鼓膜を撫ぜる朝の手に、柔らかく触れる鳥の囀りを聴いた。
細やかに産毛へ吹きつく空気は澄んで、微かに冷たい。まだ地表が暖められきらないうちに芳香を放つ熟れた色たちが、よそよそしくも朝を初めて見たようなすまし顔をしていたのだ。
空が白むということと同義に夜は息を潜めている。
すっかり幕を張り替えた新品の朝がそこには存在し、日は高く昇るのだ。
窓から覗き込んでは黒々とした圧をかけてガラス窓に迫る夜のコートは脱ぎ去られ、まだ弱い光と共にみずみずしい草と朝露の匂いがした。
夜を防寒用の分厚いコートと例えるならば、朝はチュールレースをたっぷりと用いたヴェールだ。
コットン製のレース糸で編まれた花の意匠よりもさらにシンプルを極めて、一見にはただの布のように飾り気がない。
たが、細かな布目が透かす光こそが本質であり、繊細で美しいのだ。
落ちた細かな影の分岐をなぞることこそが、不可逆の選択肢を選び続ける生の枝分かれのように思えるのである。
美談じみて仰々しく語るなればたちまち光が失せてしまうように、当然の顔をして繰り返しの朝が来たのだ。
普遍として見て見ぬふりをする、この瞬間にしか存在しない朝が光をもたらしていた。
 結局のところ、一夜をリビングで過ごしてしまった色葉は瞼を弾き上げるとはっと顔をあげた。
一人掛けの窮屈なソファに無理やり横になっていたせいか、驚いた身体が大きく跳ねる。それによって重みのある毛布がずりおち、結構な時間を睡眠に費やしていたことを知るのだ。
眠っていたことの自覚よりも早いのが、凝り固まった身体の悲鳴を身をもって知るということだった。
 毛布は國枝によってかけられたと瞬時に悟り、つまり朝までワープするがごとく眠りこけていたらしい。まるで、時間の早送りだ。
よりにもよってこんなにも早く、だらしない姿は國枝に露呈したらしい。あの、先生に。
色葉はそのような悩みごとで頭を抱えながら起き上がった。
 流石に行儀の悪さがすぎる。
適度に本を読んだら支度をして寝るつもりだったが――とにもかくにも、今あるものは事実だけなのだ。
疲労の自覚が薄い際に身体を横たえることは二度としまい。
そう恥を唱え続ける色葉は、気にすれば気にするほど、まだソフトキャラメルの、丸いながら角を完全に消し去ることはない塩味とまろやかな甘味がまだ口の中で存在しているように思えた。
寝起きの水分不足を加速させるかのように、べったりとした虚像の姿をする甘味の錯覚が喉をざわめかせる。一刻も早く口を濯ぎたいところだ。
 背もたれにしがみついて、強張る身体に鞭を打ち立ちあがる色葉の頬に冷たい風の匂いがした。
窓が取り込む光量から日は昇り始めてしばらく経つようだが、産毛が外の気を改めて感知すると身体は一瞬で寒さを感じ取り、全身へ伝達をしたのである。
「おはよう。身体はどうだい、まさかそんなに疲労をしていたとは。昨晩は部屋まで送ればよかったかな。気が回らず、すまなかったね」
「いえ……あ、お、おはようございます」
 言葉を聞き取って一瞬の間、色葉は自分がどうしようもなく生活のままならない人間だと思われているのかと疑った。しかし、知ったばかりとはいえ國枝の言動を見るに、彼は彼なりの真面目で、そして甘やかしたがりの傾向がある。
それらを認識しながらも、時たまにみる表情や怪しげな言動を思い出すと、しかし、しかしと逆説を重ね、言葉を幾つも並べては疑い続けるのだ。
馬鹿にされているのだろうか。
この生活に不便がないわけではない。自分には一部とはいえども記憶もない。
少なからず残った、手放しの信頼をしてはいけないという警戒が、その態度に対してひねくれた解釈をすべきと助長をする。
しかし、國枝は心からの心配で極真面目に言ったのだ。故に会話は滞ることなく進む。
「朝市が安いのはどこへ行っても大体似たような構図だが、君があまりに深く眠っていたからね。今回は私だけで済まさせてもらったよ」
 窓際に立つ國枝の手から鳩が飛び立つ。
開け放たれた窓から吹き込む冷たい風は、朝の果実をなぞるように薄いカーテンを豊かな曲線で膨らませる。
しかし、鳩の羽は平行のまま滑空の準備をし、何かしら他の動力によって飛び立つためのきっかけを持つとさっさと飛び立っていった。鳩そのままの姿にして、発条仕掛けを思わせる不気味な光景である。
筋肉の動きを思わせない姿をみて色葉は首を傾げる。
耳に拾うモーター音もしない。
あれは本当に機械なのか、と唇を曲げかかっていたのだ。
 昨今の機械は極めて精巧をしたがっていたが、端々の再現度の疎かは見た目より、機能の拡充を目的として意味をする。
恐らくあの羽は飛び立つ際のスプリングに関わる動きこそ最低限に見える動きをするが、浮力を得た後に滑空をする様はまさに本物の鳩と見紛うに違いない。
初動の浮力を自発的に作れない――作らないだけで羽ばたきはするのだ。
 生物に寄せすぎないこと、それはこの世界、この時代において明確な生物モチーフのある機械におけるセオリーだ。
動物をそっくりそのまま再現する時代は終焉を知り、今や動作さえすれば良い時代だ。もしくは、機能を高める素材ばかり着眼点にされる。
生物は生物として無二と尊び、運動機能やそれらを効率化する特有の素材ばかりは切り離して将来性を見出し、再現に励む。
風切り羽の機能は欲しいし、筋繊維の構造に利点を見出せば研究をする。ただ、一定以上の再現を嫌うという話だ。
故に機械の動きでエネルギーの初動を再現できるぶんに一頭先に切り捨てられるのは、再現できるうちでも特に、その生物らしさである。
機械の鳩は再現性で羽ばたくことはできても浮力は自ら生み出せず機構に頼るし、歩いても首を突き出さず、そして声帯もない機械鳩だ。よくみれば美しいらしい羽にも、光の屈折で見え隠れの計算された色など存在しない。
なぜ"計算された欠陥品"が蔓延るかといえば、端的に語るなれば世界は衰退を望んだらしかったからだ。
まるで昨日習ったことのように思考をする。
「本当に?」と言いたい瞬間が全くないわけではないが、色葉が根拠なく確信をするものは大抵の場合、この世界の常識だ。
つまり、この流れが最新の流行りなのである。
「確かに君はやわではないようだが、流石に空腹を這い回るのはかわいそうだし、歩けばキロメートル単位の距離もあるのでね……どうした?」
「いや、発条仕掛けの伝書鳩……の本物は初めて見たのかもなあ、と思って」
「ああ、今の君は初めてか。大丈夫だ。すぐ見慣れる」
 冬から逃げ出し閉じこもるかの如く、窓を丁寧ぴったり閉めると、すい、と視線を流して國枝は白衣を羽織った。
昨日のラフなシャツの立ち姿とは異なり、立襟の黒いジャケットと合わせたスラックスの立ち姿だ。
コートのように丈のある白衣を着ると、黒づくめの際より彼が優しそうに見える。首から流れるペンダントはチェーンを長くし、胸の位置をわずかにさがって煌めく。
チェーンタッセルと歪な円をデザインしたそこらじゅうにありふれたデザインのものだった。
視覚が嫌でも情報を脳に伝達したがることに対し、そんなことより、と色葉は思う。
『体調はいかがですか』昨晩のうちで疲労に塗れる自分とは異なる意味で不調をしていた國枝に問いかけようとするものの、色葉はすっかり言葉を失くしたまま、あれよあれよとダイニングテーブルにつかされたのだ。
「朝食にしよう」
 國枝が控えめにポットを持ち上げてはにかんでいた。
すべてが、冷たい風が室内に取り込まれてから、ぬるくなって飽和するまでのことだった。
 テーブルに並ぶのは黒パンとチーズ、簡単な肉の塩漬け加工品、コンソメとトマトをベースとした豆のスープ。目玉焼き。
そして気まぐれに買ってきた朝採れ野菜をちぎっただけと語られるサラダだ。上に砕かれたナッツが乗っているとなんだか豪華だな、と色葉はぼんやり思う。
 とても追われの身の食事ではない――が、これが常ではないのは昨日の食事内容でよくわかる。
謎に思えて、案外にわかりやすい人なのかもしれない。そう思いながら視線を上げる先では食事には手をつけず色葉を見ている目があって、色葉は考えを改める。
殺意はないと思われるが、どこか探るような視線だ。
彼はいつも何を言いたいのだ?
考えも曖昧に腹は減る。
これ以上この身体で何かをしたいのならばエネルギー源を要求するという脳が、空腹という訴えで感覚を鈍らせていたのだ。
「先生……食べないのですか?」
「途中でつまみ食いをしてね。少しでいいんだ」
 並べられた食事のうちでも一品だけ際立って味の薄いスープを、わざわざ選んで國枝はスプーンを口へ運んでいた。
具は豆と玉ねぎと、そこらじゅうに少しずつ残っていたような野菜を全て賽の目に刻んだもの、出汁がわりのベーコンとコンソメの味だ。
くたくたに煮込まれた野菜くずと、果肉自体が水を多く含むばかり湯むきのされたトマトが溶けきらずよく浮かんでいる。
温かい料理にありがたみはあるが、味の薄いそれに対して色葉は『先生がキロメートル単位の運動をしてきたならば味の濃いものやカロリーの高いものを食べるべきでは』と思いもしたが、彼の語るつまみ食いが何をどれほどなのかを指すのかわからない以上は閉口を続けた。関係の距離を測りかねているのだ。
どう接したらいいのかわからない。
「先の鳩――」
「うん? 内容は國枝の名が響く研究者及び医療関係者、またはその他のうち、信用に値する者との取引状さ。電子メッセージでは足がつくからアナログ的手法を用いている」
「私たちは追われの身ですよね? あれは何の情報をもとに主人の手のひらへ帰り、またここへ来るのですか」
 國枝は手を止めると、しばらくしてスプーンまで離してしまった。
手元を離れる銀色がひかひかと呼吸をするように光を拡散すると、自然と視線がそこへ吸い寄せられる。
「君が疑う常識の話は後回しだ。まず、アマチュア衛星の打ち上げは現在は法で規制をされているし、開発者は頑なに口を閉じて特許だの魔術だのと言う。全く馬鹿げていはするが、とにかく鳩の話はやめてくれ。あれの小言を思い出すと気が滅入る」
 逃亡のためにネットワーク接続のある機器はほぼ手放しているのだから、安全性を確かめる大義名分だってあるはずだ。國枝の態度からそんな声が聞こえてきそうな勢いだった。
一瞬だけ苛立ちをしかけて、そしてすぐに冷水を被ったようになった國枝はグラスの水で喉を潤した。
そして語調は静けさを取り戻し、すぐに退屈を浮かべる。
感情の動きは振れ幅を普段より大きくして存在しているはずが、食卓はずっと忘れ去られた家に相応しいだけの古めかしさばかりだ。
故に、冷静を思い出すことができるならば、やはり静かなテーブルに食事の彩りがやけにはっきり並んでいる。それだけだった。
「氏のいう鳩の帰巣本能の再現は、氏独自システムか、存外に既に放棄されたかつての電波通信の仕組みを応用したのかと思いもしたが――いや、とにかく、私は務めてあの鳩には興味をもたないようにしている」
 悔しそうにしつつも凪の表情で遠くへ視線を投げる國枝を見た色葉は一目で確信をする。
思わず、じとりと茶化す目で見つめてしまった。彼にもそういう面があるらしい。
恐らく、いや、十中八九の正解で、國枝が興味を持たないことに努めたいのは、分解を試みて、そして仕組みを理解する前に、その"氏"と呼び表す人間に知られてこっぴどく小言を言われたからだろう。
彼の知識欲が満たされなかったことは目を見ればわかる。爛々を通り越しては、ギラリと鋭く光る欲があるのだ。
知りたいことを解明まで出来なかった悔しさと、未だに止むことのない好奇心だ。
それだけ聞けば彼にとっては本能に近いであろう欲を満たせず可哀想にとでも言いたくもなるが、発明家の側面を持ち合わせるらしい支援者のことを思うと、恐らく正しいのは「たまったもんじゃない」という氏の方だろうな、と色葉は考える。
「それから、流石に魔術は空想だよ」
色葉はもちろんと頷く。「流石に常識ですよ」
 説明ごとをする國枝の口数はいつも多い。
今の色葉にとって、「そんなことも知らないのか」と感じとられる態度をすれば、色葉が悲しむと考えているらしいのだ。
だからこそ、色葉自身もふとした疑問を話題にすることも昨日今日のうちで何度か存在していた。
しかし、今日はなかなかどうして、とにかく会話が続かない。
段々と言葉に詰まり、最後の逃げで語る。
「えと、ごはん……美味しいですね」
「口に合うならよかった。安心してくれよ、スープは次からきちんとした味付けになる」
 再びスプーンを手に取った國枝が向かい側で、行儀悪くもスプーンの先でスープ皿を指し示す。
故に、ギクリとした気持ちもあったものの、色葉は正直に答えた。
並んだ食事は細かな気配りがある。
彩りや多少の食べ応えを気にしているし、野菜もよく使われているのだ。
塩漬け肉などのすぐ使用できる加工済みの素材をよく使うが、確かに、明らかに國枝が手を加え、味を整えたとしか言いようのないものはスープただひとつだ。
そしてこのスープだけ異様に味が薄い。
少なくとも、色葉はそう感じていた。
「すみません。他が濃いのか、あんまり、味がわからなくて……」
「安心したまえ。決して意地悪ではないが、これだけ味が薄いのはわざわざそうしたことだからね」
 國枝が偏食を語った昨晩を思い出す。
つまり、彼は自分と同じものを色葉が食べられるのかを確認したかったらしいのだ。
なるほどね、と色葉は納得をしてスープを見下ろした。
少々の塩胡椒で自分の味覚に合わせて整えればいい程度の話だが、手間を考えると手間ではあるのだ。
いや、そもそも、異様に味が薄く感じるのは他の品が濃い味付けとしてなされているからではないだろうか。
全てが薄かったら、それが普遍になる。食べられない味でもない。
もしかして、國枝先生は料理ができないわけでもないし、偏食でもないのではないか?
確かめるように視線を上げると、夏の薄明を剥いだような色を重ねる瞳が愉快そうに細められていた。

 食後になっても、鳩のことを色葉はずっと考えていた。
正確には、この途方もない逃亡生活に手を貸す支援者の数々のことだ。
どれくらいの間、自分達は世界から遠ざかっていて、どれくらいの間、彼は自分に縛られているのだろう。
國枝という男の端々を見るに、人の好い性質をして、クセはあるものの周りにも好かれるほうの人間だと思う。
だというのに、今となっては自分で推し量ることもできない内容で彼に抱かせている責任感ただそれだけで、こんなところまでふたりきりで来てしまったという足跡を思うと悪寒がした。
この生活の些細に温かな感情を抱くのはまるで間違いに思えたのだ。
――事実を事実としてもだ。
綺麗さっぱり、それはもう都合よく忘れた記憶があるのに、縛られる意味などあるのか?
忘れたからこそ、代わりに誰かが、そして今の自分が別の必要性で背負わされる重荷が存在してしまうのではないだろうか?
ならば、『國枝先生』が語る色葉が色葉として選択しうるいくつかは、自由は、なんなのだろうか。
 食事を終えてまで、全てを國枝に任せるのは忍びないと申し出ては皿を洗ったのは色葉だった。その間ずっと考えていたのだ。
國枝は露知らずの様子で食後のストレートティーを携えては本を読んでいて、手を拭いた色葉はミルクティーを片手にその向かい側に同じく椅子へ腰をかけた。
「先生は、人脈が広いのですね……?」
ずっとそれらを関連づけて思考していた色葉にとっては地続きの話題であったが、一言めにして実に突拍子のない言葉だった。
それに一瞬目を丸めてから、國枝は鼻に息をかすめてささくれたような、すこしカサついた笑いを浮かべる。
怖いもの見たさにゴシップを舐める姿を、その場所よりまた少し俯瞰をし眺めてはほくそ笑むような、少々悪どい息遣いだ。
それを発しながらも國枝本人の表情は極めて穏やかであり、悪意を素知らぬふりでやり過ごしている。
「君も知りたがりだな。まあ、この生活も年単位で続けるに困りはしない程度には。ね」
本から視線を逸らさない國枝が目配せをするようにしてからまつ毛を伏せる様が窺える。
光に浮き上がる凹凸の中で、眼窩の影は翳りがちだ。それでも皮膚に近い場所に内包する眼球の動きですら影は僅かにも蠢かない。
文字を追うのをやめていたのだ。視線はひとつに像を求めたまま、目をくれてやることはないが、色葉の言葉に耳を傾けてくれていたのである。
そうやって待ち続ける様は、まるで静かに眠る姿に似ていて、光の入り様では逆光をする部屋によく似合うように用意をされた人形のようだった。
 人形というと語弊があるが、あるがままを重ねた家具のひとつかのように、まるでこの場所――会話を含めて、ここにいることに意味があるからこそ用意をされて馴染んでいたのだ。
このひとは謎だらけと思っていたが、やっぱり、いや、この瞬間、ついぞ謎のかたまりそのもののようだ。
そのように色葉には思えている。心のどこかで圧倒されていた。
「先生は素晴らしい方だったのでしょう。一端の被験体であるらしい私にもお優しい。今でも支援者がいるのも頷ける」
それを聞いて國枝は肩を揺らし、クツクツと笑い出す。本を閉じて長く息を吐くのだ。
言葉の意味を間が深める。
その隙間を見て、感じ取って、はっ、とした。
研究者に対して言動を素晴らしいなどと語ることは、相手が言葉や認識を違えて捉えれば、道徳の無さを語るものだろうか。しかも、彼は自身の関与したものの内容を非人道的と自ら語るのだ。
國枝の行っていた研究内容を上辺だけ聞いていた色葉は、失言をしたと思っては慌てて身を固くしたが、当の國枝は全くそれに興味なく一言を先に答えた。
「まさか」。
それだけ先に反応をして、色葉がどんな顔を見せるのか待っていたのだ。
「逃亡後の繋がりがほとんどさ。学会を前に消失した禁忌の論文に関するを断片だけでも知りたい研究者崩れか、投資が趣味だと語る御隠居がどこからとなく訪れてくる」
 どこの国でも秘密裏に――国内でも明確をせずヒソヒソと行われているそれが、学会に出せる健全で清書されているのだ。しかもなかなか例を見ない成体までの観察記録を軸にしている。
そんな話を聞いたら確かに喉から手が出るほど欲しい人間も居るだろうな、と色葉は思うのだ。
納得がいく。
想像よりつまらない反応だったのか、國枝は柱時計へ目をやると本をテーブルの隅へ追いやってしまった。
持て余した両手の指同士を絡めた受け皿に顎を乗せている。憂鬱を浮かべてため息をつく様な格好をしていたが、語調ばかりは嘲笑すら浮かべていたのである。
「ゆえに、この國枝は応えるように餌をチラつかせて支援を募る。いいや、詐欺なんかじゃない。正確には私は彼らに幻想や夢というようなリターンを与えている。誰も語ってはいないというのに、慌てて閉じられた箱の中には知恵の果実の栽培法や、生命についての永劫機関やそれに類する設計図の紙切れがあると信じてやまないらしい。そんな人間に対して、それらを否定しない安っぽい夢を私はそれらしく語るのさ」
復唱をするかのような曖昧の言葉で「夢……」と繰り返す色葉の空疎を認めて國枝は、まるで鯨が泳ぐが如くの悠然で続けるのだ。
「今この瞬間は夢でも、人間は犠牲を正当化しながら進み続ける。何故か? それはただの夢じゃない可能性があるからさ。大抵の人々はただ紙に描いた思いつきの幻獣が実在するはずという妄言に取り憑かれている訳じゃあないんだな、これがね」
諭す言葉のようだった。
自分は他人を騙すような真似をするが、それは仰々しく膨らんだ幻獣の概念を探しに行くような愚かしさを助長するのではなく、曰く可能性という根拠になり得るものはある。國枝はそう語るのだ。
 今現在のこの地球という舞台は人類の総意としてご都合主義の衰退を望み、中世のような景観を好んで生きることが常識である。美しい生きかたとしてすら語られている。
ということが本当に常識であり、かつ、この時間が産業革命時の発展で科学からは別の方面に分岐した世界だったならば、間違いなく彼は賢者か教祖だ。
色葉はそう思う。
そして、残念ながら世界は学問の発展をひたすらに続け、謎の多くは謎ではなくなった。
それでも未だ膨大に存在する謎は、改めて認識した様々たちそのものが人間を囲う檻だと気付かせたのである。ゆえに、彼は賢者でも、教祖でもなく、研究者だった。
 何を求めてここに至ったかを色葉が知り得ることはない。
ただ、國枝という男の、まるで世界の裏側を見てきたような長い時間を思わせる姿と、磨耗の果てに得たような凪が好ましかった。
どこか、なにかの――なにかが不足するような言いようのない不安に逆に惹かれるのだ。
人間性に惹かれていることはもちろん、彼の謎のかたまりのようななにかの面は、もはや色葉の興味を奪ってやまなかった。
ただの秘密主義や、國枝のもつ自己の面倒見に対する疎かかもしれない。
だが、そこから時たまに見られる彼の中の色葉像を自分を知るための手がかりにすることや、思考をすること、脳を生かすこと。それらに國枝の言動は多大な貢献をするだろう。
そしてこの生活の退屈凌ぎにはなんだって最適だ。
國枝の望む色葉を演じることは不可能だろう。
しかし、ならば、せめてこの謎そのもののようなひとと少しでも近い場所で話をしたいと思うのだ。
「ただ、より具体的に支援者との関係についてならば、君が思うよりずっと薄暗い話だな。まあ、あの鳩を作った氏は……なんだか変わった感性をしているが」
 思い出したかのように口の中を苦くしている國枝は次第に眉根を寄せてしまっていた。
鳩の中身がどうなっているかの興味をぽつりと零した様を、薄い瞳で見つめるのは今度は色葉の番だった。
知らないことを知りたいということは誰に譲り受けた欲求であるか知ることはないが、少なくとも目の前の人間はきっとそれを満たしてくれるだろう。
そう期待をしている。
こうやって、暖かい部屋で、あたたまったカップを前にし、國枝の悠然とした言葉を聞く。
 時に問いかける言葉はいくつも連なってやがて解を導くだろう。
しかし、言葉たちが尾を翻すように海を泳げば、解がひとつであるとは前提としていないことを示唆するのだ。
 彼の言葉は決してひとつの何かを明示しない。
曖昧であるともいえるだろう。それでも心惹かれるのだ。
解のない言葉は、他を認識することで可変する事象や思考へ渦の行く先を引き、さざなみの音を錯覚させる。
耳を傾けるほど、まるでおとぎ話を聞かせてくれるような言葉を操るひとだった。
永遠を錯覚するほどの微睡と、遠く誘うさざなみの音を彼は連れている。