左の手袋を脱ぎ、視線もくれないまま尻ポケットに突っ込むと祐は日に焼けず生白いままの手のひらを晒して伊三路に差し出した。
筋張った手の甲に一本線で走る筋から血が滲み、肌が薄っすらと腫れている。
伊三路はそれを見ると『い』の口で歯を食いしばり、寒気の走るままに肩を左右に震わせた。
これよりも痛そうな怪我を日頃負っているだろうと祐は思いながら、それから痛ましいものを見る目で呟く伊三路を見ていた。
確かに、自分が痛みと他人の痛みは比較しにくい。
「それ、いたい?」
「よほどこの会話を堂々巡りにしたいようだな」
その言葉が音を低くすると、緊張していた肩を自身で揉みながら伊三路は言い直した。
「ちがうよ、そうじゃない。きみの"それ"はいつからあったの。日頃はいたくない? それは蝕の影響?」
 次々と出てくる質問が次第に彼の眉を吊り上げていく。
反対に、息をつく間も与えられない祐はもはや受け流すように瞼を閉じ、自身の手に住み着いた暗い炎のことは伊三路に聞いたところでも判明することはないのだと確信した。
ただ、頑なに一部を開示しない彼が食い下がってくる様は、踏み込んではいけない線を自らも引いたくせに乗り込んでくる勢いである。
その暗黙の違反に僅かながら目頭に固まりかけた絵の具を掻くような窮屈なしわを寄せて祐は答える。
あまりの勢である怒涛の質問攻めもなにも聞きたいのは自分のほうだ。と、衝動的に詰ってやりたい気にもなったが、それをすれば線の上を踏む責任を擦り付け合う気がして口を閉ざす。
意味のないことに議論する必要はない。少なくとも互いにいまの話題の遠因を正しく見破る術はない。それだけで十分だった。
憶測の話をするだけならば、ひとりきりで壁に向かっても十分にできることなのである。結論も仮定も有意義なものが出ないと分かった時点で同じことだ。
「少なくともお前との交流時期には関係ない。通常は痛みもない。影響については不明だ。だから乗じて聞けないかといま手の怪我を見せた。もしかしたら、思い当たることがあるかと考えて」
 探りを入れるために踏み出すことを悩み、上目遣い気味になる伊三路の肩を軽く押しのけると立ち止まったままの道程を進んで先を行く。
緑道に随分長いこと居たままでは不審がられる。そういった目で促して、今度は祐が前を歩き出した。
「もはや"そう"でないものが原因ならば、そのほうが恐ろしいだろう。第三、四と勢力が登場するならば笑い話にもならないからな。そもそも、今のこれだって接触した記憶などない。ただ……先の質問に一部内容が被るが、問われればこれが"勘"の足しになったかとは考えはした」
「うちゅうじん、というやつかもしれないよ。こういう都市伝説の全世界版……"おかると"じみたものでは珍しいことではないのでしょう?」
 ひた、と足が止まる。
こういう時に限っては、背後を歩く伊三路も詰まることなく止まってみせる。ある意味では、つくづく空気の読める男なのだ。
だからこそ、詰まるのは祐のほうだった。無意味な議論は必要ないと言いつけておいて、むやみに言葉を生き長らえさせるような真似をしたことを後悔している。
それだけ触れられたところで意味がなければ、いい気もしない。されどこれ以上の言い逃れも徒労に過ぎると感じたのである。
 大抵のことはうまくいかない。意図した遠回りは秤の価値を凌駕することができなければ、ただ無駄という徒労に終わるのみだ。
二人に必要なのは会話だった。例えそのひとつひとつに意味が薄くとも、蔑ろにすれば答えは尻尾の痕跡すら消し去って迂回路に潜り込んでいく。
「驚いたな。聞く限りでは、お前の敵対する蝕というものの性質は人間の空想の半分ほどは再現できてしまう。そんな見積もりがとれるようなものだというのに、それらを信じるのか。逸れたことを言い出したのは謝る。ああ。そうだ。意図して行ったことだった。もういいから続けてくれ」
 表情は無に大半を薄められてほとんど変わらないまま、そして一瞥くれることもないままコミカルな風体で祐は肩を竦めた。自嘲めいて鼻を鳴らす。
指先の動きで伊三路の持つ思想と言葉へ続きを促した。
「世界はおれには想像もつかないほど広いらしいけれども、それらの歴史には通ずる概念があるんでしょう。本で見たよ。深層心理が深いところで繋がっているというひとつの考えのようなはなしさ。なにも蝕はここらだけに生息するわけではないから、地球上の話であれば言葉は違っても同じものを示している可能性がある。だけれども、惑星単位で異なる場所に蝕が全く同じ性質で存在しているとは限らない。だから、もしかしたら、うちゅうじんはいるかもしれない。と、おれは考えているよ」
言い切って生じる衣擦れと、緩む息遣いで伊三路が面白がっているのだと祐は感じた。
しかし今度は足を止めることもなく道を往く。
 ぽつぽつと見える風景はいかにも木造のものではないが、どこか昭和を思わせる平家と、近年流行りのデザイン住宅と呼ばれるような戸建てが入り混じっている。緑は雑然とした庭木へと色の面積を減らしていった。
祐は街路中にある街区表示板を横目にしながら、先に覗いた手書きのメモと照らし合わせて歩いている。
一本通り過ぎた道を伊三路が指摘し、隣に立って説明をする。そして最後に会話のつなぎ目を一つ前に戻って続きを話し出した。
道の誤りを正すことはイレギュラーなことであり、話が飛び移ってしまうことは確かにありがちなことであるが、まるでその修正にまつわる会話をないものとして指示語を発する。
故に祐はそれを正しく解釈しなおす軌道の修正に四秒かかった。それくらいには継ぎ目のない語り口調だった。
預かりものに文句は言えないが手書きの雑すぎる地図と、間違いの指摘から再構築されるルート、そして伊三路の言葉が絶妙に思考を乱してつながりをうやむやにしたのだ。
「そうではないって言いたいんだね。きみの言葉を借りるとすれば『茶番はここまででいいだろう』かな?」
「当初の会話の続きで言いたかったことを言いたいんだろう。それを続けてくれと頼んでいたんだがな」
「ごめんごめん。つい、ね。あのさ、言いたくなかったら言わなくてもいいけれども、きみのそれは……」
 何が『つい』なのだ。そう思いながらも無意識に傷口を反対の手で覆い隠しながら祐は顎を引いた。
訝しむ様は睨めつける角度にも似ている。もしくは手負いを悟られんとする野生である。
 過去を思い出していたのだ。伊三路と出会った日のことだ。
獣の蝕とかち合い、あまりに危険な"追いかけっこ"をした時のことである。あの時にも勝手に持ち去られた片ほうの手袋だ。
「昔の火傷跡だ。瘢痕は一部をのぞきほとんど境界がない見事な治りだが、火の舐めた痕跡だとでもいうかのようにこれは消えない。色素沈着とは言えないからな、皮膚の上を蠢くものは。故に素手をむやみやたらと晒すわけにはいかない――お前、初対面で気づいていたんじゃなかったのか」
「初対面」と、疑問の意味を理解するよりも早くただオウム返しにして呟いた言葉が間を置いて繋がる。伊三路はひらめいて手を打った。
「ああ、丁字路での。それならば、たしかに。けれどもじっくり見る暇なんてなかったから、後から考えても気のせいかとも、ただの怪我かもしれないとも思った」
 視線が逸れるのを祐は感じていた。
珍しいことである。改めて認めると、きょときょとと忙しく視線を往来させる伊三路の姿があった。
ひらめいて明るい顔をしたかと思えば挙動不審をする姿は、普段のくるくると移り変わる感情に輪をかけており、いっそ疲れないのかと心配をしてやりたくなるほとだ。
祐は漠然とした嫌味と確かな思いやりに似た感情を比べていたが、実際のところ、伊三路が言葉を口にする姿は至っておちついていた。
彼の言葉が普段から感情の起伏と抑揚に富みゆっくりとした速度で耳に触れるからだろうか、とも考える。
「きみがもともと手袋で覆い隠しているくらいであったし、うーん。そうだね。つまり、結果的には……ええと、あの時のおれにできる治療というか、おれの持つあの力が及ぶ範囲ではないと判断したわけだ」
それきり何か思い詰める表情をしたかと思えば、すぐに口を開く。
「大変だったね」
その言葉を聞いて、口の中で砂を噛む感覚がした。
 背骨が肉からそっくり剥がれるかのように背を逸らして逃したくなる不快感だ。
思わず動きを止め、耳の奥底までじっとりと張り付いた嫌な感覚に身体の器官が意識を向ける。
頭だけが冷静だ。
そんな社交辞令じみた言葉を迷う必要などないだろうに。と、祐は感じながら唐突に自身は可哀想であると陥れられたような気分にもなる。
この事実の開示は同情の言葉を聞くためではあるまいと素肌を晒す手をすっかりと手袋で覆い隠した。
「いいや、別に。全身を動き回るならばともかく、幸い火傷のあった範囲にしか這わないからな。見たがっていた切り傷と比べて黙るわけじゃないならもういいだろう。不幸自慢と履き違えられるのは心外だ」
「あ、うん。ごめんなさい。見せてくれてありがとう」
 しょぼしょぼという下火と化した覇気のない声――あるいはぼうっとしたような深いところで考えを抱え込んだ声色で伊三路は返事をしていた。
ぷっつり切れた言葉は特に紡ぐ努力は必要がなかった。
それはこの会話に互いが互いにやりづらさという不便さ覚えている。と、いうわけではない。
単純明快に、不必要であれば空間を共有していても言葉の全てを共有する必要はないという気質の二人であるためだ。
言葉が適切に切れることや、一時的に会話が放棄される言葉があれば、切れはしが垂れ下がったままになることもままありえることなのである。
特に気にする素振りは必要ない。
 加えて、本来、伊三路が気にするべきことは鶴間邸に戻ったあとのことだろうと祐は心のうちで考えていた。
能天気に手書きの地図を見ている男の代わりに、愚直なまでに正直な人間がうっかりと一聞には理解のし難いことを口にしたときに使える上手い逃げの言葉を探して思考に渦を描いていたのだ。

 ずっしりとした質量を受け取る際に底へ手を添えると、まだ生温い気配があった。
乳白色の薄手なビニールに弁当の折箱が透けている。
老舗らしい小料理の折り詰めである仕出し弁当と割りばし、紙質のいいクーポンをひとまとめにいれて手に提げられていた。
 鶴間喜一郎はこの店を大層に気に入っているらしく、贔屓のお礼をただのおまけであると念押しされながら伊三路と祐は早生種のすいかを押し付けられた。
不躾ながら、ちら、と覗くと、ざっくりとブロックカットにされたの瑞々しい果肉がきらめく場所はいかにも家庭的なプラスチック製のタッパーの内側だった。だからこそ鶴間喜一郎との仲は間違いないらしいと受け取っておいたのだ。
しかし、それが運の尽きというかの如く、タッパーは次々と積み上げられた。
「さっき切ったんだから、大丈夫だって。すいかね。うまいんよ」
と、欠けた歯の笑顔を見せた店主にもはや発言を許す間など存在はしない。
これはあらかじめ多めにしておいた煮物。
きいちさんが好きな夏の定番小鉢は今年リニューアルするからお先に味見用ね。やだな、これは口コミ営業の袖の下ってやつさ。お子さんは気になさんな。
ああ、あと、となりからもらったのでつくったとうきびと豆のムース。これは趣味の産物だけど、近所には結構好評ださねえ。食ってみて。
この調子で積み上げられた中サイズのタッパーを、店主はビニール風呂敷できっちりとしたひとつにまとめ上げると丁寧に袋に入れて差し出した。
「すみません、こんなにたくさん」
「いいって。いいってえ! 高校生はあんまり来ないかもしンないけどさ、気に入ってくれたら将来彼女とのデートにでも使ってなあ。表からくるとちゃあんとちょっとした店の恰好しとるんだから」
店主は大袈裟に手を振って大きく笑った。
 引き戸を閉じて伊三路がひとことを発するまで、二人は沈黙していた。
なすがままに店主を肯定し、話をこんこんと聞かされてきたのだ。
正確には訛りが強いせいか度々に聞き取れなくなる会話を代わりに伊三路はこなしたのである。
その甲斐があってかこれでも解放されたのは早かったと思えるが、祐は鶴間邸での出来事以上にげっそりと生気を削り取られた気分だった。
語気が強く、時たまに言葉が理解できないことは無意識の領域に負荷をかけるのだ。
茅間が居て助かった。と、祐は内心では強く思っていたのである。
 裏口側ながら、藍色ののれんがかかった入り口に貫禄を持って佇む年季ある引き戸をそうっと閉めきり、引き手から指先を離す。
少し歩いて伊三路はやっと自由な呼吸を思い出したか、もしくは堰を切ったように滔々と語った。
「いやさあ、なんだか悪い気がしてしまうね。容器に入ると小さく詰まっているけれども、仮にそうだとしてもさ、このすいかを元の形に組み立てようとしたら、これは丸々一個にちかい姿になるんでない? そう思うのはおれだけかね」
言い切って、ふふっと頬を緩めて笑った。
一つ一つの容器は小さいが、すいかを切って詰めたものだけで数個はある。
快く受け取ってもらうためか、一見多くない量であると見せかけようとした店主の努力の痕跡は確実に裏目に出ているようだった。
もてなしへの困惑と、思いがけない収穫に喜ぶ様の両方が複雑に絡み合ったのか、普段からよく見る彼の表情であるはにかみ顔もさすがにいびつさを隠せないでいた。
「概ね同感だ。どの程度の仲か知れぬぶんには差し障りない程度に頂戴すべきという判断が正しかったのか疑いたくなる」
「そうだよねえ」
 頭痛がするとばかりに目頭を押さえた祐を横目にして伊三路は控えめに笑っていた。
しかしながら、一歩を踏み出すたびに息が漏れるかの如く、きた道を戻りながらくふくふと笑い声をあげる伊三路は上機嫌である。
揺れる春の土色をした髪の毛先を眺めていると、このまま飛び跳ねてはスキップをしたままさっさと見えなくなってしまう勢いにも思えたが、足取りは穏やかだ。一定の距離を保っている。
「すこしばかり先取りの夏だね! いただいたものは切ってあると言っていたけれども、おれ、沢の水でつめたーくしたすいかが好きなんだあ。もう少し暑くなったら、水のきれいないい場所を教えてあげる」
 日差しが強くなっている眼前に、そう言って振り返る眩みそうな姿を追っていた。
調子が狂うような出来事ですこしずつ刻みがずれていた歯車が一周を回って、あるいは異なる歩幅がいつか追いつく瞬間を迎えて、祐は霞んで見える白飛びの景色を眺める。
 不意に携帯が震え、画面を見る。
一瞬だけ、よく見慣れた身内の名であったらどうしてくれようという思考が過ぎるも、表示された名はこの場には居ない日野春暦の名だ。
少なくとも、その名義であるアドレスからメールが送信されている。
断りを入れてからその場で立ち止まり、素早く返信を送っていると、物珍しげに伊三路が寄ってくる。
不躾にも画面を覗きこもうと寄せる身体を押し返してから祐は伊三路の望み通りに画面を見せてやった。
明るい屋外で光度の低い画面を見つめることの慣れない行動に首を捻り、彼の眉間に深い皺が寄る。フクロウのように、くいっ、と首は真横近くまで傾げられ、見やすい角度を探る。
次に目頭を瞼の動きだけで中心にひっぱり、しかめ面の中でやはり目は細められた。
見かねた祐は画面を伊三路の目線に捉えやすく自身の手元から翻してやる。
すると、画面の構成を理解しない目が訝しく息を呑んで無機質な文字で構成された文面を見つめていた。
「……日野春からだ」
 ここまできたならば何も説明しないほうが不自然である。しかし、この瞬間を逃せばメールに対する返信に含む質問もやりとりが手間になる一方であった。
最後には「音声を繋ぐ」と、伊三路に説明をし、暦には電話をかけて良いかを確認する文面だけを送り返した。
再び携帯が震え許可が下りると、祐は番号を打ち込む。
スピーカーモードに切り替えた携帯から鳴る音声によって、通話が繋がった瞬間から場が慌ただしい様子を暦の一言が聞こえる前から察することができる。
それが良いことなのか、はたまた悪いことであるのか、音声だけでは判断がつかない。
二人は身を固くして暦の一言を待ち、携帯を囲んでいた。



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