正確に語れば、庭先と蔵を往来したり一時的に敷地をはなれたりしたことは何度かあった。
敷地の内外で大きく景色の異なる様相をする場所のまさに境界を跨いだという意味では、訪問という言葉に満たずとも、もうわずかに多く見積もっていいはずのことだろう。
しかし、形式ばって数えればたった二度の訪問にも関わらず、脳に焼き付くには印象的すぎる出来事がいまも瞼の裏側に張りつているのだ。問答無用に断片が思い出される。
もはや何度も訪れたことがあり、長い間を知り合っているような錯覚すらをも思わせる力がこの建物群にはあった。
生垣のそばを歩き、門扉へ向かう。
角を曲がった先では暦がつま先で地面を蹴りながら、落ち着かない様子で生垣の切れめである簡素な門扉を塞いでいた。
つまり、伊三路と祐の帰りを待ち構えていたのである。
その表情から、やはり極めて張り詰めたことはないだろう。
ちょうどこの土地の境界を跨いだ祐はそのように率直な感想を抱いていた。
「それで、まさか、喜一郎は冷静になればやはりと思うことがあって怒りでもしていたの?」
 出会い頭、目が合うと一瞬だけ重く水を吸った緊張がべったりと濡れた衣服のようにはりつきかける。しかし伊三路の声ですぐにそれは塗り替えられた。
未だ物々しい空気に圧倒され、後味の悪さという尾の揺れる様を残して居座っている場にも関わらず、あっけらかんとしている。まるで天気の話からはじまる世間話と聞き間違えたかと疑うほど極めて軽い語調で尋ねたのだ。
「あー、えっと。うーん。怒ってるっていうと、ちょっと違うんだろうけど……話が聞きたいみたいでは、まあ、あるみたいだよ」
 言い淀んだ返事にそれはそうだろう、と、祐は内心で同意する。
そしてなにより、尋ねた本人すらもが「そりゃあ、そうでしょうね」と興味深く呟いた。
なるほどやはり質問というのはきっかけにすぎず、その先にまとわりつこうとする薄暗さの邪気を和らげるための言いかただったらしいのだ。
彼のなりの気遣いが果たして有効であったかは知れないまま、妙に萎びた空気は拭いきれぬ色を残している。
「うん、ちょうどいいや。妙な調子で引きずって彼女らに会うわけにもいかないな、と思っていたんだ。もうすこしばかり話をしてこよう」
「わかった。伝えてくるよ。いまもユノさんたちといるから、伝言というかたちで」
荷物を受け取った暦が途中で振り返った。「結崎くんはどうする?」
は、と目があっては自分が聞いてもなんだろうと手伝おうと祐は暦の後に続こうとしたが、それを伊三路が言葉で引き止める。
笑ってごまかすことこそ避けたものの、曖昧な眉の根が眉間にしわを寄せていた。
「祐にも来てもらいたいな。おれだけの口では説明がややこしくなりそうであるし。こんな時にことが起きるとは思っていなかったからまだ話してもいなかったこともある。そして、それらはこの関係の上ではいずれ暦にも説明が必要になる。ぜんぶ事実でしょう」
 駄目推しに伊三路は続ける。極めて冷静な様子だった。
「そこできみは少なくとも訳知りであるし、白羽の矢が立っておかしくもない。今日の場でも暦に説明をする場でも、補足できる人間が多いほうが助かる。一気に聞くと混乱するからね」
「関係者と思われるのは面倒だ」
だからこそ祐も同じく冷静に返す。
 言葉こそ"面倒"に集約されているが、説明をわかりやすくすることは伊三路の努力義務であって己が努めて必須ではない。
この場の勢いに押されてあとから畳みかける面倒に労力を割くことまで考えれば、安請け合いで挑むには割にあわないのだ。
信用問題において己が強い立場にないことを祐は祐なりと十二分に理解を示しているつもりである。故に、言葉は正確には足らずとも、嘘や偽りはない。
加えて自身の祖父の友人に、しかも一聞では到底に信じられないようなフィクションめいたことに関わっていることを知られるのは不都合なのだ。
認知に差があれど紛れもない現実の一面というものを認めるには、何度もこれを知って、あるいは死にかけないと無理なことだ。
祐の辟易した態度を知ってか知らずか、すぐ近くから聞こえた伊三路の声は優しく諭すかのようだった。少なくとも、祐にとってはそう誘導して聞こえた。「喜一郎はわるい人間じゃないよ」
「別に、鶴間家の人間や彼を嫌っているわけではないが」
じい、とした色が黙っていた。「が」と中途半端に切れた言葉の続きを利口な犬のように聞きわけよく待っていのだ。
言葉というものは強いもので、歯切れの悪さという己の責任によってこの場で更なる発言を求められることは正当な最速である。
祐は参ったように頭を抱えたくなったが、同時に鶴間喜一郎になにか思うことがあるのは目の前の男も同じはずではないか、と、思い出して視線を上げた。
「……わかった。ただし、後でリターンは頂戴する。お前と俺の関係上の利益を配分するものと思えばいい。こちらの要求は、俺の知りたいことをひとつ、禁忌でない限りは秘匿したい情報だとしてもある程度の譲歩して開示してもらうことだ。異論がないならば同行する」
 息を吸い込んで酸素を行き渡らせると、肺が膨らみ、胸が内側から押されるような気がした。
伺うように伊三路を見る角度が無意識に顎を引いている。
一方で、相手は駆け引きも取引もしている自覚がないのか、あくまでもただの提案に返答をする意で答えた。
 事実としても、伊三路にはそのような気はないのだ。
捨てさせられた手段を別のかたちで補填しないかぎり、差し出すものがなくなった時点でこの関係は一方的に消費される関係になる。その懐疑心が突き動かしたことだった。
「いいよ。ただし、知識の有無という意味で持っていて、且つ答えられることならば。と、いうことにはなるけれども」
伊三路は唾を呑む三秒を黙り、納得すると深く頷く。
透き通った瞳と朗らかな口元に祐は目眩がした。
眼前を白く塗りつぶすほど鋭い光に脳が真正面に貫かれるようだった。



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