「茅間くん、すごいなあ。あんなふうに囲まれて、僕がそこにいたら、きっと声も出なくなっちゃうよ」
 独り言か、語りかけているのか曖昧な言葉が感嘆の表情で祐と暦の間を漂っていた。
渦の目に視線を向けて、そこに換算されはしない場所で、暦は瞳を輝かせていた。
きっと日野春暦にとって茅間伊三路は輝かしいのだろう。
艶やかにある暗褐色の瞳が曇りのない透明を思わせる。
それに反射した茅間伊三路という存在が角膜をぴかりといたずらに撫でて、色を分け与えた。届いた刺激が光になっているのだ。
底を照らし出された暗褐色はきっと日野春暦が見たことのない世界を見せている。
その瞳には小さな星が灯り、爆ぜ、生きている。はじける光が乱反射して新しい色を見せる。
そんな夢を、勝手に胸に居座る期待のようなものを、淡く灯した光ごと抱かれる茅間伊三路を、祐は少しだけ不憫に思った。
同時に、彼は人間が好きで懐こい様子であるからうまくやるだろうな、とも。
日野春暦が自分が輪に入ることはなくとも外側から見た様相だけで共感できる感受性のある人間であることは、二、三回言葉を往来させて察した。
だからこそ、彼が自分のような人間に構おうとする感情を祐は理解できなかった。
おまけに、気が弱い。他人の顔色をすぐ窺う。クラスメイトは関わりたがらない。
それらは祐に怯えるだろう。
喚く欠点たちを両手に抱えたまま、横に立ち言葉を交わすことが叶うか。答えは"それを否定する"だ。
彼は揺らぐことない自己のペースを保っているとしか言いようがない。
仮に、てんこ盛りの"おまけ"が自他ともに認めることのできる欠点であるのならば、日野春暦という人間は結崎祐という人間にかかわることはないからだ。
特に何かを返事することはない。名指しされない限り曖昧な言葉はただそこにいるだけだ。
次の授業で使用する教科書を机から引っ張り出す祐に対して、暦は自分がどう思われているかも知らないでいる。
そして遠巻きに次の選択教科の授業のための移動を促している。「茅間くんを解放してあげたほうが……いいと思うんだけどなあ。みんなあ」
もちろん、尻すぼみになる言葉の調子ではその善意は届くことなく、明るい声に弾かれてはそのあたりに砕けかすが散らばっている。
言葉を少しでも近づけるために渦に近づく暦は、数分地面に足を着けていることも叶わずゴムボールのようにあっけなく弾き返されて祐の机の角に頭をぶつけた。
情けなく痛がる声が微かに鼓膜を触れると伊三路は小さくまつげを揺らした。
周囲の騒ぎを手で制し、静かに立ち上がる。
生徒たちが何事だと押し黙っている間に、伊三路は小さく屈んで暦に視線を合わせた。
「大丈夫? 痛くない? ごめん。何か声は聞こえていたんだけれども。言葉の最中であったから順番に答えてしまったよ」
「あ、ううん、大丈夫だよ! 気にしないで。大変だね、茅間くんも。僕は次の授業が教室を移動する必要があるからねーって言いたかっただけだから」
「移動? 別の教室で勉強をするの?」
伊三路が質問で返したことで生徒たちが名残惜しむ声とともに離れていった。
 ひとり、ふたりとほどけた渦に最後まで残ったのは目であった伊三路と、暦と祐だけだ。
「ありがとう。教えてくれて。痛いところはないようだけど、怪我はない?」
すっかり屈んでおり曲がった膝にちょこんと手を載せた伊三路は窺うように首を傾げた。
そして仰け反るように後ろへ手を付いたままの暦の身体をさせながら介助するようにゆっくりと立たせる。
がっくりと力の抜けていた暦の身体は再び意図に繋がれて自立する。そんなように気の抜けた、どこか心ここにあらずの暦のせいで締まりのない空間だった。
「あっ、あっ、うん! 大丈夫だよ。茅間くんこそ。大変だよね。ごめんね、みんなはしゃいじゃってさ」
「伊三路でいいよ。えっと、席を替わってくれた……」
短い間に多くの人間と関わったためか、暦の名前を呼ぶことに自信のなさそうな伊三路が眉を下げて曖昧な歯切れの悪い笑みを浮かべる。
その視線が己のスラックスの膝を注視していることに気付くと暦は慌てて膝を払った。
しりもちをつく形で体勢を崩したのになぜか埃がついて白くなっていることに気付いて顔を赤くしていたのだ。
頬を手で仰いだり、袖の釦を外したりして熱を逃がしている。
「あー、えっと、ぼ、僕は日野春暦。日野春はとくに変わった文字じゃなくて……こよみっていう名前は年号を数えるときの"れき"と同じ文字だよ。よろしくね、伊三路くん。その、よかったら、ぼ、僕のこと、も。暦って呼んでくれたらうれしいな」
視線を泳がせながら、また思い出したようにスラックスの膝を撫でている暦の手を少々強引にとった伊三路は「握手!」といって包み込んだ手ごと大きく振っている。
「その件はどうもありがとう。よろしくね。暦!」
暦が戸惑いを見せながらも小さく握り返したために、よりはしゃいで伊三路は瞳を輝かせてくせの強い毛先をよく揺らした。破顔の様相につられた暦もまたゆったりと笑っている。
 祐から見ればどちらの人間も強引な間合いを持っているという点で相容れないものと考えていたが、中途半端に気の弱い性格が幸いしたのか、幾つかの言葉を行き来させることで暦は伊三路との距離を掴み、打ち解けたようだった。
「あ、僕は音楽の選択だから……伊三路くんは結崎くんについていくといいよ。またね」
予鈴が鳴ってようやく現実に帰ってきたらしい暦は楽譜やペンケースを抱え、時たまに落としそうになりながら慌ただしく教室を出て行った。
廊下との境界で一度振り返り、控えめに歯を見せてはにかむと廊下を走り去る。
その姿を見送ってなお、いつまでも手を振っていた伊三路は、祐のため息でようやく振り返った。
二人きりになった教室だ。机の天板にべったりと手をつくと黒板に背を向けたまま机に寄り掛かった伊三路は横顔のままぼんやり口を開く。
「祐はさ、音楽より美術が好きなの? 美術の授業では歴史を学ぶのかな。それとも感性に点数をつけるのかな。まだ教科書が揃っていないからさ、想像するのは楽しいね」
「好きも嫌いもない。わざわざ好んで退屈を空想するやつもいない」
「教科書がまだ一部揃ってなくてね。わからないからこそ楽しいこともあるよ」
椅子に座ったままの祐に対して一方的な会話を続ける伊三路の言葉は教科書がないというもので締めくくられる。
 巻かれた糸の先を緩く引き出すような彼の語り口で会話を継ぎ目なく続けるのは、どこか間延びして予鈴から本鈴までの時間が角を丸くしていつまでもここにいるようであった。
無言に居心地の悪さを感じ、それを誤魔化すためのものとしての言葉の浪費というよりかは本鈴が鳴るまでは教室と教室の間を繋げている廊下という場所に誰かがいるであろうと気にしているようだ。
つまり、伊三路は本鈴後にこの建物にいる人間が"五○分の間、教室の中にいるのが普通としての前提がある"状態を待っていた。
会話が終われば祐は席を立つ。伊三路はそれを知っていたこらこそ言葉を止めなかった。
純粋に彼と会話すること、純粋な好奇心も手伝って一方的な会話はよく弾んだ。
言葉は返ってくるのではなく、壁相手によく弾んでいたが伊三路にとってそれは些細な問題であったようだ。
往来する言葉の半分は独り言である。祐の相槌と、時たまに眉を顰めた言葉が返ってくることが楽しくて次々に並べられていた伊三路の言葉は突如本鈴にかき消される。
一音ずつが投げたボールのように緩やかに端を丸めた放物線を描く。伸びが良い音が、経年劣化したスピーカーを通って微かに割れる。
廊下の方へ意識を向けている視線が僅かに左側へ引っ張られていた。
 束の間の静寂が降りる。大きく覆った色を教室の隅に固定する前に静寂を吊る糸はすぐさまに切られた。
間を切り替える、ただそれだけ安っぽい静けさだ。転調のためだけに誂えられてすぐに消費される一枚布だ。
足元にすっかり這ってくたびれる前にはもう次の場面に移るようだ。
ゴム底の靴が慌ただしく階段を駆け上がるぱたぱたとした軽やかな音が遠くでしている。
隣の教室で教師が黒板に石膏カルシウムの文字を書くために強く黒板を掻く音が壁を通して微かに聞こえ始める。
それらに対してたっぷりの間を開けてから、目の前で楽しげに一人芝居のような言葉を続けていた男は本鈴の遮られた言葉の形のままであった唇をゆっくりと閉じた。
「そうそう、いや、本当はずっと気にしていたのだけれど。怪我の調子はどう?」
ちらりと向けられた視線はまるで気にしていない様子を装っているが、眉は微かに下がって、笑みが歪んでいる。
無理にも笑っている様が不気味だ。
茅間伊三路には感情がある。それも、豊かな部類だ。
だというのに、その全てに笑みを含ませて表現しようとする様がどこかアイデンティティを抉っている。
祐は己が快く思わない視線の一つだな、と思いながら黒い人工皮革の手袋が放つ赤みがつよくてざらついた光を眺めていた。
それでも総合的には人の好い様子であり、上辺には慈しみのような微睡を称えている。
よくわからない人間だというのが素直な感想であった。
「お前が気にかけるようなことではないと再三伝えたはずだ」
「いやあ、ただの挨拶でもないよ。おれのおまじないがさ、ちゃんと効いたか聞きたかったんだ。……それで。きみは授業にはでないの」
「どの口が? 顧みて言っているのならば呆れる。……美術担当の教師は欠勤が続いている。出席確認は該当教師が過去に作成した課題を焼き直したものの提出で判断している。他に指導できる者がいないからな。時間内に提出すれば五○分だろうが五分だろうが出席扱いだ」
不快を露わにする様は昨日より鳴りを潜めていた。
しかし他のクラスメイトと対する際よりははるかに嫌な顔をしている祐の顔を見ていた伊三路は、想像とは異なった返答に驚きを滲ませる。
それでも察せないために繕うことは一切しなかった。
逆にいたずらっぽく開いた唇の端をより細くして怪しい笑みを浮かべた。目がひかひかした光で満ちる様子が如何にもこどもを強調して自身の頬をなぞった。
「ふうん。存外あくどいことも言うんだ。きみが他人を蔑ろにするほうでないことはおれにも感じることができたけれどね。本当に授業よりもおれの話を聞きたいと思ってくれているとは。おれに聞きたいことがあるんでしょう?」
 祐の机をわざわざ回り込んで窓際に移動した伊三路は窓際に身体を預ける。
それを追いかけるべったりと墨が這いずったような視線と自身の視線を合わせて囁く。
「きみにはまだ、おれがきみにひどいことをすると思える?」うっそりと肌をなぞる。それは甘い毒とすら言いようもなく、忘れた頃になってようやく浸透している。
今思えば、という言葉を遠い未来で用いても、本当にそれが毒であったかを確認する術はない。
ただ、確信するのはこれが意思をぐずぐずにするだけのぬるま湯だということだけだ。
しかし、そのぬるま湯のような声は口の中でつぶやく音だった。



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