「さあ、本題に移ろうじゃないか」
 國枝は囁いた。
成人男性にしては僅かに声音が高いが、含むべき水気を少なくした筆で描いた色の掠れに似た確かな男性性がある。
それでいてなおも、目が粗くザラついた紙の上で時に濡れた筆致を持つような艶のあるしっとりとした声だ。
頭の芯まですっかり浸るような甘さがあり、次第に果実は熟れるようだった。いつの間にか通り過ぎた成熟でグズグズになった皮の内側である果肉だけ腐り落ちている。
衣擦れのようなそれに背筋が逃げる感覚をしながらも返事として小さく頷くと、國枝は天板に肘をついたまま伏せた手のひらを肩の高さまで寄せた。
そして手首からの動きで大袈裟に手のひらを上げると人差し指で天を示す。それにつられて色葉の視線が持ち上がっていた。
改めてかち合った視線の茶褐色は多くの緑を映り込ませて大樹のように色を広げている。
どことなく意識の遠くで放り出された水の粒が色を吸収して強い光を反射する様を連想しながら、色葉は言葉を待っていのだった。
唇は意識の外側でやはり薄く開いて、どうにか希釈した塩辛い気配が二酸化炭素と共に排出されるのを密かに期待している。
空はまだ爽やかな色に水気を多く含んで広がっていたが、落ち始めた日に翳る温度と風に木の葉は騒めいていた。
冷たかったアイアン製のガーデンセットに身体の熱が伝わって、椅子の座面に渦を巻く生暖かさを感じる。
そんな切れ端の思考の幾つかをしながらも、やはり天を示した人差し指を見つめていた。國枝の人差し指の爪が伸びているようで、指先から覗いて透過する生の白を見ていたのだ。
「生物の成長と細胞分裂を関連付けた理論は割愛するが、ヒトに限らず生物が生涯のうちで細胞を分裂させることのできる回数は決まっている。そして、その分裂回数の限界は事象として発見、観測、追試検証を行った多くの研究者によって実証された。発見者の一人であるレナード・ヘイフリックの名を冠し、それを"ヘイフリック限界"と定義したんだ」
「……ヘイフリック、限界」
 半開きの唇のままで復唱した色葉の声をしっかりと拾い上げた國枝は人差し指以外に握り込んでいた指を近い場所から一本ずつ、見せつける動作でゆっくりとほどいた。
薬指の動きによく引っ張られる小指の曖昧に空白を含めて、伸ばしきらない五本指をゆるく広げる。
数字の五を示していることを強く印象付けるように、節くれだった指の根元である手のひらは僅かな振れ幅で左右に揺られていた。
小さく手を振る國枝は極めつけに伏せがちでいた瞼をすっかり持ち上げて、猫の目を光らせる。
すると、微弱な電流のようにつきんとした痛みを誘う白い光が眼球の底で弾けた。
思わず瞬きをすると、その残像が次の瞬間には凛としてにわか雨のような感傷の冷たさと生温い熱を孕んでいたのだった。
比重の異なる液体が自らの重量で滴下した様のまま不定形な流線を描いているような感覚だ。
尾を引いて湿った色の粒子は泳ぐ。
「約五〇回。ヒトの体細胞のヘイフリック限界は約五〇回と言われている。細胞分裂を繰り返すたびにテロメアは短くなり――そして一定量としてテロメアの質量が消費されると細胞は分裂を終了し、細胞老化と呼ばれる状態になる」
 彼の語る言葉は幾らかを端折るものの、ヒトの胎児から採取した体細胞の観測による細胞分裂回数の定説だ。
國枝の言葉を聞いたときに色葉の思考は、まるで言葉に地続きを重ねて存在していた。
テロメアとの因果関係に結びつきがあり、テロメア自身の修復・伸長の可能性を証明された活性酵素であるテロメラーゼの解明研究。
つまるところのこれらが人間の延命技術の模索と抱き合わせに歩を進めている事実は技術の末端を垣間見た人間及び当事者には常識である。
過去に國枝から聞いたのか、その言葉に対して意外なことにも一切の疑問失くして受け入れることのできる静けさは持ち合わせていた。
だか、水面下である心という信号に対し電気という血や、脳波や、独立する思考の産物らを通わせた際に動揺をするか否かの秤はまた、別である。
理論と感情を切り離せないのがまた人間なのだ。
この身体にある"二人分の色葉"の経験や感覚としての感情たちの蓄積が、いずれもこの事実を全くの動揺をなくして平静に処理することは叶わなかっただけである。
それだけだった。
 今現在、ここにいる色葉は首を頷けることしかできずにいたが、同時に、目の前の男が今更になって言葉を止めることはなかった。
気付けばじっとりとした汗を手に握り込んでいる。爪が食い込む手のひらの熱が人を人足らしめると共に喉元にナイフを突きつけていたのだ。
「ご老齢の臓器や筋組織などの機能が低下するのがいい例だ。本来肉体を構成していた細胞が老化する、つまり細胞の分裂を終えることで衰えていくのだから当然であるが……ゆるりとした死に向かっている。本能が恐るる抗いようのない恐怖こそ寿命の概念だ。今日日憂鬱するメメント・モリをロジカルで紐解けば原初の文脈の方が人生観として余程に賢いとは結構な皮肉だよな」
影がかかっていた。
國枝の表情の上で翳る瞳が緩やかに目尻を下げているのだ。
遠くで耳鳴りがする。
木の葉が擦れるざあざあとしたさざめきが遠くなって、重なりあう葉の隙間から強い光が落ちるが故に忌々しく翳る色の中に居る。
地に足をつけたまま投げ出されたように平衡を欠く色葉はそんな気を浮かべていた。
この庭を、斜陽に落ちかける日がこんなに照らしているとは思えないのだから、これは幻だった。
涼風に相反する陽炎にしては余りに屈折なく鮮明で、冬枯れに積もる白銀見紛う幻覚にしてはあまりに先走った弱い色なのだ。
荒んでいる。
恐怖を知っている。
 色葉が彼の語ろうとする実態の恐ろしさと同時に感じるのは、言われてみれば先回って知っていたものの既知だった。
己の見知らぬ知識こそが己の中でごうごうと煮えたつ湯の如く存在していることに漠然とした恐怖を掻きたてられて仕方がなかったのだ。
「あ、あなたはなぜ……何のためにクローン技術に目をつけたのですか」
その言葉を耳に送っては意外な言葉であるとでも言いたいかのように目を見開いた國枝は、次に諦めを浮かべて嘲笑する。
鼻から息を漏らす程度であったが、吐き捨てる諦念に妄執という煩悩が足元で絡まって生き汚い呼吸を続けているらしい。
沈黙が風に伸ばされてたなびく。
黒い靄を吐き出しそうな國枝は目頭の皺を今に苦しみとして刻んでいたが、色葉の瞳から視線を逸らすことはなかった。
「……私のことが、恐ろしくでもなったかい?」
敵意を招かぬよう口角を上げたままの表情で絞り出したものは、掠れていはしたが優しい丸みを帯びた調子だ。
語尾で疑問を浮かべる調子が上がる様に胸が締まる。
ただ、縋るように臆病を湛えた上目遣いは瞳孔から鬱の澱みを覗かせていた。
それを視線を逸らすことは出来ないながらも座面にはしっかりと腿をつけて、腰を浮かせることをなく席についている。
しかし居座る平静に反する本能で急速に軋む身体から逃げたがった色葉が、足だけ後退るように下げると、足元で革靴の底が隙間を割り生えていた草を踏みつけていた。
いつの間にかくしゃりと踏み潰してしまっていたらしい草の葉が、茎を素焼きの風体をしたタイルに押し付けられて汁を滲ませていたのだ。
色葉自身の身体を巡るはずがいつしか偏って停滞した水分が蒸され、取り分けて脳が曖昧な熱を持っている。
鼻の奥から頭頂部のあたりまでがすっかり湿気ってぼうっとしていた。
遠くで痛みが意識を惹くように『おうい』と呼び声を上げて手を振っているのだ。
「君が君を知りたいのなれば、そうだな。隠すことでもない。色葉――もとい一六八は死者の続きの人生を歩ませるために人間の手で造られたヒトクローン体だ。体細胞から取り出した細胞核を移植し、人の手で細胞融合を発生させるなどいくつかの工程による複製技術によって生み出されている。種族的な外観の特徴及び遺伝子情報の照合に置いても複製元との一致率が高いクローン体だ」
「死者の人生の、続きを……?」
 水面を漂う泡にはっとする。
ただの水のような中に揺蕩う輪郭の記憶がチラつくようだった。
思考が認識することを拒んで身体が大きくうねりを上げる。
腹の底に潜む塩辛い気配をすべて排出したがって大きくしゃくりをあげていた。
思考の間もなく、拒否の反射に支配された身体がくの字を描くように折れ曲がる。勢いが死なないままガーデンチェアの後ろ脚が浮き上がった。
地に着く足を浮かせるものかと躍起にしながら、せりあがる胃酸の味を恐れた本能が口元を手で強く押さえつけている。
 今、この瞬間。目の前に『優しい先生』は居なかった。
目の前の男は明らかに冷静を欠き、取りこぼした自らの言葉に動揺を浮かべては瞳孔を広げている。
虹彩よりも僅かに濃い色をした瞳孔が興奮にぐわりと開くと、國枝の中で抑えの効かないらしい感情が初めて這い出してくるのだった。
「体細胞の採取時点でのテロメアの消費はクローン技術による課題でもあると言え――技術由来のクローン体は既に消費されたテロメア情報を保有した細胞の複製故に短命である。エスエフ映画みたいな設定だろう? 冒涜と遺伝子による因果を前にすれば当然の帰結だとでも言うかのように皮肉に笑みを浮かべて、さ。加えて、一六八の関する"故人が志半ばにした人生の続きを歩ませる"クローン体の実験においては取り分け多くの薬物投与をしている」
猫の目を閉じた國枝が静かに席を立つ。興奮をした様相ながらに、声はじっと静かに色葉へ向けられているのだ。
脂汗を滲ませ、喉を焼きながらせりあがる胃酸を反射として飲み下している色葉が必死に口元を覆う手の甲の上から自身の手のひらをそっと重ねた。青褪めて冷えた己の甲にさらさらとしながらもカサついた温度が留まり始める。
ガーデンテーブル越しに乗り出した身体がシャビーシックを演出する白に落ちる日を遮って濃い色を落とすのだった。
「細胞分裂の促進、同時に急速な成長に伴う身体・内臓共の負荷を和らげる抑制薬剤の投与。短期間で成長した肉体の多くに伴う精神の不調、離人感覚、乖離に関するメンタルケア。テロメラーゼ酵素の活性化を主とする遺伝子レベルの延命操作処置。故人の電子記憶媒体化及びクローン体への移植処理計画。……数えればきりのない非人道の限りを尽くした研究だ。君にもそう思えるだろう?」
押し戻すために酸素ごと呑み込んだ胃酸が、再びせり上げるために粘膜をうねらせた動きの間でひしゃげる。
力のぶつかり合う場所から逃れようのないエネルギーの発散として身体は制御のしようもなくわなないていたのだ。
耳鳴りはいつしか高く抜ける音になり、聞きたくもない言葉がよく聞こえることが恐怖を助長する。
こめかみのあたりが冷えて収縮するような感覚と灼熱の脂汗が滲み出る湿度だけが、この場で唯一の冷静として肌を舐めていた。
 せめてもの抵抗のように色葉は、瞼だけはと固く閉じているだけだ。彼の顔を見たくないと考えていたのだ。
「一六八の細胞及びテロメアは複製元の採取時の状態に足並みを揃えるように急速な分裂を行う。促進のための薬剤を投与するとはいえ、ある程度は"そう在るように"遺伝子情報自体に細工を施しているのさ。足並みを揃えた後は同じく抑制剤を必要とはするものの、緩やかな過程を経てヒトの通常速度の細胞分裂の頻度と同等にするよう調整している。成代わりをする肉体を完成させ得た後はヒトとしての正常な時間の流れを生きることが出来る」
おおよそ人間の言葉や息遣いではないようにひしゃげる酸素と内臓を往来する感覚の苦しみに呻く音を漏らす色葉の身体が痙攣している。
呑み込むものに対してせり上げ返す間隔は狭まり、重なる手に何かを発言しようものならば一切の隙なく胃液はぶちまけられるだろう。想像は容易だった。
ガーデンテーブル越しに身を乗り出し、重ねた手をそのままに離さず、國枝は色葉のすぐ傍へ足を向ける。
「そう、死者の続きとなるべく望まれた生の負荷・観測を成体まで耐えた稀有な存在――それが"色葉"であるための一六八だ……! 國枝にとって崇高の! 求め続けた正解に成り得るために! ああ、君もそれを一等に尊いものであると……なあ、そうだろう? 認めてくれよ。さあ……さあ!」
彼の言葉は次第に語調が強くなり、最後は矢継ぎ早に訴える様そのものでいた。
耳元はで錯乱した声の言葉尻にねっとりとした恍惚が浮かび、悍ましい質量の狂気になっている。
口元を抑えつけるために重なる手は徐々に力がこもって、爪の立てられた己の手の甲が熱を持っていた。
冷えた身体と背中を濡らす脂汗に対して熱を発生させるそこだけが生きているようだ。
そういった分析をする間もないほど、煮えたぎった血液が通う脈動が今に感ぜられるような頭痛に顔は伏せられていく。
気を抜けば今に眼球はぐるりと上を向いて、意識は途絶えそうだった。
「君の……君だけはその価値でどうか私を否定しないでくれ。嘘でもいい! 歪んだ正しさで好い、今はそれで良い。だから……!」
 喉から嫌な水音と、酸素が呻く音がする。まるで祈るように縋った國枝が無理やり色葉の顔を上を向かせる手の力のせいで、胃酸と共にせり上がった固形物の凹凸が、気道の粘膜をなぞる。
悲痛にまみれて切羽詰まる声色が聞き取れぬほど掠れ、すっかり濡れていた。耳元でカサつく声が、距離よりもずっと近い場所で鼓膜を撫でている。
何度でも飲み下そうとする胃液が許容を超えて苦みと酸っぱさを滲ませていた。
口腔から身体の底へ伸びる管のように伸びる喉はすっかり焼かれ、火が付いたように熱いのだ。
うねりにせりあがった酸が勢いで鼻腔まで抜け、呼吸すらに痛みを知る。
上を向かされたことで露わになる首元のせいでのどぼとけが圧迫されたように詰まっていた。すべてを吐き出してしまいたかった。
その欲求に支配されていたのだ。苦しみから出た生理的な涙で目元がグズグズに濡れている。
それでも残った僅かな理性のうちで純粋といえるような悲しみの感情から涙を流したいと思うのは、國枝の声色があまりに狂気から解放されたいのだという苦しみに満ち溢れていたからであった。それをどうにかしてやれることはなくとも寄り添うことくらいは己の出来るであろうことで、己の意思でしたいことのひとつだったのだ。
言葉も許さない身体は今に限界を自覚して、國枝が上から覆う手を自由な方の手で力なく爪で掻いている。
眼球の最奥がぼんやりしていた。心臓が鼓動として早鐘を打つ。脳から足先へ力が抜ける。
唐突に、足元の力を失った際に崩れ落ちるのは足元からではなく中腹からなのだと自覚する冷静が最後にあった。
力の抜けた膝がかくん、と折れていたのだ。
今に気付けば、高く打ち鳴らした金属がいつまでも余韻を引く耳鳴りが止んでいた。
 あれだけ飲み下して吐き出さないことに躍起になっていたはずの胃酸をぶちまけて嘔吐している。
口の中が苦くて酸っぱい。嫌な味だけは頭から爪先まであまりに鮮明に思い出すことが出来るもので、すっかりと眉を寄せる。
唾を飲めば、爛れた粘膜に追い討ちをかけるのだった。
意識がはっきりとしたとき、色葉は地面に両手を着き、身体を四つ這いにして息を荒げていた。
身体を支配していた痛みや苦しみが幾分か晴れ、軽くなった頭で未消化の塊が浮かんだ胃液を呆然と見つめている。
肩が大きく揺れ、呼吸を整える過程で再びせりあがるものは胃をすっかり空にしたいようだ。
空嘔きと吐き出す二酸化炭素がひしゃげるカエルのような音を聞いている。既にここまで身体が拒むのであればすべてを吐き出すだけだ。
二度目の嘔吐と苦しみに喘ぎ、引き攣る呼吸によって血の色が褪めている。
やがてすっかり軽く、そして冷たくなった身体を庇うように身体を力なく横たえた。
 首を大きく回し、思い出したように視線を巡らせれば少し離れたところで國枝が仰向けの体勢で、顔を横へ向けて倒れている。
蝋のように白い顔をして瞼をすっかり閉じている様子から気を失っているのだろう。第一釦を失って晒された喉元がまるで透き通っており、まさかという前置きの元で絶命したのではないかと錯覚する。
それを認める前から今ここに己を抑えつける國枝が居ないことから恐らく強い力で振り払ったのだと推測していたのだ。
途端に恐ろしくなっていた。頭でも打っていたらどうしようかと不安が過る。
 彼の行いもまた咎められることではあったが、それ以上に己のことが恐ろしくなっていた。
一体何が彼をこのようにあまりに歪めさせてしまったのだと思考すると同時に、どこかで知っていたからである。これらは恐らく、己の業なのだ。
今はまだ、それらを認めて言葉を聞きたがらない身体が、幾らか軽くなったとはいえ殴りつけること自体は継続している頭の痛みに瞼を閉じる。
痺れる末端の指先で額の汗を拭った。
 自分自身が草葉の影で開く"目"に恐怖を抱くように、目の前に"色葉"という姿かたちの何者かを前にした感情は國枝先生もきっと同じなのだ。
不可逆に進む時間が取り返しのない現実を突きつけてきた際に、動揺をしないわけがない。
次に向かいあった際には私が謝るにしても、彼が謝罪をしてくるにしても、果ての庭での出来事はあまり気にしないことにしよう。
これらが己を己として知りたがるうちに回避のできない壁であるとしても、今この瞬間にはあまりに性急だっただけだ。
しかし、この出来事ゆえに"私"としての色葉は今度こそ、彼の苦しみを理解したいと思う意思を自覚したのである。
そしていつか"私"として『それをしたい』と願う欲求が、思考として、感情として、己足らしめるものになればいいと思うのだ。
 色葉は暗がりへ意識を傾けて、現実隔てる水面を頭上にしていた。
草葉の影で見ていた空間を割く目は次第に退屈をして瞼を閉じている。