「……そういうことで、件の実験のために多少の細工をされたヒトクローン体の成長期はヒトの形として安定するまでの前期……これは人間でいう胎児から幼年期のようなものだな。明確にその細工の内容が反映されるのは急激な成長を促進させられる中期だ。また、それ以降経過観察を行う後期および成長の速度を落としながら限りなく人間として遜色ない生活を送ることのできる肉体状況の安定期。そのような三、または四過程に分けられる。そして一六八は既に安定期に入っている。つまり、成体まで経過観察をすることのできたという意味で非常に稀有な検体だったというわけだ」
「それは――その他の被検体は……急速な成長に耐えられなかった、と。そういうことですか?」
 長い話の中で思考を巡らせるように指で顎に触れていた色葉は、俯けていた顔から視線だけで、指を折り曲げて説明の言葉を語る様子の國枝を見た。
向き合う話題をするために椅子に座り直してからずっと、背を正す彼がしっかりと己の目を捉えている。
ここまできて初めて視線を逸らした國枝は微かにおどけながかも自嘲を含む声色で語ったのだ。
「研究というのは"そういうこと"さ。成功のために多く失敗をするし、それを正当化する。これは多くの人類が救われるための尊い犠牲なのだ、と宣ってね」
瞳の色が沈んでいく。
國枝という男が、そういったものに流されて堕ちていった過程を経るのか、はたまた一点の曇りもない正義が彼の精神を蝕んだのか色葉には知る由もない。
ただ一つ確実に理解をして察することの出来ることは彼が研究所と呼ぶ場所から逃げ出す直前には憂いを抱えすぎて、すべてが円滑にいかなかったということだけだ。
それを人間は心がやつれるだの、病むだの、時には折れるとも呼ぶのだ。
色葉にとっては心を語ることが憚られて口にすることは出来なかったが、國枝はひどく己を蝕む後悔と責任感に冒されているのだ。
病のように巣食って、正気を少しずつ食んでいる。
今に暗がりを見る瞳から水分が失われていくように、光の反射を少なくする暗褐色が少しだけ恐ろしいもののように見えるのである。
 ダイニングテーブルの木目へ視線を落とす彼をまた少し離れたところから見つめながら時折舐めるように口へ含むハーブティーが、あまりに淡白なものでこれならばたっぷりの砂糖を入れればよかったと色葉は考えていた。
國枝が利用した甘味料が角砂糖であったこともあり、四角形に圧縮されたそれが溶けて無くなるまではいい気の紛らわしになるとも思考している。
言葉を半分にするわけではないが、どうしてもどこかでは受け入れ難いものであったのだ。どうにかして思考を他へ逸らしたい気持ちが拭えずにいる。
それにしても拭ったところで鮮やかな拭い跡がまた渇きを呼ぶのだから、いつかは直視をしなくてはいけないものなのだ。
 知りたい。知りたくない。
ずっと欲望が追いかけ合っている。背を追って、朝から夜へ。冬から春へと回り続けて果てを知らなかった。
故に暗がりと光は交互に頬を照らして、時に自分が恐ろしくなるほど彼に対するなにか大きな感情が胸を占めていることを知るのだ。
光はその感情の輪郭をくっきりと照らし出すことが得意だったし、暗がりはその思考の過激をいたずらに助長したのである。
話が進むにつれて逃げ続けていたいだとも言っていられない事情が身に沁みて、結果的には僅かながらに身体を乗り出し始めている。
前のめりになる体勢によってテーブルの天板がちょうど、勝手な『おかわり』が注ぎ足されることで水っぽくなった胃のあたりを圧迫しかけていた。
「そうだ。複製した細胞たちのテロメアの質量・消費云々を以前に、この研究が長く低迷した理由の一つであったよ。テロメアの質量に起因する生命の限界をさておきにしても、当然ながら、通常のヒトの何倍もの速度で成長を促されたヒトクローン体の肉体は急激な成長に耐えることが出来なかった。只でさえ薬剤を処理することに必死であった内臓は成長の負荷に耐えられず、細胞は疲弊し、いずれ働くことを辞める。そして細胞単位の小さな死を重ねては様々な内臓機能の不全を起こしたんだ」
ぽつりぽつり語る言葉には微かな隙間があった。敢えて直接的には言葉にしないで倫理を踏み躙りゆく研究実験の数々を語る。
隙間を己が知らず知らずのうちり知り得る知識で補完していくと、少しずつ足は暗いトンネルへと向かうようだった。
 リビングを覆う香りが褪めていくと、そのうち言葉が消えてなくなるのではないかと錯覚している。
今もこの会話を聞いていいものであるのかと色葉は未だに惑ったし、同じくして語る國枝にも言葉の間に小さな隙間を生むのは語るに困るからであったのだ。
故に、こうやって互いを知るための言葉は自然と消えていくのではないかとばかり思える。
色葉は懸命に手繰り寄せて会話にしがみついている。
 自分が一体何を知りたくて、何を知りたくはないのかなどかなぐり捨てて、今の自分がなぜこうなっているのかだけを求めていた。
國枝が何を抱えているのか、何へ責任を感じているのか、そして何を隠しているのか。
暴いた先にあるのが幸福でも不幸でも、そこには暴いてやったすべてがあるのだ。
心が打ち震えるのではないかと思う。すべてを手にするとはこのことだろうとすら。
きっと自分の中にある國枝と理解をしあいたかった拙いばかりの思想と欲が見事に歪んでいる。
それが"色葉"のせいなのか"私"のせいなのかは知り得なかったものの、ここにいるのは存外に一人の人間としての意思ではないのかもしれないとさえ思えた。
まるで推理ゲームである。
捻じ伏せて暴いても日々は続いていくというのに、真実を手に入れた自分に地続きで続く生活のビジョンよりも謎解きに夢中になってばかりだ。
そんなふうに自覚をしても、何もない自分という空白へ寄り添う漠然とした恐怖から逃れたい無意識の思考がそれを許さないのだ。
仮に恨まれても罪にまみれても、確固たる自己を確立するために、その何かを手にした自分が欲しくて仕方がない。
空白。
暗い欲望の先にそれは存在する。
欲望を認めること即ちそこに存在する空間を認知することになるのである。
認めた瞬間から漠然とした恐怖が始まって、何もない己を描く螺旋の塔を想像した。
身が震える。
何が怖いのだ? 思考をする。
そうだ――彼が語った倫理解釈の露呈を恐れた研究所の非合法行為のうちに、生み出したクローン体の野放しがあった。
結果的には棄てられたヒトクローン体が生存本能を優先させた結果、人間社会の秩序において多くの犯罪や社会問題を巻き起こしたという話だ。
それらの大本である野放しの原因が、研究所の倫理解釈が暴かれることに伴い被検体の杜撰な管理や死亡率を知られることの恐怖だとしたら?
放りだされた指先が冷めていく感覚を孤独と知らしめられながらも、必死に、生きるためと働いた行為が秩序に反すると裁かれて体よく始末をされていたとしたら。
もし、自分が同じ境遇にあったとして、それに何を感じて、何に嘆いて、何を訴えただろうか? それは人間に聞き入れられただろうか?
 汗腺が開いてどっと汗が押し出される。
同時に床についていた靴の底がフローリングをすり抜けて底なし沼は一瞬にして広がりをみせた。
嫌な浮遊感がそこにあって、まるで椅子に座ったままふわふわとした覚束ない空間に投げ出されてしまったように感じられた。
「短命に短命を重ねてね。黎明期からの低迷、そして再び栄えるまでのうち、かつて多くのヒトクローン体に死をもたらしたのは短命としての生命を燃やしきった故の衰弱ではない。八割ほどが内臓の不全に起因する病だった。統計による根拠で演算として示された想定しうる寿命を待たずバタバタとね。気休めにも神の御許へ導かれた、とするしかなかった。……などと言うと少々、いや。あまりに都合が良すぎるかな」
 碌な教養も与えられず――成長過程に必要な経験やアイデンティティの形成を待たずして成長し、いきなり庇護及び管理の手を離されたヒトクローン体が多くいたとしたら?
人間が様々な責任から逃れるためだけにでっちあげた理由で研究所を追い出されて、経験も確固たる自己の価値をも持たない。秩序に則った生き方もわからない。
そんなように、一見は成人した人間と変わらないヒトクローン体がどうやって生きていけるというのだ。子供でもないのに、助けてくれる人の好い人間がいるのか?
稀有な人間が存在すると仮定したとして、ヒトクローン体がその人間と出会える可能性は?
現在の法では人間と同等に扱う倫理を持ち合わせないクローン生命体だと知っても態度が変わらないと言い切れるのか?
 ぞっとした。
椅子は今に思考の浮力を失って、床に倒れきっている。
呑む唾で喉が上下する様にはっとすると、いつの間にか底なし沼は消え失せていた。代わりに摩耗して沈黙しきったフローリングが温かい色だけを反射している。
その場所で打ち出された己の四肢を想像するばかりだった。足元に在る幻視自体が、今の己の心そのものなのだ。
アイデンティティを持たないというある意味においては自身が似た立場である故に言えることであるが、人類が繁栄すればするほど、対立と差別というものは、大小を問わず必ず生まれる。
それは人類が未完成ゆえであると言った偉人も多く存在したが、ルーツや生きる場所の環境が異なれば、更に言うなれば――人間が独立し、高度に枝分かれすることのできる思考を持ち合わせていればすれ違うのは当然のことだ。
そうやって生まれるものの多数決で左右される善悪を残酷と宣う資格など誰しもが持ち合わせてなどはいないのだ。
 理解をしている。
己と同じ形をした生き物が完全に人間の手を加えられて意図的に生み出されたのだとしたら、不自然や違和を覚えることが完全なる不正解ではない。
かつての神秘に、そして当然に営んできた人類史において手を加え、都合を良くしたものであればそれを"恐ろしいこと"と感じる人間がいてもおかしくはないのだ。紛いものと思えば助長される感情ばかりなのである。
理論を述べても、皮膚の下に等しくヒト特有の骨格構造とやわく生温かい臓器を飼っていることは実際に皮を剥いでみなければ想像できないのかもしれない。
目に見えないものを信じることは難しい。当然だ。
かと言って一様に皮膚と肉を剥いで骨と臓器を眺めれば『ああ、このひとも自分と同じ生き物だったのだ』などと納得をすることが出来るのか?
答えは否である。きっと気をやってしまって発狂をする方が先である。
これこそが人類が未完成たる所以であると色葉は考える。相互理解に一〇〇という数字は存在しない。
勿論、だからといってすべてを手放しに受け入れることだけが美しいだとか正解だといった傲りを語る気もない。
全ては多面体の構造をしているからだ。
故に、観測する面が変われば利点と問題点は変化するものである。そして感覚と言うものは至極繊細で、難しいものだ。
経験に依存する思考や感情で簡単に左右されてしまうものである故である。
そうであっても、どうしても人工的な生命以外にもそれを禁忌とする"倫理の檻"の末端に触れる冷たさとザラついた本能の質感が鮮明に感ぜられて、暗闇から覗く眼と視線がかち合った気がした。
それが"色葉"であり一六八である己として弾き出された答えである。
 靄のようにねっとりと湿り気を帯びて纏わりつく思考を振り払うように色葉は頭を振る。
國枝の恐れたことが少しだけ知られる気がする。
月並みな言葉ではあるが、恐ろしかった。
タールの染みた胸を掻きむしるうちに、全身に嫌悪が這っている。皮膚を剥ぎ取ろうとする手足はいつしか固定され、拘束された身体では動けずにいる。
泣き喚きたい口元は微動だにを許されないでいた。
煙を閉じ込めたように不定形は胸焼けをずっと酷くし、痒みに似た感覚のうちで明確な位置で根本を抑えようにも尻尾を出さない。
いつまでも報われないことだけを、想像で繰り返して勝手に身体は疲弊する。そういった虚しさを主とする感情であったのだ。
漠然とした不安と、想像の延長に存在する自由の効かない身体に這い出す不快感が、内外から感覚を蝕んでいた。
 禁忌が知らしめるのは神のもたらす奇跡の尊さと、それを侵すことの愚かしさではない。
人間の汚らしさそのものだったのである。
故の禁忌だった。そう語る以外の言葉があっただろうか。
当事者でない者にこの響きはまるでありきたりで、大仰で、陳腐で、厚みがない。
しかし、一端を知った者が聞くならば、これ以上に簡潔かつ理解のしやすい言葉はないのである。淡々とした表現の帰結すべく場所は明確だった。
「……生命を創造する・されることの禁忌以上に、何を以て人間は人間たらしめられるのかばかり考えていた。私がこれらに怯えたのは君が恐ろしかったからではない。たちまち人間の抱える虚無と、虚無に見せかけた欲望の塊が恐ろしくなったからだ。そして同じ形をしていることが気持ち悪くて仕方がなかったんだ、私は。もう、見たくない。見たくはなかった。そして君と関わることを繰り返すうちに、どうせ逃げ出すならば君を外へ出してやりたいと思う気持ちは大きくなっていった」
ハーブティーの香りと、次第に褪めていく色合いは未だこの場所へ密やかに在った。
ティーカップの胴に施された青が鮮やかに彩り、金色の縁はこの夜をなによりも優しく撫でていたのだ。
 スズランを象ったトップの中にある古い電球が微かに揺らめきを見せる温かな色合いは、時たまに影の色を曖昧に膨らませたり、縮めたりする。
そうやって生まれる影が蠢く様が光のよく当たる肌を舐めて、ふたりという姿かたちを濃くしていたのだった。
言葉の間合いを確かめる度に、一口、また一口と含んでいたものがすっかり腹を温めている。
カップの底に描かれた蔦模様を見るたびに、ハーブティーは注ぎ足された。
故にカップはいつも満たされていたが、ポットは随分前に軽くなっていたのだった。
カナッペの皿だけが、未だ彩を並べてグズグズと湿りゆく様を嘆いている。
乾燥に備えて軽くオリーブオイルを和えていた生ハムだけが未だに強い照り返しを以て何もない口腔内に塩味を想像させていたのだ。
夜は耽るばかりで、家に漂う甘い匂いは蝋が溶けるように静かだ。昼間とは華やかさの装いを変えて寄り添っていた。
「あなたがそうやって正気を損なったのは、正しいことを正しいと思えていたからなのではないですか。私は先生を優しいひとだと思いますよ」
今は目を伏せている彼が自嘲に目を細めたり諦念に吐き出す息遣いを好ましくは思うほうではなかったが、そこへ至る思考を垣間見て納得する。
 この人は、自分と同じだ。
自分と同じで、どこかでは絶対的に個を認める肯定が欲しいのだ。
自らの価値観では己に与えることはできず、それを埋めるために欲しがるのは他者からのみもたらされる純な肯定である。
そしてそれを欲しがるが故に、他者へ与える言葉の多くにはつまらない嘘を含まないのである。
純を求めるからこそ、不純物を自ら与えて表象を曇らせることは積極的にはしないのだ。
昼間だって、本来ならば穏やかに話をするつもりであったのだろうことが窺える。
都合よくすべてを忘れられて、挙句怯えられ――この生命すら要らなかったと言われたように思えるものなれば、それは彼の勝手極まりないが、極限的な現在の状況に置いて取り乱すものに共感が出来る。むしろ、少なからず程度はあるとは言えどもそうなるのが当然だ。
己だけが責められる話ではないが、これを見るまで國枝のことを理解するよりも自分のことばかりに興味が向いていたであろうことは改めるべきだ。
そう色葉は考えている。
色葉と國枝の関係は非常に複雑に絡み合っており、片方を語るために片方を欠くことは出来ないらしかった。
「……そうかな。しがらみのないところへ連れて行きたかっただなんて、それこそエゴだ。そう思うだろう?」
「ええ、きっと当事者でなければ『そうですね』と言うだけでしょう。禁忌を犯した罪であると、贖いとして現状の我々を当然の帰結だと糾弾すらするかもしれないですね。先に言ったように既にこの私の秤ではあなたが知りたい許す・許さないの答えは出せません。そして私はきっとあなたの望むものの全てにもなれません。……ですが、あなたが前に歩を進めるならばついて行きたいとは思います。今の私に言えるのはこれだけです」
「その価値が全くの不正解でもないし、かといって正しさでもない。私はそれが全てのものに存在する個としての価値の秤――感情であると想像しますから」そう付け足された言葉に対して今に泣き出しそうな顔をした國枝は、熱を持っていた瞼をぐっと細めた後に目頭を押さえた。
そして大きくカップを呷り、喉を晒してハーブティーを飲み干す。
 彼の顔の前を覆うカップの白がピカリとふちを輝かせ、再び表情が前を向いて覗く際には余裕のある"優しい先生"の顔をしている。
「はは……いつまでも気を病んでもいられないものだよな。内臓機能の話は実に蛇足として君を不安にさせただろう? すまなかった。しかし技術の発展で言えば現在は過剰な分裂、その急速な成長を抑制する薬剤をクローン生命体の状況に応じて適宜用いている。副作用も少なくなっているし、まあ、そもそもを言えば一六八は既に急速な成長期を過ぎているはずだがね」
カサついた声色は少しずつ軽口を語る際の語調を取り戻していた。
色葉はようやく背もたれに凭れ、腕を上に伸ばす。
くく、と猫のように喉を鳴らし、伸びたまま肩を竦めると凝り固まっていた筋肉が心地の良い声を上げた。
流れ出す血液に肩回りが温まる。最後に首を左右に倒して元に戻した色葉は、水分を吸ってしまって簡単に崩れてしまいそうなカナッペ再び手を伸ばす。
糸が緩む余裕を持った分だけ楽観は許されて、そういえば張り詰めた首筋はピークを過ぎて筋繊維が引っ張られるような感覚もなくなっていたな、と思う。
こうしたように段々と日常を取り戻しては、崩れかけるカナッペを急いで口へ運んだ。
「この逃亡が成り立つように、この後も必要に応じて使用する一六八のための薬剤にはいくつかの信頼できる伝手がある。そこらの医療機関や研究設備のある場所へは簡単に預けられないが、多少のことなら心得がある。私が診よう。それでもまだ不安なことはあるかい?」
相変わらずくしゅり、と口の中で鳴る湿気たカナッペが過ぎた塩味を弾けさせている。
 いつしか國枝の問いに答える色葉の声も軽快に、そして穏やかに存在していた。
皮肉ではないが、軽口めいたように上がる語尾が今ここには都合のいい体裁であったし、互いがそれを繕うこともない。
「いいえ。先生がいてくださるのでこの色葉はとても心強いです」
「よかった。この先も君が不安に思うことは都度に説明をする。約束をしよう。さて、いちばん最初の話に戻ろうか。こういった理由で、君と私の外見年齢は近しいものがあるものの、実年齢は大きく異なるというわけだ。納得は出来たかい?」
「はい。ありがとうございます。先生にもお辛いことを思い出させてごめんなさい。……ずっと言い損ねていましたが、未だ顔色も良いとはいえないようです。お身体の調子はどうなのですか」
 和やかさを取り戻していた國枝は虚を突かれたようにした後に、観念して背もたれに腕を回してはわざわざ白けるほど横柄にしてみせた。
気位の高い人間が驕り高ぶってふんぞり返る様を意図的に表して語るのだ。
温かみの強い照明の下でもその顔は白いくらいで、先程までカップへ寄せていた唇も色が褪めている。
体感の温度を欺くような都合の良い色味の照明の中ですらそう見える彼は、もしかしたらこの会話の中で寒気すらをも感じていたのかもしれない。
「……如何にも元気じゃあないか? まさか、君にはそうは見えないとでも?」
「絶対……という言葉はあまり好ましくないですけれど。十中八九はあなたの気のせいですよ」
呆れて半目になった色葉がたしなめる。
すぐに目を伏せ、想像よりずっと簡単に負けを認めて息を吐いた國枝は背中を僅かに丸め、背凭れへ回していない方の腕の――片手だけでまるで武器と敵意を持ち合わせない意を示すような手振りをしてみせた。
「ああ、君が目覚めたことに対して私は私の思う以上に喜びを感じているらしいんだよな。高揚を誤魔化すためにせっせと働けばこのザマだ。実のところあまり調子が良くはない。仕方あるまいさ。私も、君が目覚めるまでは木々に紛れて眠るようにだけしていたから」
言葉ほど大したことはないのだと言いたがってはにかむ表情のすぐそばで指先が小さく震えていた。
「誓っていいが後出しするつもりでもなく、心からいけると思っていたのさ。慢心だ。まさか指摘されるとは思いもしなかったが……指摘をされるなれば誤魔化すのも君に誠実ではないと結論づいただけで」
 ハーブティーがせめて彼の身体を温めていたのならば良いものであったが、國枝がカップを大きく呷った頃には中身は冷めきっていたに違いない。
色葉はすぐに新しい紅茶を淹れることを提案しようとも思ったが、多少なりこだわりがあるようであるし、それならば小言を言わせるよりも何より早く身体を横たえさせてやりたかったのだ。
「ならば早くお休みになったほうが良いのではないですか」
「そうしたら君が退屈するだろう。まだ眠気を感じていない顔をしている」
「脳が久々に起きて興奮してるだけで、きちんと疲労していますから。私のことよりもご自身の心配をしてください!」
語気を強くした後で、空になったカップをソーサーへ乗せると色葉はさっと取り上げてオープンキッチンのカウンターへ丁寧に置いた。
その畳みかけるような勢いを落ち着いた様子で眺めていた國枝は微かに不服で唇を尖らせていたが、やがて言葉は丸められて席を立つ。
「片づけはしておきますから。部屋までおひとりで戻れますか?」
「まるで病人扱いじゃあないか。やめてくれよ……ああ、わかった、わかった! 怖い顔はなしだ。私は軽くシャワーを浴びたらここへ戻らず部屋へ行くから。それでは頼んだよ。おやすみ」
部屋へは自分の足で行くと言ってきかない國枝は、結局のところ部屋を出るまで色葉の申し出を拒否して軽口をたたいていた。
最終的には居心地が悪くなるような色葉の視線に刺された背をやや丸め、逃げるようでこそないながらにも具合を悪そうにして壁に手を這わせながら廊下へ消えていった。
その後ろ姿を見送ってから色葉はシンクの中で残されたカップたちを一瞥する。
そして胸が膨らむほど息を吸い、背が垂れるほど大きく吐いた。
蛇口をひねれば流れ出す水の冷たさを想像しながら腕を捲りあげる。
 カップを洗い終え、ステンレス製の無愛想な洗いカゴへ伏せると、一人掛けのソファに深く身体を沈めた色葉はより背に凭れて脱力をした。
重くなっていた腕はだるさのままに投げ出されているが、頭はよく冴えていた。眠気は一向にやってこないのである。
そして早々に悟る。ひとりきりで過ごす秋の夜長は退屈だ。國枝の見立ては間違っていなかったのだ。
何かに触れていなければどこか暗がりにとらわれそうだ。
そう思考したが故に最初こそイヌやネコ、ウサギといったような動物が駆け回る想像を脳内で繰り広げて興奮を落ち着けようとしていたが、結局のところ國枝のことばかりを考えている。
自覚を得る頃にはこの脳をリラックスさせるという当初の目的からは遠く離れていた。
しまいにはsleepとsheepの言葉遊びを数えて、身によく染みた母国語でもないそれらに馬鹿々々しくなっては物思いに耽っている。
羊から連想してドリーの話など考えたのならばもう、夜などいつになっても明けることなどないだろうと思っては意識をして國枝のことを考えた。色葉にはまるでこれしかなかったのだ。
 自分のことを知ろうと思えばいずれ嫌でも彼のことを知ることになるだろう。そもそも彼に無理を強いて話をさせる必要も、権利もない。
國枝にも等しく暗がりがあって、暴かれたくない心がある。色葉にそれを聞く権利が無ければ國枝が応える義務もないというだけの話だ。
それ以上も以下もなく、たったこれだけなのである。
考えは巡れどやはり頭の隅っこくらいでは、國枝の纏う穏やかながらどこかでは人を寄せ付けない空気が傲慢なことにも自分のせいではないかと色葉は思っているのだ。
そうさせてしまった原因が研究所――ひいては己にあるのではないかと疑ってやまないのである。
人を寄せ付けない硬い雰囲気を纏う様が生まれ持った感性で経験を重ね、長い時間をかけて形成された産物ではなくて、"色葉"という存在が作り出してしまったものであるなればどうしてくれよう。
そういった深いところに根を張った憂いを消し去れないでいる。
 優しく目を伏せた姿と翳りをみせて斜めに視線を逸らす様の齟齬が真綿となって首を絞めていた。
どちらもが彼自身であることに違いないものの、どちらが國枝という男を大きく占めるのだろうか。
己だけがのうのうと安寧やアイデンティティを探求していていいものとはとても思えはしないのだ。
「どうして私は記憶を失くしてしまったのだろう。ああ。あまりに……あまりに無責任だ、こんな」
 ゆっくりと瞼を下ろして目を閉じる。
耳元で誰かが嘲笑っているような耳鳴りがしていた。喉の引き攣るように笑う楽しげな声が鼓膜に貼りついている。
長く息を吐くと重くなりゆくだけの身体に、伸びきったスプリングが微かに鳴く。心寂しいもので、キシ、と鳴ったきりだった。
綿は潰れ、ぺたぺたになるまで圧縮されている。重みで沈むほどに骨格となる木材の枠組みに尾てい骨が触れてしまうのではないかと思う。
それらはある種の浮力のようではあった。つまり、奇妙な感覚だけがここには存在する。
「然るべくしてことは起きるのだと、つまり、事象の全ては必然であると提唱する者も居る。自分を責めるのはやめなさい」
 突然耳に触れた柔らかい声に色葉はソファの上から飛び跳ねた。そして座面から崩れ落ちかけながら弾かれるように後ろを見る。
鼓動が大きくなって、足踏み式のドラムを打ち鳴らすように低い音で身体中を震わせる。
肉体を構成する水分に反響して、口を開ければ押し出された音が喉を掠めて意味のない母音ばかりが出てきそうになるのだ。
肘掛けに縋り、鼓動を押さえつけながら肩越しに声の方向であるリビングの出入り口をみると、ドアの縦枠に寄りかかるシャツ姿があった。
肩に裾の長い白色の上着を掛けた國枝が一冊の文庫本を手に持って立っているのである。
ばっちりと視線が合ってから彼は、驚きに動揺し目を見開く色葉に対して安らかな笑いかけようとして軽く咳き込み背を丸めた。
咳をするたびに小さく屈められていく身体はやがて呼吸を損なって、最終的にはよく噎せた。
その顔が半分くらいは笑っていたものであったために病などに起因するものではないと感じて色葉は安堵をした。
同時に驚きのままずり落ちる己の恰好のつかなさが恥ずかしくなっている。耳が熱くなるのを感じているのだ。
「せ、せ、せ、先生! 寝ていてくださいと言ったでしょう!」
「少し噎せただけだ、病気ではないよ。まあ、こういった気候であるし風邪の可能性は捨てきれないが」
 ずり落ちかけた体勢を立て直すことなく逆に立ち上がった色葉が駆け寄ろうとする。
それに対し、無理はしていないという意図で手のひらを上下させる手振りをして制した國枝は、代わりに空を惑っていた手に向けて一冊の本を差し出した。
「やはり君の退屈を気掛かりに思えてね。手荷物を漁ってみたら文庫本があったんだよ。……とうに手放したものとばかり思っていたが、底の方にひっそりと居たんだ」
受け取った本の表紙を撫でる。
 白を基調とした表紙の文庫本だ。艶が少なく、さらさらとした手触りをしている。
ブドウか何かか、アイビーにも似ているかもしれない。見分けはつかないが。
色葉がそう思うような蔓や蔦が描かれた、よくある西洋ゴシック調のフレームデザインだ。
その中心よりも少し上のあたりによく見慣れた字形が描かれている。
「……童話集?」
「ハンス・クリスチャン・アンデルセン。日本国でも有名な童話作家だ。聞いたこともあるのではないかい? 原文ではなく、日本語に翻訳されたものだ。故に、絵本として流通しているものよりかは易しくないが、他の商業流通をする本よりは目覚めたばかりの君にはいいだろう。母国語であることもあるし」
「稚拙なイメージさ。事実、君は英語もよく扱えたからね」と付け足した國枝の手から童話集を受け取る。
ペンタッチ風のボタニカルイラストと、フレームデザインはよく表紙の色と調和していた。
立派なデザインのせいでタイトルを綴る明朝体が少し気取っているようにも見えたが、母国語には親しみを覚える。どこか懐かしい気持ちになっていたのだ。
「ええ、明朝体だなんて久々に見た気がします。少し古いタイプなのか、とめやはらいの大袈裟なところも好感が持てますね」
無意識にふっくらとした笑みを浮かべた色葉はすっかり気を取られてページをパラパラと捲ってみる。
やや小ぶりの明朝体がきっちりと並んだページのインク量の密度だけを過ぎていく中で、後半の位置で捲られる勢いが止まった。
 金属製の栞が挟まっていたのだ。葉の形をしており、多く分岐して通る葉脈を繊細な透かし彫りで表現している。
また、よく見れば量産品のような薄ぺらさではなく、細かな線にふくらみを持たせた様相はそれなりに品の良いものに見えていた。
本体には紐を通すための穴は備えられておらず、透かし彫りをした葉脈の間に赤いヌメ革の紐が通されている。色葉はヌメ革の紐に触れて丁寧に持ち上げる。
すると撚りに沿って捩じれた紐が正しさに戻る過程で栞の本体を翻すときらりと鋭い光を返した。
 國枝は細かな装飾の施されたものを好むのだろうか。
曇りなく磨き上げられた金属の栞がくるくると回転をする様を眺めながら色葉はぼんやりと回想する。
ガラス板の張られた食器棚からティーセットの一式を選び取るときもそうだ。彼には選択肢を与えられた際にはそういったものを手に取る傾向にあるのかもしれない。
自然や色彩、品の良いものに美しさを見出すのだろう。己にはないと想像する感性ばかりだと感心する。
紙やインクの匂いを思わせる立ち姿に良く似合うだろう、とも。
顔の近くまで持ち上げた栞の返す光に目を細めながらも、色葉はナチュラルなホワイトゴールドをまじまじと見つめていた。
「ああ、それも使ってくれて構わない。それはどれだけ少なくとも一度は読了のしたものだ」
そう言うと返事を待たないまま國枝はドアを潜ろうとしたが、ふと動作を止めた。
そして色葉からは表情が見えない角度のままで名を呼んだ。
「はい。なんでしょうか」
顔を上げた色葉はよく目を見て話す國枝が視線を合わせるどころか顔を向けないことを疑問に思ったが、体調不良のためだろうと結論付けてから首を伸ばし、僅かに声を大きくして返事をした。
「……もし、異国語の本が読みたいならば申し出てくれ。詳しいことは明日話をするが……私は一階で一番西に位置する小さな部屋を使用している。隣が書斎のようだから、案内しよう。私の使う部屋以外はどこへ入ってもいいし、自室代わりを変えたかったら好きにしていい。用事があるときに困るから、事後報告はしてくれると助かる」
有無を言わせない、それこそ”人を寄せ付けさせない”物言いに、息を呑んだ色葉は幾分か小さくなった声で返事をする。
「それじゃあ。今度こそ、おやすみ」
明かりを灯したような笑みを目元に浮かべて國枝は振り返った。
 停滞していた水流が一気に流れ出すのに似た様子で、色葉は凍り付いていた血が流れ出すのを感じた。
呼吸の仕方をやっと思い出して、返事がてら息を吸い込んでいる。
「おやすみ、なさい」
「ああ。君も遅くまで起きていないように」口の中で呟いた言葉に優しく返事が返ってきて安堵する。
魂が抜けたようなままでソファに座り込んだ色葉は先程の行動と似た気持ちで沈むのはまるでデジャヴだと不意に思った。
ほとんど反射的にはっとリビングの出入り口を再び振り返ったが、ドアの縦枠に寄りかかる白い上着をかけた姿はない。
明るく、暖かみのある広い部屋でシック調の家具に囲まれたまま、背凭れに身体を預けた色葉は心を乱されている。
どきどきとしたものを胸にかかえたまま、ついには一人掛けのソファに半分はいじけるような形で身体を横たえた。
ひじ掛けに頭を乗せ、座面のあたりで身体をしっくり折り曲げると向こう側に対として存在するひじ掛けに膝の裏を預ける。
地に着かない靴底を微かにぶらつかせて退屈を誤魔化す。
 次第に退屈は口寂しさとなっていた。会話を多くした一日でもあったために、黙り込むと舌がたちまちぶちぶちと暇を訴えだすのだ。
ポケットをまさぐると、昼間にシャワーを浴びる前に國枝に握らせられたソフトキャラメルの包み紙が触れた。
溶けていやしないだろうかと恐る恐る取り出すと、楕円の形は想像よりずっとしっかり残っている。
しばらくは安っぽいビニールフィルムを眺めていたが、徐にカサついた音を聞きながらねじりこんだ包装紙を解き、口へ放り込んだ。
するとすぐに甘ったるい香りが広がっていく。次いで、その甘ったるさを助長するための微かな塩味が丸くなって触れた。
ミルクを煮詰めたように深く、まろやかなコクが時間を深夜へ誘っているのだ。
味から想像する夜の口当たりに関する想像から足が出たところでは塩味が時たまに光に強弱をつける星のようにアクセントを散らしていた。
しかし、鼻から抜ける頃には少しばかりしつこくなって喉に渇きを覚えるのだった。
色葉は水を飲みたくなっていたが、この甘さを洗い流したとしてもしばらくの時間を経ればまた口へ含みたくなるだろうと思っていた。
そういったような強い甘みだったのだ。それから、寝転んでしまえば再び動くことに少々の面倒くささがあったのである。
己を正当化する意見を誰が聞いているわけでもないところで並べてから、ソファの上で行儀の悪い恰好を晒して目を瞑る。
眠りはまだ傍まで訪れないが、疲れた身体のために休息をとろうとしていたのであった。
目が霞まなくなったら早々に起き上がって、本による暇つぶしをしようと目論んで色葉は舌の上でソフトキャラメルを転がす。
傍らのローテーブルでは童話集の表紙の上にぽつりと置かれた葉をモチーフにした金属製の栞が、照明の色を鋭く反射していた。