國枝が目を覚ます頃には、すっかりと日が暮れていた。元より傾いていた日が沈むにつれて、より冷たくなった風が遠方から暗い色を運んできたのだ。
今となっては帳を束ねた紐を切って落とし、数多の星を腕に抱え込んで夜は訪れている。
実際のところ、彼の意識が境界である水面のようなところのすぐ下まで来ているのではないかと想像してから瞼をひらくまでにそれなりの時間を要した。
ただ無感情にこの時間を享受していたのではない。
それは確かに時間という概念を曖昧にさせていたが、あっという間だとは口が曲がっても言えたことではなかった。
こうやって綿が潰れたソファの座面に座り込み、己の靴ばかり見ながらも視界の隅で眠るばかりの呼吸を捉える様がずっと長い時間のように感じられていたことに違いはないのだ。
しかし、それ以上にこの土地が位置する場所の季節は日照時間が短くなっていたのである。
体感のそれと事実が歩み寄った板挟みの場所に存在する時間で、色葉はぱりりと張り直した真新しい紙をビリビリに破かれる心持ちをして己の手のひらを揉んでいた。
秒針が細かく刻む音ばかりを気に掛けている。時には意味もなく席を立って、廊下をぐるりとすることもしていた。
一人という時間の、それも意識のない人間が横にいる時間の過ごし方を知らないのだ。
 落ち着きのない色葉の様子を露知らずに國枝は何の表情もない顔で眠っていた。
そうしていることを長らく続けたが、この瞬間は不意に訪れる。
リビングに備え付く簡易的な応接スペースの三人で使うにも十分な横長のソファに身体を横たえさせていた國枝は呼吸をするほどに自然に、あまりにも静かに瞼を開いたのだ。
はっと開いて震えたまつ毛は緩やかな顔の凹凸に落ちる照明の光を、一本また一本と寄り集まったまつ毛の影で細かに遮っている。
柔らかながら直視をすれば強い光源であることには変わらない照明で白く霞む部屋は、カーテンを閉めることも忘れて夜に囲まれていた。
安寧の光は幸福の象徴であるかのようだ。國枝の目に眠気が残っていることはなかったものの、そういった比喩をする部屋の外側にある夜をぼんやりと眺めていた。
身動きもせずその場に留まっては黙り、眼球が乾かぬようと水気を行き渡らせるためだけにまつ毛は瞬かせられる。その様は極めて静かであった。
衣擦れと息遣いのどちらが小さいかという問答をすることによく類似していると言ってもいい。人間が感じ取ることのできるうちでも微かに微かを重ねる、つまり、果てしなく無音に近いものだ。
故に、ローテーブルの短辺側に位置する一人掛けの小さいソファで緊張と疲労にまみれ、沈んでいた色葉はすぐに気が付きはしなかったのだ。
身体を満たす怠さに支配された瞼が重くなり、目頭が霞んでいたために、声をかけられるまでは気付くことが出来なかったのである。
「……ここは?」
「せん、せい……? 先生、先生……! 気分はどうですか。どこにも痛いところはありませんか? 息が苦しいとか、吐き気だとか。いやに身体が火照る、または視界が欠けるなど、そういったものは?」
胸にかけられたジャケットの上品な織りをしている生地を確かめるように指先で触れ、位置の低い肘掛けに頭を預けた國枝はぼんやりとしている。
寝ぼけ眼というよりは、瞬きをしただけのように伏せた目をしていた。はっきりとした意識がここには存在していたのだ。
瞬きを何度かして瞳に反射する周囲の色を銘々と宿すと、やがて眼球の奥に絶妙な角度で刺さる光を疎ましくして眉間に難儀を浮かべていた。
更に言えば、肩回りの筋肉が凝り固まって窮屈な思いもしていた。
身体に対してだけを語るなれば、首を支点に頭部の角度が変化していたからだ。
負荷のかかる身体をぐぐ、と伸ばしたい欲求を抱えながら國枝は、光に眩んで顰めた眉にとどまらず片目を閉じる。
「あっ、ええと。まずは『おはようございます』ですよね。いきなり質問攻めにしてごめんなさい。家のリビングです。ああ、いいですよ、横になっていてください。まだお辛いのでしょう」
 起き上がろうとする國枝を視線で制した色葉は続ける。
何故言う通りにしないのだ。
そう言いたげな視線がじっとりと睨めつけると國枝はぎくりとして肩を揺らした。
確かに色葉の口調は咎めるよりは心配に近いものであったはずであるのだが、元より涼しげな顔つきが半分呆れたような、圧をかけるような、じっとりの視線をするとどこか冷たい印象を受けるのだった。
「はあ、無理をしては明日に障りますよ。そこまでやつれたような表情で見つめられたらどんな愚か者でも不調に気が付くことが出来ます」
「……うん。では、もう少し甘えさせてくれ。心配は無用だよ、身体に普段と異なるほどの不都合は生じてない。だが前後の記憶が曖昧なんだ。すまないが、何があった? ……私は君に何を言った?」
もぞりと身体を左右に揺らす身動ぎをしながらジャケットの下から腕を伸ばす。終いには手の甲で目元を覆うと照明の光を遮りたがっていた。
息遣いは薄く間延びしており、呼吸の音が暗い場所へ落ち込んでいくところからも体調の不調を思わせる。
一部の記憶が曖昧と語ることからも、目を刺す光から逃げたがることからも、彼は頭痛に苛まれているようだと色葉は感じた。
枯茶色の髪を持つ頭は悩ましげな息遣いでソファの背の側に顔を向けている。
「あ、いや……私の出自の話? のようなものをしてたのですけれど……私が、たぶん……あなたを振り払ってしまったみたいで」
 國枝が息を呑む。背を向けかけた身体が強張るのが目に見えて感じられた。
空気が変わる。
それよりも前の瞬間で既に言葉に惑っていた色葉がそれを肌で感じて不安に思うことはなかったものの、ピリッとした静電気に似た緊張がそこら中に糸を張っていた。
触れれば痛みが走るであろうそれでいずれ生じる隔たりを今この瞬間では重ねたくはないと、この場所に存在するふたりきりのどちらもが無意識に口を閉じたがっていたのだ。
すっかり歯切れの悪くなった言葉が、気まずさを呼び込みながら今の言葉が区切りへと結びつくことを待っている。
「その、恐らく、先生は私に振り払われてひどく頭を打たれたのです。……平静を取り戻した頃にあなたの意識はありませんでしたから」
目覚めた國枝に駆け寄ろうとした勢いのままスプリングの弛んだソファから半分立ち上がって腰を浮かせていた色葉は居心地が悪くなっているだけだった。
言葉が上手く出ずに、時たまに言葉を言い直す。
その体勢と曖昧な母音を発することを続けていたが、今に腿の裏で筋肉の訴えを聞いて静かに座り直す。するとすぐにしっくりと沈む座面に項垂れていた。
意味もなく、そしてこの図体ばかり育った身体に見合わず、この空間の圧力に耐えられないでいる。
これが子供だったら泣いても許される温情があるだろうに、と恨めしくなった。胸と同時に、どこか頭の奥が締め付けられるような切なさがあるのだ。
「……ごめんなさい。互いのための嘘が、咄嗟につけたら良かったのですけど」
反対に、その言葉こそで何かを言ったことを確信した國枝は勢いよく起き上がる。
 急に動き出して色葉へ向き直ったせいか苛んでいた頭痛らしきものがずくりと刺したらしく、すぐに身体を屈めて床に片方の膝をつく。脈動に合わせて苛む痛みに目眩がするらしかった。うめき声が足元を逃げるようにもしながら弱々しく間を通り抜けていく。
こめかみのあたりを抑え、小さく蹲る國枝の足元に色葉が掛けてやったジャケットが落ちている。
暗い色味をしたジャケットの生地を辿ってその背中を見ると、豪奢にたくさんの模様が織り込まれた絨毯の上で頭部を庇うように小さくなる姿があまりにも可哀想だと思えた。
彼なりに思うことがあるのだろうが、今の色葉にとって後ろめたさがあるのは自身だったためにあまりに気が引けたし、何よりも國枝という人間の人間臭さを垣間見た今この瞬間はあまりにも彼の姿がボロボロに見えたのだ。
必要以上に責任を感じているように思えて仕方がなかったのである。
慌てて否定の意思を示す色葉が、勢いが風の圧になるほどに手のひらを大げさな身振りで左右に振った。
「あ、いえ! 先生だけ責められたものでは決してないんです! だから! ……ねえ、やめてくださいよ」
 眉を下げている色葉の様子と困り果てた語調を見送ってから、國枝はようやく起き上がらせた身体を再び揺らめかせる。
顔の半分ほどを広げた手のひらへ預ける様はすっかり憔悴していた。
長いため息と、瞼の下に薄らと浮かぶ隈が疲れを思わせて常の表情よりもずっと暗く見える。
昼間の幼さが残っているようにも見える横顔を思い出す。顔の造りの影響でもあるが、砕けた態度に彩られる明るさが今は嘘のようにすら思えていたのだ。
 優しいひとであるから、言葉たちが"色葉という存在"を形作る肉や骨に傷をつけていないかが気になるのだろうと言い聞かせている。
自惚れでも、願望でもない。事実としても國枝という男をそういった思考をすると思う。
しかし、やはりどこかでは過剰な彼の態度に対して己の肩に手を添えては縋ってくるようにすぐ耳元で囁く「本当は、まだ知られたくないことがあるのではないか?」という薄暗い自分の問いに聞こえないふりをしていたいのだ。
疑心暗鬼とはよくできた言葉で、まさに文字のつくりよろしくの悪魔か悪鬼か、とにかく文化や国境を越えて存在した恐怖の象徴である異形のそれらが囁きかけるのだった。
「すまない……思い出すから……いや、君が話してくれたら早いのだが、いい。いいんだ。君にも酷な事を言ったのは顔を見れば理解できる。ごめん」
「いえ。私も混乱していたものですから。……あの、先にシャワーを浴びてきてもいいですか。汚してしまった服が微かに臭う気がして。気分を悪くさせたら申し訳ないです」
色葉が袖元を鼻へ近づかせ、関節の曲がるあたりで臭いを確認するように小鼻を膨らませる。
 スン、と音を立てて鼻腔を満たした臭気は思わず顔を顰めたくなるようなものだ。
吐瀉物の――正確には胃を満たす酸の持ちうる独特の匂いと、体内で温められた内容物の臭いがいつまでもついてくるように感じられていたのだ。おまけに、時間が経って雑菌が繁殖したのか悪臭は割り増しされている。
空嘔が出て、今に反射として舌を突き出して「おえ」とでも喉を締め上げたくなった。
そうでもすれば幾分か気分もマシになるであろうが、人前という都合上で憚れる。
代わりに振り払うように頭を振ると、根性なくやわな髪の毛が頬を掠めてくすぐった。
暑さや緊張で分泌された汗や皮脂は清潔を損なうほどでもないが、これらがこの身に残留する限りには通り過ぎた憂鬱がまだ染みているのだ。
そういった意味を持ち合わせても、色葉はさっさと流れる水に身を任せたいと思っていた。
項垂れかける身体が沈めるように首を頷けるのを見届けると、臭いを払った色葉は前髪を整えてから腕を後頭部へ回す。
髪飾りを外しローテーブルへ置くと、きらめいた貴金属の色が天板に反射していた。
「とにかく、私はこの通り無事ですから何も気に病むことはないですよ。暴力として形になった時点で悪いのは私ですし。……そして、先ほどの言葉のような都合であなたをソファに横たえる手伝いは進んでしたくはないのですが、大丈夫ですか? 水などは? 要りませんか?」
そう付け加えた色葉を見る國枝の瞳が揺らめいていた。
己の知覚できないところへある記憶の出来事で放った言葉が自らを刺す鋭利ではなかったが、代わりに他の存在に対して向いていやしないだろうかということが恐ろしくて仕方がないらしい。
怯えた様子で目を細めている。
耐え忍ぶように犬歯をかみ合わせていた國枝であるが、脈動と共の波を伴い身体を苛む鈍痛についぞ屈してしまってローテーブルに上げていた腕の暗がりへ顔を埋めた。
「それは構わないさ。ありがとう。それと、悪いが、部屋を出る前にグラスに半分ほどの水を頼む」
腕の中でこもった声色に対して、要らぬ心労をかけないために色葉は努めて明るく返事をする。
 目覚めた際と同じようにバスルームへ向かった色葉は、浴槽の前でシャワーカーテンが通ってはいない金属製のバーと取り残されたままであるカーテンを吊るすための金具を眺めていた。
この場所は換気扇が働く際の副効果として温まった部屋の匂いを微かに残していたが、ほとんどはレモンバーベナの冴え冴えとする淡い匂いで満たれていた。
今は酸を想起させる香りを好ましく思いはしなかったものの、ハーブという特性を持ち合わせるだけあって冷たい温度に広がる香りは疲れた身体と過剰に空回っていた思考を落ち着ける。
 固形石鹸の概念を覆すように簡単すぎるほど膨らんだ泡を洗い流すと鼻の上のほうでもやついていた湿気が取り除かれていく。
同時に、すっきりとする頭の中とは反対に濡れて重くなった髪の毛が、カーテンのように垂れ下がることで眼前に暗がりを作る。
水によく反射する光をほどよくやわらげた暗がりこそが安寧をもたらしていたのだ。
頭部の丸みに合わせて滴りゆく湯のぬるめの温度と共に心地よい重さである。
俯ける顔の視線だけで前方を見れば、じっとりとした色に水が滴り続けてぼやけた流線を絶えず描く。
毛先から解放されては粒となり、逆さの景色が映り込む滴りたちはゆとりをもって空間を浮いたが、気付けば一斉に足元へ打ち付けられ続けている様を見つめていたのだった。
 今はあまりに緊張にまみれてそんな余裕などはないが國枝が元気になったら、たまには湯を張って入りたいものである。
日本国におけるバスルームの造りとは異なるために、湯を張るにも手順を踏まなくてはならない。
いわゆる脱衣所と扉を隔たないが故に、安易に床を水浸しにするのは好ましくはないことである。
どれだけ気を遣っても、呑気に浴槽の外で身体を洗えば一面水浸しになるのが目に見えているのだ。
やはり風呂とトイレ、そして脱衣所を兼ねる洗面台は別の空間に在る環境が好ましい。むしろ、それに限ると言っても過言ではないと色葉は思っていた。
 コックを捻り、湯の温度を下げる。
遠回りに優しい生活へ思いを馳せども身体が冷たくなるほど、冷静になればなるほど、脳内で切り取られて繰り返されるのは明らかに様子の異なる國枝が肯定を求める悲痛な声色だった。
目覚めて、記憶がなくて。ただ一人近くに存在した人間が胸の内にひっそり抱える翳りを見る。
全て一日としての内容には濃すぎるものだった。まるでフィクションのように陳腐で、現実として生きるにはあまりに突飛だ。
しかし、一日という時間はスポンサー広告のためのCMで分割された五〇分前後のフィクションではないのだ。
仮にワンクールを前提に制作されたテレビサイズのドラマ・フィクションの第一話目であったら、きっと――いや、間違いなく、視聴者は置き去りにされるだろう。
とはいえ、今日という時間に収められる情報量がどれくらいならば己は受け入れられたのか?
そう考えたときに明確な答えが出ない。
個ではなく、ある程度の大衆に得られる理解を想定すればセオリーは存在するであろうというのに、やはりフィクションを語る割には上辺しか知らないらしい。
 自分は何を見て、何を語ってきたのだろう。
この思考に見出す比喩の数々は、各々が持ち得る個に何という形容の表象を与えてきたのだろうか。どんな表現を己の語彙として頭に収めてきたのだ?
"色葉"は何を見て、何に絶望して、何に縋って、何を救いとして、そして――國枝に何を望んだのだ?
國枝という男があんなに取り乱した様は"色葉"にとっては日常であったのだろうか。彼は一体なにをどれだけ犠牲にしてここへ居るのだ?
そればかりだ。
 どれだけ低く見積もっても経歴として三十歳前後の年齢は確実であり、研究職とはいえども地続きの経験がある人並みの生活をしていたのならば、恋人のひとりやふたりが居たことはあり得ない話でもおかしい話でもないのだ。
そもそもとしても。
禁忌を踏み躙っては生命を自らが望むデザインとして仕組み、その通りに造り出したとはいえども言ってしまえば一人きりの研究ではない。
共犯者など探せば幾らでもいる。でっちあげることだって可能だ。
確かに言われれば間違いではないと宣って芋のつるを引っ張るなれば、多くの人が説明という責任を義務として果たさなければいけなくなるだろう。
むしろ、彼こそがつるの先に実る末端の一研究員に過ぎなかった可能性だって高いのである。
国家レベルの倫理解釈の流出や、公の指名手配のないまましつこく追いかけっこを続けているらしいエージェントの存在を考えると、大きなプロジェクトであったはずであるのだ。
だからこそ何故、この人は倫理の適応すら檻として隔たれた議論の中に在る"色葉"のために、一人きりですべてを投げ打って――クローン生命体である一六八という都合の良い"他の生命"へ責任をとるために、一体どれだけのものを捨ててきたのだろうか。天秤にかけて何を選び取ったのだろうか。
 ざあざあと流れる湯がいつの間にか水の温度に寄りだしている。
ぼんやりとそれらを浴びていた色葉は驚き、肩を跳ねさせた。
後退った浴槽の中で足元が滑る。
転ぶほど間抜けさではないものの、浴槽の無機質を背に対し、足元だけがまだシャワーヘッドから落ちる水を浴びていた。
色葉は水に触れない場所からめいっぱいに伸ばした腕と指先でコックを捻り水を止めると、バーに引っ掛けていた大判のタオルを手にして頭から被る。
 唇で自分のものではない言葉をなぞり、喉を震わせたなれば気持ちが理解できればいいのに。そう思っていた。
文字だけでは個に依存する感情までもを推し量ることは出来ない。
理解しながらも、あまりに遠いそれの正体へ少しでも手を伸ばしたいのだ。
「……『ごめんなさい、カエデさん』、かあ」
彼が魘された西日の中で呟いていた言葉を唇でなぞる。
ひどく愛しいもののように思える名前を呟くと、なんだか少し寂しい気持ちになっていた。
レモンバーベナ香る冷たいバスルームに、確かに過ぎ去りしいつかの夏があったのだ。
絶えず澄んだ流れを保ち、そして見送る場所へ静寂は訪れる。
ゆりかごのように身体を匿う浴槽の外では、排水溝へ導かれるように流れる水が渦を描いている。

 二着目の清潔なシャツへ腕を通した色葉は、袖元がやはり寸足らずと思えて手首を撫でていた。
そして、昼間と同じ種類の緊張を呑みこんでキッチンに佇んでいる。目の前では湯が煮えたミルク用のパンがグラグラと音を立てていた。
どこかでは真正面から向き合うことを恐れていたのだ。いや、正確にはまだ恐れを抱いているし、國枝も同じく今は目を逸らしたがっていた。
故に、緊張はバスルームで落ち着けたはずの身体をよく強張らせた。
肩回りによほど力が入っていたのかバスルームで髪の毛を乾かし、鏡を見渡して身だしなみを整えていた際に向かって右側の首の筋が張っていたのである。
筋の上から指圧しながら、首を左へ傾けると一定の角度へ到達した瞬間にビッと糸は伸びきって、たわみと歪みのない直線になった。
今も痛みは残っていて、これ以上に積極的になろうとは思えていない。
傾きを戻した今も僅かながらに嫌な感覚が残っていて、憂鬱は透明水彩のように下地を透かして重なっている。
 はあ、と大袈裟に吐き出した息が嘆きそのものであった。
今日の昼までは他人に多大な心労を抱え込ませるほど深く眠りこけていたらしいが、今夜も良く眠れそうとはこのことである。
色葉は頭部と頸部の間から沸き立つくすぐったさに似た感覚のあくびをかみ殺していた。耳の奥がもぞりとする感覚がおまけして、なんとなく背が逃げるのだ。
 視線の先で天井から直付けされた質素なシャンデリアはスズランの花を模したランプシェードのトップの六つを付け提げている。
大振りであるスズラン型シェードはすりガラスのような風合いをしているヴァセリンガラス製だった。一見は特有の蛍光色に似た艶めきをそのまま華やかさとして、乳白色に近い肌を併せ持って存在している。
しかしヴァセリンガラス製特有として孕む色はあくまでもシェードそのものの奥行きを豊かにするためのようなのだ。ほんの微かに色味を演出している程度だった。
電球自体がほのかなオレンジ色を帯びて暖色の光を降り注ぐために、そういったように華やかなはずのランプシェードは控えめに光を透過して素材特有の色を木目に落としながらやわらかく発光している。
重厚感のあるデザインや古い製法の素材を用いりながらもどこか家庭的であり、日常に虚飾を上乗せした演出にはしないような良い慎ましやかの趣に努めていた。
なにより古めかしいリビングルームによく調和した色が肌で感じる温度を実際よりも温かいものに感じさせることも手伝って、秋の夜長に伴う肌寒さには都合がいいのだ。
昼間とはまた異なる表情と利点を見せる室内を見渡して色葉はそう考えている。
オープンキッチンからシャンデリアを眺めていた色葉は煮立ったばかりの湯を抱えたミルクパンと、空のティーセット、そして茶葉の保存袋を國枝に指示されたようにリビングテーブルへ並べた。
リビングチェアに深く腰掛ける國枝は色葉が用意した固く絞ったタオルで手を拭くと、静かな面持ちで茶葉のバッグを取り出してティーポットへ放りこむ。
 紅茶など誰が淹れても同じだろうに。
正直なところ、紅茶を淹れることを先に申し出るも断られた色葉は密かにそう思っていた。あるいは、彼が人を頼りたくはない性分なのか。
語弊を避けたがった國枝曰く「茶葉の入ったバッグを揺らすなだとか、カップは温めておけだとか、作法は口うるさいくらいにあるのさ」ということである。
おまけに続くは「ローカルルールというものまでね。たかだか様式美だの、高尚だのと揶揄されることもあるし、家で飲む分には家庭それぞれがあってもいいと思う。だが、確かに束縛するのは様式美でも抽出の理にはかなっている故だ。科学的根拠に基づいている」。
色葉は向かい側の席に座ると指示されたようにミルクパンを傾けて、すぼめた注ぎ口から湯を慎重にカップへ分け与えた。
 注ぐ湯の揺らぎと透過する色の向こうでカップやポットに施された金色が光っている。磁器でできたそれらの胴には当時にはより価値があったであろう青色の色素をふんだんに使って濃淡のある花々が品良く描かれていた。
曰く、日常のどこかで確かに聞いたことのあるような老舗メーカー製の磁器らしい。
これらは前の家主の趣味として揃えられたものらしく、この家はそういったいわゆる骨董品と呼ばれるようなもので満ち溢れていた。
いつでも出て行きたい身としては物の残された家は好条件の物件というわけで、國枝は使えるものは消毒を施して使用しているらしい。
このティーセットも彼がわざわざ食器棚に並ぶ幾つかから選んだものであるが、使用の前に煮沸消毒をするといって國枝はそれらをよく煮込んでいたために、色葉もそのことをよく知っている。
 前の家主のセンスを悪くないと気に入ってはどこか得意げにする國枝がポットへ湯を注ぐと、間もなく香り立つそれは紛れもなくハーブから主な香りを抽出したものである。
すうっと胸に落ち着き、日常に寄り添う香りは普段であれば就寝前に身体を温めることへ適していただろう。だが、庭で栄えていた園芸品種をも連想させてしまった色葉は意識のしないところで砂を噛むように苦い顔をした。
ハーブの香りはすっかりトラウマになったようにも思えたが、都合よく物忘れをする頭ではハーブを使った食事や香料で良い思いをすればすぐに書き換えられるのだろう。今はこのくらいの楽天も悪くないと思える。
想像が豊かだ。そして、思い込みというものは脳を騙すことに実に秀でているのだ。
それが今は良いものとして働かないだけである。
いつしか本当に砂粒の硬くて細かな感触が口の中にあるような気がして延々と気が滅入っていた。
閉じた口の中で舌を器用に使い歯列を撫でた色葉が、十分に温まったカップの代わりに温度を奪われた湯を小さな金属製のボウルへ移し替える。
キッチンで見つけたフィンガーボウルだ。
本当にカップを温めるためだけの清潔な水であったものであるし、その後に口に含むのでなければ手水の代替くらいには、少々行儀は悪いが限られた生活を強いる中で葉体裁が良いかと思っていたのだ。
少なくとも磨かれた金属よりかは温度の高さを保つ湯で金属特有の表面が曇りだす様をぼんやり見つめている。曇りを払うようにフィンガーボウルの縁へ小さく長い息を吹きかけた。
 伏せた目でティーセットの準備を続ける國枝が、暇つぶしをしようとしている色葉を窺うように盗み見ている。
「……本当に、すまなかったね。いや。ごめんなさい、だよな。まだ君から真偽を聞くという検証の余地があるが、おおよそに……君を傷つけた言葉を思い出してきた。正直なところ歯止めが効かないほどに昂っていたよな。きっと君にはどうかしているとでも思えただろ――」
「いいです、やめてください。私が聞きたいのは謝罪ではないのです」
徐に口を開いた國枝が、彼自身を自らどうかしていると評価するところを聞きたくはなかった色葉はわざと被せて言葉を発していた。同時に、それがどうにも冷たい印象であり、己の声色に驚いた。
國枝がどうかしていたとでも言いたがった感情ごとどうにか彼を理解したいものがあるのだ。
素直な気持ちであるが、それのことを言うには言葉が足りなかったのかもしれない。
そう思い直して付け足そうとした色葉が視線を上げども、國枝が視線を合わせてくれることはなかった。諦めを以て伏せた睫毛が瞳の上に被さっていたからだ。
吐いた唾は呑めぬのである。そして覆水が盆に返らないように、閉口をしても出た言葉の時間を戻すことは不可能なことである。
どういうことかこの世界は、どれだけの技術と学問を発達させても時間の不可逆を覆すことだけは未だ出来ていないのだ。
ばつが悪いように伏せた顔のうちで強調された鼻筋と鼻尖が自分勝手を自覚して寂しがっていた。
「……恩に着る。目覚めたばかりに予想外の労働を多く課せてしまったね。疲れただろう? しかし、すごく助かった。ありがとう」
 少し無理を浮かべて笑ってみせた國枝は昼に色葉が中断した食事であるカナッペたちと、細長のアルミパッケージに閉じられたライトミールを差し出した。
それからポットの蓋をそうっと外す。ふわりと香るどこか涼やかな匂いは爽やかにあって、気まずくなってしまっていたリビングテーブルを覆った。
ティーバッグを決して揺らさぬように静かに底から引き上げると、ツマミを天板側にしておいた蓋のくぼみにバッグを載せる。
次に彼の手元へ視線を戻した時には、カップに温かみの色が強く、それでもどこか爽やかなハーブティーが注がれていたのだ。
 ソーサーに載せたハーブティーのカップを色葉へ差し出す。
「可能であれば栄養のある食事を用意したいところであるが、生憎今は紅茶と僅かな携行食しか無くてね。昼に使い切ってしまったのだが街へ出ても帰宅までに要する時間などを考えると得策ではなかったし、君も食事を残したし、今日はどうにか許してはくれないだろうか」
 花々の絵があしらわれたカップと揃いのデザインであるが、カップよりも幾分か控えめな蔦や葉の描かれたソーサーとその上に載せられたカップを受け取る。
テーブルを跨ぐやり取りの下で黙っているのはカナッペたちの皿と、アルミの無機質なパッケージだ。そして食事という日常の温かみからは少し離れた場所を思わせる、冷たい錠剤がプラスチックパックに内包された薬剤のシートが輪ゴムでくくられている。押し出せば簡単に取り出すことのできるパッケージの透明の向こう側では、大きさが様々な薬の表面に印字がされているものたちがあった。
國枝が錠剤を鳴らすように揺らすと、微かなゆとりをもって薄いプラスチックパックの向こう側にいる錠剤たちがザラザラと鳴く。
「君もまだしばらくは目を覚まさないと勝手に思っていたんだ。つまるところ、食べ物がない。身軽で居ようとしたことが仇となってね。君の食欲の事情にそぐわない場合は申し訳ない」
「いきなり食べても身体に負担でしょうからね。空腹が全くないと言えば噓になりますが身体の負担を長期的に見れば選択肢など明確です」
 カナッペの乗せられた皿から一つを摘まんでさっさと口へ運ぶ。
流石に数時間のあいだ放置のされ続けたクラッカーの地は水分を吸っていて、咀嚼をすると歯が触れただけであっという間に崩れていった。
くしゅりと空気を多く含んだような音と、滲んだ塩味が感ぜられている。
少し塩辛いくらいの味が疲労をしたり、汗をかいたりした身体にはよかった。
確かに胃にも優しいくらいか、と思いながら一つの小さなカナッペを二回に分けてよく咀嚼し、ようやく飲み込んだ。
 ハーブティーで残った塩味を流し込むと、ほとんどを無意識が占めて唇を舐める。
気まずさに言葉を途切れきりにしていた國枝が、勝手に食事を進めていく色葉を見て目を丸くしていた。
そして、なんだかこうやって進む食卓に今までのような気のやりどころがない空気は似合わないと笑い出す。
「はは、折衷案的な気遣いくらいが丁度いい。素敵だ。どうか君の言葉を抑え込まないで。私に、たくさんの言葉を聞かせてくれないかな。ただ、今日のところはこのサプリメントだけ忘れず飲むように頼むよ。各一錠、この緑色のパッケージからだけは二錠だ」
「ええ。わかりました。そうやって互いの理解を深めることが出来たら、その、先生のことも。先生のこともきっと聞かせてくださいね。……そういえば、私たちはいつからこの家にいるのですか?」
國枝は自分のために注いだハーブティーで喉を潤してから、掛けられた言葉に応えるように視線を上げた。
「四、五日ほど前かな。きちんとした手続きを経て借りているものだから安心していい。まあ、適当な名前でも借りられるのだからどんなものかとも思ったが……存外にいい家だろう? 前の家主が失踪してから、私物がそのまま残されているそうだが我々にとっては都合がいい。暇つぶしにまず困ることはないし、今の君にはよい刺激にもなる」
「し、失踪って……! 言いたいことの気持ちはわかりますけれど、些か不謹慎では?」
口の端を持ち上げたまま引き笑いを浮かべる色葉を他所に澄ました表情のままである國枝は口をつけていたカップの縁を親指で拭っていた。「別に私が失踪を仕組んだわけでもないのだから、事実を簡潔に述べたまでじゃないか」
 國枝は腕を伸ばして色葉の傍にあった皿からカナッペを摘まむと、チーズの塊と薄い生ハムをフォークで丁寧によけてクラッカーの湿気ったような生地だけを食んでいた。
残されたチーズや生ハムに手を付ける様子が全くない様を見ている。
それに気付いた國枝が興味のなさそうな顔で言葉を続けた。
「ああ、勿体ないと思うならば食べてくれて構わないよ。行儀が悪くて申し訳ないが、かなりの偏食でね」
このまま取り残されて生ごみになるのも忍びない。
こうやって節々から感じられる國枝という男からは追手に迫られる余裕の無さを感じることは出来ない。この一口ですら惜しい瞬間は今まで一度もなかったのだろうか。
ダイス状態にカットされたチーズと生ハムを不躾にも素の指先で摘まみ、己のクラッカーへ乗せる。
フィンガーボウルで一度ゆびさきを清めてから色葉は具の増量されたカナッペを口に運び、咀嚼をする。
元は固焼きであったそれを砕くとすぐに鋭い塩味が口いっぱいに広がって今に多くの唾液が分泌された。
疲れているときには味の濃いものやカロリーばかりが高いものを恋しく思うように、かくして食欲と言うものは増幅されるのである。
「それは別に気にしませんけれども、う、うーん。あの、ええと……ごめんなさい。やっぱり、聞かせてくれませんか。一六八が成体クローンとして稀有であるという続きの話を」
拳を握り込み、やけに真剣な表情で語った色葉が恐る恐る視線を上げる。
そこに居た國枝の表情は、自分の言葉はまるで全てお見通しだとでもいうような笑みだった。
顎を引き、くつくつと煮立つような声を控えめにあげている。頷きを兼ねているも、愉悦を噛み締める様は少しばかり意地の悪さが滲んでいるのだ。
「……いいよ。正気を疑った時には君が私をぶん殴ってくれると、そう約束してくれるならね」
 色葉は唾を呑んだ。
こういう言葉を吐いているだけあって、國枝が正気を乱すことはきっともうない事が想像できたものの、"もしも"という地に伏せるほど低い可能性ばかりがいつも大層な出来事のように憚るもので不安になる。色葉はハーブティーを飲み干してから、小さく頷いた。
それを見送ってからもたっぷり間を置いた國枝はようやくと言いたくなる頃合いにやっと天板を跨いで身を乗り出すと、ポットにたっぷりと煮出したハーブティーを『おかわり』を伺うこともなく注ぎ足すのだった。
「はあ、ええ。わかりました」
 気の抜けた返事をした色葉は想像をする。國枝の笑ってばかりである表情の裏側だ。
昼間に見せた狂気の気配を跡形もなく消し去り振る舞う様は、國枝という人間の味をより薄くする。
立ち振る舞いなどはまさに、物語にしか出てこないような理想の人物なのだ。
そして、昼間の狂気のおかげで彼が理想の人物としてあるべくと振る舞っていることの事実と、そして彼もまた虚飾とする感情や理想を塗りたくることの出来る、つまり、ただの人間に過ぎないことを証明したのである。
 目の前の人物が穏やかに綻ばせる目元の笑みが表す形容に反して、寂しい表情だと色葉は思考していた。
「どちらが感情に瑕疵や暗がりを得ても恨みっこなしということで了承した。そう解釈していいのだろう?」
聞き出したかったはずの話題に触れると、急に遠のいたところにある意識が思考を始める。
声色に宛がう形容詞を探し始めていたのだ。
この話はきっと、長くなるのだろう。