頬に――正しくは、より曖昧に産毛を撫でるように触れるだけの風にはっとした。目の前には瞼を閉じる前と寸分変わらないまま同じ景色が広がっている。
正確な時間は知れないが、体感として一〇分と少しほどはひんやりとしたタイル敷きの上で意識を失っていた気がしていた。
釉薬の皮膚を併せ持たない焼きものの肌にどっちつかずとぬるい温度が滲み始めていることが、時間の経過に対するあらゆる感覚をよく助長をしているのだ。
吐き出した胃酸がそのまま放置されては鼻腔を劈く嫌な臭いを漂わせている。視線を再び向けた先で四肢を投げ出したまま白くなった國枝の顔色は一層のこと悪かった。
まるで惨劇。
暗がりに当たる光が遠くに在るほどぼやけるふちの、そのもののような思考がすぐ近くに浮かぶ。
 気怠さを引き摺るものの幾分か痛みを引かせて身体に静けさを取り戻した色葉は、起き上がると四つ這いのまま棒のようになっていた手足を拙く、またはバタバタと忙しく動かすと、ぐったりとし沈黙する体躯の傍に近寄る。
そして袖で汚れを拭った己の二本指で褪めた色をする首の筋に触れる。
生命を繋ぐ沢山の血の管のうちでも大きいものを軽く抑えると、間接的な心臓の声がする。
底の方からとくんとくんと、水でほとんどを満たされた身体に音は響いていた。
指先に触れる皮膚の感覚とそこに長く居付くような質量に対し、喉が引き攣る。
呑み込み損ねた唾に驚いて、ヒュッと音を立てていた。
生白い肌の気配に感情が中てられたもので、ループタイに彩として与えられたシェルカメオの立体として浮き上がらせた色のほうがよほど温かいもののように思えたのだ。
また、思い込みはよく事実を歪めた。視覚から得る情報の処理を阻害された脳は嫌な汁を出すように、胸で空になっているといつも思い込む器を常温の色水で満たそうとしたがるのである。
それがあると、心臓はたちまち心細く萎縮をして、感情の名を"寂しい"、"不安"、そして"恐怖"と名付けるのだ。
同時に色葉の触れる指先のすぐ下では、ぬるさを覆う表皮によって肌として地続きに繋がっている胸が微かに上下しており、呼吸をしていることが理解できた。ようやく追いかけてきた情報は正しさの根拠を固める。
 彼は確かに生きているのだ。
だが、呼吸をしている"だけ"だった。
瞼を合わせたまま、呼びかけに答えない様子を認めるとたちまち己の中にじとりとしたものが覆い始める。
緊張にどくりと息を呑んだ心臓のおかげで、血管の内側が凍り付いては果てに死んでしまったと錯覚する対象は、危うくも次は己になりかけた。心臓がよく名を呼ぶ感情たちに押し潰されかけて、呼吸を忘れそうだったのだ。
國枝の震えぬ睫毛を見下ろしている。
脈を感じることはできるものの、生命の通る急所へ触れても瞼を開けないどころか身動ぎ一つしない國枝に不安になった色葉は、そうっと彼の上半身を抱えて起き上がらせた。
すると自立することなく、ぐんにゃりとした身体が腕へ凭れる。骨のない生物のようにされていた。
表現は適切ではない。正しくは、ヒトとしての骨格は有したままであるが、脱力して筋肉の弛緩した身体の――特に首が根のおさまりを悪くし頭が自重で垂れているのだ。
直にすっかり晒した首筋にある陰影の薄さがまるで恐ろしくなり、同じ生物には見えなくなっていく。
いいようにされているにも関わらず力なく伸びている意識の宿らない身体の様子に、燻っていたものが勢いよく風に舞い上がった。
軽い羽根のように一瞬にして高い位置まで飛び上がった不安に、思わず声を荒げる。
感情の振れ幅が大きいほど自分自身の心細く焦った声色が情けなく返ってくるように感じられて、それは何倍にも膨れ上がるばかりだ。
「……先生、先生! 大丈夫ですか。しっかりしてください!」
 意識を確認する程度に、決して揺らさぬつもりで肩を叩くと、配慮も空しく頭頂部のあたりから項垂れた頭はよく揺れた。
こういう時に身体を動かすべきではないにしても、このまま置いておけば國枝は透明になってそれきりになってしまいそうだったのだ。もしくは今に身体を雨晒しの鉄錆や、傍で息衝く植物の蔦に侵されてしまう。
澄んだ身体がこの世界の透明になること、結晶のように生きる鉄錆に覆われてしまうこと。絡めとられた植物に『ほんの少し』を長く継続して奪われること。
それらは朽ちるという概念以外の全てを相反する想像ではあった。
しかし、今はとにかく、このまま時間を浪費すれば時の正しい流れからは外れてしまった存在に、この美しい果ての庭そのものに、大切であるはずのものを奪われてしまうような感覚がしていたのだ。
今に消えそうだ? 覆われては、奪われてしまう? 少なくとも人間がそんな簡単に突飛な事象に巻き込まれることなどあるものか。
明確に迫る死があるなれば、多方面からその原因を探求して救うことがこの世界で人間が学問を求める理由であるのではないのか?
感情の振れ幅によって掻き立てられる焦燥から目を逸らしながらも、色葉は強く認識した死という不安からは決して逸らさないでいる。
惑って浮いたままの手で、思い出したように己の頬を強く張る。
強く肉を打ってびりりとした痛みが広がっていく。
手のひらにもまた、熱が広がっていた。遠いところで手のひらの皮膚を這う衝撃はかゆみにも似た生温い痛みであると思考している。
今に吐きだす息を震わせてしまいそうに怯える胸の内を叱咤して、奮い立たせていたのだ。
いつの間にか奥歯を噛み締めていた色葉は、顎の付け根に停滞していた痛みと疲労を自覚する。身体の力を抜くことに努めて目を閉じた。
 暗がりに視界を絞ってからは、瞼の裏が透過する皮膚の内側を見ている。
赤みを帯びた色の中心が強く光を見ていたのだ。
己を落ち着けるように大袈裟な手つきで胸を撫でおろす。
往来する己の手のひらの熱を胃のあたりまで自覚すると、また喉元へ戻り、嚥下する粘膜の動きに合わせて燻ったものが体内へ落ちる様を想起していた。
こうやって不安は少しずつ小さくなっていく。感情を追いやることはないし、その必要は元より存在しない。
嬉しいことも悲しいことも、愛しいものも。そして恐ろしいものも。感じ取った己の全てがこの身体の一部になるのだ。
化学繊維の毛皮を誂えてもらったぬいぐるみを丁寧に撫でるような手つきで言い聞かせる。
恐ろしいものなどない。ここには、何一つない。
何もかもが今の自分を構成するには受け入れ難い。
だが同時に、何もないだけに失うことがあるとすれば、それは己の諦めがあるだけなのだ。
諦めが最後の一つかもしれない己の鎹を手放すのである。
それを是とするのか?
問いかける。
今ここに居るのは、褪めていく指先を前にした際に逃げ出す自分ではないのだ。
色葉の答えは己が誰で在るとしても明確であった。
それ以外に考え得るものはなかったのである。
 大きく息を吸い込む。そしてゆっくりと吐き出す。
吸い込む際にかかった倍の時間をかけて吐き出すことを何度か繰り返していた。
肺が空になるほど息を吐ききる。少し苦しいくらいだ。
喉と肺の間が酸素に喘いで微かに切なさを知るのだ。
その頃になると酸素がほどよく身体に回り、胸に蔓延っていた重く苦しいものはすっかり小さくなっていた。呼吸を妨げるほどのものは既にない。
次第に正常な呼吸を思い出した指先は徐にジャケットの釦へ伸びた。
体温で確かに温まったブラウントーンのジャケットを脱衣すると前身頃の側を伏せて國枝の胸を覆うよう掛ける。
意識を沈めたまま戻ってこられないで、瞼を閉じたきりの顔を俯かせては投げ出された腕を折りたたみ、ジャケットがずり落ちないためを兼ねて腹部へ寄せた。
最後に手入れのよくされた革靴ばかりが生を知るように爪先で光を返す様を一瞥し、下肢を引き寄せ膝を折り曲げさせる。
國枝の身体は色葉の腕の範囲に十分に収まるようであった。
落ち着けた胸のうちにまだいくつかの不安要素を抱えていたものから、またひとつを解消したことに色葉は鼻からふう、とした息を吐いた。強張りに微かなゆとりを見出している。
目測ではあるが己より一〇センチほど身長の小さいと見られる國枝の数字上では抱えるに都合がいいとは言えない身体が、万が一として己の想像よりも質量があればどうしたものかと、やらぬうちから思い悩んでいたところだったのだ。
柔らかくなった首の根に放り出されていた下顎に添えた指先で己の胸に頭部を凭れさせると、肩と膝の裏を支え、安定を確認してから均等にかける力を以てゆっくりと立ち上がる。
これから置き去りにするトレイ上のガラス製ピッチャーを視界の端で一目見る。ガラスの透明な肌は、ぴかりとした反射の光を映す以外にはだんまりを決め込んでいて、周囲の色に擬態していた。
視線を外してそれきりになると出来る限り振動を与えぬため踵から丁寧に地面を踏みしめるように、色葉は掬う動作で抱えた身体を揺らさぬ足で静かにガーデンアーチを潜った。
未だ震えることのないまま沈んだ睫毛を待つばかりに、その繊細さが朝露を纏ってしまう。その前に果ての庭を後にするのである。
 南のうちでも一等に日あたり良い土地の恩恵を享受する庭から玄関口へ続く道を戻っていく。
外壁の四分の一ほどの距離が延々と繋がっている迷い路とすら思えた。逆再生をするように数十分ほど前に口にしたとりとめのない会話が頭の中に流れていく。
不思議と会話は鮮明に思い出すことができ、そしてきちんとした文字列を正しい再生の方向で行った。脳は都合がいい。
巻き戻ることの定義をあやふやにして、足の動きだけが後ろへ進んで庭から遠ざかるみたいだ。そんな表層がすぐそこに居た。
そうして、は、と気付けばまだ角を曲がっていない。
繁茂する植物たちが足元を這う様は、一見では同じ道なのか、それともしっかりと前に進んでいるのか距離と判断をつけ難くする。
空間がねじ曲がり、円環の形になっているのではないか。
そんな戯言が罷り通るほどに足取りは重い。道は継ぎ足しをして距離を稼いでは延々と引き延ばしたようにばかりあるのだ。
 果てへの片道で想像した童話世界の妖精が、まるで元の場所には帰さぬと意地悪をしているとでもいうかように、足を進めても進めても曲がり角が見えない。
あるいは帰す気など元から爪の先ほども持ち合わせずに、実は隠した牙をチラリと覗かせるような舌舐めずりをしているのかもしれない。いくらでも言いようのある言い訳と理不尽に巻き込まれたような被害者の面をしていた。
それは全て錯覚と妄想である。そうやって強く持った意思に眉を吊り上げていたものの、次第に中途半端に固めた覚悟の上辺を蝕んで、やわらかく心細いところに揮発性のあるような冷たさが触れた。
先にあったような内側が凍るほどの不安ではないものの、今に肺へは被った程度の霜が覆いだすほど寂しがって、理由の自覚もできない切なさに泣き出したい気持ちなった。
何を害とするのか定義も曖昧にしたままでもうずっと被害者のふりに徹し、糾弾したい気持ちでいる。
ひとりで歩けなどしないのだ。立つことだって、きっと難しい。
漠然とした恐ろしさを恐ろしさとして享受することなど以ての外だ。
寂しいだとか、怖いだとか、足元に影を落としては先を見えなくするような言葉ばかり数えてしまう。
 サテン地を結んだ艶をした花たちに隠れるものが、現実の命など矮小であるとして困り果てている人間の姿を笑いものにしている。
理由がわからずとも大切であることだけはわかるものの一つである他の命が危ぶまれている。
それすらもが、想像上の世界の生き物とっては生き死になどただの会話のタネであるかのようにおもしろ可笑しく囁かれているのだ。
概念に魂を吹き込まれただけのものが姿形を与えてやった側のこちらを嘲笑う。これ以上にない皮肉であった。
草葉が風に揺れるだけの音を今日ほど忌々しく思う日はもう二度とないだろうと思う。
そんな妄想ばかりが豊かに膨らんで、成熟を示すように色を濃くしていた。
果てにぱちんと弾けて、破けた皮とひしゃげた果肉から刃物の色が翻る。
「そちらに渡してなどやるものか。……返して。私に、返して」
 色葉は無意識に抑揚のない言葉を、誰に向けることなく呟いている。発した恨めしげな声色が進む歩と反対の背後に置き捨てられゆくのだ。
睨めつける視線の行き場などなく、思わず力の入った指が抱えた生命の肩に食い込む。
応えるように掬いあげていた身体が小さく身動ぐ。
声がした。微かなうめき声だった。
瞬間、風が吹き込む。鮮やかな色が風に揺れて、片目の前に被さった前髪の隙間から微かに差す光を見ていた。
時間が少しずつ、錆びついてしまっていた歯車を回しだすのだ。
意識がなくとも生命を維持するために水面下で動かされていた肺に、鮮度のある酸素が循環してようやく灯がともる。
それを蘇生と定義した肺が思い出したように内側に留めていた空気を改めて押し出した。
押し出された二酸化炭素に震えた喉が小さな声として発せられ、首元をくすぐっていたのだ。
色葉はその声に気が付くと、國枝の額や頬に己の長い髪が覆い被さることを多少申し訳なく思いながら耳を傾ける。
瞼に触れる赤茶けた飴色のやわな毛先に対して、僅かに目頭へ皺を寄せた國枝は顔を背けた。
意識はもうだいぶ水面の付近にいて、いずれ目を開けることが想像できる。
色葉は顰めた表情を僅かに弛め、ホッとした息をついた。
ずっと強張っていた肩回りの力がようやく抜け、辿るようにその声を聞く。
 気付けばずっと、血色の悪い彼の薄い唇が色葉の胸側に影を寄せてうわ言を呟いていたらしいのだ。
「い。ご……さい、ごめんなさい」
魘されているらしく、眉根が寄っている。意識の暗いところで乱れる息が、吐息のように苦痛に歪んだ悩ましさで表層に現れているのだ。
聞き取りにくい言葉に対し、顔を傾けたままの色葉はそれを拾おうと必死になって片方の眉を吊り上げていた。そして罪悪に苛まれて魘された言葉を理解すると目を細める。
瞼に上下を囲まれた視界が意味もなく狭くなったことに、足元に意識を寄せた。
視界に引っ張られて疎かになった靴が地面に躓かぬように強く持ち直したのだ。
散らばった園芸用の土を踏みしめる革靴が黒い砂粒をじり、と躙りつけている。
身体を抱えた両手では灼熱のような――あるいは氷のように冷たい汗を浮かせる額に触れてやることで安堵をもたらすことは出来ない。
だが、あまりにか細く、大事にしてもなす術なく潰えそうな言葉に、何かしらの返事をしてやりたいと思っているのだ。
伸びきっている草を踏むことに躊躇なく、色葉は曲がり角で緩やかに丸められた内角を最も短縮して曲がる。
國枝のためだけの幾つかの言葉を選び悩んで見つめていた。
「……ええ、今に家へ入りますよ。大丈夫です」
 言葉は届かないままだ。かみ合わない会話の全ての返答として繰り返される一つ言葉のうわ言ばかりを聞きながら色葉は空しい気持ちになっていた。
まるで懺悔のように、嗚咽をあげるように、曖昧な波の中で浮かされた言葉たちが寄っては遠ざかっていく。
彼の中にある冷たくて暗いところに押し込まれているものたちは、今は水面のすぐ下のように不規則な光が当たる場所まで近くある。
だが、彼が目を覚ませばまた押し込まれてしまって、ゆるゆると沈んでいくのだろう。
そしてまた何もない顔で澱を掻き立てぬようにしては、色葉にとっての良い先生である國枝を続けるのだ。
この木々たちの鳴らす音は、いつの間にか海のさざなみに似ていた。
揺れる草葉の丈が波として足を押し戻す。そして抱えた身体の温度だけを引く波と共に攫おうとしていたのだ。
足元に落ちる石は貝のように白い。
その例えのように、長い年月をかけて形成されたこれらに唯一大きく異なる事柄といえば、石には裏側に美しい層を持ち合わせないことだけだ。
煌びやかな真珠質と、質素に砂の記憶を重ねた層では美しさの方向性を違える。または、変質の有無だ。
それだけでこれらはあまりに無意味な類似だったのだ。
前方を向いたまま、視線だけで國枝の様子を窺う。
視線だけ預ける状態では彼の表情を認めることは出来なかったが、枯茶色の中にある旋毛を見下ろして言葉を続けている。
「きっと日差しが強かったんです。よく言うでしょう? 秋は日のわりに風ばかりが冷たくなりますからね、油断は大敵なのです」
言葉が上手く出ないこの口が嫌いだな、と思考していた。
國枝くらいの聞く耳と言葉にする舌が気持ちのいい言葉を口にできれば、溶かすことのできる氷もあるかもしれない。
だのに、ここに在ってすぐ出せるものと言えば不器用にひねくれた言葉たちばかりなのだ。それ以外には寂しいばかりに縋る、拙いだけの子どもじみた言葉だ。
「ねえ、先生は何も悪くないですよ。――だから、宛てもなくそんなに寂しいことを繰り返さないで」
「ね?」問いに対する返事を催促するように、語り掛けている。
この目には吐息交じりに潰えそうな呻きを上げる國枝がずっと小さな温度をした生き物に見えていた。
触れ合う温度ばかりがどれほど崩壊を恐れるものなのか自覚をしていたのだ。何も覚えてなどいないというのに。
それが彼にとって如何に残酷であるか、この口が語るにはあまりに憚られる。
色葉の視線が足元ばかりを見ていた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい――」
 ざあ、と一際大きな風が乾いた木の葉の身を揺らしては去っていた。足元にはすっかり身を丸めて萎びた木の葉が風圧でころころと転がっている。
気が付けば、塩の柱にされたように生きたままの姿を思わせる小動物のガーデンオーナメントのある庭の入り口を背に立っていた。