸らしていた。
「そうだね。君の部屋から一番遠くて、西側。書斎の隣にある本当に小さな部屋だよ。あぶれたり、ほどけかけた本と、それをしまう棚。直すための作業をしたと思われる机。と、こぢんまりしたベッドと、つけても薄暗いだけのはずが割に大振りのランプがあるだけだ。とても君には用事のある場所ではない」
「殺風景な部屋だからか見た目だけでもとドアには綺麗なガラスが嵌められているが、あれはなかなかに人を騙せそうな顔をしているよ」と、付け加えた國枝は部屋の中を思い出す仕草として己の顎に指先で触れながら呟く。無意識の視線がやや上に上がっていく様を色葉は静かに見ていた。
言葉の間を読んでいたのだ。
彼の目には彼が語るような綺麗なガラスの細工がされた飾りのドアが浮かんでいるのか、面白おかしいものをみるような、はたまたいたずらを仕掛けたかのようなあくどい顔で目を細めていた。
誰にも秘密にしているはずが、愛する秘密基地の存在を匂わせる会話に思わず笑みが浮かぶ様そのものである。
「つまり、入るなってこと」
口に含んだチーズのうち、燻るような匂いに舌までが誤魔化された色葉は、うっかり舌を突き出して渋い顔をしようとしていた。それを押し込んで呟いたために声の色はどこか不機嫌に似た表情を含むのだ。
今のは少し感じが悪かったかもしれないと思いつつも、舌が苦みと感じる奥行きをやり過ごす色葉が言葉を返すよりも早く國枝が口を開く。
「物分かりが良いのは好感が持てる。極めて退屈な日々は、我々が親しいながらに個を同一としないことを曖昧にする。干渉されず一人を享受することに安心できる場所は必要だし、距離の可視化は最も我々に適して"それ"を忘れさせない」
 難しく、回りくどいことを言う。
もっと簡単に言えばいいのに、と色葉は、國枝が語った通りに砂糖を入れて自らが作ったミルクティーで口直しをしては首の動きだけで頷く。
彼の気質がすでに研究者に向いているだろうというのはもちろんのこと、探求と結果を求め続けたからこそのそういう言葉遣いなのかもしれない。
それをする彼と自分の上下関係もあるし、よく聞き馴染んだそれらを年齢の割に気取ったというか、彼の本質に合わない恰好つけだと思うことはなかった。
眠くなるばかりのこの家と、彼の静かな声によく合う、乾いた紙のように柔らかさと鋭利のある喋り方だったからだ。それらはよく耳に沁みて温かみを遍いている。
視線だけで追いかける色葉の目の動きを、國枝は何ひとつも気にしていない様子でシンクの前に立ち、美しい装飾のされたそれらを傷つけないようにそうっと扱う。
綺麗に洗い流しては、これまた静かに、そして丁寧にカップを食器用の水切り台に伏せていた。
「君には君を侵されない権利がある。それは私も同じだ。互いのための間合いを、互いの都合に対する配慮をせず超えたいならば、極論は言葉による交渉か肉体に及ぶ暴力しかない、わかるね?」
「なるべく使わないことを願います……互いに、ね。私は信頼に行く末を預けたいので」
「素晴らしい回答(こたえ)だ」
 舌に苦みとして味を伝えるチーズに渋い顔をする色葉のことを前に、拗ねているのかと考えている國枝は困ったように笑い、人差し指の動きで天井を示した。
國枝を追っていたはずの視線はすっかりその動きに誘導をされて天井を見る。古くくぐもった色をするスズラン型のトップが付いたシャンデリアと、隙目の大きい格子状の梁。
アイボリーの壁紙も、普段は手の行き届かない天井ばかりは経年の劣化と汚れが見て取れた。
なにより、あたたかな熱を振り注ぐはずの光があまりに眩しいことに驚いて、目を細めた。
 咄嗟の仕草で庇を作った手の形を見て、國枝は誘導しておいて何をやらと知らん顔と呆れをして呟くのだ。「光源を直視するやつがあるか? ほら、目に大事はないかい」。
光の焼き付いた目を無意識にこすろうとする色葉を制して続ける。目に焼き付いた強い光が、行き過ぎた勢いで視界の中心を影のように冒していた。
瞬きを数度繰り返し、色彩が戻る頃に気付く。
國枝の瞳には多くの光があふれていて、彼が一足先に見てきたらしい書斎にはその知識欲を満たす見込みがあるらしいことがすぐに理解できたのだ。
そして、聞き手が返事をする前に、微かに上ずった高ぶりの声音で続ける。
「不機嫌にならずとも、何も書斎の立ち入りを禁じようってわけじゃあない。私の部屋は隣の小部屋なのだからね。メインの書斎はそれはもう、如何にも豪華さ。天井まで高さがあって、なおかつ豪奢な彫物をされた本棚がある。脚立を脇に備えた、壁のように上等な本棚がぐるりと壁に沿っている。君も見れば、きっと感嘆の声をあげるに違いないぜ」
時間が流れるかのような自然極まりない國枝の、普段の声色より微かに、本当に気にかけてやっと知ることのできる程度に強まる語調だ。
 外側から聞くなればただ、少しだけ早く繰り出される言葉たちであるが、色葉の目に映る國枝の嬉しそうな表情にすっかり圧倒されていた。
なんだか珍しい事のようにすら思えて、息を呑んでいたのだ。
複雑な気持ちになる。如何にも先だって導くの文字が如く先生然とする人間が、ひとりの感性で喜んでいることを当然と喜ばしく思うこと。
同時に存在する、それ以外にはどこにも外へ向いていない興味の数々だ。
何故ならば先に支援者の存在を当たった際も、彼はその支援者には全く以て興味を示していないように思えたからだ。
あくまで彼の語った"氏"――支援者であるひとりの小言に辟易することはあっても、彼の興味が向かう先は機械で出来た鳩の機構と、その仕組みなのである。
色葉の知る限り、國枝を動かすほどの感情がそれだけなのだから、複雑な思いをする。
 なんだか外側に生きている者たちより、内側へ興味を向けて目を輝かせる様がつまらなかったのだ。正確に語るなれば、そんな彼を見てどこかズレを感じたのだ。
何故、と自問しかけて思考は影を伸ばす。
何に"何故"を覚えている?
自分の知っている以前の彼はそんな人間じゃない? 彼をそのような人間にしたのは私だと思って恐れているから?
いや、と否定が浮かぶ。彼は元々こんな人間だった気もしていたのである。
色葉(わたし)は彼の何を知っていて、この、"何故"の出処はどこなのだ――?
空間を裂く"目"がこちらを見ている。疑いを疑う様が視線となって私を俯瞰して見ている。
そんな気が色葉にはしていた。
 ドキッとした鼓動で心臓は生を思い出す。グサリと刺さる痛みで胸が局所的に痛んで、汗が吹き出る。
色葉のびっくりしたような息遣いで、我に返った國枝が弁解に勤しんで否定を意する両手の動きを胸の前でした。
「悪い悪い、すこし嫌味な自慢げだったかもしれない。これでも私は君に最も良いと思った部屋を与えて、そこから対角線上に適切な距離を測ってここだったわけだ。一等先に自室をここにすると陣取ってはいないぞ。誓っていい。……が、君から見えるのは結果ばかりだ。仕方あるまい」
「すまなかった。しかし、私は本当に、君にはあそこが一番いいと思ったんだよ」と、声がさらに蛇足とゆらゆらしたような言葉尻で続けていた。
 國枝にしては珍しく、説明じみた言葉たちの数々を歯切れ悪くして弁解をしようとしていたのだ。
別に拗ねているわけではない色葉は、当然その通りに怒りや嫉妬を彼に対して抱いていたわけではない。
しかし、そこまで聞くと、逆に彼は何を思って自分に最も東に位置する部屋を与えたのか気になっていた。
故に、取り繕う可愛げもなくあえて拗ねた演技をし、ぶすくれた顔をして聞き返すのだ。
先生然をする國枝の本質を誤魔化す様がどこか嫌いになれなくて、それでも我ながらにあまりに幼稚な様を客観視しようとすると冷静を装えず、笑いそうになる。
誤魔化すようにマグカップにたっぷりと作ったミルクティーを飲むふりをして、色葉はふちの傾きで口元を隠す。
「確かに、客間だろうな、という造りや調度品をしていますが……あなたは見た目の価値で測らないと私は思うので、聞きます。それはなぜなのです?」
「そりゃあ、君の部屋はこの屋敷で最も早く朝が来るからさ」
言葉通り、髪の一本が入る隙間もないほどぴったりとした言葉で返答をする。
まるで『そんな当然のことをわざわざ聞くのか?』とすら言いたげであったが、視線ごと向けて真正面から顔と顔を突き合わせてみると國枝は下瞼に皺を寄せて、遠く目映い朝を思うような優しい笑みを浮かべていた。
もちろんのこと、色葉にとってその"当然"は当然ではない。
しかも、それは色葉の認識のどこかでは、たまらなく泣きたいときのような顔にも見ることができると知ってしまって、開きかけた口をすっかりと閉ざしてしまっていたのである。

「それじゃあ、次の食事の時に会おう。今朝は少し遅かったから、そうだな……一四時半ごろかな。庭にいるから、それより早く腹が減るなら呼んでくれ」
 身に着けた懐中時計の場所を確かめるように尻ポケットを二度たたいたあと、きちんと手に取り出した國枝は時計を開き、盤面を見下ろしながら呟く。
そして色葉がそれを間違いなく聞き届けたことを確認するため表情を窺い、先回って破顔する。
つまり、「異論はないね?」と彼は言いたいのだ。
先ほどのような、時間に置いてけぼりにされたような儚く脆いものでもなく、道端で見かけた雑草の先で花が綻んでいたことに笑みを浮かべるようなささやかだ。それに少しばかりの圧を与えている。
しかし、静かになる國枝と反対に、色葉は言葉を聞き分けずに勢いよく立ち上がった。
「待って、待ってください! あなたの気遣いには感謝しますが、ええと、そうですよ。もう一仕事、とは? 私が聞きたいのはそれですよ」
「なにって……庭いじりさ。昨日の続き。この調子ではまた、あっと言う間に日が暮れてしまうからね」
反射的に立ち上がった色葉はあっけらかんとして答える國枝に絶句をして、座ることも忘れていた。
さっきまで座面をぬるくしていた温度はなく、そして緩んでいた腿の裏はいまに緊張を覚えて、中腰のように立ち上がったままだ。
体勢がじきに麻痺したように動けない色葉の身体を脅かすのだ。実際は驚いて何もできないだけであるが、それくらいには色葉にとって重要なことである。
水から上げられた魚のように身体の不自由を痺れのような感覚で知り、言葉の出ない唇の動きは呼吸に困っている姿に似せているのだ。
「まさか、今日中に……なさるつもりで? 到底おわるとは思えませんけれど」
「そう思うだろう? 終わらせるのさ。私がちんたらしていると、その間に春か追手が先に来る。少しくらいは張り切り甲斐があると言い聞かせないとね」
 袖を捲っては寒そうに白い腕を覗かせ、張り切る國枝を前に、色葉は別の意味で肩の力が抜けるようだった。
取り分けて細いだの、健康的ではないだのと語りたいわけではない。彼の腕は確かに成人男性として平均の軸にある。
平均という帯状の範囲を数値で占めるなら、それ以下でも以上でもない太さをしていた。
正確には分布図の平均ど真ん中よりはやや下に位置するだろうが、それでも平均である。彼が研究職をしていたと思えば理解の出来る程度だけ日陰の色を知る肌と筋力を有しているのだ。
なるほど自分より身長の低い男が「君になにかあれば守る」といって不安だけが残るわけでもないらしい。
目の前に見せつけられた張り切りにそれだけ正当な評価を覚えながらも、言葉においてはまるで理解の及ばなさに開いた口の奥を暗闇にしている。そこへすべてが飲み込まれていくようだ。
いやいや、と否定したくなって胸の前へ彷徨わせたてのひらをぐっと抑えつける。色葉は行くあてのなくした手でもう一方の手首に触れていた。
笑おうとすればするほど曖昧で締まりのない、どこか品に欠くとすらいえるような、久々に笑いかたを思い出したかのような怪しい笑みをしていたのだ。
「わかりました。でも、昨日の今日ですよ。私も手伝いますから、明日からにしましょう。かかっても二、三日で終わらせる働きを努力しますし! 二人の方が早く終わる。そうでしょう?」
衣擦れの様子が派手に耳に触れる。
 目を丸くしていたはずの國枝は瞬きを皮切りに、次には訝る顔をしていた。
「こんなに広い屋敷だぞ。二つの意味で言わせてもらうが『こんなに広い屋敷』、だぞ? 二人で余りに余るが退屈凌ぎの手段には満ち溢れている。本も、庭の雑草もね。私と事あるごとに、必要以上に、関わる必要はない。気を遣わなくて良い」
"こんなに広い屋敷"をゆっくりと言い聞かせるように強調すると、先に無理な働き語ったのは自らと自覚しながら國枝は眉を顰めたが、色葉は強く一歩を踏み出した。
「あり余る生活をしているから、不安なのです。私は私のことがわからない。話をしなくたっていい! 今日だけ、今日だけ見える場所にいてください!」
 目が覚めてからこんなに大きな声を出したのは初めてだと思いながら、色葉は椅子の前に立ちはだかるテーブルとの隙間をするりと抜け、國枝の前に立った。
引き留めるように肩を抑えつけようとして、それに驚いた國枝が肩を揺らす。すると何もできなくなってしまった。
力の行く先もなくして、落ち込んだ指先が國枝の袖を掴むのだ。くん、と引っ張って、引っ張ってしまったと思う頃には、顔を見るのも恐ろしくてずっと下を見てしまっている。
まるで駄々をこねるだけのこどもだ。見えるところに居てほしいならば、自らがその場所へ赴けばいいだけなのに。
怖くて顔も見られないだなんて。彼はこんなにもよくしてくれているのに。
自己中心的が勝手に恐れてこんなになるなんて、國枝先生はどんな顔をしているのだろう。
顔に熱が集まっていく。恥ずかしい。執着じみた必死だ。
 頭では確かに思考をしているというのに、今更冷静になって謝ることでなかったこともできなかった。それだけではどうしても心というものが納得いかなかったのだ。
彼が語る曰くの"記憶を捨てて精神を退行させるほど幼心に病む色葉"といういきものがそれを許さなかったのだと、色葉は冷静に考えることができていた。
ただ、口は、身体は簡単にそうはさせなかったのである。
「それに、その、ほら……あの、朝市の話をされたとき、スリフトショップでトランプを買ってきたとおっしゃっていたじゃないですか。二階の日取り窓のスペースで今日は過ごしましょう。暇は持て余しているのでしょう? ね? 退屈凌ぎですよ。良いでしょう? だって、こんなに広い屋敷だもの……」
決して袖を離しはしないまま顔を俯ける色葉がよく言葉を取り繕っていた。
自らが発して良くないと感じた言葉を瞬時に訂正し続けて、体面を保とうとする言葉は茹だる熱に空回る。
ついぞ壊れた媒介で再生を試みる音源のように、國枝が言って聞かせたような言葉の数々を、単語だけで繰り返している。
まるで嗚咽を上げるかのように上手く表現の出来ない苦しみと寂しさを少しずつ吐露しようとする様を見て、國枝は何も言わずにそっと背中を撫でた。
色葉が抑えつけようとしてできなかった肩に触れるという行為を、反対の立場になって國枝は上手く寄り添って見せるのだ。
 袖の握りしめられた腕を不自由にしながらも身体を屈めて寄り添い、もう一方の腕は色葉を半分抱え込むようにして背中に優しく触れている。
抱きしめるというよりは腕の不自由が手伝って肩を組む構図に似ていたが、國枝は優しい指先で言葉を編んでいた。
鼓動に合わせて宥めるようにゆっくりと撫でさする手つきに、色葉は瞼を伏せるのだ。
「急に必死になって、一体どうした? 君の身体が驚くじゃないか。落ち着いて、そう。呼吸をして。息を吐くんだ」
大袈裟な言葉だと色葉は思いながらも、國枝の言葉によく従った。
感情が高ぶって呼吸が出来ないことは、過呼吸と同義にするにはあまりに幼稚だ。ただ癇癪を起しているにすぎないのである。
着こんだ服を前に体温が伝わることはなくとも、そうっと離れ行く手が、また肩甲骨の少し上の位置から呼吸を促す。
感情を鎮める様相をする手のリズムに空回っていた思考が弛む。次第に冷めることを思い出すようだった。熱を逃がす緩やかな手つきだ。
「成人の正常な範囲の脈拍は一分間に六〇回から一〇〇回の間だ。今の君は少し乱れているだろうが……どうかな。まあ、なににせよ人間はきれいに割り切れるものが好きだろ? 最たる例が左右対称の概念さ。ともかく、少なくとも。偶数の倍率を一定のリズムに往来する手の感覚は心地良いと思わないかい?」
 絡む思考を逸らすために意味のない話題をする國枝を、色葉は俯き顔から上目遣いで見ていた。
段々と理解が追い付くようになると疎らな相槌が挟まり、國枝の言葉は少しずつ距離を詰めては時間をかけてすぐそばまで戻ってきた。
「じゃあ、次の問題を解決しようか。息を吸うのは? どうするんだっけ。……そう、そうだね。上手だ。ゆっくり話してみて。できるかい」
「わたし、私は……先生に倒れられたら、困ります。困るんです。怖い。私にはあなたが生き急いでいるように見える」
ついぞ縋りついて語る言葉にさえ國枝は冷静だった。
彼の言葉はいつもそうだ。優しいのにどこかでは淡々としている。それが時に色葉には恐ろしかったのだ。
「生き急いでいる? なにを。時間は万物に等しく在るだろう。私にはこの時間はゆっくりと流れているように思えるよ。喜ばしいことだ。ならば余暇に何かをしたい欲が出ても、なんらおかしくはない。それだけに何を疑問に思う必要があるんだ」
「色葉」続けて口にする國枝の目が細くなる。鋭く、場合によっては咎めることも辞さないという強い目だ。
「無理に私に好かれようとしなくていいんだよ。何が不安なの? その本質は何だい。言ってごらん」
 沈黙ばかりが押し並べて列を作っているかのようだ。
國枝は困り果てて息をつく。
 決して怒っているわけではない。
それは色葉にも理解ができる。確かに理解をすることはできるのだが、身体は強張るばかりであるのだ。
「君のことは心配だ。そして君が必要とする限り、私は私なりの責任を果たしたいと思うよ。だからといって歩くための足の動作から行く先まで向かせてやって、辿り着いたそこに君の意思はあるのか? 君の心身は、今は虚弱かもしれない。だが、君が先に命を終えるという確約はない。事象は観測をするその瞬間まで分岐をし続けるのだから」
だんまりを続ける色葉に、國枝はなぜ厳しい言葉を言って聞かせるのかを説明するかのように一つずつ語り続ける。
どれもこれもが、色葉が自由を手に入れるためのものだ。きっかけを何としてもいずれその瞬間が来た時のための自立という必要性を知らしめる言葉だった。
今は難しくとも、國枝はいつもその時に直面するであろう色葉のことを考えているつもりなのだ。
故に、國枝が観測における分岐に最たる例として極端ながらに"記憶を失くした色葉という人間"に降りかかるであろう、最低で最悪の不幸を語る。
『君はそのとき、準備もなく急に手を離されて生きていけるのか?』。つまり、言いたいことはこれなのである。
 反論をしたいなればその答えを今すぐにでも答えろと言いたげな國枝に、そして縋ったままの色葉はぴしゃりと答えるのだった。
「あなたは、私より先には死なない」
ほとんど間を持たない、しっかりとした言葉だ。
水滴を落とした波紋のように驚きが伝播する。
いきなり薄暗さの煮凝りをセリフにしたような言葉をぶつけられて、最初に驚きを見せたのは國枝だった。
それが空気を渡り、色葉に跳ね返ってくると自覚をする。
――今、自分は何を言った?
國枝の実験を聞く限り、強くはない身体を抱えているのだろうとは思う。
だが、その捻くれたものをありきにしたって、こんなにまで恨めしい様相で断定的な言葉が出たものだろうか。
固まっては言葉を作る唇のまま驚いた色葉をよそに、安堵するように声を漏らしたのも國枝だった。
色葉が何かに詰まったり、困惑したり、壁にぶつかるような言動を見せるたびに、彼は問題ないと言ってそれを態度でも示すように柔らかい顔を見せるのだ。
この瞬間も困った顔のまま、ざわめく梢のように少しばかり掠れた声をしている。
「見上げるほど私への評価が高いな。なるほどびっくりだよ。それとも、君は私の思う以上に内なる卑屈を持っているのかい? まあ、昨晩の話も君を不安にさせるには充分だっただろうが……まず、君の精神は不安定だ。その状況を見るに困惑しても仕方なしとして、ただ、身体の調子が悪いならばすぐに言いなさい」
しっかりとした受け答えの出来るようになった色葉の手を引き、國枝はソファに大きな男を座らせた。そして自分は床に屈むように膝を折ると大人しく座った色葉の顔を見上げるのだ。
軽口じみたやり取りに口端にだけ笑みを取り戻して、その乾いた手を両手で握ってやる。強張った指先が反射的に小さく握り返してくるので、よく頷いて焦点を導いていた。
「――すこしは気が落ち着いたかい? とにもかくにもだ。話は戻るが、それは絶対のことではない。この世には『分岐のない事象などない』ということ以外に既に示された"絶対"の前例はないんだぜ。残念ながらね」
 まるでこの世の全てが愛しいかのように慈しみの眼差しを向け手の甲を撫でる國枝は、枯茶色の睫毛を瞬かせてから、色葉を真っ直ぐに見つめた。
向かって右を前髪で覆い隠してしまう甘い色をした髪とよく近い色相をして、煮焦がしてとろけた砂糖の瞳だ。
「だから、きちんと自分の頭で考えなさい。仮に何もわからないならば――後の解釈や再翻訳は勝手に最適化をしてくれればいいが、他人の言いなりになることと、誰かの機嫌を取ろうとして自らを歪めること。このふたつは手段のうちでも隠したものにしておくほうが、己を尊重するために賢く、終わりを前にした時に自我へ侵食する損害が少ないことを、今だけでも考えの足しとして覚えておくといい」
色葉が頷くのをよく確かめるように、僅かに傾げた首でゆっくりと間を飲み込み続けている。
「先に語ったことがある手前、絶対という強い言葉は避けるが、はっきり言おう。それらの過度は君のためにはならないのはそれなりの根拠で語ることのできる確かだ」
「個としての判断をする際の足しになるはずだった経験の記憶を失くしたいま……未来のことは、いくら描けど空想に過ぎません。いくつかの想像をして、すべて不透明でした。あなたの言う分岐の時に自分が何を選ぶかをイメージできなかった。その恐ろしさを紛らわせるために、今この瞬間で、誰かを引き止めることは到底に受け入れられることのないもので、罪のようなものなのですか?」
「君に最適な手段ならば当然のこと受け入れる。だが、それを解とするには最初と言い分が変わっているね? ただ単に君がひとりでいたくないのか、私をひとりにしたくないのか。それを考えた際に後者を掠める瞬間があるならやめた方がいい。後の利益を見積もって選択することは必ずしも悪ではない。過度でなければ先に伝えた二つも手段として考えるに当然のものだ。むしろ手段に過ぎない。だが、とびきりの有効手段だ」
言葉を短く区切り、舌足らずのような幼い印象を受ける話し方をする色葉に國枝はよく頷く。
それは色葉の考えをよく聞いて、意図を國枝なりに咀嚼し、すり合わせようとする敵意の無さを体現していた。
だからこそ、色葉は恥ずかしさや拙さを自覚する醜いと思うような言葉の数々を続けることが出来ていたのだ。
しかし、最後に悲しげな顔をすると國枝は、色葉の様子が乱れてから初めてこの対話の中で強く首を左右に振った。
漠然とした不安はよく拭ってやっていた。だが、その後に残る拭い残した掠れ跡が本質であると示すような音で、しっかりと事実を伝える。
「だがね、この顔を前にした際には、いま言ったようなことをよく思い出して常に疑いなさい。私は君の人生をめちゃくちゃにした人間だぞ。人は選ぶべきだ」
「互いに不安を抱えている。のに、相手へ向けた気遣いの苗をわざわざ、今この瞬間で育てる必要があるわけない。余裕なんてない。私は私がひとりでいたくないし、あなたをひとりにしたくもない。考えはちっともまとまらないし、不安は育つ。あなたはやっぱり生き急いでいるように見えるし、昨日のことを思い出せばなおさらだ。気にしない人間のほうに問題があるくらいあなたは憔悴していた。この世界にはどちらかを捨てる選択以外は、認められないのですか?」
それを聞いて、口を半開きにして答えに困った國枝が息を呑む気配がはっきりと感じられた。
 今更になって冷静になってきた頭は、身体は、柱時計が時間を刻む音を聞きとっていたことに気付く。
正午に向けて南を目指す太陽によってようやく温まってきた屋外で、野生動物たちが活動し始めたことを知る。鳥の声のいくつかがこの場の静まりに対して鮮やかに挟まっていた。
この間にひとつ季節が過ぎ去ったのではないかと思うほどの沈黙だ。
國枝が次に言葉を発するまでに、異様に長い時間を要していた。
「……よろしい。現実問題として取捨選択は文字通り必ず主観によってつけられた優劣の選択を強いる。いうところ今回の出題における前提は二者択一だが――君の気持ちはよくわかった、今日は共にいよう。私には、君の質問に納得できる"私の答え"が出なかった。理論と感情が反したところに、決着はつかなかったんだよ」
 あまりの優しさにいっそのこと馬鹿にされていると思うわけではない。ただ、それだけの優しさを与えられる意味が分からなかったのだ。
國枝にとって納得のいかない答えを求めても、彼が"先生"であり、正しい理論を正しく伝えたいのならばこの質問にいくらでも残酷ができるはずだ。それに、嘘もつけるはずである。
彼の半分戸惑う様をみて『このひとは自分のことを何だと思っているのだ? どうしてこんなにも甘やかすくらいにするのだ』という訴えじみた疑問が湧き出て、そして気づく。
常に小難しい言葉の言い回しが羅列される様は、しばしば"國枝先生"という彼の本心や思考を覆い隠してしまう。
こうしてわざわざ事実としての正しさと、同じく情を持つ國枝としての個は相反していることもあると証明する口だ。
だが、もし。もし、目の前の男が捻くれているのではなく、かつての自分がふてぶてしい態度だったのだとしたら――?
浮かんだ疑問を拭う。
ぼんやりした頭に拭い残した極彩色の掠れた毒々しさが残っているのだ。あまりに強い刺激が想像の目を刺し、脳の芯がくらくらとする。
強烈な眩暈に似ているそれが視界に渦を描き、すべての自由を奪い去ろうとするのだ。だが、それは瞬時に洗い流される。
 色葉は思う。
自分たちにおける関係の枠組みでそんなことが可能であるのかと考えれば、答えは簡単だ。無理である。
相手に不服を抱いて態度を曲げることは理解できない話でも、あり得ない話でもない。
実際にありふれていることだ。経験がなくとも、「そういった時期を若いうちは思春期だという」だのと概念の上澄みをさらって語る程度に知っている。
ただ、具体的に考えるならば、この局面においてそれが成立するのか?
この――平たく言えば生殺与奪に判決を与える権利を預けたと言って過言でない、研究者である國枝と、人造生命体、つまりヒトのクローン体である色葉(わたし)の身分で?
ありえない。
 思考をする。
昨日の國枝を思い出しては、暗い推測が続く。夜の海に乗り出した船で彷徨う気分になって、暖かいはずの部屋の足元に冷たい風が絡まる。錯覚だ。
彼には彼なりに育んだものの、この逃亡にあたって投げ打って棄ててきた日常があるはず。ずっとそれが頭の隅にある。
そう思えば、國枝なりに不安の他に苛立ちだの、極論を言えば憎しみだのを色葉にむけても何一つとしておかしい話ではない。
色葉は思う。
優しい先生にそんな側面があることを知りたくはないが、だからこそ、彼にとってはなお更に"独り"を大事にしてひとりの時間は必要なのだろう。
だから、これは色葉(わたし)の脳で考えた結果として十分であり、そして極めて独りよがりにでた言葉だ。
私は欲張りだから、ひとりの時間をわざわざ作っては経験を持ち合わせない頭で悩んで、迷宮に閉じ込められたくない。それに、國枝先生をひとりにして悲しみや憎しみを育てて欲しくはないのだ。
なぜならば、互いに不都合が生じるからである。
感情としても、これから少なからず続く日常にあかりを灯していくためにも、そうだ。
 恐らく、今の私は彼の知るかつての私より幾分か爽やかなのではないかと思う。
それが彼の心を気遣いで曇らせるほどのものではないと証明しなくてはならない。そうしなければ、きっと國枝とはすれ違ったまま暗がりに落ち込み続けるのではないだろうか。
そういった思考で表情を暗くする色葉には、國枝が今までどんな生活をして何を感じてきたか知り得ることも、きっと知る機会もないだろう。
ただ、彼が自ら作り出した人造の生命体にまで優しさという水を与えようとする姿勢や、その水が外に出るならば当然のものではないと知らしめるために放つ冷たい言葉の数々が、彼の考えとして彼自身に戒めざるを得なかったとする日々に起因するのではないかと思うと色葉の胸はどうしようもなく痛むのだ。
 ソファの前に屈む國枝のスラックスに備わるベルト通しには、懐中時計から伸びる細かな目の美しいチェーンが繋がれている。
取り乱した色葉を宥めるために疎かになったそれの先を眺めれば、きちんと収まりきらなかった懐中時計が床に投げ出されていた。視線を手繰り、宙ぶらりんのチェーンを見ている。
何かを選べば何かが捨てられる世界はなんて冷たいのだろう。
國枝の顔を――意図の推測が出来ないことばかりが並んだ静かな笑みを、昨日と今日の記憶に並べて色葉はそう思うばかりだった。
「……色葉。今日はね、君と共にいようと思う。そう思い直した。もちろん私も納得の上でね。だから一つ、どうかもうひとつ、私の言葉を聞いてはくれないかい」