結崎祐にとっての"毎日"はまさに繰り返しの日々であり、延々という言葉に平たくされた憂鬱がずっとそこにある。
崩壊を匂わせながらも決して揺らぐことのない期待のための"余白"をたっぷり持たせた鬱が、グラスの縁で表面張力の浮き上がりを見せつけながらいつまでも居座っている。それを暗がりからじっと眺めている。
目の下に浮かんで匿ったままの隈が沈んでいた。薄い皮膚が乾いて突っ張る感覚を知りながら、長いこと眺めているだけだ。
身体は何一つ自由の制限を受けていないというのに、ただそこにいる。己の後姿を幼い姿がまた眺めている。
視線に孕んだ疎ましさの抑揚に振れ幅が生まれるたびに、水がじわじわと這って浸る居心地の悪さを感じていた。
ぼうっとしていて意思を感じない、分厚くなった氷に空いた穴と同じ色の瞳だ。
虹彩の色素よりも濃い瞳孔が鉛筆で乱雑に引いた線のように、絡まった糸を適当に丸めたように、隙目のある渦を悠々と描いている。
思考はゆっくりと己の内側に向く。しかし、"それ"に対して何かの意思表示をするような己もそこにはいない。
身体だけは自由であるのだ。ただただに震えない糸を肌に乗せられただけの束縛がどうにも、この足元に暗がりを作っている。
グラスの水は、まだ縁に張り付いて膨らんでいる。
 高校生ともなれば、より流行に敏感になったり、背伸びしたりするものだ。
暗がりの領分から眺めるそれらを祐は好きではなかった。
学生の本分は、学業へ努めることである。それと同時に浮かれる生徒たちの笑い声や、極端な視野で語る物事の傲慢さが不快であったからだ。
地均しのための学び舎という箱で、意味もなく地均しの意に反した群れを形成し個性を見出そうとしている。
均すための枠に都合のいい時だけ収まってあれが嫌い、これが嫌いと宣う。
はみ出し者はたちまち排斥されて、あろうことか子供を導く大人はそれをこの箱での実績とする。誇りすらを胸にして浮ついた気に乗せられている。
結論は、どの秩序が崩壊しても最終的にはこの箱で帳尻の都合がつくようにできている。これでは学業のためではなく、ただの、理不尽を知るための檻だ。
長いものに巻かれるのも、巻かれまいとするのも三年という時間の浪費だ。ただ、その中で浮かれている自分を想像したとき、祐はたまらなく寒気がした。
己の立ち位置が効率的ではないことは自覚している。意固地になっている自分を含めて、ここに大人はいない。
自分本位を貫きたいだけの子供のままごとだ。この三年は、かき集めることすら叶わぬほどに細かく自己を叩き潰すためにある。
脱落者も、晴れてこの檻から出るものも"普通"に生きるためには、生まれもってやらかいところに匿ったものを差し出さねばならない。
 浮かれていること、都合よく枠に収まって秩序を語ること――そしてそれに適応できないこと。
三年にも及ぶパーティか通夜かの違いだ。
ああ、それはきっと正しい。笑っていた夜にぱったり死んだ方が楽だろうな。
かといって元より生きた心地はしないゆえに、通夜の雨に晒されながらパーティ会場を嘲笑する。
馬鹿にした拍手を送る自分が一番滑稽だ。
自尊心のためのはずの嘲笑にまた追い詰められていることだけ、祐は気付けないでいる。
年頃特有の興味の流れに押されはしないと高い場所で風を吹かせる様が鼻につくのか、もしくは仕方なく巻かれている人間の思う"はみ出し者はなぜ巻かれないのか"という疎ましげな疑問か。
その高校生らしさに沿わないまま、クラスを構成する歯車のうちでかみ合わないまま存在している祐もまた、クラスメイトからは距離を置かれている。
出席番号順の並びから、窓際の一番後ろの席に位置していることも手伝ってはいるかもしれない。
だが、笑顔や明るい表情の一切を見せず、口数が少ない祐のことを嫌煙して誰もが積極的に関わろうとはしなかった。
二年目の出来事だ。元より、仲良しこよしをしに来ているのではない。
同じく、自ら関わることのない祐の態度もあり、そこに事務的な内容の会話すら滅多になかった。
教材を回収されるべく時も、祐のノートは一等先に教卓に上がったし、返却はいつも教師からだ。
一年目こそ、ノートのまとめ方からコミュニケーションをとろうとする生徒もいた。
「目先の怠惰を隠しもしない、その軽薄さに消費されるためにまとめたノートではない」
クラスの中心に近い、ヘラヘラした態度の生徒が写させてほしいといった言葉に対し、祐がそう言って眉を潜めるとだれも声をかけなくなった。
その生徒が地元出身でありながらも荒々しいところが目立ってきたこともあり、その生徒に対し逆なでする言葉を放った祐までもが関わりにくい人間にカテゴライズされた印象的な出来事でもある。
委員会活動には所属しておらず、部活動にも例外的な無所属をしている。
授業で指名される以外に祐の声を聞くことはほとんどといっていいほどにないものだった。
山に囲まれた土地柄という面からも、その延長にあるコミュニティの面からも、学校というある程度の排他的体質を許容する場としても、異質なのはそこへたった人間ひとり分か、そこへ僅かに満たない質量だけで放りこまれた祐だった。
その態度、一挙一動の背景を知らない人間たちが、よく知る地元の人間のほうに好感を偏らせるのは当然のことだ。
本心からノートの取り方を教えてほしいと乞う人間だったのならば、仕方なくとでも手ほどきをしたであろうことを誰もが想像の延長には置かないでいる。
交わらない平行線の日々は、日ごと立ち位置を変えて地形を悟らせないでいる。
こうして結崎祐という人間の像はいやに冷たく歪み続け、彼もまた、他人を知り得ないが故の偏りに侵されるまでもなく自ら歪んでいく。
 向こう一年を平坦の道と感じるよりは、彼にとってそれは淡々と繰り返すだけだ。代り映えなく、席に着いて五〇分の区切りを聞いている。
昨晩の予習と同じ内容をぼんやりと眺めていた。時にはノートをまとめる際のポイントや、教師の印象的な言葉だけをメモして、勝手に先の問題へ進んでいる。
同じ日々が続く中で、課せられた学業の先回りである予習だけ進んでいることが感情の薄味化を助長していた。
この状況下において学校生活における人間関係を交えろというのは、最初から視界を奪われた状態で導きも存在しない中で正確な道をなぞることを強いられていることと同じだ。
精々与えられたヒントからコツを掴めば難しいものではないのかもしれない。しかし、互いが己がどこに立っているかも口にせず位置確認を怠ったうえに、歩み寄ることもなければその線は今日も離れていくばかりだ。
 今日日まじわりはしない、もはや平行ですらない線の上に、パイプと木材を組み合わせた簡素な学校用の椅子を並べている。
感情の落としどころがないままに燻る肺の重たさは、視界の中心に入れた文字の上を上滑りしている。から回っているうちに文字の端が焦れる。やがて焼け落ちて、教科書特有のさらついている紙質に塵が吸い付いている。
昨日の出来事は、二度と関わることのないことである。
極めて現実からは遠い。どちらかというと、町の異常な気にあてられた――高熱に魘される際の見る、支離滅裂な極彩色の夢だ。
ほとんど首の周辺と言って言いような場所を大怪我して生きている方がおかしいのではないか、と思い始めている。
これだけ肉が薄い箇所で何の神経に触れることもなく、筋や骨を痛めることもないのはどう見ても異常だ。ラッキーだの、奇跡だのという言葉とはあまりに縁遠い。
なにより、痛みは外側にはないのだ。
筋肉痛のような痛みを伴いながらもすべての傷は塞がっている。むしろ傷口に沈着した色素の上を新しい皮膚の生白さが覆っていた。
確かにそこからは凄惨な事故や、目を逸らしたくなる怪我を想像させるが、過去として処理するにはあまりに早すぎる。
気味が悪い。
自分自身が信じられないものが身体について回ることに怖気がする。
疑問の数々は昇華できぬまま、煙を上げぬようにかけた砂の下でごうごうと温度を上げては砂を熱している。
少なくとも澱として定義し飲み下しているものをわざわざ掻き乱し疑問の端を引っ張って持ち去るのは、斜め前の席に集まる生徒たちの渦――その渦の目にある。
「伊三路くん、前はどこに住んでたの?」
「うん? 外に出られなかっただけで、生まれも育ちもこの土地さ。ええと、そう。学校を起点にして北の……とにかく山のほうだね」
女子特有というには些か偏見があるが、間延びして語尾の甘い言葉が飛び交っていた。ゆっくり答える声は同い年の男子にしては少し高い。
それでいてところどころ掠れ音が混ざる。鮮やかな色を拭った後に見え隠れする静けさのと境界を思わせる少年らしい声だ。
「えー、鈴掛の? じゃあ本当に伊三路くんはホントに長くそこに住んでるんだ! ほら、いま観光に力入れてるんだよね。土地が空いてもすぐ入れないもん」
「でも全然見たことない顔だよねー。言われてみれば髪の毛とか、目とか色が薄いし身体弱かったとか? なんでも聞いてね」
"同じ土地に住んでいるはずなのに全然見たことのない顔"である男子生徒は今一番の注目の的だ。
人懐こくてどんくさいくらいの小さな動物を思わせる幼い顔、それと反して少し掠れていてマスコットキャラクターの立ち位置からは乖離した声色。独特の語り口が男女問わず人を惹きつけている。
下手に結ばれて歪んだままのネクタイ。着られている、という表現そのものの様で纏う衣服がアンバランスに見せて、よく計算されたように積み重なっている。
ただ、それが襤褸を出さないあたりが偶然の産物であることを強調している。
祐は知っているのだ。この少年、ひいて男子生徒が、そうやって繰る言葉に反してよく襤褸を出す。そして矢継ぎ早につくろえばつくろうほど、それはから回って疑念を生む。
「伊三路くん」そう呼ばれた男子生徒は不躾な質問に対しても嫌な顔ひとつ見せず、ゆったりと座っては肩を揺らし、控えめに笑っている。
斜め後ろから発せられる陰鬱とした空気をものともしない。なぜなら、それが明確に自身に向けられたものではないからだ。
「確かに! 窓際だと眩しいんじゃないの? 目、酷かったらまた日野春に替わってもらいなよね。そういう理由ならあの子たぶん断らないし、嫌がらないからさ」
「そうさねえ。おれは生まれてこの方"こう"だからそういった感覚は知り得ないけれど、色が薄いと他より眩しく感じるんだね。うん、その時は考えてみるよ。ありがとう。でも、それを言うならば、もっと困っている人が居るんでないかな?」
 さっと意識が引いていく。
チクリと刺さった棘と、先ほどまで穏やかに笑っていた「茅間伊三路」の像が急激に冷えていく。
この人、何を言っているんだろう。そう言いたげな空気が伝播している。
伊三路は目を丸くしていた。至極不思議そうな顔だけだ。
生徒の間で、話題に出さないこと、それが互いのためであると線引きをしている。
今朝のホームルームでもその空気が伊三路の肺に回ったはずだったし、周囲もきっと彼はこの場所では結崎祐と親密にすることはないだろうと思っていた。
それをなぜ持ち出すのだ?
静まった場で、伊三路だけが首をあちこちに向けて周囲の人間の表情を窺っている。
斜め後ろで祐は静寂を保っている。
興味のない顔で聞こえる会話を受け流しては焼け落ちた文字を再認識するために、さらさらした紙の上に積もった灰を手の平で払っては焼けくずを集めている。
じっとりした空気に折れたのは祐だ。ほんのすこし居心地が悪くなって、教科書を閉じた。
反対に辺りを見回して、凍り付いた表情以外を見つけることのできなかった新緑の瞳は細くなってふっと息を漏らす。
「そう。それじゃあ、おれはたぶん、きみたちが想像するような人間ではないね」
笑った顔と同じ姿で口角をあげてこぼした伊三路の言葉に、誰もが息を呑んだ。
今の言葉が本心からの心づかいのつもりかどうかは置いておくにして、茅間伊三路は先の言葉で結崎祐と自身における明確な立ち位置を確認した。
この半日近くでの自身の言動が作り上げた勝手な像をわざと振り返る言葉を発したのだ。
確信犯だ。
前日、町を賑やかしたばかりの事件を思い起こす不謹慎が今更になって重なり、周囲が静まり返る。
ざあっとした風でイネ科の草が揺れて色を煽るように、一面が怪訝を露わにして裏返る。
でも、あの結崎祐を知っている風だから、知り合いのことを気にしないのは逆におかしいのかもしれない。
生徒たちの中で誰もが口にせずとも胸の内で納得に落ち着かせようとしていた。数秒もしないうちに、運動部の男子生徒が首をかしげる。
「実はワルいことに興味あるってか? いーんじゃね。むしろこれくらい言ってみせないと俺たちはそのうち毎日お前に拝みだすぜ。好いやつすぎてさ。穏やかには変わりないし」
それを皮切りに生徒たちがどっと笑いだす。そのうちの数人は冷えた汗から背を逃したがっている。伊三路の細められた瞳が低い足元で周囲の気配を探っていた。
「あは、わかる! それよりさ、話が前後するけど髪の色って地の色? 瞳もきれいだし、もしかして、ハーフだったりする?」
「それも気になる! もっと聞かせてよー。あ、その辺にある店のさあ、そう。知ってる? 辻原屋の」
若芽の色が俗の手垢にまみれていく度に、極めて細くなった弧の勢いは薄れていた。
先に放った伊三路の言葉はすっかり鋭さを失っている。
都会の憧れゆえに、少し離れれば田園ばかりの田舎には似合わない流行りものをふんだんに取り入れて着崩した制服の女子生徒が身体を揺らして笑っていた。
折り返したスカートの裾が揺れている。男子生徒のネクタイを失くした首元が晒されている。
水面下では決して勢いを殺さない茅間伊三路の言葉が尾をたくましく揺らしている。
一層のこと優雅だ。きっといずれはそれすら美と称賛されるだろう。
彼の好感度が今後において上がれば上がるほど正義感は文字に冠する通り、正しいものになる。
この箱は、好ましく受け入れられることのできる椅子に座ったものが一番正しいのだから。
幾つか存在する椅子の他には、公式で当てはめることができるかそうでないかの"その他大勢"が転がっている。
ハーフという言葉をかみ砕くことができず困った顔で首をかしげる仕草の中にあるあたたかい日の当たる土色の髪、いつも異なる季節の緑を思わせる瞳。
都会にあこがれた人工の染色か、日本における一般的な色素を有する観褐色たちの中でも鮮やかに存在する彼の姿は、すべてが鮮烈に焼き付いたちぐはぐな色彩の町を思い起こさせる。
 希釈された怪訝が、酸素よりも低いところに追いやられている。
渦の目は盛り上がりを取り戻し、解放された祐は再び時間を持て余すことになる。
一日のうちに時間を持て余しながら六度――週に二回は七度になるため、正確には週に三二回ある五〇分をサイクルとする間の時間だ。
学校生活を時間で区切った際に設けなければいけない余暇時間だ。
祐はかき集めて並べた文字たちを再認識することも放って己のなかで燻る熱が苛立ちとして表に出ないように、砂を注ぎ足している。
意識を逸らして窓の外へ目を向ける。いつも、窓に区切られた外へ気を向けると楽だ。
まだ向こう一年分は、ここを出れば選択肢が増えるのだから耐えればいいという夢が見られるからだ。本当に狭い箱がどこか考える必要はない。
故に。昨日と何も変わらず空は晴れ。繰り返していると錯覚すれば当然だ。
この後から曇りだせば、いよいよ昨日と今日の境界はセロファン紙一枚にも満たなくなるだろう。
絵筆で広げた薄くも豊かな青に特徴的な麗らかがある。雲だけは昨日より少ない。それだけだった。



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