目の前で眉を吊り上げ、三白眼の鋭さにおいて圧をかける角度をよく知る男は声音に明らかな苛立ちを滲ませている。
それを相手にしていたはずが、いかに意思疎通が困難であることを考えるともはや喚くといったほうが近い。
祐は当事者でありながら、まさに畳み掛けているつもりであろう相手を興味のかけらもなく眺めていた。
わざわざ脱色をしてから大袈裟に明るく染髪した根元にわずかながら見える地毛と、ネクタイを締めず第二ボタンまで解放されたシャツから覗く色付きのTシャツ。
かと思えば、ピアスを身につけるなど象徴めいた素行の悪さは実行されていない。正確にピアスホールが存在しているか否かということを祐は知る由もなければさほど興味もなかった。
不良生徒と呼ばれるような特徴を再現し、喚く目の前の男――弥彦伸司は雑に二つ折りをしたブレザーを肩口に担ぐようにして持ち、下から覗く角度で祐を睨めつけていた。
思えば、普段ならば呼び出しの名指しを嫌がり、形ばかりのホームルームが終了することを待たずにして教室を出る弥彦が大人しく座っていたのだ。つまり、その後に誰かしらが厄介を被る前触れだったのである。
ホームルームという時間はやはり弥彦にとって意義はなく、目的の人物が解放される瞬間を待っていただけであった。
まさかそれが自分であるとは想像もしなかったとばかりに、未だ他人事のように思いながら祐は机の脇に掛けた学生鞄に手を伸ばす。
全く話が進まない。途中で言いがかりが挟まると、話題における進行は再び始まりに戻ってしまうのだ。
それは祐が話を黙って聞いているかどうかではない。弥彦の感情そのままに錯綜するものだった。
弥彦伸司は祐の与り知らぬ場所で――かつ半ば理不尽に祐を毛嫌いしているため、これが初めてではない。
「聞いてンのか、おい」
唇を大きく曲げ、舐めるかのように上下へ視線を動かしながら丁寧に己の反応を待つ弥彦を祐は見遣る。
腰を落とし、気怠げに構える姿であるが、足元ではつま先を絶えず揺り動かしている様からこの男は一人勝手に相当な苛立ちを抱えているわけであるのだ。
こうして非常に厄介な絡みかたをしている弥彦を暦は『根は悪いひとではない』と事あるごとに擁護したが、祐にとっては弥彦に限らず、大抵のクラスメイトのことを意識していない。しかも迷惑なだけの相手に時間を拘束されることには到底耐えられないのだ。
「聞いている。勝手に話を戻されてそれを聞くのも三回目だ。こちらの返答を変える気もない」
祐は語気を強め、ため息をつく。いざ向き合うと弥彦は一瞬肩を揺らして怯み、それからすぐに威勢を取り戻して机に右手を着けて顔を近付けた。
浅はかだ。
絵に描いた不良のような威圧する典型のやりかたも、彼を型にあてはめてどうとも評価しない側からすれば大した効果はない。
思ったような反応が得られずに癇癪を起こしているようにしか見えないのだから、むしろ、あまりに幼稚であるとしか言いようがなかった。
「ならはやい話だ、面ァ貸せや、結崎」
「何故場所を移す必要がある? 無駄なことには時間を割きたくない。手短にしてくれと言っている。いまここで、と付け加えることも三回目だ」
話を聞いていないのはどちらであるかと嫌味を含んだ言葉を聞いて弥彦の身勝手な苛立ちはひとりで頂きへ至った。
「ああ? 無駄なことだと? 涼しい顔しやがって! 来いっつってんだろ!」
声量と勢いのあるざらついた音が鼓膜をつく。
素行の悪さで目立つ弥彦と、愛想が無く周囲から浮いている祐の組み合わせは様々な意味合いを持って好奇の視線を集める。
騒がしい教室は弥彦の一声で波の引くような静寂を覚えたが、椅子を引く音や足音といった生活音をひとつ聞けばそれを皮切りに再開した日常が鳴り出す。
そのなかで白々しくも気にかけていない体の横目で投げられる疎らな視線が何事か窺っているということは明らかであった。
本来の要求を語れば、人目のつかない場所で話したがっていたというのに、これだけ怒鳴っては意味がないとは思わないのか。
学生鞄に教本やノートをしまいながら、祐は弥彦が自身に声をかけてくる理由であろう人物の名を挙げた。むしろ、それ以外の理由で訪ねてきたというならばそれこそ理由が思い当たらない。
それくらいに明白なことだと考えながら、学生鞄の錠前にツメを差し込んだ。
「文句ならば日野春本人に言ってくれ。俺を経由するな。巻き込むな」
言葉尻に被せ、ほとんど反射の反応で噴き出した怒りと図星を突かれた動揺で「はあ?」と気の抜けた声を挙げた弥彦は後退り、改めて虚勢を張って立ちはだかった。
「べっ……つに、暦のことじゃねえよ!!」
拳が祐の前の席である机の天板に叩きつけられる。
「けど、あいつを危険に晒したらタダじゃおかねえからな。あいつは気が弱いんじゃなくて、人好きで断らねえんだよ。誰に対してもそうで、お前のことダチと思ってるワケじゃねえのよ」
つまり、捲し立てる様が語るのは『思い上がるな』ということである。
唾を飛ばさん勢いで語り、逃げ腰に後退っている。そして体格の良い身体が前の机にぶつかって大きな音を立てた。
「別にこちらも特筆するほど親しい友人関係であるとは考えていない」
確かに言い難い繋がりのある関係と表現をすればその通りである。しかし、祐にとってそれは茅間伊三路という中継点を経た関係であって、暦と一対一の場面に立ったとすれば互いに話す言葉はない。
精々のところ、間を繋ぐだけにあからさまな世間話を手探りに打ちだすだけであるのは明白なのである。
それを友人であるかと問われたら、祐は首を縦に振ることはない。それだけだ。
至って簡単な理由で導き出した回答さえも気に食わない様子である弥彦はまた吠える。
もはや何を言っても一言目の威勢だけが良い性質であると祐は己に言い聞かせるが、下瞼が引き攣る。
耳につんざく声が嫌悪を逆撫でするのだ。
目の前の男が結局のところ言いたいことの本質には共感ができないのだ。
理解には察しがつくが、だからといって共感ができない。自分にどうしてほしいのか、要望を聞いたところで今のところ弥彦の意見は暴論に過ぎないのだから、これは堂々巡りに過ぎないのである。
普段であればやたらと絡まってくる伊三路が席を外していることに祐は正直に落胆していた。
暦自身か伊三路が居れば、不毛――と、いうよりは一方的で実りない会話を早々に終わらせることができたのに。
「お前、今の本気か?」
「本気か冗談かではなく、現状において妥当な評価だ」
『特筆するほど親しい友人関係ではない』それは自分が感じ得るだけではなく、おそらく日野春自身もそう感じているだろう。
そう付け加える前に弥彦は祐の右肩に掴み掛かった。
よろけた身体をそのまま窓際に叩きつけ、弥彦は詰め寄った。学生鞄が落ち、先ほど詰めた教材たちが散らばる。
「暦が利用価値だって言いてえのかよ? ああ、お前はそういうヤツだろうな。ふざけるのもいい加減にしろよ!」
「ならば本来友人とも思っていない、思われてない相手に対してこちらは友人だと思って接し、奉仕しろと?」
唾を飛ばして捲し立てる弥彦に対して祐もまた苛立ちを露わにして静かに問い返した。
「わざわざ思い上がって媚び諂ってやればそれは友人関係であり、お前は満足するのか」
己の言い分に正しく筋が通って健全をしているのか、他人を非難する権利はどこにあるのだと聞き返す皮肉の言葉選びに弥彦は息を呑む。
その感情論の明らかな綻びをすり抜け、祐は窓際の囲いを離れて屈むと散らばった教材を再び鞄へ仕舞い込む。
すでに教室は祐と弥彦の会話が拗れていると確信して触れないようにしている。生徒たちは言い争いをよそに努めて、あるいはわざとらしく日常を継続させていた。
喉奥と胸の間に息苦しさを感じる。心音の近くに燻るような苛立ちを認め、床材の模様を眺めながら吐き捨てる。糸が絡まった様を眺むことに似た不快感がたちまちに目の奥で蔓延って振り払えなくなっていた。
面倒臭い。祐は無意識のうちに強く拳を握り込んでいた。
「矛盾している。もういいだろう、これ以上は時間の無駄だ」
「逃げる気かよ」
「何から? 以前のことを断片的に覚えているのかは知らないが、危険に巻き込んでいるのは俺ではないし、日野春に助けも同情も求めた覚えはない」
ここまで話題を広げたのならばいっそのこと伊三路や暦が戻ったほうがややこしくなる。
そう考えはしたものの、弥彦から何度も意味のない説教じみた贔屓話を聞かされるよりは"マシ"であると判断し、言葉を継ぎ足す。
「そもそもお前が言いたいのは俺と日野春の関係ではなく、日野春の身の安全なんだろう」
「……それは」
「ならば語る相手が間違っている。それとも、"互いに友人とは思っていない"うえに"あちらからのお人好しの付き合い"であるが、危険が迫ったら俺が身を挺して守り犠牲になってほしいと頭を下げに来たいうことか?」
危険を知っている――つまり、以前の出来事の一部を理解して、且つ遠回しの言葉を全て額面通りに成立させるならば"そういう"ことだ。その自覚があって聞いているのかと祐は反論する。
わざと強調した単語の端々にばつの悪い弥彦が狼狽えつつ、蚊の鳴くような声で「そこまでは言ってないじゃんかよ」と呟く。
「ならば会話を続ける必要はない。この話題は終了で構わないな」
口論にもならない会話を切り上げる同意を求めつつも、疑問形を成さない語り口が鋭く弥彦を射抜く。
気まずさに視線を逸らしながらも、自身の無茶な要望を反省した弥彦が散らばっていたノートを拾い上げようとする。
「言い過ぎた」という謝罪の一言よりも早く、そして弥彦の指先よりも早く祐は自身のノートを拾いあげ、永久凍土の鋭角をぎらつかせるような暗い目で弥彦を非難した。
「俺はお前がストレスを発散するための道具ではない」
気圧されることとは確かに異なる勢いを以て、弥彦は自身より低い位置で屈でいる祐の青白い眼光に胡乱ながら強く負を帯びた感情を見た。
深く渦を巻き、底なしを思わせるが上辺は澄んだ碧色だ。それを携える立ち姿の毛髪自体は見慣れた日本人らしい黒々をしているため、余計に異質なほど白く見える肌がその不気味さを増長している。
弥彦は駆け上がる怖気から咄嗟に目を逸らし、苦し紛れに「うざ、優等生がよ」と暴言を吐いた。
ざわざわとした場の窓際だけしんと静まり返って時間が止まっているかのようだった。
「だから?」と祐は問い返したくなったが、絶えた火種に再度薪をくべることもなく立ち上がる。ちょうどそのとき、教室に入ってくる日野春と視線が合った気がした。
間が良いのか悪いのか、とにかく会話が拗れた場面で追加要素として現れなかったことは幸いであった。
ぎこちないながらに今し方の会話は暦に告げ口をするなという稚拙な脅しと要望を視線で投げかける弥彦の相手をもはや諦めた祐が教室を出ようとして、伊三路と暦のふたり組みと鉢合わせたのである。
「あ、結崎くんだ。今帰り?」
暦が機嫌良く問いかけると、そばにいた伊三路がつけ加えて「祐と伸司って珍しい組み合わせだね」と興味深く語った。
その珍しい組み合わせの中で取り交わされていたまさに話題の中心人物と、より根本に近い人物の取り合わせである。
「ああ、そうだ。しつこくされて困っている」
先の質問にそう返すと暦は萎んだ様子で眉を下げた。
「伸司くんが? なんだろう、嫌なことされてない?」
まるで弥彦の失態については責任を折半するとでも言いだしてもおかしなことではないように語る暦を見ては、ますますどうして面倒臭いことの中継に自分を使うのだと祐は内心呆れていた。
理由には察しがつく。この関係に伊三路が含まれていること自体は弥彦も勘付いているが、伊三路相手では話したことがそのまま暦に伝わるとわかりきっているのだ。
「日野春に言いたいことがあるらしい。別にお前を弥彦の世話係とは思っていないが、わざわざ遠回りに俺を経由しないでもらいたい」
「ええ……ごめんね、ご迷惑をおかけしました」
「ああ、また明日」
会話はこれで終わりとでもいうように切り上げた祐は弥彦の相手を任せると、教室を離れた。
『やさしい将棋入門』とポップ体の表題がついた本を数冊抱き抱えた伊三路が隣で「またねえ」と手を振っている姿を一瞥する。弥彦は相変わらず鼻に皺を寄せて祐を威嚇していた。
知らぬ生徒らの声を遠くに、ブレザーのポケットから取り出した音楽プレイヤーにイヤフォンのプラグを挿し込む。そして再生ボタンを押下しかけて、祐はそれをやめた。
自宅でイヤフォンを使うことに抵抗はないが、下校時という状況と合わせたイヤフォンの使用は時たまに顔を顰めたくなる嫌悪と無機質な声を思い出させるのだ。
ドッ、と胸が痛くなる。心拍数が上がり、嫌な汗が滲む。思考にもやがかかる。
すべてを諦めて甘んじることが楽であると錯覚する。
暗闇で囁く声があるかのようだった。
イヤフォンを雑にまとめると音楽プレイヤーを再びポケットに突っ込み、ハッとした祐はシューズロッカーの足元で屈んでいた。呼吸が浅くなっている。
繰り返し日常をなぞる最中で靴を履いたところだったらしかった。
「祐!」
先ほど別れたはずの伊三路の声が遠くから聞こえる。
ご丁寧に遠くからの呼びかけらしく「た」「す」「く」の三文字は間延びした息遣いで結びつけられていた。
「たーすーくうー!」というそれぞれの音が波の満ち引きのように迫ることで物理的にも彼が近づいてきていることをわかりやすく感じられる。
呼ばれたからには用事があるのかとシューズロッカーの群れから顔を出すと、階段の踏面を一段飛ばしで駆け降りてくる伊三路と目が合った。
それをみてぱあっと顔を明るくしながらも、廊下は走ってはいけないという校則を遵守してはいかにも歩いているという見せかけの腕振りをし、早足で近づいてくる姿は滑稽ですらある。
ギコギコと漕ぐかのような手振りの競歩でたどり着いた伊三路は笑顔で言った。
「祐! 一緒に帰ろう!」
「日野春に将棋を教えてもらうんじゃなかったのか?」
一昨日から楽しみにしていた姿を見ていた祐は怪訝に問いかけたが、伊三路は腕に抱えたままでいた本をしまいながらなんでもないように答えた。
「伸司はさ、あまり学校に来ないでしょう。だから今回はおれがゆずったの」
良いことをしたと言わんばかりに誇らしげをする伊三路をよそに祐は答える。
「高校生の本分は学ぶことだ。弥彦は好き勝手にした結果登校しないだけで特別に優遇されるべく事由にはならない」
「うーん、それでも将棋を教えてもらう機会はおれのほうが多いよ。いいんだ、おれがそうしたかったんだ」
たとえそれがアルバイトであるとしてもスケジュールを調整できないことが続けば進級に関わる上に、福祉の充実ぶりを考えれば家庭の助けといえども恐らくのところ生活できない程ではない。
目の前の人間もずいぶんなお人好しである。
「本も借りてきたからさ、これで予習をしておく」と人懐こい笑みで肩を竦めると、伊三路は腕いっぱいを使った手振りで続けた。
「それに、なんだか祐と帰ることが久々な気持ち」
「元より頻度は高くない」
そもそも伊三路がどのあたりに住んでいるのかということを祐は知らないが、知る必要もないと無難な返事をした。
鶴間由乃の一件があってから増して伊三路は本を読み、時に幽霊部員の代わりや助っ人としての代打で無所属ながら受け入れられる場所で身体を動かしていた。
名目上は部活体験であるが、自身のできることや戦いにおいて取ることのできる手段のきっかけとして武道に類する部活動らからヒントを得ようとしているのだと祐は感じている。
駆け回っているのか転げ回っているのか、とにかく目まぐるしい伊三路のペースをよそに、解放された祐もまた普段通りの生活を続けていたのだ。
決して一件から長い時間が経ったわけではないが、久々と言われればそれが確かにと頷けるものではある。
「おれねえ、駄菓子屋に行きたいのだけれども」
「寄り道するとも一緒に帰るとも言っていない」
「だよね。なんだか機嫌が悪そうだなと思っていたんだ。伸司と仲がよくないとも聞いていたしね」
ローファーに足を突っかけ、つま先で地面をつつく。それから指でふちを抑えながら踵をしっかり収めて伊三路は立ち上がった。
「おれときみのこと、こんなふうになってしまって本当に申し訳ないとは思っているんだ。でも、きみはだからこそ深入りして理解し、うまく回避するべきだと思っている」
素早くロッカーに上履きを預け、扉をしめる。
「そうだな。毎度お前は俺が必要以上に知る事を嫌がる傾向があるが、巻き込まれている以上”知る必要”は無くとも”知りたいことを知る権利”はあると感じる」
「そして、おれから情報を開示しても開示をしなくてもおれたちの関係にとって根本は変わらない。信用の程度に差がでるくらいだって。それがいつもの言い訳だ」
定型文のやり取りをなぞり、伊三路はどこか影の差したまま弱い笑みを浮かべていた。
「うん。おれは、きみのことに限っては不可抗力にしても、他を巻き込むには己の力が貧弱だと気づいてちょっと焦っている」
土壇場以外で――つまり、日常の平和な瞬間において弱音を吐くことなどほとんどない伊三路が素直な感情を口にしている。その姿に対し、祐もまた素直な反応として目を丸くしていた。
ある意味では互いの無防備な瞬間に似た素の反応を見た伊三路はくるりと身を翻して祐を振り返った。
「だから、すこし気分転換にしない? 互いに互いのことを知る、という名目でさ」
松葉色の瞳がゆるく微笑み、口角が上がっている。
日差しのような存在に眩く目を細めると有無を言わさず先導する声が先を急かすのだった。
学校の門を出てすぐ、伊三路は前を見たまま口を開いた。
「きっときみはこの機会を使ってまで状況を探ろうとする。どうかな、合っている?」
ちらり、と松葉色のさざめきが瞼のふちをなぞるように動いて祐のかたちを捉えた。
素直な質問に祐は頷く。仮に例えてこの場を使って伊三路がどこに住んでいるかなど知ったところでこの関係の何にも役に立たないのだ。
ならば問題として大きく横たわる壁のことを知りたいと考えるのはおかしなことではない。
「そうだな。俺はお前のことをほとんど知らない。そしてお前は俺たちが思う常識をほとんど知らない」
「そのとおりだね」
「ならばすり合わせが必要なことは当然だ。不思議なことではない」
「じゃあ、おれのこと知っておく?」
そう言って伊三路は舌をペロリと見せておどけた。
「おれは茅間伊三路。おにぎりが好きなんだ。ふきっていう山菜をすこし甘く炊いて、ごはんにまぜたものがね。あとは大根の切り干しだとか、漬けたものだとかが好き。ごちそうだよ」
指折り自己紹介をするものの、彼自身にまつわる話題の少なさを自ら物語るようにその勢いはすぐに弱くなる。
「なんだかおれの自己紹介っていつもこんな感じ。わかっているよ、きみが知りたいことはそうじゃない」
そう言い切って、肩を落とす。
祐はたしかに話を聞いていた。しかし、手探りの会話は間を保つにはあまりに小さすぎるのだ。
個人の生活様式の違いも手伝って広がりがすくない。
腕を伸ばして「うーん」と唸る。そのまま伸ばした腕を左右に揺らしてストレッチを兼ねてから、伊三路は参ったと降参をした表情を見せた。
勝手に語り、勝手に負けを認めたその後ろ姿が、あたたかな色の髪が風に揺られている。
「本当に気分転換がしたいだけだと言っても確かにこっちがわからなくっちゃあ、おちおち気分転換もできやしないし。そりゃあ、仕方ないさね」
「……気を遣わせたのならば悪いな」
「いいよ、いいよ。それじゃあ、きみへひとつ案内をしよう。おれたちの関係で貸し借りを語るならばお返しは今度もらうよ。今日は遅くなってしまうだろうから」
嫌味のようにもとれる言葉を発した祐でさえ明確な意味合いに線を引けないままであったが、伊三路はあっけらかんとして「道はこっち」と、袖を引く。
「おれだって、まあ、きみと同じ立場だったならば、きっと似たようになるもの」