この騒ぎを辿ると今朝のホームルームへ、線は緩やかに着地した。
祐が普段よりも遅くに教室の引き戸をくぐった際には既に、誰もが知りたがる最新ニュースは猟奇的殺人を匂わせる女子生徒の遺体が見つかったことから転校生と思わしき人物と最上のだらしない後姿が並んで廊下を歩いていたという内容にすり替わっていた。
 その転校生が男子だと思われることに残念がる声や、微かな希望を捨てきらない想像を膨らませてる男子生徒たちを女子生徒が白い目で見ている。
そういいながらも、ここより田舎から転校してくることなど滅多にない。利便性を求めるはずだからだ。
少なくともバスで隣町まで出て、更に電車を経由しないと市に出られないという交通状況だけ考えれば、最初から市に行くわけだ。
故に、都会には指先一ミリ分だけでも夢を見たい。
だから少し大人びたような、欲を言えば顔の整ったような、と女子生徒も箱に掛かったリボンの生地を眺めては品定めをすることに似た言葉を並べている。
性別を超えて浮足立つ感覚が嫌いだ。
胸をくすぐる指先が実は針で、細かに傷をつけられているようだ。往来する期待の応酬。期待外れのため息。
それらを通り過ぎて窓際に与えられた自身の席へ直行する。
 ずたずたになった制服を色付きのごみ袋へ入れて早々に処分したあとの祐が、適当にでっち上げた理由に粗探しの指摘をされないかという僅かな緊張を胸に職員室へ赴いた際はそんな話題はなかった。
最上はまだ外も温まり切らない朝からラムネ味のアイスを頬張っていて、祐の言い訳を聞いていた。
「ふうん、そう。そりゃ大変だったね。学年主任に伝えときます」
興味の欠片もない様子で咥えた木の棒を上下させていた最上はおまけに手をひらひらさせていた。
「おつかれー」朝礼前であるのにまるで終業後の口ぶりで気の抜けたことを宣っている。
呆れて瞼が半分重たくなった祐が頭を下げて退室しようとした際にようやく最上は首を伸ばした。
「待って、学年主任が取扱店に用事あるらしいからあらかじめ話通してくれるってえ。サイズ書いて。普通の服でいいよ。勝手に最も近い号数に合わせるからさ。大丈夫大丈夫、腹周りさえ合ってれば大して気にすることないって。あと一年だもん。先生が保障する」
伝票サイズのバインダーの上に、カレンダーの裏紙を切ったメモが挟まっている。とんとんと爪でボードを鳴している最上を促して祐は胸ポケットのボールペンに手を伸ばす。
そして今着ているのが紺色のジャージであったことを思い出した。鼻から息を吐く。
茶化す様子もなく静かにペンを差し出す最上の手からペンを預かると、きっちりした字形で数字を書き、すぐに返却したのだった。
その際に最上の机に広がっていた書類が不可抗力で目に入るも、今思えば女子生徒に関するものだった。
良くも悪くも教え子の前でも同僚の前でも態度を変えない最上にまで情報共有以外の処理が回ってくるのは相当である。
言い方は悪いが、そう浮かんだ思考の意図を確と覚えている。
それもそうだ。昨日の今日の騒ぎを転校生の存在如きで塗り潰すのは不謹慎が過ぎる。
少しくらいは不安に思ったり、自衛・防犯に努めたりする姿勢はないのかと思考して椅子の座面に静かに腰を下ろした。
なだらかに傷の塞がった皮膚の下で疼く肩口を思い出せば、なんだか恨み言のようにも見えることがより滑稽を増す。
滑稽である、で片づけられるのならば次の犯行を想像したときに自分が、ということを想像してかつ的中するなんとただの貧乏くじだ。極めて低い確率の妄想だ。
大抵は杞憂に過ぎて、その杞憂を大抵の人間は気にしない。
 学生鞄から取り出した教材を机に詰めていく。
その中で不意に斜め前から忙しない視線を感じ、顔を上げる。
「わ! あ、え、えと。おはよう!」
勢いが余って語尾が上ずっていた。ゼロに戻るはずの輪が、勢い余って足が出ている。
昨日の帰りに話をかけてきた気の弱い男子生徒がアーモンドの形に目尻だけ微かに上がった暗褐色の瞳をすーっと泳がせた。
端まで泳ぐとまた祐へ視線が飛んで、返事がなければぎこちなく泳ぎ出す。
うるさいという形容が、聴覚に訴えてくるものだけではないことがよくよく理解できる以外に良いところはまるでない。
用件を促すために下からじとりと見上げた祐と視線の合った男子生徒はその姿に自身は相手にされているのだと錯覚すると、あからさまに表情を明るくして目に光をめいっぱいに取り込む。
つやつやに磨かれた石のように黒々と光を放っては一回り大きくなったように活き活きし始めた彼を黙って見ている祐は、その名前を思い出していた。
そう、日野春暦だ。
去年も教室が同じだった。新入生として教室に詰められた際に、日野春暦と弥彦伸司が隣同士に一つ前の列に座っていた。
五十音を並べた際に極端に後ろに寄る姓を持つために、いつも最後尾だったのだろう。
それよりも後ろに配置されるであろう姓を持つものが新しい環境に並んでいたためか、一年時にはよく視線を感じたのを覚えている。
弥彦伸司が遅刻ばかりするために、ドアの近くに席を移動させられてからはいつも自身の席でオセロだの将棋だのの指南本を読んでいる。たまに他の生徒と将棋の駒崩しをしているくらいで、自分と同じく空気でいることをどうとも思わない生徒の一人であると思っていた。
「あのさ、ゆ、結崎くん、今日は……顔色、良いみたいだね。よかったあ。それで、聞いた? 今日は転校生がくるんだって! どんなひとだろう? と、友達になれたらうれしいなあ」
「用件はそれだけか? 俺はお前の日記帳ではない。今のような言葉に返答が欲しいならば他に頼め」
「ご、ごめん! 確かに返答しづらいや! でも昨日は具合わるそうだったから、気になってね。ぼ、ぼ、ぼくは結崎くんがよかったんだ。……って、あれ? 結崎くん、制服は? ほっぺたにも怪我した? なんか……傷跡? い、いや、きのせいかも?」
思わず椅子の座面から半分立ち上がった暦が手を伸ばした。そうっと近くなった距離に冷めた色を見つける。視線だと気付くと彼の首が縮んでいく。
最後にはすっかり委縮して、敵に睨めつけられたねずみのようになっていた。
思わず後ずさった踵に椅子の脚を形成していた簡素なパイプが当たって身体はビクついている。
周囲の生徒たちは横目で二人を見たが、日野春暦がよく驚き、おどおどとした種類の多く持つ表情をよく変え、意味もなく臆病でいる様は日常であったためにすぐに視線は散る。
祐もまた、目の前の人間にとっては目に見えて刃物を持ったような相手である自身にわざわざ声をかけてきた理由がわからなかった。故に、身を固くし、思考に怪訝さを多く占めている。
変なことを思い込んで、大声で驚かれても困る。
現に気付かれかけた昨日までなかった異様さを象徴する傷は、服に覆われず露出する肌の上にも這い上がっていて、薄い皮膚を纏っている。
「ごめん、ごめんなさい。詮索じゃないよ」
学年色の青いラインが入った紺色の指定ジャージに刺繍されている名前のあたりを不安げに見つめている暦を嫌な視線で見返しながら学生鞄の錠前をかけた祐は、机の脇に備えられたフックに鞄をかけた。ジャージのファスナーを襟元の隠すようにすっかり上まで噛ませると座面の上で身動ぎをした。
「詮索をしていけない決まりはないが、俺が返答する義務もない」
「あ、あ……うん」
しょんぼりと項垂れた暦は座面にぺたりと座る。炭酸の抜けた水のように力なくぽかんとしていたが、やがて持ち直すと前を向く。
しばらくの間は顔を振り返りきらない角度で後方を気にしていた。当の祐といえば、肘をつきぼんやりとしていた。
朝礼の時間が迫り、じっくりと本を読む間もなかったからだ。
始業のチャイムに対し、大幅に遅れてきた最上が教壇に立つ頃には、あからさまに緊張で背を伸ばして暦は前を見ていた。
 猫背のままの最上は目を細めて教室内を見渡す。
かたいボール紙の入った表紙の名簿を半分ひらきかけて、その間にペンを持った手を滑り込ませる。
「弥彦伸司は遅刻かね? まーた進路の黒松にドヤされるじゃんかな、俺が。反省文かかされんのは生徒だけじゃないので、みなも気を付けるように」
やる気のない声色であるが手元は、名簿の表紙に遮られた視界でもしっかりと弥彦伸司の名前の脇にある遅刻・欠席欄に日付を書き込んでいる。
教室内で良くも悪くも目立つ生徒のうちの一人である弥彦伸司だが、誰ひとりとして彼が遅刻なのか欠席なのかを知る者はいない。
「どうせサボりっしょ」だの、「一生高校を卒業できないじゃん! このままじゃね。ウケる」だのと憶測だけが飛び回っていた。
最上は段々と生徒の扱いが面倒くさくなっていって、頭を掻いて、今度は生徒名簿をきちんと開いて文字を記し始めた。
斜め前の席に座っている暦が落ち着かない様子で座面から僅かに浮いている。そして俯いたり顔を上げたりを繰り返していたが、やがてこっくりと下を向いて座りなおした。
その様を祐はその上下に落ち着きなく動く後頭部を鬱陶しいと思いながら眺めていた。
「ま、なにかあれば連絡が来るだろう。便りがないのは……てやつ? 違うか。えー、それではお待ちかねの編入生の紹介です。お前ら浮かれるのはいいが、間違ってもいじめるなよ」
生徒名簿を改めて閉じた最上が入室を指示すると、教室の引き戸式のドアが静かに動いた。
建付けが悪くなったドアが途中で止まると、ドアの向こう側の人物は不思議に思ったのか何度か開けたり閉めたりを繰り返し、ドアを微かに浮かせたが、最終的には隙間に半身を滑り込ませて教室へ入った。
最初の動作にやや粗雑さが表れて、教室の誰もが転校生もとい編入生が男子であることを確認した。
同時に女子生徒が望むような都会風の恰好いい男子でないことも、ほとんど確定した。
いつまでも引き戸を気にする明るい茶髪だ。
屈めていた上半身を起こしてしゃんと背を伸ばすと、大きな一歩で黒板の前に立つ。
ざわつく教室内の雑音を聞きながら、どうせすぐに見慣れた教室の風景になるのだから一々騒ぐなと祐は人知れずため息を吐いた。
チョークが黒板を引っ掻く軽い音が止んだ頃、名前くらいは知っておくかと祐がようやく黒板へ向き直る。
 教卓の方へ視線を向けた瞬間、顎関節のあたりが――正確にはそのあたりの頬の筋肉が冷えて痺れるような感覚がした。ぞわりと全身に広がり、毛穴が開いたようだ。
髪の毛の先までもが意思が宿ったようにうぞぞっと、一瞬うきあがった。
でかでかと黒板を占める文字の全容を見せつけるように振り返った春の土の色、そして伸びたもみあげが振り返る過程で頬にたなびく姿が血なまぐさい狩衣の、和装姿に重なる。
昨日の少年は、胸が膨らむくらいに息を吸いこむ。肺の隅々まで行き渡る酸素に呼応して肩が後ろに下がる。
如何にも健康そうな見た目をした少年の唇が震わせた音は、誰もが浮かべた想像よりずっと静かで穏やかであった。
「おれは伊三路。茅間伊三路。この町の名と同じ響きで、漢字は町が関する"之"を抜いてかやのま。伊呂波の伊に、横線を三本並べた、そう。数字の"さん"。そして岐路……二また道を書くときの、みちのほう。姓のほうが親しみやすい響きだね。でも名前で呼ばれたほうが嬉しいかなあ。よろしく頼むよ」
水面を渡り歩く風を思わせる声音で伊三路と名乗った編入生は、無造作に跳ねた髪の毛を揺らしながら目尻を下げていた。人々を慈しむような優しげな視線が教室の上辺を撫でている。
「お、まえ……!」
昨日とは異なって和装姿でなければ、頬にべったりとした血をつけているわけでもない。
新品のブレザーと糊が効いてシャカシャカとぎこちない皺を描くシャツ、結び目が不格好なせいで絞り口が歪んだネクタイを締めた立ち姿。今後も身長が伸びる予定を考慮してか、足を入れるために大きく口を開いた上履きの甲に覆いかぶさるスラックス。上履きと聞いて想像する簡素な靴と運動靴の間にいるデザインの上履きに汚れがひとつない。
まさに服に着られるという表現の似合う初々しさである。だが、祐には彼があの少年であるという確信があった。
見紛うことは絶対にないと、珍しく一〇〇の言葉を使いたくなるほどである。
反射的に、勢いよく立ち上がっていた。
簡素な椅子が音を立てて、そのまま後ろへ倒れた。
大きな動作のせいで薄気味の悪い皮膚の下で傷がずくりと痛んだ。
上半身を屈めて額に汗を浮かべている祐に対して、椅子が倒れる音で振り返った生徒たちの視線が一斉に祐に刺さっている。
ぐるりと虹彩が下を向く。
その先では、先ほどまでうざがらみをしていた暦までもが、声を上げた祐へ怯えと怪訝を浮かべた表情を向けている。
口を開きかけて、口を閉じた。喉奥で引き攣った息が声として震えないように嚙み殺している。
今、誰に弁明をしようとした?
昨日の出来事を誰が信じてくれる? 自分自身ですら信用などできていないのに?
ぞっとして立ちすくんだ祐の言葉の続きを誰もが黙りこくって待っている。
暗転。
 そもそもの話だ。
そもそも、誰が自分の話を聞こうなどと思うのだ?
聞くことをしなかった誰かの言葉を、己が誰かにとっての"誰か"になった際に相手が都合よくも黙って聞くことは厚意としての意図があるのか?
またありもしない言葉を、疎ましさをでっち上げた視線を、一方的に、要らないのだと喚く様を無視して聞く耳すら持たずに押し付けられるのか?
どんな意図を以てはみ出し者にして、どんな意図を以て言葉をなかったことにする? どんな言葉を以て、意思のない者という概念を付与する?
どんな言葉で、どんな言葉で、どんな言葉で。
どんな言葉を以てどんな言葉に人を閉じ込めて、どんな言葉でレッテル貼りの偏見に侵す?
砂糖菓子の表面を弄る手が身体を腐らせていく。そうだ、自分は意思のない者だった。
どうでもいいという感情が広がる。
無駄な抵抗をぱたとやめている。やがて瞳孔を絞る力がなくなった自分自身を少し離れたところで見ている。
「そうだね、じぶんのおもうようにりかいがおよばないものがきらいだもんね。ぼくは」
耳元で透明に響く。真っ黒なインクが。つよい粘りけが糸を引いて沈んでいる。
汗がこめかみを伝っている。
違う。ここは教室だ。
唾を呑む。
反対側でひどく興奮した己の息遣いがする。
 暗転。視界が転がり続けている。この風景はどこだ?
遠くで陶器の割れる音がする。よく知っている。
陶器が割れる音は、感覚としてはどことなく硝子よりも低い音がするのだ。本当に、僅かに。
飛び散った硝子よりも陶器片を踏まないように歩くほうが得意である。
きっと割れたのは陶器だと仮定してはよかった、と安堵を得る。
色のついた破片を避けて通るのはずっと楽だ。
硝子片は光の屈折によっては存在を潜める。時にその面では目視できない。
多くの角度から推測をして慎重に歩かなくてはならない。目に見える情報は裏切らない。
しかし、脳は見たいものを見たいようにしか見ることができない。
それが多面体であって、角度によって目視の理解度が変わるのであれば、脳内でくみ上げたものの正確さは精度は下がっていくばかりだ。
故に。俺は散らばった硝子片の一粒の形を正確に想像することはできないし、一粒をようやく理解したところで、あとどれくらいの硝子片を脳で処理したら部屋を脱出できるほどの歩を進められるだろうか?
部屋の中ほどまで来たところで力なく立ち尽くしている。
遠くまで転がる硝子片に光が反射して輝いている。水面だとか、星空だとか、そんな形容はない。
あとどれくらいかかるか、考えるだけで気が遠くなる。
思考を逸らす。
細かな絵のついた皿がその形を失っていくことに慣れることはない。少しの虚しさを知る。
そういえば、形あるもののすべては跡形もなく壊すことができるということを初めて知ったのは陶器の割れる音だった。
 飛び散る陶器片から焦点ががぼやけて、狭くて暗いところにいる。
膝を抱いている。身体を小さくして、耳を塞いでいる。足音が近づいている。
抑圧を強いてきた言葉で、支配した欲の上で、どうやって? どの言葉を使えば適切なのかがわからない。
酸素が回らなくなって、ぼんやりする。
目に見えないものは嫌いだ。理解ができないから。
間違いなく知覚できるはずの情報共有を正確にすることができないから。
「かわいそうに。でも、すきでしょ?」
幽々に恍惚と、高い音域で掠れた幼い声にはっとする。
白い壁の高いところに窓がある。くすんだ青の影が覆っているが、白い壁に反射した光が淡く灯って暗がりは感じさせなかった。
息を吐く。またここだ。
照明を落とすスイッチの回路を遮って明りを消すように、意識を沈める。
それはまるで瞬きをするように、単純で、深くて、無意識の領域を知覚の通すすべてで感じ取る。
暗転。暗転、暗転、暗転。
どうしてか、ここは冷たい色ばかりだ。

 きゅう、と捕らえた光に瞳孔が収縮して汗が伝った肌のくすぐったさを思い出す。
沈黙が薄手のカーテンのように上から優しく教室を覆っていた。先ほどの伊三路の視線にも似ている。
反射として出た言葉とはいえど、妙な流れを作ってしまったことに後悔している。
沈黙の中で最上だけが気まぐれな猫のようにあくびを漏らしている。
都合のいい時ばかりの助け舟を求めて黒板の方をみやると、少し驚いて地毛と思われる色素の薄いまつげを瞬かせていた。
ぱちくり。その言葉がよく似合う。
そのすぐ後に納得したように頷くと沈黙のカーテンをぎっちりと握りしめる何者かの手を優しくほどくような笑みを伊三路は浮かべた。
同年代にしては幼く、丸っこい印象を受ける顔からはあまり想像しない節のある指を広げて手のひらを揺らし始める。
笑う肩が微かに揺らす無造作に跳ねた髪の毛先は、まるで感情に連動しているようだ。
控えめに歯を見せて呑気に笑っている。
「わ! 祐だあ。ねえ、おれの机と椅子はもうあるのかな。そうだとしたら、どのあたり? 祐と近い席だと嬉しいよ! 知り合いなんだ」
肩を縮こませながらも上でを前に伸ばして筋肉が凝り固まらないように運動する最上は、首を回してから口を開く。
「そ。じゃあ結崎に教わればいいな。日野春、席変わってくれ」
手を叩いて喜び跳ねる伊三路の声が沈黙をもたらしていた薄手のカーテンを完全に取り去って、緊張が一気に緩んだ。
面倒ごとの一切を祐に押し付けることを企み、即刻口にしたことで叶えた最上の喜びを隠さない声を皮切りに、生徒たちの自由な発言たちが教室を満たしていく。
「なーんだ。ただの知り合いかよ! まあ、よりにもよって結崎の? みたいなとこはあるけど。今に刃物でも持ち出しそうな空気出されたらこっちも気になるだろうよ。思わせぶりだなあ」
あてつけがましいほどにがっかりした男子生徒の声を追いかけてきたチャイムによって朝礼を兼ねたホームルームは解散となった。
 暦と席を好感し終えたらしい伊三路は何度も頭を下げる彼に優しくお礼を言って手を振っていた。
教科書がまだそろっていないからと隣の席の女子生徒に伺いを立てたあと、改めた自己紹介をしながら机をぴったりと寄せている。
一時限目に設定されている教科の担任がドアをくぐり、教壇に立つまでの間に伊三路は女子生徒といくつかの会話を交わしながら教室を眺めていた。
確認するようにぐるりと大きく見渡した視線が、そのまま祐を向いて振り返る。
椅子の背に這うパイプを肘置きにして身体を半分後ろへ向けてる。そしてわざとらしいくらいきゅっと口角をあげ、笑みを深めては大きな右手を差し出した。
「……何のつもりだ?」
「なにって。おれたちくらいの齢のこどもは学校に通うでしょ?」
訝った祐が己の差し出した手を握り返してくれないことを、伊三路は不思議そうにして自身の幅が広く四角に近い形をした爪が描く丸みをを眺めていた。
それきりの会話だ。
頃合いをみて、この手は握り返されることはないということを理解した彼が手を引っ込める。すこし傾げた首がと平行な眉が少しの困惑を滲ませている。
視線を外したままの祐にかける言葉を伊三路が考えている間に、教科担当の教師が教壇に立ってしまったために彼もまた前を向いて静かになった。
だが、思い出したように振り返る。
「今日からよろしくね、祐」
「また会えるかな」、「今度はもっとうまくやる」その言葉たちはひょっとしたら今日のことを知っていたのではないだろうか。
偶然にしては出来すぎている。
目の前で笑う茅間伊三路の考えはまるで読めないもので、祐の中に焦燥が芽生える。
何を考えている?
苛々する。この男は、俺のことを理解している"ふう"に見せるのが上手い。
何処までが手のひらの上だ?
故に。意思が疎通として成立しないことが不服だった。
 まるで悠とした態度と独特に回す言葉に操られているようにいる。
人の言葉を無視してはいけないという刷り込みが祐には存在していた。
他人を受け入れるか否かの定規は個に依存するが、存在を見えないものにするつもりはない。
ただ、言葉がうまく浮かばず、そっと瞼は伏せたままだ。
それでも伊三路は満足そうにしていて、教壇の教師がそれをみて首を傾げる。
「見たことない顔だな。君が編入生か? 授業中は前を向くように頼むぞ。退屈はさせないようにこちらも努力しているのでね」
若い教師が半分茶化して彼の視線を前に促している。
ゆるりとした返事で、授業は始まる。
祐は逃げるように窓の外をなぞりたがった視線を自覚すると、意識して黒板へ向けた。



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