学校の位置を起点に地図を見るとほとんど裏手にある烏丸清水の湧き水所で伊三路はいくつかならんだ丸石の一つだけへつくばいから掬った水を何度もかける。
確かにそうだと言われればなるほどそこだけ苔むした様子であると納得がいく。しかし、これがすぐそばの末社を守る犬の像であるというにはあまりにも適当だった。
どうみても周囲に転がるより他の岩石よりは丸みを帯びているが、石を積んだだけのような末社に合わせた大きさで狛犬と言い張られたところで見分けがつくかと問われれば祐は首を縦に振ることはない。
既に伊三路の口車にのせられて奇行に同行させられているのではないかという考えが泡のように浮かんでくる。
「この奥に見える大きな山の名前をきみは知っている?」
呑気に問う伊三路は指先の形を印のように組んで空を切った。そして一般には馴染みない独特の拍子を取るとゆっくりと立ち上がった。
唐突な問いかけに祐は山の方向を見ながら首を捻る。山は波のような起伏を描いて遠くまで続いている。ここは山に囲まれた土地なのだ。
しかし生活のそばにその姿はあれど、漠然と指さしで示されて答えが簡単に出てくるほど近しくはない。
「初音連山に属するであろうことしか知らない」
「うん、おれも」
予想に反した返事だ。
祐がわずかに眉を寄せると、おどけた伊三路が「はぐらかしではないって」と態度の割には悠々とした訂正をする。
「学校の先の地区のさ、鈴掛のほうがこの町にかかる麓で、よく磐境さんだとか、御堂さん山とか、そう呼ばれているの」
「はあ」
意図を掴みあぐねる宙ぶらりんの返事と同時に山の稜線に視線を向ける。
遠目にはなだらかでありながら、聳える雄大な様へ馳せる思いもない。
連山と名付けられる通り、この山々は幾つかの連なりであり、一つ越えれば名も環境も変わる。ただ、大きい山脈地帯として土地を跨ぐことくらいしか知らないのだ。
故に、当然のことそれらで独自に形成された自然の厳しさもまた美しさもあまりに遠い場所からではひとつも想像ができなかったのだ。
「山を"さん"と呼ぶのは親しみをこめること、すなわちこの山々自体が神格とされていると考えるんだって」
伊三路の大きな手振りが尾根を降り、麓付近を指す。
彼の指が示すあたりは山から遠い烏丸では建物があまりに多く視界を阻み、さらに手前に学校があることからその周辺の環境を全く知ることができない。
山の中腹で一部整備されているであろう道が遠目に見る山肌では他より密度の低い緑色をしていることが辛うじてわかる程度だった。
「実際に鈴掛の神社裏手から山に入ってもっと登ると御堂があるんだ。これからきみを案内したいのは神社のほうなのだけれどもさ」
「神社?」
「うん。この町独特のっていう、あの神社さ。ただ道がすこしややこしい行き方で、わざとらしいときみは感じるかもしれない。でもきちんと意味のあることなんだって先に伝えておく」
訝って唇を結んだ祐に対して、伊三路は伺いを立て小さく問うた。
「それって今日では都合が悪いかな?」
「主にきみの時間を使わせるといった意味で」と、付け足された言葉に祐は確かに思考を要した。
正確には打算としてこのあとのことに意味があるのか、その価値を推測しようとした。
目の前の男の言動は常日頃から飄々としている。
それらに巧妙に嘘を織り交ぜているとしても祐はそれを見破る自信もなければ、それほど茅間伊三路という人間を理解しているつもりもない。
しかし、日野春暦や鶴間由乃らのようなよく知る人物が巻き込まれるという事象に直面した伊三路に明確な焦りがあるのは事実であった。
身内として懐に匿うことの本質を甘く見ていたのだと焦っているのだ。
それを見破られる綻びを今は許しているならば、これは茶番ではない。
思考して祐は小さく肯く。
捻くれたように時間を浪費していると考える間もなく、時計など一度も確認せずに答えた。
「いや、構わない。この期に及んで遊び呆けて帰ると思って校門を出たわけではないからな」
「そっかあ。よかった」
伊三路は祐が自身の方へ視線を向けたことを確認するとブレザーの硬い生地を押し上げるようにして腕を捲り、張り切った様子で語る。
「じゃあ、制服が汚れないように気を付けてね」
「は?」
やけに張り切った様子で一歩を踏み締める後ろ姿を祐はまだ疑いを拭いきれずに見つめていた。
そして曰く犬を模しているという苔むした丸石を振り返り、一瞥してから歩き出すのだった。