「うん、うん。そっか……じゃあ、よろしくおねがいします。ありがとう、ふたりとも」
 伊三路と祐の置かれた状況の共有に相槌を打ち、返事をする暦の声は想像よりも安堵に満ち溢れていた。
つまるところで、鶴間夏野とその孫である鶴間由乃は無事に――正確には精神に異常をきたすことなく、普段通りと変わらない様子で目を覚ましたのである。
『だから、彼女らに負い目を感じさせないように極めて気にしていないように帰ってきてほしい』。暦が伝えたかったことはそういった内容だ。
安堵する声の向こうで、由乃の子犬が甲高く自己主張をして吠え散らすような声で何かを訴えているのが聞こえていた。しかし、それが異常でもなんでもなく通常の彼女のようであった。
スピーカー越しの騒がしい様子に一瞬は目を見合わせた伊三路と祐であったが、周囲がなだめる声もさして異常なことではないと認識している様子から肩に力を入れることは務めてやめることにした。いくら気を揉んで肩をいからせても無駄なことであると理解するに時間はさほど必要ではなかったのである。
 何にしても、元より祐は彼がどんな要件で連絡を取ってきたのかを最初のメールにおける文面で察していたため、緊張はとりわけて千切れてしまいそうに詰めたものではなかった。
ただひとつ、日野春暦という人物をより俯瞰してみた場合に普段から大げさな口ぶりはあれどそれがもしネガティブな内容だったとして、過度な心配をかけまいと過小に留める内容をわざと選ぶということはないだろうか。と、いう懸念があったのだ。
徹頭徹尾、唾を飲み込むことさえそのせいで何かを聞き逃してしまうのではないか、と勘繰った面持ちで話を聞いていた伊三路には敵わない。
確かに祐もまたそれなりの緊張を以ってしては粛々と話を聞いていた。
祐が携帯をポケットにしまう様をまだ魂の抜けた無表情で見つめていた伊三路は、操り人形の糸が切れて自我を取り戻した姿そのもののように大げさで、喉が締まるように悲痛で、なにより安堵した息をあげた。
「よかった。安心した。ほんとうに! ああ、よかった。よかったねえ」
 その場にしゃがみ込み、手に提げていたビニール袋を大事に抱き抱えている。
微かに浮いた踵が呼吸に合わせて上下し、背を丸めた小さい姿が揺れ動いていた。
「お前がやったことだ」
 感嘆が息を詰めて身体を揺らす姿がいよいよ嗚咽を漏らすことに重なって見えると、祐は言いようもなく居た堪れない感情に支配される。そこに共感を示さないことがまるでこの場にそぐわないことを何より証明されている気がしてしまうのだ。
せめてとの気持ちで絞った言葉さえもが誰かを言い責める口調に似たことに気づくと、もはや次の言葉をいうことは辞めていた。
 これだから嫌なんだ。いちいちに理解のできないものへ理解と共感を求める関係は。
均衡を保とうとしても言葉を重ねるほど乖離していくことを続けている。自ら苦痛を強いる必要はない。
また間違えた。
 渦に引き込まれかけていた思考をふと留めたのは「ふふ」という気の抜けた笑い声だった。
嗚咽をあげていると思えば、今度は息を殺して笑っていたのだ。
目の前の人物はもはや情緒が不安定なのではないだろうかと戦慄しながら険しく眉を顰める。
そんな祐を見て伊三路は続きを求めた。
「大丈夫さ、いじわるで言っているわけではないってわかるよ。おれにどんなことを言おうとしてくれたの。ききたいな」
上目遣いのようにわかりやすく媚びた視線に絡みつかれることを逃れて呆れた態度を同じく視線で返す。「……今しがた語る必要性は全くなくなったんだ」
「ええっ? うーん、そりゃあざんねん」
 唇を突き出すも、ちっとも残念そうではない表情で伊三路は飄々と語る姿をしているせいで、祐にはそれらの態度が結論としてどんな感情や思想を表しているのかということを理解することができないでいた。
ただ、目の前の人物に不格好である自覚のある言葉を明け渡す必要がない。と、いうことだけが明確である。
先は反対方向に進んできた角を曲がる。岐路を辿っていた。
 祐が足を止めると数歩先まで止まることをしなかった伊三路の背が前を行く。
「……堂々としていればいい。その結果をもたらしたのはお前の誇りだろう。そう言おうとした」
鼻から息を吐き、祐は頭を振って歩き出す。
そして道順を確認するために視線を落としていた紙片を丁寧に折りたたみ直してポケットに丁寧に差し込むのだ。
「その表情を見るに、すでに不要であったようだが」
微かな沈黙を経る。それが雪の下で春を待つ姿のようだ。
沈黙の開始地点から一周をぐるりと周ったころ、それは長いようにも短いようにも思えた奇妙な間を以てして伊三路は上機嫌につぶやいた。「そんなことないよお」
「同じことを別のときにも言ってくれたじゃない。あの部屋で。ふふん、きみは励ましはできるけれども鼓舞は得意ではないというやつかな」
 眉を上げる機微もまるで見通していたことであると言わんばかりに伊三路は堂々と続けた。
祐が語った堂々としていればいい。と、いう言葉とは異なった方向性に飛び出た自信があふれているものの、いっそのことこれらが正しい導きかの如くカリスマ性を持っていた。
なるほど彼の天性を人たらしであると言いたい人間の気持ちが理解できそうなものだ。
伊三路は他人の人間性を理解したように共感してみせることが大層に上手いが、祐に対しては特にとりわけて強い否定をしなかった。
共感も肯定も根拠は手放しではなく、一般論に正しい道徳に近しいかたちで答えは変動こそしたが、結崎祐という人間をよく理解している。
 祐自身もそれを感じており、それ故に時おりには茅間伊三路という存在がたまらなくなる。
その感情を正しく出力できない限り、その正体は、疎ましく、嫌な感情にもみえるのだ。
「おれはきみのそういうところが好きだけれどもなあ? もし、きみがもう駄目だなあってなったならばおれが活をいれるね。次はおれがきみにそうするって約束する」
 ため息をかわして伊三路は先をゆく。
きた道を戻る程度ならば手書きの地図も不要であると一歩を踏み締める足は軽やかだ。
ならば祐はそれについていくばかりとして、舌の上に甘苦いものを覚えて語る。
「……それがないことを願いたい」
 仕出し弁当が大事に包まれたビニール袋の乳白色が乾いた音を立てて揺れていた。
「そうね。そうであってほしい。でも、もしそんな時がきたらまかせてよ」
「他の級友たちは祐へそんな態度は取られないし、きっとはっきりとした物言いもしないでしょ。だから、おれが適任というわけ」小鼻を膨らませてそう語る伊三路の横顔を通り越した視線で祐は彼を見ていた。
伊三路が祐の後ろ姿に目尻を下げて見つめていたことにも気付かないまま、二人はなかなか横並びにはならない足を進めていく。



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