憂いを孕んだような、少し寂しそうな横顔をしている。
どこか自信なく佇んでいるところに、優しい言葉をかけることもなく祐はきっちり反応した。「頑なに優位を譲らない態度の問題だろう」
初夏の風を求めて開け放たれていた薄いカーテンが大きく膨らんで二人を揺らした。
髪を揺らしだす中で、チョークが黒板にあたる音を聞く。正確には建てつけの悪くなった黒板を壁に取り付ける金具がガタガタと鳴っているものだ。
暦や他の生徒たちに見せていた朗らかな表情から一転して、口を閉ざしている。おどけた表情を薄くした真面目を装っている。
そこに固さこそあれど、すべらかな丸みを描く頬は彼に鋭角を持たせなかった。生まれ持った顔つきが人の好い、いわゆる、"受けのいい顔"なのだ。
木々の中で上を見上げると葉の隙間から光を見ることができる。
いま目の前の茅間伊三路が祐にはそう見えた。
逆光になった葉が色濃くあるもそこには今まで知り得た姿とは異なり、真面目としてあっても微かに弧を描く口角がなにかを感じさせることはない。
強い光のせいで小さな変化を見ることはできない。ただ、普段から持ち得る小さな虫食いだけが強調されている。
思わず唾を呑む。
 美化委員が世話を怠って精気を失った観葉植物の葉が力尽きて葉柄から落ちていた。乾ききってしまった葉が音をカサリとたつ音が大きく間を縫っていく。
時計の秒針が一秒ごとを細かく刻む音が鼓動と歩幅を合わせたり、追い抜いたりする感覚につられて心臓が逸る。
太陽の光によってできた窓枠の影がうっすらと伸びる。カーテンが時折遮って、急く精神とは反対に時間はやけに緩やかに流れているようだ。
身体と精神が端から引っ張られて、感覚として得る時間の概念は、今に止まった。
細かな塵ばかりが降りることも立ち上ることもなく、漂っている。
祐は小さく息を吐いた。
「関わりあうつもりはない。二度とお前と会うことはないと思っていた。そう片づけたつもりだった。だが認識の範囲に茅間伊三路として存在する以上それは無理だろう。疑問の答えを得ないまま時間が希釈することを妥協するにしても、日常に近すぎる」
その言葉に何度も伊三路は何度も頷く。「そうそう。二度あることは三度あるというしね」
茶化すように息を吐いた伊三路を視線で串刺しにする。
当然、比喩の話である。そんなことを露知らずの彼は視線で身体を貫かれたまま言葉を続ける。
祐の頭の中ではそれはもう滅多刺しにしてやりたい気分でいたが、自身が口にした通り疑問の答えを知りたいのだから、彼に矛先を向けるための刃を研ぐことを辞めた。
「うん、ごめんなさい。おれもね、これから祐に危険が降りかかるのは嫌だよ。だからどうにかしたかった。でも、結論から言うとそれは無理だ。難しい」
「何が言いたい」
 ロッカーの上に朽ち落ちた葉がゆるかな風に押され続けて伊三路の足元に運ばれた。屈んでつまみ上げる。
水分が抜け落ちてすっかり固くなった葉柄を指先で撚るようにして転がしている。大きく広がった葉は大きく揺らされて、ついぞプロペラのように回っている。
細長かったはずの葉が、萎びて丸まっていた。
大袈裟に揺られて光を受けて光る表側と、枯れた葉脈が浮き上がりより一層血管のように這う裏側が交互に視界に入る。
遊ぶ手を止めた伊三路はそうっと葉に息を吹き込んだ。
するとまるで寝ていた生き物がのそりと起き上がるように丸まっていた葉は背を伸ばす。
しゃんとした葉は管に血を流したように意思を持っていた。
視線の高さまで掲げられ垂れ下がった緑が、逆光の中でもよく透き通る伊三路の瞳に似ていた。
その見透かしてみせる瞳と余裕をのある息遣いが、自身の平静を乱すようで嫌いだ。
祐の中で伊三路と察した時間をひっくるめたうちで一番といっていいほどの嫌悪が明確に浮き上がる。
ぞりりとヤスリを擦りつけられた感覚だ。
笑みの種類から感じ取れる彼の様々な面のなかで、恐らく一番といってもいいほどだ。
掴みどころがない――いや、そこには何もない。
「順番に話そうね。最初に、昨日の場所のことだけれど、なにも複雑な話じゃあないよ。この葉っぱ一枚でさえ、表と裏で見た目や性質が異なるようにね。よく似ているけれど役目を分けて隔てた世界が表裏一体に存在するだけさ」
葉柄を撚る動きを再開する。
 伊三路は身体を微かにくの字に折り曲げ、楽な姿勢をしている。そして窓枠を椅子の座面のように扱い、尻をもぞもぞとして収めると何度も繰り返した昔話を口ずさむように続ける。
周辺だけが重力で燻る煙がない。浄化された空気が漂っている。
立ち上る光や、澄んだ森林の中のように心地よい冷たさが微かにある。口ずさむ物語を言葉より語る瞼は瞳に表情を与えていた。
そして瞳には遠くを霞ませる青い灯が宿る。
「記録上の話だ。かつてより、この地はあちら側の影響をよく受ける場所だった。深い山が集落同士を隔てていたから、何かと口伝えの生き物として存在する者もいた。もちろん、その多くは山の生き物で、時に人間で、また、時には怪異だった。ある時、外から迷い込んだ術師の人間を術師とは知らずに集落の人間は興味本位で優しくしてやった。彼らがまぎれもなく人間であることを知った術師は、優しさと恩、そして集落内ですら怪異に苛まれることを不憫に思って結界のまじないを施してやったのさ」
「……はあ」
気の抜けるような返事だった。
伊三路は片方の眉を上げて祐の反応を楽しむと、揶揄いも茶化しもせず続ける。
「それ以来は集落も安定を得て、外界と接するようになった。やがて集落を離れる人間もいた。そのぶん郷愁が大きく育ってしまって出戻る者もね。分裂と合流、統一を繰り返して今や集落は周辺をいくつかをまとめて茅之間町という。山の方なんかはその名残で今も独特の文化を残しているよ。きみが昨日通った鳥居のようなね。だけど、数年前に結界のまじないを構成する二つの柱のうち、一つが壊されてしまったんだ」
「以降、影響を受けているわけか」
「そう。綻んだ結界の間からぬうるりと出てくるわけさ。集落だった場所は結界のまじないがあったから干渉ができず、裏の側は最近まで何もない場所だったよ。ずっと広い土地と山があった。それが何故か壊されて数年たった今になってこの町を写し取ろうとしている。何かが変わり始めている。……なにより、口伝えであった昔話の中のまじないが有効であったことが証明された以上、壊したのは中の生き物だ」
安穏に語っているはずの昔話が、祐にはどうも読んだこともないジャンルである若者向けのファンタジーフィクションを形作る設定を淡々と語られているように聞こえた。
理解に苦しむ。水だと思って呷った無色無味が、喉を焼く酒のようなイメージだ。
理解はできるが共感はできないとはまさにこのことである。
もしも、あの場所へ引き込まれていなかったら? 事実と説明の順序が逆だったら?
痛む傷や妙に張り付いた生白い皮膚や、茅間伊三路が蘇生した葉を見なかったら?
とても信じられない。
とりあえずと見込んだとしても俄かに嚥下した言葉を後になって吐き出すことになるだろう。
馬鹿にして笑えるのならばどれだけ楽だろうか。
現に今も、話を聞いて頭が痛くなる。正確には目の奥か。
己が最も信頼しているはずの視覚は情報を拒否して眼底が悲鳴を上げている。眼精疲労の鈍い痛みにも似ていた。
「そしてあちら側に立ち入る方法はいくつかあるけれども昨日の祐も陥っていた……いや、きみの場合はそうさせられたのだけど、一般的には意識水準の低下だ。眠っていたり気を失っていたりするとき、人間の輪郭は曖昧になる。そして蝕は波長の合う人間に干渉しやすくなる。そうやった蝕が意識を握り込んで接続した人間を無造作に引き込んで捕食するんだ。一度目、きみは無意識の間に漂っているときに干渉された。その際にきみはその触手を振り払えず、匂いも覚えられてしまったんだろうね。だから、二度目はその印を辿ってきた蝕にきみは簡単に引きずり込まれたんだよ」
「人間が引き込まれる可能性が大部分を占める厄介だよ。自衛のしようがほとんどない。本当はこちらが意図的に立ち入る方法もあるけれど、これはきみにとっての無縁であってほしいよ」
そう呟いた伊三路は昨日の出来事をより強調するためだけに蘇生した観葉植物の細長い葉を笹船の形に折り込み、祐の机にそっと置く。
 昨日という一日のほとんどを苛んでいた頭痛はあの場所に呼ばれていたからなのだろうか。
つまり、茅間伊三路が居なければ次の犠牲者は本当に自分であった?
停滞した思考の中でぞっとする。
廃材置き場で内臓をぶちまけた自分がいたかもしれない。
この事件が人間の仕業ではないのだ。
実感がわくわけがないのだ。地に足がつかず今も木の目を模した床は回っている。
順応性が低いのか、事態があり得ないのか。
祐自身は後者であると言い聞かせながら机の上を悠々と泳ぐ笹船を見る。
蘇生されたのちに伊三路の体温でいじくりまわされた葉はくたりとして、そよ風に心もとなく揺れている。
もし、ああいった生き物に捕食されたら、痛みを感じるのだろうか。
もし、この事象のすべてがどの人間の仕業にも該当しないのであれば、誰かが罰を、ありもしない罪をでっちあげられて償わされる必要がないのであれば――
祐は思わず手のひらで口元を覆う。
平静を装って自ら沈んだ水底でぞくりと黒いものが噴出する。
いつも沈んでいくだけの粘りけを伴う黒いインクが、初めて舞い上がって濁りを作った。
身体を巡る淀みに打ち震える感覚を押さえつけえる。
伊三路の静かな瞳が暗がりを見つめていることにも気付かず、祐は言葉を飲み込んだ。
のどぼとけが上下している。衝動的に押し上げられたインクが一番高いところを通過した後は再び沈み始めていた。
「祐、」
「……聞いている。先ほどから当然のように語っている言葉の"蝕"というものが昨日の獣の中身か?」
「そうだよ」
レースというにはあまりに簡素ではあるが、確かに隙目のある涼やかなカーテンが遮る向こう側で、伊三路の松葉色の瞳が光っているように見えた。
「あらゆる方法で干渉してこちらを侵食する存在として"蝕"と呼んでいる。ほんの小さなものはほとんど無害で自然の流れさね。力を持たず自然を構成するひとつ……それ自体はこちら側の重力に押しつぶされてしまう。だから何かに取り入らないとこちらがわでは目視できやしない存在なんだ」
祐の中で高ぶっていた仄暗さが落ち着きを取り戻すころには、伊三路の方が力が入っていた。
いつの間にか膝の上で指同士を絡めていた伊三路の両手に力が入り、短い爪が食い込んでいる。
表情はすっかり風が止んでしまって、髪の毛が影を落としていた。
「本来はあちらの生き物で、あちらで完結する生態だ。滅多に交差しないように、世界の理は出来ているはずだった。だけれども、この事態では力を持った蝕は遅かれ早かれ地道に人間を引き込むよりも労力の要らない方法に気付いて綻んだ結界を通り抜けてくる。ただでさえ境界は曖昧になっている。どんどんこちらへでてくるよ」
その口ぶりから結界のまじないが伊三路の手の及ぶところではないことを知る。
それはそうだ。解決できるのならば、祐のかける言葉はただ一つだ。
「がんばれ」だとか「わかっているのならば実行するだけ」だとかいう言葉を事務的に吐き出してもう二度と関わりはない。それだけだ。
伊三路もわざわざ話して共有する必要もなく、「きみにはもう関わりのない話だ」というだけだろう。
「それにしても……昨日の獣も本来は悪さをするものではなかった。まるで傀儡にされてさ」
その言葉が引っかかって祐は顔を上げる。
 互いにきょとんとして顔を見合わせた。
伊三路は祐の表情に対する意図が掴めず、急に顔を上げたことに不安そうにして様子を窺っていた。
「待て。昨日の短刀はどうした?」
その言葉に如何にも動揺をしていますよ、と言いたげに伊三路は肩を跳ねさせた。ギクッというオノマトペがよく似合う。
初めて祐の視線に居心地を悪くした伊三路は中指で自身の目尻のあたりを撫でながらようやく答える。
逸らして俯いた視線はこの一日半ほどでみた表情の中でもなかなかに後ろめたさを表現しており、言い回しは口説くともある程度まで行くと竹を割る腹を決める印象のある伊三路の像をよく歪めた。
端的に言えば、似合わない行動をしている。
「あ、あれ、あれね! あれは借り物だからさ、持ち主に返したよ」
言葉尻が小さくなっていく。
祐は呆れて首を横に振った。息を吐きながら呆れる様に釈明したがる伊三路が目を潤ませて騒がしさを取り戻している。
「半分は盗みを働いたといっても過言ではないということか。そもそもの話、手ぶらであんな場所に行くか? そう思い直すと信用に足るというには状況上仕方ないとは言えなくなってきた。あまりにも早計だ」
「う、うーん! そ、そうだね。正直なところ、あまりに言い訳にしかならないよ。きっと。以前はおれにも与えられたものがあった。けれども、結界のまじない……一柱が破壊されるのと同じくしてそれも紛失したんだ。本当だよ。今回は自分の身を守る程度で済むと思っていたおれも考えが甘かった。でも、きみのなかで盗みを働いたことにされるのは嫌だから、訂正……してくれないかな……?」
じとりとした視線に耐えかねた伊三路が手振りを大きくしている。
訝る祐の机に手を付き、身を乗り出すと唾が飛びそうな勢いで必死に言って聞かせる。言葉をなぞる落ち込みとは裏腹に必死な態度で、しまいには顔を近づけている。
大きな丸い目がはちきれんばかりの勢いで直接訴えてくる。
個人を侵すような距離に面倒くさくなった祐が迫る伊三路の顔を手で押し返す。
「わかった! わかったから。盗みの事実もお前の潔白もさして興味はない。話を続けろ」負けじと頬の肉を押し付けられた祐は声を荒げて制した。
それでもようやく伊三路が普段話す声量の程度であったが、それを聞き届けると伊三路は己の必死さをはじめて客観視できたようですっと身を引いた。
繕うような咳ばらいを一つする。
幕の色を張り替えて、その端から出た紐を房掛けにひっかけたようだ。
茶番を追いやって真剣な表情へ戻っている。
「その話はともかくだ。蝕は弱った生物、神格の精気や肉身を食い物としたり、精神を蝕んで弱った肉体に寄生したりする。寄生された生き物の大半は細胞に取り入って情報と適応を書き換える蝕の圧に耐えきれず、結果的に元の姿からかけ離れた異形に変貌することが多い。昨日、祐を襲った獣もかつてはこの土地に住まう、普通よりかは位の高い生き物だったのだとおれは考えているよ」
風が引いていく。まるで茅間伊三路という存在の質量に集約されていくこの教室のすべてが本当は何もない場所のようだ。
まるで現実感がない。目の前の男の存在すら、だ。
「蝕まれた生き物そのもの、形を変えて理性失くしたもの、傀儡の糸を陰で繰るもの――それらによって引き起こされる怪異を……そうだね、先人たちは"魑魅魍魎"、あるいはそれらの仕業、その事象自体を"妖怪"と呼んで恐れたんだ」
「それで? お前は妖怪退治のヒーロー屋とでもいうわけか。処女作ならば上出来じゃないか? 昨日の出来事がなければ余程いい病院を紹介してやるとでも言いたいところだ」
「その横文字らしい言葉が何を言いたいのか理解しかねるけれど、それらを祓わなくてはこの町は大変なことになる」
 最後まで頑なに信用しない祐の言葉が呆れ、しまいには雑になってきたために伊三路も肩の力を抜くことができた。
こんな話を最後まで聞いてから苦い顔をする様が、少しばかり面白おかしいのだ。
思い浮かべた易い想像からさして離れない反応を見せた祐を見た伊三路はくつくつと息を漏らしている。
「一度でもあちら側の干渉を受けたきみはこれから何度も干渉を受けると思うよ。小さな蝕は捕食を繰り返し強く力を持てば知性を持つ生き物になる。けれども、小さくて自然の流れに過ぎないものはやがて生きるための手段として、無意識下の情報網を作り、感覚を含めた意識を共有する。きみのことはいずれ知れ渡るし、例の事件が蝕の侵攻を高らかに宣言したのならば……」
「どちらにせよこの町で事件は起こり続けるということか」
「そういうこと。そこに、蝕を祓うことができるおれがいたら、それはもういいと思わない?」
「利益に生じる偏りが大きすぎる。俺と居ることで得られるものはなんだ?」
「ええ、"質問を質問で返さない"でよ。でも、うん。そうだね、おれは祐の傍にいたいからそれだけで十分だよ」
 含みのある言い方が引っかかる。
伊三路の言いそうなことではないと考えた祐が記憶を手繰り寄せると、その言葉はおおかた己の放ったものだった。
皮肉を返されている。
だが彼の幼さの残る顔に落ちる影はこの話で何度か見られたさみしさを浮かべていて、暮れの分かれ道をいつまでも見つめる瞳をしていた。
その表情を浮かべる意味を想像できないが、きっと、こうやってヘラヘラ生きている人間にも苦労するところの一つや二つくらいあるのだろうと祐は思う。
ただ、そこに己の関わる因果がないために、特別な同情も取り分けて偏らせた優しさも与えないだけだ。
事実そうしてきたし、なにより、本人の望まぬ同情は時に日常生活の円滑を復元不可なまでに砕いてしまう。
残酷であると自覚はあるが世の中というものはそうやってできているのだと、憂いを孕み、翳った顔の半分でようやく歳相応の雰囲気を見せていた伊三路を見ると納得する。
そういった理不尽や、誰もが手放しで心配して助けてくれる世の中があれば、目の前の人間が今こういった憂いを抱えることもない。
つまり、ヘラヘラとなにも考える必要もなく、不釣り合いに無知な子供が居るだけになる。
苦難を重りにして傾く秤の精度は個人に依存する。他人がどうこうと口を出すべきではない。
だが、重りがなければ得るものも失うものもない。それだけだ。
これだけ心もとなく迷ったままのような彼の表情から返す言葉をどうにかはじき出そうとしても、ベースとなる肯定か否定かは既に決まっている。
初対面からそんなに時間の経っていない人間に対して宣う言葉ではとてもない。
建前を信じるほど純粋にでも見えているのだとしたら、この男が時たまに見せる慈しみはボール紙のハリボテを通り越したナルシズムだ。
わかっている。祐は斜に穿とうとした思考をしている。
 すべては今、祐が放とうとしている言葉を引き出すためだ。
「建前だけで了承するわけがないだろう。お前は何を企んでいる」
「んー。じゃあさ、おれの頼みを一つ聞いてもらおうかな」
建前を指摘されて本音をチラ見せすることもない。
そこまで言うのならば仕方がないように控えめな図々しさを露わにした伊三路はゆったりとして腰かけて足を僅かにぶらつかせていた窓枠を降りる。
机の前に立ち膝の形で腰を落とすと、机の天板に頬を乗せた。そして黒い人工皮革を纏った手のひらを上に向けるように促すとそよ風に転覆していた笹船を祐の手にそっと乗せた。
ころりと横たえる葉の先頭がしなしなとし始めていた。葉柄が本体から落ちた以上、蘇生したとて意味はあまりないというのに葉は今も生きている。
「何かを得る、もしくは要求をする。相手に何かをしてもらうならば、相応のもので応えるべきだといいたいんだね? きみがそう、無償で与えられるものの恐ろしさを知っているのならばおれにできることはそれを軽くすることだ。一瞬で取り去るなんてことはできないけれど少しくらい秤の均衡に努めることはできるよ」
「随分と舌触りの好い言葉だ。何が望みだ、結論を述べろ」
「やっぱりずるいかな? うん。だからね。対価としてでいい、それでいいから。おれと、"ともだち"になってほしいんだ」
ほんの少しだけ気恥ずかしさを孕んだはにかみ顔で告げられた言葉を脳内で反芻する。
金属同士を打ち鳴らしたようなキーンという音がいつまでも響いていた。
「……はあ?」
 一瞬遅れてやっとでた言葉は相手を刺激するものではなく、純粋に気が抜けたものだ。
圧縮された空気で一気に抜けた栓が転がっている。開け放たれた穴の縁を漂う冷気によく似ている。
言葉を飲み込もうにも〝ともだち〟というそれがどうにも胸の辺りで引っ掛かって、しっくりと落ちてはいかなかった。
伊三路と仲良くする姿も、特別贔屓にして慣れ合う姿も想像がつかない。
今更になって友情だの絆だのというものを夢見るほど純粋ではないのだ。
何をしたい? どんな意味の?
目を瞑ったままの日々を振り返ればいつだって日ごと立ち位置を変えた点の各所に諦めた顔で立ち尽くす幼い姿の自分が居る。
その自分と見つめ合えば見つめ合うほど、慣れ合うつもりがないのではなく、慣れ合うことが出来ないのだと言われている気分になれる。最高に最悪な気分だ。
座標であった点が増えるにつれて空白を追う目も増えていく。やがて視線でずたずたになるのを恐れた今の自分は小さく蹲って地を這っている。
なのに、いつの間にか一等さした場所にひとりの人間だけが居たら?
そのひとりに対してどんな反応をすればいい?
背後には正解と不正解、どちらも要求する目がびっしりと控えている。
どちらかを選んでも選ばなくても詰られて、自己嫌悪に忙しい日々だけがある。
間違えたら今度こそ死後も解放されないくらいに魂を握り込まれてぼろ布になっても許されないほどいたぶられる。今も鮮明に陶器の割れる音を思い出せるほどに。
息が苦しいくらいだ。目の表面が乾いている。
その正誤は誰のためのものなのだ?
一番正しいものは何?
「お前の言う〝ともだち〟とはなんだ。都合よく使える道具か? それとも優越感を覚えるための踏み台か?」
「まさか! おれはそれもう、ずうっとともだちが居なかったから、その定義の曖昧さを答えることは出来ないよ。きみの望む答えも与えられないだろう。でもね、祐ともっと話がしたい。それがおれの素直な気持ちだよ」
「味気ないだけの言葉のやりとりでも、きっと楽しくなると思わない?」なお疑う顔をした祐に対して笑顔の伊三路は身を乗り出し、ぐっと詰め寄る。対して祐は視線を逸らし、伊三路の手の辺りを見たまま答える。「思うはずがない」
舌の先に苦みがある。
仲良くしてもしなくても事件は起こるし、結崎祐という人間は死に面する機会が増えるという事実をナイフのように宛がわれているのだ。
この場面での正解は火を見るよりも明らかに自己主張をしている。
茅間伊三路に対して、勝手な期待を抱いているのはきっと浮かれたクラスメイトだけではない。
朝の匂いも、季節ごとに見せる緑の表情を錯覚させる瞳も、己に差し出す手もすべて勝手な期待で踊らされている。
馬鹿みたい。
いつも高ぶる欲求を抑え込む言葉はワンパターンだ。
だが、その言葉はすとんと高いところから突き落としてくれる。
暗闇で四肢を投げ出した祐は疑似的な内臓と脳漿をぶちまけた中で逆再生をしたように身体を復元して起き上がる。そういったイメージがよく似合う。
選択を誤ったことをひどく責めつけ戒めながら視線を上げれば自分自身が積み上げた階段の高さを恥じることができる。
唇を強く噛み、駆け出してその一段目を思い切り蹴とばす。身体に巣食う正しくなさが乱す呼吸を必死に整えている。
散らばっては平坦に戻った感情たちを横目に両手で顔を覆う。深呼吸をする。
ひとつひとつが本当に自分に必要なものだったのか問いかける。できるだけ鮮明に、そして常に最悪を想定する。
そうすれば俯いた顔を上げる頃にはひどく冷静を保てていた。
大丈夫だ。
それに、勝手に裏切られたとしても運が良ければ体よく叶えられるであろう一番深いところに根付いた欲求を前に、祐に落ちる翳りは強く輝き出した。
まさに、健全に輝き、さんさんと退廃する己が熱に焦げた裏側の太陽だ。ぞわりと浮き上がる感覚が愛しげに下あごを撫ぜる。
うっとりとした快楽が、この身体を流れる血に滲む。
意識が現実に引っ張られると、今しがたの暗闇と快楽も思い出せずに無意識として下っていた。
自己防衛のような感情はすっかり身を隠している。
常にそれがぴったりと隣に居て、記憶によく残るのならば結崎祐は今と異なる人格を形成していたはずだからだ。
「……わかった。ただし茅間、お前を贔屓にして慣れ合うつもりは一切ない」
「うん。いいよ。おれはきみがきみでいてくれればそれでいいからさ。改めてよろしくね、祐」
「うまく理解をしたような真似はやめろ、不快だ」
差し出された右手を渋々取ると、伊三路は満足そうに繋がれた手を握り直した。
目尻に寄った皺に微かな影が寄っている。
伊三路の言葉は含みが多いな、と思った祐が視線を上げる。
あまりにうれしそうな顔に思わず息が止まる。そして同時に逃げ出したくなった。
胸に滲む色とともに、祐は首を傾げる。
今、逃げ出したいと思った衝動の正体はなんだ?
すぐにどうでもいいことかと思い直す。
わざわざ言葉にするのは野暮であるし、どこか幼い顔があまりに不憫に思えたのだ。
風が前髪を掠める。細められて膨らんだ下瞼に花が咲くようだった。
「はは、きみはまた気難しい顔ばかりをしているんだね」



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