色葉にとっての國枝という人物を想像したとき、その概念(すがた)はいつもリビングルームに存在している。
柔和な態度を崩さない。紳士然とした風体を装うものの、口を開けば少しばかり偏屈な人間である。
そういったイメージを輪郭として細かな仕草を"らしさ"と囲いこみ、彼を形作っていた。
 なぜ一等先にリビングルームにいつでも居る、という状況が浮かぶかというと、ドアを開けた先にある彼の定位置が空白を抱えていることのほうが珍しいのである。
不思議とどれだけ不規則に、そして突飛な時間にそこへ赴いても、高々と積んだ書斎の本のうちでいま手にしていたものを閉じると「茶でもいれようか」と優しく笑うのだ。
そのほかの行動といえば、細かいながら整った字で書きものをしているか、その日の気分に合わせて食器棚から選んだカップの絵柄をじっくりと眺めている。そして、やはり注いだ紅茶を口元まで運び香りや味わいを楽しむのだった。
 また、しばらく経つと、彼は前の家主が彼の使う部屋で行っていたらしい古い本の修繕作業を真似して行うようになった。
応急処置に留まりこそするものの装丁を繕い、ページの破れや欠けに薄紙を張りあわせ、抜け落ちたページが挟まれていれば糊をつけて元通りにしてやるのだ。
 もともと保存状態が良く、分厚い本が多いため、一見してその姿が見違えることはない。しかし長らく沈黙を続けてきた本たちは、指先に慈しまれることをやっと思い出すことができて喜びを感じているように色葉には思えた。
そのように経年劣化でくすんだ本の表紙がひとまわり明るい顔になるところを何度か見てきたのである。
普段の國枝の様子を思い出そうとして浮かぶ事柄は大体がこの三つの行動だった。
「偶然ではないかね」
 いつかの会話の流れで彼のイメージを伝えたとき、当人である國枝は驚くこともせず目を伏せて笑った。
勝手に膨らませられていたイメージに肯定も否定もせず、しかしながら興味深いとばかりに「ほう」とフクロウの鳴き声のような間延びした相槌を打つのである。
いれたての紅茶がもつ華やかな香りを湯気ごと纏っていたが、色葉はまた別の日における彼が「リビングが冷たいとなんだかさみしくはないかい」としみじみ言ったことをも覚えている。
 なるほど彼にとって団らんの象徴がすっかり冷えて薄暗くなることは、もの寂しい出来ごとなのだ。転じてこれは彼の気遣いであると言える。
同じ思いをさせまいと考えうる最善尽くしているのではないか?
 気付いた色葉は心のうちで、普段の自分があまりに自由な行動をしているのではないかと慌てながらも、表面上では疑問をいかにも疑問らしく聞きだした。
「自惚れた話しかたになりますが、私のために先に灯りをつけるのが先生ならば、先生がいらっしゃる場所はまたさみしい場所ではないですか? それは構わないというのですか」
色葉が椅子を引き席につきながら問いかけると、國枝はやはり読んでいた本を閉じてテーブルの隅にやった。
それからおやつである少々のドライフルーツと切れ端のチーズ、生ハムを載せた小さな皿を差し出す。
「我先にと部屋を陣取っておいてなんだが、べつにあの部屋でしかできないことなどなにもない。どこでも一緒だ。大丈夫、君が想像するようなことは私には該当しないよ」
 言い分を理解しつつもそんな考えはうっかりしていた、とでも言わんばかりの語調で言いきると、音の通り抜けた身体がスキッとするような爽やかな笑みをした。
細くなった目元のかたちが楽しげをすると、青い薄片をのせたような灰と茶のまざった瞳に反射する光が角度を変える。
「それに、待つことが退屈なだけではないと私は知っているのでね。仮にも先に着くのが暗い部屋でも構わないんだ」
色葉は手近なチーズをつまんで放ると、咀嚼と嚥下を経て問うことを続けた。
「たとえば、どのような?」
 問いかけをひらりと交わした涼しげな答えが返ってくる。
声の調子が鼓膜に触れると、晩夏に秋の風が一足早く吹き込むかのような情景がふと浮かぶ。無意識ながらそれから目を逸らすがごとく、色葉は指先をふたつめのチーズへ導いた。
「君も気になるならば、早起きをして来てみたらいいじゃないか。しかし、当然のこと君と私の意見は一致するとも限らないものだ。だからもし、そういう場合でも後出しじみたクレームはご遠慮願いたいかな」
ポットの紅茶を頂戴してカップに注いだ色葉がストレートを含み、渋い顔をすると、國枝が伏せた笑みのままミルクの小瓶を傾けた。
 この人はよく理解をしていることに躊躇いがない。
ゆえに勝手にカップへミルクを注がれても嫌な顔せず、また拒みもせず、注ぎたいだけを受け入れる。
指先の距離から遠ざかっていく背の低いミルクピッチャーが描く胴のまるい輪郭を、その清潔な陶器の白さをぼんやりと見ていた。
目分量で与えられたそれが普段から自身の好む口当たりに近いことに感心し、一口分を飲み込んだ色葉はカップに再び目を落とす。
まろやかな色の波がカップの内側をそうっと行き渡っていく。不思議と想像だけで鼻を抜ける後味が甘いもののように感じられた。
「君のすべてを知ったかぶるわけではないが、まあ、"それ"の出来栄えは偶然ではないだろうぜ」
片目だけで得意げに窺い見る様に色葉は白旗をあげ、しかしながら悔しさはかけらもなく口許を緩める。
「じゃあ、この場合の角砂糖はいくつがベストなんです? これ、私の好きなミルクティーのときと茶葉が違いますよね」
まるでマジックでも披露する仕草で角砂糖を振り出す指先は大したように語るものの、どこか中途半端に興味を投げ捨ててきたかのようにも見える。
そしてわずかに身を乗り出すと色葉の前にスティックシュガーを一本差し出した。
「仮に確立された比率というものは便利だよな。君の好む条件を付け加えてもそれらしいものが容易かつ安定的に生み出すことができる。料理のレシピというものは生活に近いという意味で抱く親しみよりもじつはもっと偉大なものだと思うときがあるよ」
緩やかなに下がるものの目尻の涼しげが印象的な目尻が怪しい微睡を誘う。
禁忌のふちに立って爪先立ちをすることや、まさに意識が寝落ちる瞬間の心地よさだけをうまく手繰り寄せて起伏を作るのだ。
「まあ、実際は火の入れかただとか、温湿度との関係だとかでうまくいかないこともままあるのだが。いま現在話題の対象に関してはいつもより半個ぶん多く入れるといいんじゃないか。だからスティックタイプの方がいい」
柔和ながらどこか触れ難い態度を崩さず、しかし確かな凪のように穏やかな人当たりで他人を惹きつけてきたであろう師の『完成されている』とでもいいたくなる様を目の当たりにすると、思わず彼のことを、そうつくられた正面体の集合知か何かなのではないかと錯覚する。それほど色葉にとって彼は色葉の知る理想と親しみやすさをうまく共存させている。
未だ発展途上である人類の良いところのさらに上澄みを圧縮して磨き上げたものとすら、小さな箱庭に住む色葉には思えた。
 もちろんのこと、世界がそんなに小さくも単純でもなく、美しくもないことも知っている。
おそらく、そう思わなければ生きていけないような出来事があったのだ。
もしかしたら、過去が無意識の領域へ語りかける喪失のうち、自分に優しくしてくれるのが彼だけだったのかもしれない。
 綺麗さっぱり空白の部分に視えないそれはたしかに存在する。
過去に起因する抗いようのない引力だ、と、色葉が結論付けたものだ。
そうでなくては空恐ろしくなるほど単調で単純な刷り込みである生活だけが残るのだという虚しさを、薄々に知っていた。

 真綿に包まれるやさしい生活のなかで、國枝がそのように存在していたことは確かである。
しかし、迎え入れることのない声の本来あるべく主を探した先で、一度だけ彼が眠りこけている様を見たことがあった。
もはや無人のリビングに慣れない色葉が疑問と微かな恐怖に突き動かされて室内を見渡すと、入り口へ背をむける一人掛けのソファに隠れてすっぽりと収まり國枝は眠っていた。
 テーブルの上を窺いみるに、応接スペースにあたるソファ側で過ごしていたらしかった。寝姿がずり落ちかけて背もたれに身体が伸びていたのだ。
 どうりでパッと見渡しただけでは姿がないと錯覚するわけである。
 こんこんと眠る顔の肌は漂白された紙の如くに白い。
呟きの程度に小さく名を呼びかけても瞼は持ち上がらず、指先でページを挟み手のひらで支え持ったままの文庫本が時間の止まった一場面を示すかのようだ。
まさか、と思って触れようとしたり声以外のはっきりした物音を立てたりすると、ギッ、とした鋭さに角度を傾けて瞼を開くのだ。
呼吸を確かめようとした色葉の手を捻り上げて國枝は感情のない瞳を向けていたのである。
しかし、防衛が働いた末の行動で認識した形が連れ合いである色葉だと認識すると、柔和を思い出して頬を緩め、ばつが悪そうにあいさつをする。
 キンと跳ね返った瞳の色が夏の木陰の中で光を放っていた。もしくは水中でも褪せぬ鋭さだった。
それは一瞬で影を潜め、やがてその鱗片すら感ずることはできなくなるのだ。入れ替わりに角のないやわらかな色が浮かぶ。
声色だけはまだ夢の中に威厳を置いてきたかのように滑舌が重たいままだ。
「おはよう。いやな気にさせてすまない。率直に驚いたんだ」
 息を呑み固まる相手の緊張をほぐすように國枝が「いま平静を装って見せかけているが、疑うならば心臓の音を聞かせてやりたいくらいだ」と、いかに驚いたかを付け足して肩を竦める。
掴み上げてしまった手を大事にいたわり、改めて謝罪をする言葉が遠くで聞こえるかのようだった。
そしてそのままぐっと腕を伸ばして変に凝り固まった筋肉し、白衣を羽織る。
茫然としたままの色葉の目に映る姿は本人の口ぶりに反して、よく観察しなければ普段通りと変わらない態度ではないか、と、言えてしまえそうだった。

Fold statice in this hands. and I want your hands to take my body heat.

 そして今この瞬間、空白の席はひどく冷たいもののように思えていた。
つまり、かの概念の通りに存在するはずの國枝の姿はそこには無いのである。
「不滅の魂、か」
昨日の出来事からできるだけ遠くに意識を逃がそうとして、遡ること色葉は道中の会話を思い出していた。
唇が言葉をなぞる。強く印象に残る音だった。
 不滅の魂。
時代背景や作者の足跡、宗教的思想、その他セオリーとされるような予備知識を投げおいて、自分ならその言葉に何を重ねるかと問いかける。
特別に語って大仰な話題でもなかったが、余計なことを考えないで済み、おおよそ答えが曖昧なものであるほど時間を潰すには適切であるといえた。つまり、ちょうど良い思考ゲームのお題になったのである。
それは國枝から感想を求められた際も、今この瞬間も同じことだ。
己の手のひらを眺めながら想像を膨らませる。
 まず、不滅の魂という響きを漫然と思考を占める中心へ浮かべると、ひどく柔らかいものだと考えた。
あたたかい光のようなものが一番最初に現れたのだ。
それは前提に物語の内容を知って美談とする部分があることは否めないが、きれいな音の響きだ。
儚いようで強い願望にも思える。
 曖昧という表現すらもが今にも崩れそうな淡い輪郭を成して飛んでいく。
丸くて、表面が脆く、極めて薄い。元よりあってないような厚みを更に代償として日増しに色を取り戻している様子だ。
光の当たる角度によってその瞬間に最もうつくしい表情を見せるそれは、色とりどりの花がひらいた庭園を彷彿とさせる。
髪を揺らす風とともに地の一面は覆うように色づき、空から水が滴り、花は輝く。
やがて水や生命の行く先は大きな海へと通ずるのだ。
 大海におちつく水の全てがこの世の叡智が還る場所で、人間という要素の凝縮された全てだった。
輝きの色が見せる幻想に対比して、個というひとつを連想する。薄い膜の内側のことだ。
それら透明を丸く囲った内側に、多くの生命を形成している。
つまり、端的に例えるならば刹那だ。外側では命の前借りをして輝いている。
目を細めたくなるような甘美な感情も、うっそりと仄暗く灯る欲望も、焼かれるような不安も、蒸発して薄くなるばかりである輪郭を成す膜は映していた。
 不躾な指先で核心に触れようものならば一瞬で弾けてしまうだろう。
不安定ながら――不安定だからこそ、美しい曲線は二度と戻らない。
色葉は思考の中でよく似たものとその概念の姿を重ねる。例えるならば、シャボン玉によく似ているのだ。
ひとたび強く風が吹けば大きく揺られ、触れずともいつの日か何事も無かったかのように消えていく。
永遠も、刹那も、そこには在る。
すぐそばにありながらも決して触れてはならないような存在である以上の例えはそうそう思いつきそうにもなかった。
 ソファの背もたれにすっかりと身体を預けると、緩やかに反る身体の曲線で窮屈に縮こまっていた筋肉が伸びる。
ちょうど肋骨のすぐしたで甘んじる、骨という器の隙間で虚しいという息苦しさが軋んだ。
浅くなっていた呼吸が段々と楽になり、深く息を吸うことを自然と再開する。
すうっ、と、歯の根を透ける息遣いが聞こえるほどあからさまな深呼吸を繰り返し、再び沈む。
 色葉は自身の指先を眺めていた。手を握ったり、ひらいたりする。
呼吸の気配を薄くすれば微かに感じる手首の脈動を知ることが意識を生という現実から乖離させるのだ。
死生観を想像して、自分の矮小な様を知ると気が遠くなりそうだった。
 唇の端を舐め、指先を反対の手でさする。爪の生える先端はすこしカサついて、捲れた皮膚がたちあがっている。
ちいさな綻びとは見せかけを騙すものの、いじくりまわせば鋭い痛みがえぐってジクジクと神経を刺すそれを取り払ってしまいたい。
 なるべく別のことを考えるように務めるものの、絶妙な角度によってくすぐられる欲求を抑えてはささくれだった爪の付け根を無感情に、ただ、文字通りに眺めている。
どうしても脳裏を掠める不滅の魂――ひいて死生の感性と自我の行先がこびりついて離れないのだ。
「……いや、シャボン玉みたいだったらよかった、のかも?」
また気がつけば透明な違和感に似たイメージがすぐそばに佇んでいた。
 例えば、シャボン玉であるならば割らないためにはどうしたらいいのだろうか。
もし極めて平凡で変哲もない、ただのシャボン玉ならば。
割れる仕組みを回避するだけならば、膜の粘度を上げて表面上で起こる蒸発の速度を遅らせればいいのだ。
しかし、魂の蒸発を抑えることなど考えようにも不可能であって、そして、それは恐らく、意識から一番遠いところに在る。
 現実味がまるでない。
誰しも自身の死を明確に想像することなど出来ないし、ましてや己が目で結果を見届けることなど到底不可能なのだ。
行おうにも不完全な実証実験であることは火を見るよりも明らかだった。
「意外だ。君は、まるで私に興味が無いものとばかり思っていたがね」
 不意に國枝が自虐とした表情と言葉を思い出す。
雨脚が強くなるにつれ泥が溶けるように動けなくなった國枝を背負って帰る道中、色葉は彼のことをまるで生きている人間だとは思えなかった。
漠然とそんな不安がよぎったのだ。
 振り返ったら実はなにも背負ってなどいないのではないかという、塩の柱が瞼の裏から脳天まで貫く鋭い錯覚が心臓と共にある感情というやわらかな部分を刺し続けたのである。
質量として想定したよりずっと軽い身体も、失血や冷たい雨によっていくらか下がった体温も、シャボン玉より早く飛ばされて、今に弾けてしまいそうだった。
 怖い。恐い。こわいのだ。
不安だ。
気付けば全てがなくなるどころか、まるで最初からなかったことのようになるのではないか。
 そもそも國枝の語る通りの出自であるならば、自分は何者だというべきなのか。
この社会における法や根底の意識の部分で正しく人間として数えることができるのだろうか――?
夜の闇によって丸呑みにされてしまうような途方もない恐怖に覆われた晩を思い出す。
 國枝との生活は草木の中で眠るように穏やかであるものの、決して地に根を張らない。極めて曖昧な存在だ。
仮初とはいえども、今の自分にとって安寧を知る光はこの家の灯りだけなのだ。
長く起伏の少ない坂を彷徨い、泥を背負ったように重たいながらも今に希薄になりゆく命の温度を抱えていたあの瞬間が、雨の冷たさが、手のひらや背中にまざまざと蘇る。
 置いていかないでほしい。
 逃れたがって両手で顔を覆った色葉は、奥で痛む疲労を目頭のあたりから抑えて重たい息を吐いた。
暗い空は白く明け、感情を冷たく貫く雨は止んだ。
朝には新たなる光が差し、雨上がりの湿った臭いもかき消されただろう。
しかし脳が落ち着かず、疲労は自覚しながらも一向に眠気の訪れない身体が憎い。節々が痛みを訴えるも成す術がないのだ。
身体の仕組みとしての疲労と、緊張によって分泌される脳の物質や筋肉の緊張がもたらす興奮は、均衡を蹴り飛ばしてはつり合うことなく強い不安だけを取り残していた。
 いくら自分が起きていたって、心配する相手の姿が見えないならば不安は募るばかりだ。
湿度の高い場所に長くいたためか、久々に家から出歩いたという運動の結果か、はたまた強い緊張に晒されつづけたためか、頬の頂点や鼻の周りは僅かに脂に似たベタつきがある。
指の腹から関節までに触れた透明なそれをティッシュで何度も拭う。
 長らくぼうっとしていたが、絡まり続ける思考に色葉は「わああっ」と意味もなく一声あげると、髪を解き、頭をめちゃくちゃにかき混ぜた。
乱れた髪もそのままにリボンタイを取り去る。そして襟のボタンを緩め、再び顔を両手で覆う。
 疲れたせいだ。
言い聞かせて改まった疲労や不安がいっそうのしかかると、泣き出してしまいたくなる衝動が波のような緩急と周期で押し寄せる。
 疲れたし、あんなことがあったばかりだから情緒が安定しないのだ。
だからこれは正当な脳と身体の拒絶反応である。
 何度もそう言い聞かせて深呼吸を繰り返し、身体を縮こまらせて力を入れることと弛緩して脱力することを繰り返す。
身体が温まり、まさに正気に戻るという言葉通り冷静になると、今度は小動物を慈しむ手つきを思い出しながら瞼の周りを丁寧に揉みこんだ。
円を描きながら眼窩の窪みをなぞり、指先で眼球を撫で回すように優しく凝りを癒していく。
他にも肩周りやこめかみ、頭皮など、窮屈な感情や身体を部分的に労ってから、靴を脱いで揃える。
 正確にはこの洋式の家で靴を脱ぐ必要はないが、事実、そこがベッドでなくとも身体を休めようと思うと習慣的に脱ぐものである。
そのほうが色葉にとっては楽であったし、そうするべきだと思うのだ。
三人掛けの長椅子であるソファのほうへ沈み、寝転んだ色葉は、先に外した髪飾りをローテーブルに預けて長く息を吐いた。
 頭を空にすることに努めて目を閉じる。
実際に疲労しきった身体を横たえるとすぐに意識が遠ざかっていく。
それは己が沈んでいく感覚というよりも、どこまでも暗くて広い天体が落ちてくるような錯覚を伴っていた。