今となっては暗がり対して最初に足を踏み入れたときほどのいやな気は起こらなかった。
濁った水はまた澱を沈め、一見には底まですっと見通すことのできる平静に戻っている。
当初この離れに位置付けられる蔵と母屋のある土地に踏み入った際に感じたものは、埃と共に何ひとつ残らず追いやられていた。
抜け殻。
すっかり中身のなくなった痕跡だけの、その言葉がよく似合う。
生活の気配は今や全く感じることはなく、冷たい。
生温かさを感じるような水に似た臭いも、染み付いているはずの影がじとじととついてくる感覚も存在しないのだ。
鮮烈な出来事が過ぎ去った直後のための錯覚か、それとも本当に掃きだされてしまったかの確信はないまま、歩を進めている。
もちろんのこと、それはことが解決したためだけではなく、己の経験の浅さはかさが偏った思考を呼んでいたと理解していた。
 鄙びた町のいかにもらしい土蔵に、じっとりとした怪異と言える現象。かつての栄光とはいえ多大な権力と土地を保有していた家柄のひとつとして事情。資産からがらくたまでの珍品の数々。
そのなにもかもが実際に喜一郎の口から語られるまでは、言葉のかたちを定義として脳に認識させているだけだった。
だからこそ、この場にそのいくつかが絡み合って顕現した際に畏れを抱いたのだ。
「全部がなくなったわけではないと思うんだよね。ただ、自然の流れとして瑣末なものが循環をしているだけでさ。だから、きちんと風を通していたらそのうち気にならなくなる。ほら、もうほとんど無害さ」
「そういうものか」
 言い当てて疑問の答えを口にした伊三路に祐が返事をする。
迷いのないつま先は一つの部屋へ辿り着く。二階へ上がった部屋の前だ。襖絵が前を行く肩越しに見える。
伊三路は手荷物を弄り、いつのまにか焼けた着物の灰から無傷で現れたあの和綴の雑記帳を手にしていた。
「うん。なにより、今はこれがおれの手元にある。先に語ったような悪意の影響を受けないも小さなもの、本来どおりの一個の蝕は本能として強者を避ける。これは悍ましい残留思念だ。とうに持ち主が亡くなったいまになっても強すぎる呪いに集った蝕が変異して息をしているんだ」
 襖の中で向かい合ってこちらを睨めつける獰猛な鳥類の墨絵が実在のなにをモデルにしているのか明確には想像がつかない。
この襖絵が来る者を鋭く睨んで寄せ付けないのはなにを――どちらを守るためだったのかを思考する脳が緩やかな停滞をする。
 近づくなかれ、と、いう文句の主語が帰結する地点を知っているであろう伊三路は前をじっとみたままだ。
見つめているとも、睨んでいるともいって表すことはできない形相でそちらへ視線をやったままなのだ。
不得意と自称する暗くて狭いところ。加えてはじめて訪れた得体のしれない場所だったことをひいても、緊張した面持ちは己の苦手と向き合う顔ではない。己の役目と向き合う目だ。
祐は伊三路が何を考えているのか計り知れぬまま、後ろに控えている。
「ながらくこの蔵という縄張りの一番つよい椅子に座っていたんだろうね。雑記帳も放置をしていれば、新しい"あれ"が生まれる」
 押入れへと偽装している襖の引き手金具へ伊三路は手をかける。そのままゆっくりとひらくと、隙間の暗闇がゾッと広がっていく。
意識しなければ一片も感じることのないようなすえた臭いが掠めた気がした。
これは長らく空気の悪いところで雑多と物たちが押し込められていたためだ。様々な臭いが混ざりあい、それを想像させる。
誰のものでもない不安が漏れ出しているだけだ。
全ては錯覚である。実在するものとありもしないものの境界を踏んでいる。
それを錯覚と言い聞かせるか、現実と非現実のちょうど重なる領分と語るかは、既知と未知、または肯定と否定という認識の傾きに委ねられている。
ただひとつ、現状のとおりに有り体を偽って残された上階のなにかが今回の出来事における全ての引き金であったことは、改めて言葉にせずとも理解のできることだった。
「話をするだけならば隠しまで上がる必要はないだろう」
「うん。でも、おれは上にあるものに用がある」
「とってくるか」
 気遣いをうまくかわして伊三路は押入れの中へ片方の膝で乗り上げた。
「よっ」と、掛け声のような声を漏らして飛び、身体の重心を傾けると飛び移るように自然な動きで上段に立つ。
そして祐を見下ろし、ふっと息を吐いて笑った。ほころぶようだった。
「ありがとう。でも、ううん。苦手なものがずっと慣れていないとは言っていないじゃない。安全に行ったり来たりできるとわかっていれば、うん。条件があって、これがわかると幾分か平気なんだ」
まるで閉じ込められていたとでもいうようなことを言う。とは率直に思いはしたものの、祐はそれを言葉にはしなかった。
 黙って後ろに続くと、祐は先に作っておいた懐中電灯の光を拡散させる装置を置き直す。そしてなるべく明るい場所を多く作るのだ。
善意というよりは、それが彼の苦手に自分が誠実であれることだと考えるためだった。
その間、伊三路は棚や行李に収められた書物をパラパラと捲っていた。
横顔は難解な様をしていたが、確かに彼が宣言した通りに苦手意識のある環境下にあることで眉間に皺が寄っていれど、あまりに耐え難い苦痛に苛まれているとは窺えなかった。
 会話が始まるまで、自分が補足するようなことなどあるだろうか、と祐は考える。
それよりも、どうにも思考が浮いて、剥がれてしまいそうな薄い層の下では不安に似た感情がむくむくと大きく膨らんでいた。
左手親指の先端で手袋を縫い合わせる縫製を同じく左手の人差し指でなぞっている。
落ち着かない。目から奥まっていく視神経の根が窮屈になる。
癖のような息苦しさがため息になる。
「――すでに侵蝕された人間が正気に戻ることがないならば、己は何だというのだ? 一体どういうことだ?」
 手元にある文中の一節を読み上げたか、心中を読んだか、やはり舞台上で聞かせるためのものか。
大仰な言いかたともとれる語調だった。
静かな空間をなぞることの比喩に似た指先が古い紙面を撫で、さらり、と、音をたてる。
言い当てられて驚くことはなかった。事実だからだ。
しかし、改めて第三者から聞くそれは想像以上に強い力で心臓を掴んだのである。
ドッ、と、一際なった胸が痛む。
「なーんてこと、考えていたんでないの。当たった?」
紙面から僅かに視線をあげた伊三路は伺いを立てた上目遣いで口端を持ち上げる。
白い歯がかすかな唇の隙から覗いていた。
「極論を言って、きみの腕が惜しいならば黒い火の這いまわる部分のそっくり皮膚を剥がしてしまえばいい。今の医者には移植というすごいらしい技術があるのでしょう?」
 物騒な事柄を口にしながら、事実なだけに繕うことはしない様子である。
その目は皆まで言う必要があるのかと問う意図を示していた。同時にそれが確定に変わることが何を示すか、異なるならば何を背負わされるかという覚悟を求められている。
「ただ、おれが思うのは、きみが日常的な部分ではほとんど平静でいることや、きみの言いぶんから火傷の痕に行うことのできる定番の療法は試した様子であること。それなりに昔のできごとのようであるし、そこからの仮説を立てるなれば」
 唾を呑む。
伊三路は冊子を閉じた。
ぱたん、と閉じた勢いで明るい色の前髪が揺れている。
「原因を与えた者が、敢えてそうしている」
「と、おれも思うのさ。あるいは一口で食らうはずが力及ばすの結果が残ったか。」
ふっと上がった視線が舐めるように上下と祐を見た。
「同時に心の底ではやはりと思ったんでないの。それに、だって、ねえ。きみはおいしいおいしいごはんを"お預け"されつつ目の前にきれいに並べられて、冷めていくところを見ているとするじゃない」
唐突な言い換えが始まった時点で言わんとしていることはわかっている。
ただ、言い返す気力はないのだ。
祐のなかにある茅間伊三路との関係と取り巻くものにおける『なぜ自分であるのか』という理由以外の不可解は、身体に表れている部分に限っては、先の答えによってほとんどが解決されてしまうのである。
言葉が詰まる。引き攣るというよりは喉に異物が詰まったようにして呼吸が堰き止められていた。
大きな空白を呑んでいる。吞まざるを得なかった。
目の前の存在と、その言葉に圧倒されている。
「それで、さあ、きみだったら何年目までならばお行儀よく待てる? とても腹が減っている。それ以外の食事はいつありつけるかもわからない。延々とした飢餓に苛まれながらじっと椅子に座っているんだ。もはやその皿の上にある"おいしいごはん"の食べごろがわからなくなっているとしても。本来であるならばそういうことだよ」
がっかりとしたような、安堵をしたような、とにかく脱力して肩が下がる気配を複雑な感情で綯い交ぜにした祐は静かに聞いている。
半分はどこかで理解をしていたことだ。
だからこそ、これは間を都合よく埋めるための話題を兼ねており、次こそが祐の中で真に渦巻いている疑問につながるための言葉であった。
「そして、それを待てるのは知性を持つ者の可能性が高い。なぜならば生存本能としても常に野生の危機に晒されるならばこれだけの期間泳がせるのは利益がないどころか、横から掠め取られたり不慮に消失したりする。皿の上は安全じゃない」
食事、皿の上と比喩した言葉を受け、今度は祐が注ぎ足しをするように続ける。
なんだ、少しは自覚していたんじゃない。と、言いたげながら、伊三路のまつ毛が多少と驚いたように揺れていた。
「今日のお前はおかしい。前からはぐらかされていた気はしていたが、お前は時たまに話題に出る知性や知能を持つ蝕の正体に覚えがあるのか? それとも、鶴間喜一郎がお前――ひいて例の役割、役目というものに関して都合が悪いのか。動揺の正体はどちらだ」
「……聞きたいのはおれに関係すること? それとも蝕のこと? きみのやり方をいやなふうに真似するならば、おれが質問の全て答えるのは前提条件が変わってしまうから、『割に合わない』って、言えると思うけれども」
「わかった。ならば、お前のことだ。鶴間喜一郎はお前の果たすべく事柄の遂行に不都合があるのか。前者はまだ見えぬ距離だが、後者はもはや避けて通るのは難しい」
滔々と流れる言葉は澱みなく、つらつらと意味を結びつけていく。
交換条件で釣り上げた状況であるだけに、迷いのない口ぶりだった。
「ない。旧い権力の範囲にわずかと触れるならば、名は出る程度だよ。だからおれと喜一郎には直接は関係がない。因縁もないし、十中八九、彼は本当に今日までおれを知らなかった」
 指先で結び目を解くがごとくゆっくりとした説明は続く。
「知っての通り鶴間家は御三家のひとつで、特に町に関わることを記録している立場の家だ。ゆえにおれが思うことの手掛かりがえられるかと考えたし、なにより悪意ある者の息がかかっていないか心配をしたのさ。それはいまのところ杞憂であるけれども、別のある意味では、鶴間家に人間という媒介なくして蝕が入りかかっていたという恐ろしい事実を知ったということだよ、この顛末は。それだけ」
言いかたは砕けているうえに、ある程度の情報は追記すべき部分もある。
これらは共有済として割愛をするとしても、祐にとって納得とするには到底に足りなかった。
まるで物語のように緻密に練られた構想や、編む言葉や、伏線がするすると解けていくことを過度に期待しているわけではない。
しかし、空を掴まされるほどではないものの、仮にこれが伊三路の知るすべてであると前置きしたとしても、どこかなだめすかして言いくるめられているのではないか、と、穿った見かたが脳裏を過ぎる。
主語を明確にされるほどそこに含みがあるのではないかと思考が疑うのだ。
「質問はさせてあげられないけれども、悩んで溜めこみすぎても悪いものにつけこまれてしまうからね。おまけだ。結ぶ縁があるのならば切ることもできる。きみに目印をつけたやつをやっつければいい。今すぐには、難しいだろうけれども」
「――は」
 掠れた声が漏れる。
ただの息遣いではないが、否定を込めた聞き返しでもない。
内側の空洞を確かめるために竹を打つかのように、見ようによっては滑稽であり、ぽろりと出る本音の、つまり純粋な反応だ。
率直に、簡単に飲み下して納得のできるものではなかったのである。
「おれはそのためにいる」
「いつもなんなんだ、そういった言葉選びの本質は」
 どういった意味だ? 真意は?
問い返す前にあらかじめ質問は締め切ったと宣言した目が、視線が、祐を貫いて何の行動をも許さなかった。
そして、ほとんど同時に階段のほうで床が軋む。
「待たせたか」
 思い詰めた様子で表情を固くした喜一郎が後ろ手に入り口である階段の上に板を被せる。そのあまりのタイミングの良さに直面して祐は気がつく。
伊三路が閉じた口を再び開いたのは、喜一郎が近づいてくる気配を理解していた上での最も会話を打ち切りやすいタイミングだったのではないだろうか。
白刃を翻したように鋭く、冴えた色から覚めて伊三路は喜一郎に近づく。顔を付き合わせた老年の顔の上でぴく、と眉が寄る。
伊三路はそれを知るか知らずかと認識するより早く深々と頭を下げた。
「危険に晒してしまってごめんなさい」
沈黙が浮かび上がる。
間をたっぷりと経たあとの喜一郎は静かに、しかし怒りを抑えつけた様子ではなく淡々と理由を知りたがって口を開いた。
「……これは伊三路、おまえによってもたらされたことか?」
「誓ってうそ偽りなく、それは違う。でも、おれはこの土地でこういったことが昔からあることを知っている。し、実際のところ、由乃から脅威を剥がしたのもおれだ。それは例え傲りだとしても、言いかえれば、おれがどうにかできると判断したということだ」
促されても顔を上げない伊三路は毛髪が重力に沿って垂れ流れる角度を辞めなかった。
「どうにかするつもりだった。最初から」
彼を動かす言葉は、すでに彼を非難するか、はたまた非難しないかということだけだった。
詰られることこそ本来と望んだことではないが、中途半端にぬるい言葉をかけることこそが茅間伊三路という人間を責めることに最も効率よく、彼の行くあてをひどく追い詰めるのである。
頭を下げ続ける姿に喜一郎はゆっくりと手を伸ばした。
 後頭部に触れ、こぼれる房に触れるように引き寄せると大きな手で往来して頭を撫でたのだ。
伸びた影の気配を頭上に感じた際に覚悟した衝撃としてはあまりに優しくかけ離れ、あたたかな導きに驚いた伊三路は、あまりにも簡単に足元をよろめかせたのである。
「ならば瑣末なことじゃないか。冷静になって、いざ心配してもお前たちは外に行ってしまったし。確かに血を分けた孫や伴侶との時間は確かに替えが利かないほど長い。彼女らは先に怪我をしていた。だからといって他の子どもたちを犠牲に差し出したいわけではない。もしお前たちと天秤にかけられたら、私は私を差し出すための提案を幾つもしながら泣き縋ることになるだろう」
目を丸くする伊三路の後頭部を撫でつけたあと、乳飲み子をあやすように肩を叩く喜一郎はその間隔をうまくリズムとして掴みながら続ける。
しかし伊三路も頑なであった。
「許されたいわけではない」と、一切頭を上げずに語る姿を珍しいものだと感じると同時に、自身の気配を限りなく薄いものにしたいと祐は強く願う。
 こういう場に直面する第三者の立場は、捻くれて物事の裏表を気にするきらいを持つ自覚が多少備わっている自分でなくとも、どうにも居心地が悪くて、できればこのまま気づかれず退室したいと思うものだ。
祐はそう考えていた。
ならば言葉にしなければいいのに。と、嫌味らしくありながら自分の他に普段の伊三路すらもが率直に言いだしそうな考えの一つさえ出てこなかったのである。
意味もなく泳ぐ視線がなによりそれを自覚しているとたらしめているのだから、なにも自身に言い訳する事柄もない。
「それに、鶴間家の男児が家督を継ぐ際や女が当主へ就いた際に迎えられる婿養子はな。長い時間をかけてこの土地の歩み、その気の遠くなるような記録を読まされるのだ。ならばどうして伊三路だけを責められることになるという? 知ることだけでこれだけの過剰な責任を負う必要はない」
 地域振興の一旦を担う商業の貿易や地域の習慣、祭りごとは今日(こんにち)ほど内外へと多岐に渡る複雑を極めることはないが、膨大な年月という町の足跡を要約できるようなことをポツポツと喜一郎は語る。
「まあ、私もこの目でその一部を見るまでは、帳簿や振興の記録と一緒くたにある娯楽小説のような怪奇譚を馬鹿げていると思ったこともありはしたが。ずっと、これらの記録をした筆者は豊かな空想癖を持っていて、同じく記録読みが苦痛になりかけた未来の当主に息抜きをさせてやろうと書いていたのかとすら。それがいつしか伝統になるというよくあるものと考えていたのだ」
 印象的な町の歴史を語る口ぶりとその内容に祐は眉根を寄せることもあったが、怪異だの怪奇だのによる不可解が遠因と思わしき部分を除けば、よくある山村の足跡だと思えた。
民話や、民俗学的観点や科学の発展過程において、正体や原理が解明された事象ではないものや解明することができないからこそのそれらをそういった逸話の額装に当てはめて有耶無耶にしている。
少なくともそうやって隣り合う非現実を知らぬ人々から遠ざけつつ、教訓として刷り込んでいる事実を一部の記録係の人間は本来知っているということではないのか。
祐は無意識に下唇を噛み、それに気付いては口元に手をやってそれを聞いていた。
思考する姿にも似ている。
これらがどの程度の正確さで伝わっているかというところで今後の立ち振る舞いに関わるのではないか。そう考えるならば己がやるべきことが何かを改める必要がある。
少しずつ、しかし確実に場の空気から精神的な距離をはかろうとしながら思考する祐とは対照的な立場で、ひたすらに責められるつもりでいた伊三路は予想に反して与えられる言葉の都合があまりに良すぎるのではないかといっそ疑っていた。
直面してうまくでない言葉の数々に、凝り固まって意味をなさない文字の音を吐いていた。
「人が気をやるようなことは嘆かわしいことであるが、この町では稀にある。事実だ。無情かもしれんが、それが誰になるのかはまったくわからんもので、そこに権力の有無など無意味に等しい。人の道理が通じぬ何者かの仕業というなれば、それはそれらしい理由のひとつになることができると確かにつながる」
「喜一郎」
「故に、時に神というものに救いを求めながら、それでも最後は人間が選んでどうにかしてきた。仮に存在する神もときに仕留め漏らすことはあろう。それの終着駅のひとつがこの土地と言えるのではないだろうか。そもそも俗世に目を向けぬやもしれん」
伊三路に周囲を見るように促して雑多な二階の広間を見渡す。
そして指で周囲をさし示した。
「お前はこの場所に踏み入ってから、目に入れた物品のすべてが何であったかわかるか? どんな特徴をしていたか、色は何色だったか、並びはどうだったか」
伊三路は怪訝に首を傾げる。「……わからない」
「そういうことだ。見ているぞと子供には脅すが、もし神がみなを一個人として注視するならば仮にホタテになっても目が足りんだろうに。見えぬものに縋るのは結構だが、良くも悪くも人間の秩序が敷かれた世だぞ。厳しいが、記録を叩きこむうちに薄々とそんな価値観を植え付けられるのが鶴間家当主の定めだ。だから、結果論でも無事ならば今は良い。やめてくれ、そんな顔は」
「な」と、喜一郎は伊三路を抱きしめた。
「ありがとうな、伊三路。由乃が救われたのは間違いなくお前のおかげだ。暦君も祐君も、お前が動きやすいようにしてくれたんだろう。今さら怒ってはいないが、無理はするんじゃない」
伊三路は困った表情のままだ。それから俯くばかりだった。
「そんなふうに言われたら、おれはどんなふうに応えればいいのかわからないよ」
 それらをそばで見る祐は気まずいながらに、よく見ればまだ自分よりも幼いのではないかという外見をした伊三路の、想像よりも白く細い首筋をぼんやり見ていた。
薄暗い場所で焦点が絞りきれぬ眼前の光景が霞む。
彼の空元気は己が思う以上に巧妙に偽装されていたのかもしれないと考えていたのだ。
仕出しの弁当を回収しに行った際に電話をした前後の態度で察するあたり、自責の念にかられていたのだろうと思う。

 この町はあたり前のように伝承の中の出来事や神を信じる。
それを成し得る文献が存在するというのならば、仮に主観として日記に等しいほど出来の悪い記録だとしてもぜひとも見てみたいものだ、と、皮肉ではない意味あいを含んで思考する。
なにより突き動かされるのは、自身の手のひらに走る痣のような黒い炎が熱を持っている錯覚があったからだ。
視線を僅かに戻し、感動的な場面の行く末を確かめる。
 祖父と孫のように親しげに寄り添う二人の姿は離れてひとつずつの存在に独立していた。
普段の姿と比べると跳ね毛の萎れたぶんだけ小さく見える伊三路がはにかみながら、かすかに洟をすする音が聞こえる。



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