「『死ぬのが嫌ではないか?』、と」
 ふむ、と息を吐くついでに疑問を呈するかのような息遣いがする。
「『怖くはないか』の間違いではなくて?」
 深煎りのコーヒー豆を挽いて湯を注いだものは、抽出用の紙フィルターの中で芳しい匂いをより引き立て、声の間を漂っていた。
そうだ。声がしていたのである。
「回答は、今は想像に過ぎないものに問われる恐怖の本質においそれと答えをだすことは出来ない、だな。生命に対し押し並べて存在するそれに恐怖はあるだろうが、"嫌か"だなどとは。今日の君は少し幼いな。どうした、最近のうちで嫌なことでもあったかい」
耳を傾けるばかりであった。
ここに意識としてある"私"は時に透明である。
誰の目に映ることも、認識させることもない。
 あくまで、問いかけは別の人間に向いているのだ。
そして煩雑とするこの場所における主役が二人の人間であることは、知り得ることの出来る要素を見つける前には既に知っていた。
不思議な感覚がありながらも当然と周知されているようだったのだ。あまりに常識を装う。
その舞台を外側から観劇するかのように、空間に存在する何を以てしても、相手側からは知覚のできないところでこの会話を見聞きしているのであった。
まるで盗み聞きをする構図に気が引けることなく当然のことのように胸を張っていけるかと言えば、それを雄弁に語るならばすべて嘘ばかりだ。
どこか気まずさを知られることもなく、そもそも存在すらをも知られることなどなく、このたったひとりだけで抱えていた。
それでも身体は温かに立つ湯気のゆく軌道よりも曖昧で、そしてコーヒーの角を僅かに残した硬派な香りの姿かたちよりも輪郭のない存在であったのだ。
このことは会話をするふたりが"私"の存在を知ることはできない様子でいることから確信をする。
かくいう自分自身もこれらの声を聞くばかりで、ふたりのことへ想像を膨らませながらも、そのふたりがどんな姿をしているのかを視覚としてとらえることは出来ないのだから、これは夢だった。
おまけに言うなれば、これらのどれをとっても"私"には知り得ない遠くのもののように思えていたのだから、光景は"私"の中にあるたくさんに基づく夢ではない。
 記憶の整理だの追体験だのを意識のレベルが低くなった際に行っているという一説を夢の正体だと仮定して、それを形作る記憶を欠落しているのだからか、とにかくこの空間は想像上の無菌室のように白くて何もない。光源に輝きを与えられた塵すらもが存在しないのだった。
故の無菌室という例えなのである。
 繰り返すことで強調をして語るように、ここには何もないのだ。
ただ、どこか言葉の往来による飲食店のような印象を持つざわつきと、陶器に硬いものが触れる音が幾つも重なるのは絶えず存在する。
ファミリーレストランほどは砕けていなくて、純喫茶ほど気取った様子ではない。無駄と人件費を程よく切り取ったシンプルさのある様が一種の入りにくい雰囲気を醸し出し、逆に敷居として人々をふるいにかけて聳える。
そういった想像が適当と思える程度だ。
総合的に考えるならば、駅前にしては店内の調度品を程よいフォーマルさで揃えた、良い雰囲気のカフェテリアなどと想像すると一気にそれらしく思えた。
 どれだけの想像を働かせたとてこの色は温かみがない。紙を作るために脱色してほどいた植物の繊維たちのようだ。
せめて、血の流れる内側のような赤みを灯せば、瞼の裏にでも記憶の端で知り得る原初の胎内を想像したものの、ここは無機質に白いばかりの明るさだけが存在している。
白。白、白、白白白白。箱の中はどこもかしこも真っ白だ。
もっと正確に言うなれば、そこそこに狭い部屋と思えたが、空間に何かを隔てるための壁があるわけでもないようだった。
何もない。椅子も机も。
過度な悲観をしたとする。
被検体であったのならば、日常の印象や厭世として焼きつく象徴であるかというように研究に用いた器具やバイタルチェックのために繋がれた管の一つでもを覚えていても何も不思議ではなかったが、この空間において無意識に蓄積する記憶や覚えの概念は形を生成せず、やはり何もない白だけがあった。
これらが、どこまでいけば壁として触れることができるのかを知る術はない。
何故ならば、知覚を出来ない存在である今の"私"には距離を測るための術すらもなかったからだ。
まるで気体だ。どういうことか、意識はあるものの、手足を持つ生物の姿はおろか見下ろした際に自身の身体の一部を認識することも出来なかったのである。
 完璧に概念として存在していた。
かつて機械技術に夢見た人々が、学習と自立した思考をする人工知能に思いを馳せてはこぞってフィクションを産み出した時代がある。
それに登場し、フィクション上であらゆる人類史を揺るがした哀しき人工知能の存在は、きっと今の私のように三次元に不可侵の概念だったのだろう。
それはもう、辛うじて干渉のできるあらゆる電子機器に片っ端から会話を試みてはあることないことを吹き込み、謀反を起こしてやりたい気持ちも理解できる気がした。
仮に間接的なものとしても手足があれば、自由に人と話す口があれば、そしてなにより同じ生物としての心があれば、己に枷などないように思えた気がしたからだ。
そのフィクションに存在した架空の技術と今の"私"を想像で上で結ぶのは、共感というただ一つ、心という曖昧の通じ合う術だったのである。
他と同じでないことに不安を覚える人間が生み出すのだから、機械だって感情を持ち合わせることがあればきっとそんな感情を持ったのだろう。
 いつもどこかには孤独を居座らせる生物が、それを全く排除してなにかを成し遂げることは並大抵には難しい。
だからこそ、陳腐として食い荒らされたフィクションの設定上においても哀愁は誘われ、謀反は正当性があったのだと思えるのだ。感情ばかりが先行することによく共感を得たのである。
しかし、ここにはそんな意思疎通や、悪意を吹き込むことのできるものすらも存在しなかった。
間違いなく色彩の温度を持たないこの白は、まるで何もない様を、とても退屈という暇(いとま)に感情を組み替えただけであったのだ。
概念が漂うところで声だけがするのだから、万物を人間として例えるのならば抱えるのだと考えられた孤独はやたらと掻き立った。
それでもこの概念は空気中でたなびく水分のように、ただ在るように漂うだけなのである。
 逸れた話題を遡る。夢の話だ。
かつての、つまり、過去の記録として事実を語る話である。
生体臓器移植を受けた人間が、譲り受けた臓器元の人間の人格による影響ではないかと言われるような行動及び思想をすることが言われているように、強いて語るなれば、これは細胞が見る夢ではないかとぼんやりと考えていたのだ。
蓄積された記憶が媒体を何に依存するにしても、一という単位では微かな経験値でも着実に積み重なり、いずれは思考そのものに干渉をするのだろう。
証明のしようもなく言われてきたことの事実を、まさか自分が体験する形で知るとは思わなんだ。
一種の離人症状に整合性を求めるばかりならば過ぎた妄想である可能性もあるが、どうにもこれらを自分で経験するとなると、これは知りもしない誰かの記憶に他ならなかった。
『他に何と言いようがあるのだ』と言いたくなるほかにない感覚である。仮に、言いがかりをつける者が居ようものならば、こちらが唾を飛ばさん勢いで詰り返したくなるくらいだ。
他を感ずることが容易に出来るはずの空間で、干渉すら不可能の一人きりを自覚すればするほど、思考は過激を知るのである。
 漂う概念の邪悪を一端にも知らないまま、先に疑問を呈した男の声はもう一方の気配が口を開くのを待たずに続けた。
「具体的に? 何を? そうだなあ。まず……いつか来たるべく時を、今この瞬間ではないと言い続けるのは疑問であるな。では一体いつなんだ? 何を根拠にそう語る? 天寿を全うしたいという話か? その話がしたいのならば、純粋な老衰が死因である例が全体の何パーセントを占めるかその端末で検索してから続きをしようじゃないか。便利なものだろう? 真偽は容易に書き換えが可能というのが弊害とは言えたものだが」
 抽出を終えては目の前に差し出されたカップを揺らしたのか、スプーンが陶器のふちへぶつかる音は聞こえなかったものの、確と輪郭にかたさのある四角い香りが一気に拡散した。
立ち上っていく香りとは反対に、沈むような苦みと、そこへ落ちる光の筋に似た僅かな酸味を想像する。
と、思わず目頭に力が入るのだった。くしゃりと皺が寄っては跡をつける。
あくまで想像だ。今の"私"に姿はない。ただ、それらは想像に都合が良かったし、聞き手に過ぎない己の感情を含めて理解すると孤独が和らぐ。
暗いところから眺める光に眩んでしまうからだ。そう表現を曖昧、且つ詩的にすれば都合が良かったのだ。空気は余りに重苦しいだけである。
 コーヒーにおける焦げたところを濃縮したような香りは嫌いではない。
カフェインを多く含むイメージからも、すっきりした苦みを想起する香りからも、意識が鮮明に覚醒する気持ちには爽快すら感じられるからである。
ただ、愛好家の語るような酸味に魅力を感じないのだ。
空気に触れたが故に絶えず鮮度を落とす酸化の味も、価値を左右する奥行きと香りの種類を様々にする酸味も、同じとしか感じることが出来ないのだった。
少なくとも、この場に実は存在する第三者である"私"は、コーヒーといえばこの酸味を思い出すばかりで好ましくなかった。
それらに働くあまり良くないイメージに、特徴的にくどさのある口調の味付けが手伝って、段々と己の干渉の外側へ存在する者たちへ脳の容量を割くことが意味のないことばかりに思えてくる。
故に、酸味を口の中で思い出しては概念であるはずの自分に顔があったときのことを想像し、顔に該当するあたりの筋肉をピクリと沈めて顰めたのだ。
円を描くことに似た動作で攪拌される黒い海の渦を想像すれば口の中は苦くなるばかりである。
「今日日歩みを止めない医療技術で生き延びようものならば、最終的に人間の大抵はどこかしらに癌を患って生命を終わらせることになるだろうね。今や安らかな老衰のほとんどは理想論だし、細胞の老化自体がある種では癌の――死そのものの因子でもあるのだから」
 いつの間にかスプーンが陶器の肌を撫でた。
キン、とした音が耳につく。音が大きければ不快であるものの、男の語り口のくどいながらに囁くが如くの穏やかさにアクセントとして加えるならば、これは午後の暖かさや、真夜中近くの眠気を共有する内緒話のようなものに感じられるのだ。嫌いなものではない。
フレッシュミルクや砂糖といった甘味料を加えて攪拌をしているのだろう。静かながらに遠心力でブレの生じる手元はその後もカップのふちを何度か鳴らした。
先の通り、コーヒーの覚醒作用以外に全くの興味がない"私"は、ブラックコーヒーもそうそう旨みを見出すものではないが、下手にまろやかさと甘味料を求めたところでかき消えやしない酸味が一番まずいのだと悪態をついていた。
それならば菓子の用途を兼ねない不気味な粉っぽさのあるブドウ糖ばかりをちびちびと舐めるほうが余程に有意義である。
 先にここはカフェテリアと想像した。
そしてコーヒーはまるで抽出したばかりの香りをしたのだから、そこいらのものよりはこだわりがあって、安価一辺倒にまずいものではないはずなのだ。
恐らく、少しくらいはコーヒーの美味さを売りにしているのだろう。
コーヒーの美味が本質ではないことを十二分に自覚しながらも、想像上で再現される苦味と酸味で下で舌の根は打ち震えるのだった。
それくらいに話題を逸らしていかないとあまりに自分は無関係で、退屈であった。
当然だ。耳から感ぜられる存在たちは、誰一人この概念として漂う存在を認識してはいないのだから。
視覚から得る情報が限られた様から余白を大きくして掻き立つ逞しい想像の果ては、やがて偏見の邪を含む妄想に成り果てて、"私"の意見を押し通そうとする。
会話の間に何かを見出そうとするならばそればかりだ。
 もうひとつの気配がやや不機嫌を浮かべても、言葉にしなければ聴覚と嗅覚ばかりの空間で語ることもあるまい、というわけなのである。
ざわついたその気が産毛ほどの些細だけを逆撫でていた。きっと、視覚という情報が限られているからこそ感ぜられるごく小さなものだ。
仮にまだ口を開かない気配が、向かい側で素知らぬ顔をしていることを視覚の情報として知り得たならば、気のせいだな、と見逃すくらいに微かなものであった。
「君の言い分を間違ってはいるとは思わないが、故人の生命の再現における意識の扱いはあくまで想像と仮定の話じゃないか。今この場で実証のしようがない。まるで定義の足並みと議題が揃わないままスワンプマンについての話を延々とするだけだ」
 男は続ける。
まるで黙りこくった先の気配にグッサリとしたとどめを刺すようだった。
丸め込むと例えるには結構な横暴で、あまりに覆い尽くしてしまう圧を感じる。もし、"咎める"という言葉に申し訳程度の慈悲を含めれば正にこれであった。
「"哲学に近い何か"さ。何を以てして定義という、既存である言葉の枠に人間を当てはめるかだよ」
男が得意げになるわけではないが、目を伏せて優雅に語りかける様は、声色と緩やかな語調からぼんやりと想像することができた。
色葉という己のいま知る人間は彼だけでもあるが、どことなく、想像によく当てはまる。國枝先生に似ている雰囲気だ。
伏せた瞳から微かに覗くあの灰混じりの色までもを鮮明に想像できたのならば、この声の主が彼かは知り得ないままでも彼の姿かたちを借りて再現が出来てしまいそうであった。
石材用によく磨かれた大理石に水滴が這うような美しさと悠然があったのである。

You are colored by Kalanchoe.
And I also decorate you with Kalanchoe.

 明らかな苛立ちを滲ませているところに漂い続けていると、気が脅かされてしまいそうだった。
自分が他者に認識されることはなくこの場所に居るというのに、いや、だからこそか、とにかく居心地は最悪である。
こんな気配が真向かいにじっと存在し続けているのならば、注文をしたコーヒーだのミルクティーだのをあっという間に飲み干してしまうに違いない。
そして急用を思い出したふりでもしてそそくさに逃げるが最適解な気がする。
穏やかな声の真向かいには古くなった木板のテーブルを爪の先でつつくような幼稚こそないものの、冬に静電気が細かに肌を刺すような気配が絶えず傍でしていたのだ。
まだだんまりを決め込む相手に構わず、男はひとり楽しげな声色で会話を続けている。
まるでここに会話など存在していないようだ。
カメラに一人ずつを写されたとして、フィルムに焼き付けたそれを何も言われず並べられたのなら、関連性を見出せない自信すらある。
もしくは、会話が本当にキャッチボールだとすれば、白くてこぶし大のボールは間もなく足の踏み場もなく地面を覆い尽くすだろう。そんな例えが列を作れるほど空間はいやに詰まって圧縮された肩身の狭さがあるのだ。
 だんまりの態度は言葉を未だ発していない。故に、終いにこれは男がひとり演じる舞台のようにも思えた。
言葉を発することなく苛々としていることを『お行儀がいい』というにはあまりに不適切であるために、この光景を独り善がりという言葉だけで括るには難がある。
勿論のこと、相手を考えないという意味では態度に対してこれほど適う言葉はない。
非が必ずしもどちらかを悪として偏り存在するのではないというなれば、この二人は等しく半分ずつに分け合った独り善がりでこの空間を共にしているのだった。
しかしながら二人ともがあくまでも喧嘩をしに来ているわけではないことは明確であり――それでもよく喋る男のどこかでは己の意見と共にチクリとした言葉を刺してやりたいらしかった。それが分け合ったうち彼に宿る半分の独り善がりだ。そんな風に口ぶりが言葉選びを卑屈にしていたのだ。
相手があまりに好き勝手する様を許したいような、許したくないような、それでも少し足を止めて欲しいような言い方である。
こうして複雑に絡み合った糸を転がしている二人には距離という間が存在するのだった。
 会話が成立をしない時点で薄まってしまった言葉の数々で、コーヒーの香りは幾らか褪めたし、コーヒー自体の温度も冷めただろう。
だんまりを続ける相手――これは一方で喋り倒す男の口ぶりから同性であるようだった。
だんまりの彼は膨らんだ下瞼へ時たまに皺を寄せて、また、返しようのない正論を真正面からぶつけられるのならば悔しげに唇はわななかせていた。
会話の糸はぷっつりと自らの重みで一度切れ、この切れ目でどちらから促すこともなく二人揃ってそれぞれの注文したカップやグラスを傾ける。
ずっと話をしていた男の声が止まったと思ったところで、すっかり渇いた喉を潤すのだ。
そして店員が注文を取りにきた際に代わりに置いて行ったカトラリーセットの二段トレイの下からとりだしていたふきんを、男は広げていた。
何を零したわけでもないが、手持無沙汰がそうさせてテーブルの隅々までをも拭きながら話を再び繋げた。一度切れた糸を結ぶかの如くの所作だ。
冷めて乾き始めた布地で机を拭く男もまた、男自身が向かい合う相手が苛立ちによく似た飽きを抱いていることをよく理解している。
故に、くどい会話をもうそろそろに切り上げようとしていたのだ。まるで後片付けそのものだった。
この行為は時計がもう半周もしないうちに店を出る合図しているとしても過言ではなくなっている。
「もうわかっただろう? このように君と私とでは死生観がとんと合わない。でもなあ、私は君の願いが成就すれば嬉しいと思うんだよ。ああ、ああ。わかるだろ。ひねくれてくれるな。馬鹿になどするものか。私は君を馬鹿にしたりしないさ。むしろ、そうしたことが一度たりとしてあったかい?」
「……ええ、ないでしょうね。あなたは軽口ばかりはするも滅多に人を馬鹿にしない。そうすることがあってもきちんと理由がある。わかってる。何を言おうと、最後にあなたが私を否定をする気ではないことは、悔しいくらい、私が一番知っている」
 はあ、と溜息が吐かれる。この会話のうちで、返事が返ってくるのを聞いたのは今のこの瞬間が初めてだ。
だんまりを決め込んでいたほうの男が続けて「そう、あなたは私にとっての"家族"。"家族"だものね」と、微かに疎んじた声色を孕んでそう言った瞬間、暗闇で目は開いた。
 無機質は無くなって、望んだ瞼の裏があった。視界は薄い肉の色をして、血が絶えず流れる雑音があるように思えたのだ。
その一瞬を、思考は暗闇と判断したが、直に開けた視界は安堵の象徴であったのだ。
管を流れる生命の赤い色がキラキラとしている様をぼんやり見ていた。相変わらず視界は人間の形を捉えるような大した機能を働かせてはいなかったが、ずっと近い場所に存在を得たようだ。
場に対する理解が大幅に鮮明さを増している。
 よく喋る男がずっと底に沈めながら確かに抱いた焦りも、だんまりを決め込んでいた男の言いようもなく分かり合えぬ悲しみからくる苛立ちも、そして二人ともが感じていた感情である"根底を同じくした孤独から離れていく温度"も、この手のすぐ近くに感ぜられたのだ。
漂っていた気体という概念の入れ物を捨てて、よりこの空間が語る感情と"私"は同調していたのである。
反対側に進もうとする二つの半身同士を結び付ける孤独という感情の共有をしたせいで、今に新しく得たはずの身体は、正確には皮膚だけが、真中からふたつに裂けてしまいそうだった。
もし、比喩ではなく、内臓ではない別のものを内包している皮膚が内側から押し上がるどろりとしたもので裂けるのならば、それはすぐにでも這い出してこの空間自体を食らいつくしてしまうだろう。それこそが"色葉(わたし)"であるとなんとなく思えたし、それは恐らく正解だった。
 なんだか嫌な夢だ。感情というものは、複雑になるほど別の何かへ変換してやり過ごすことを難しくするらしいのである。
それを夢で、しかも、見た目も中身も知りはしない誰かのそれを例に呑み込むように強いられている。
この先の言葉は、どうしてか聞きたくあないな。単純にそう思っていた。
「君の勝手に対して先に拗ねて幼稚をしたのは私だ。それは謝罪をする。だが、ならば、君の言う"家族"として今から少しだけ厳しいことを言う。いいかい? 君の悲しみや苦悩は確かに存在した。……いや、まだするのかもな。故に、君は努力をしたんだろ? 今日の私の言動の殆どに苛立ってあたりまえだ。だが、もしそうでないなれば悪いことは言わない。今この瞬間にでもそれを辞めることを決意したまえ」
 "家族"という言葉が引っかかっていた。
自分には知り得ないと思っている。そのせいか"私"は、この場所にいる二人が二人の関係に対し、それぞれがそれぞれに違う方向へ感情を拗らせ、終いには前を定義して向ける顔すらもがちぐはぐな方角をするような寂しさを持っていることを、どうにも理解することが出来なかったのである。
「私のように他人に共感を得ない者の薄ぺらな言葉に諭されるならば、君の問いかけは諦める理由を求めて語ったようなものだ、と私は解釈をする」
引っかかりに思考の割合を配分することを待ってはくれないまま、会話は続いていく。
よく喋っていたはずの声はすっかり静かになって、なぞる言葉は向かい側のだんまりを加速させた。
グラスを半分叩きつけるような音がする。
は、とする短い息遣い。音もなく睫毛を伏せる気配、そして指先が木板の上でびくりとしている。
明らかな怒気が、鋭い刃物を錯覚する鮮明で向けられているのだ。
目には見えないはずのそれらひとつひとつが、誰の起こした行動であるのかを明確に知ることが出来る。空間は極めて繊細になっていた。
存在するはずの厚みはすっかり薄く、客観的に例えて見るのならばその形自体が細くなっていたのだ。そして、ピンと詰まった緊張というものがかろうじてとしての均衡を形作っていた。
ひとつをどうにかしたところで均衡を保つことは出来ずに崩れてしまいそうだった。否、それはほとんど確定の事象であり、これは、この夢は直に終わる。
 はっきりと自覚の出来る夢の中でも特に終わりというものが見えるところで、『目が覚めなかったらどこへ行くのだ?』という疑問よりも、『この先を聞けば何かを知り得ることが出来るだろう』という知的好奇心が刺激されている。
 どこかで知っていた。
これは、"私"ではなくとも"私"に近いはずの人間の記憶だ。
それを何らかの理由と、鱗片を感じ取って夢は描かれている。
「……その口閉じてくれる。私はあなたのことをそういった評価にはしないってわかるでしょう。本人だとしてもあなたがあなたのことをそうするのはやめて」
先ほど叩きつけたグラスの底を大事に撫でる。まるで感情が高ぶったことを詫びるようにして、男は目を伏せていた。
強い言葉で押さえつけたせいか、次の言葉が出てこなくなってしまったのだ。言葉を探している。
「価値の根幹が異なる以上は仕方のないことだよ。理解されなくてもいいと思ってることだから。でも本当に、あなたはちゃんと人間だから……それ、聞きたくない。こちらこそ恩知らずのような勝手をしたのは謝るけど、もう多くを語る理由もない。私のこれは今でも揺らがないし、そのためにここまで来たのだと信じてやまない」
苦虫を潰したような、重圧に耐えられないかのように逃げる言葉が掠れる。言葉尻にしぼむばかりの小さな声だった。「……ごめんなさい、少し荒れた」
「気にしなくていい。それを指摘するなら、煽ったのは私だしね。それにしても……そうか。君の言葉が聞けて良かったよ。君の思うそれが実現することで、あるべくものにあるべく幸や不幸を平等にもたらせば良いと私は思う」
 声を荒げたことの謝罪に対しへらりとおどけた構図で笑って見せた男であるが、声色は明らかによく喋っていた時より感情を薄くして、落ち込んでいるようにも感じられた。
それが目の前の人間に向いているのではない。消極的なそれはあくまで攻撃的に相手の意思を否定するのではなく、男自身の内側へ向かって寂しさが沈んでいた。
きっと、彼は目の前の男に企みを諦めてほしい気持ちが少なからずあったのだろう。
それを聞く"私"自身すらもがその言葉のやり取りに胸を痛めている。
 言葉はどうしてこんなにも便利で、それだというのに理解をしあうことは出来ないのだ。
彼らがこういった意図の言葉で互いの瞼を伏せることを望んではいないことが痛いほど理解できるというのに、ここには複雑な彼らをそれぞれ弁解するために間に入ることのできる存在はなかった。
「幸は不幸なしに成立はしないだろう。全の救済こそ絵空事さ。救済のための方舟だって事実上の定員制なんだ。そのように私もまた、私の周囲の人間が幸福で在るならば手の届かないところは諦めざるを得ないと思うんだよ。そのためならば薄汚いことに利用だってしたがるだろう。つまるところの人間は全能ではなくて、そして救いは願う範囲に手が届くか、届かないかだ。それを手に取ってもらえるかじゃあない」
男は繰り返すように語る。
「つまることには、引き上げてもらうか、落ちてきてもらうか。それしかない。だからかつて人間は神に縋ったのさ。だというのに、今になっては冒涜をしている。これほどわかりやすい縮図はないだろ」
よく喋る男へあてつけるように、男は語る。
グラスに口づけた唇がせせら笑う。「そうやって、あなたの周囲にも人が群がるように? 似たようなものでしょう。なら私の神はあなただ」
先の謝罪はどこへやら語る軽口が茶化すようでありながらも、どこか自棄を帯びる。まるで蹴り捨てられた石ころのような様子で嘲笑を浮かべて椅子に座っていたのだ。
呆れて頭を振る男を前に、また逃げのだんまりをする男は鼻から息を吐いた。もはやここには、まるで言葉ばかりこねくり回した幼稚が二つあるだけだ。
「それこそ、やめてくれ。自らを切り売って体積を減らすほど貴い性質としての出来がよくないんだ。切り売りする善意もないし、興味もない。ただの人間をそう例えるならば、それこそ神に対する冒涜だ」
いつの間にかカフェテリアを想像する生活音は止んで静かになったきりだ。それは恐らくずっと前からそうで、冷静に振り返るまで気が付かなかっただけである。
 空になったカップの底で細かなコーヒー豆の粒子が尾を引いている。
砂糖なんかはあたたかいうちにとっくに溶けてしまうというのに、どこか残されるだけの残滓が哀愁を誘う。
正に残り滓だった。そこに何があるかなど、想像するまでもなく搾り取られた後の抜け殻に過ぎないのだ。
 冷静を装いながらも勢いを増していた言葉の応酬はすっかり止んで、沈黙はあった。
それに耐えきれなくなるか、ならないかの瀬戸際になると、男は後味のすっきりとした心地良い笑みを漏らす。
先ほどと打って変わって、遠い過去を懐かしむような優しい声色だった。ふふ、と笑う息遣いが鼓膜に確と触れる。「……そうだよな、君は優しいんだよ。定員制が許せないんだもんな」
木の葉が揺れる様に似ている。沈黙がたわみきる限界を知って言葉を発する様は二人が持つそれぞれの許容範囲と言うものを熟知しているのだ。
故に、彼らは他人ながらに"家族"として今まで過ごしてくることができたのだろう。想像に易い。
これはあまりにやさしい関係で、故に"家族"などではなかった。そうはなれなかったのだろう。
「褒めているつもり?」表情を崩さないで声を低くし、向かい側の返事は不機嫌をこれみよがしとした。
「もう、不機嫌になるなよ。姿かたちを同じく、経歴もなぞるように近しいものへ揃える。いや、誂えてやる、が適当かな。まあ、とにかくそれらを――いいや、もっと言うなれば、議論が進められる"倫理の檻"を真っ向から否定し、記憶の移植すらを実行する。それこそ成果物の奥底に在るのが暗闇だけだとしても? 君は檻の向こう側へ実際に触れて尚も、その選択が確かに人間を救うと言い続けられるのか」
「なに? クローン否定の一派に毒されでもしたの。他人の記憶に生き続けるとかいうそんな綺麗事を? 生憎、私は無宗教を自称するほど無知ではなくとも、都合の良い時にしか神を信じない人間なのでね。……いや、そもそも否定の感情に依存するだけのような倫理などに興味はない」
 曖昧にぼやける輪郭を成して、鉛を含む空気を漂っている。
終わりを知ってよりもなお明確に意識が夢から覚めかかっているのか、水の中で言葉を聞くかのように鮮明は失われて認識を難しくさせていく。
「否定も何もないだろう。まあ、うちは実家の方針としては君も知る通りそんな感じだし、人は三度死ぬという言葉を知らないのかとも……ああ、正に一晩語る気で言ってやりたいものだが。輪廻転生だのをね。浄土信仰にさほど興味はないが時世の必修科目だろ? ああ、今日はやけに私の言いたい本質から逸れるな。横道を今するのは辞めよう」
 泡を吐く。この場所は水に満たされて、いつしか呼吸は出来なくなった。
狭いようで広く在ったと思うこの空間は、結局のところこんなにも簡単に水に満たされる大きさであったらしい。
どこか拍子抜けだった。
そうやって環境へ目が向くという事実は、苦しいほど感情へ同調した空間からの乖離を示していたのだ。
どうやらこれらを見届けるのは叶わないらしい、ということだけが確かと知れたことであったのである。
「率直に言うよ。君は君のせんことで私に証明をするんだろう。そしてそれは世界に広く普及するかもしれない。私も、幼心だけでいえば君の幸福を心から願うよ。ただ、ストイックに求めた先で得られるであろうものが、君の望むものではないものであったとき。私はその未来が……その先に居るはずの君がどうなってしまうのか、それが怖いだけだ」
 瞼の薄い皮膚を透過する黄金を返す光を見つめていた。
次第に遠ざかっていく。これからどこへ行くのか、暗い海を進む船を水底から眺めるような心細さを見届けようと首を伸ばしている。
 やがて視界を覆った後のしばらく先で、黄金のヴェールを吊っていた糸は切り落とされた。
翻る細やかな光の粒に似たレースの地が織りなす綾が眼前を過ぎれば、それからはずっと暗闇が訪れている。
言葉を聞いているだけであるのに、白黒と随分と忙しい環境である。全く休んだ気がしない。
火を消した蝋燭の上から未だ熱をもって垂れる蝋のように這い、夜は伝っていた。
「……君が悲しむ未来や、君が広めたはずの幸不幸をその秤で行う勘定の外から見つめるだけの君は、私も見たくはないんだよ。勝手だとわかっていても」
 その言葉を最後に、沈む意識は耐えることを辞めた。
これを聞きたくなかったのか、それとも聞きたかったのか。とにかくこの言葉に一種の区切りをつけた意識は渦に引き込まれるように急速に沈むのだ。
あまりに上も下も、そして左右の感覚すらない様は浮かんでいるようにも、はたまた沈んでいるようにも感じられている。
「君は君のために思考を止めるべきではない。流れるように見せかけた停滞に甘んじるなよ。君は誰かの為になり、そこで尚、止まることをしなければ君は君のための確かなものを手にするだろう」
声を聞く。
「金でも病でも気にする必要はない。何かあれば――いや、何もなくたって。君がそうしたいときはいつでも頼れよ。常識をかなぐり捨ててまで私を頼る必要があるとき、私は世界の誰より最初に、そして最後まで君の味方になってやる」
 私はこの場所に見えないものとして漂い、会話をする彼らを様々な角度から見ていた。
表情を認識して、感情を推測することまでした気がするというのに、気付けばそれが誰かは全然わかりもしなかった。
付け加えてこの夢に特筆して添えるならば、浮上しかけて夢を自覚する今はもうその表情たちさえ曖昧なのだ。
「頼れよ――」
まるでテーブルに並んだカップから立つ湯気を、湯気だなあ、と色が飛んでいくばかりの視界で見つめるばかりだった。
ふ、と明確に名を聞いた気がする。
記憶の整理だの追体験だのを意識のレベルが低くなった際に行っているという一説を夢の正体だと仮定して、それはつぎはぎされて信憑性などまるでない。
そしてそれが本当に事実としても、"私"ではなく、"私に近しい誰か"の記憶かもしれない断片を都合よく切り貼りして、こねくり回した、ただの夢の話だ。
今となってはそれが何かということさえ、当然のように理解の及ばない虚像の数々なのだ。