「今回のできごとはいわゆる狐憑きのような──そう、まさに昔から稀に記録されていた”奇怪な出来事”みたいなものだったね。訳知りではないけれども、あまり引きずらないほうがいい。もちろん、それは被害にあった由乃や夏野に後になってのこる問題があったり、疑問を呈することがあったりするならば追い求めてしかるべきだけれどもって」
 緑道風に舗装された狭い小道を辿る足を追いかけながら伊三路の昔話や童謡を語り歌うような調子と声を聞いている。
気付かなぬうちにどんどん深みにはまっていく感覚を知りながらも、すうっ、と冷えていく思考で事の顛末を整理していた。
「そう伝えたんだ」と、言葉を区切った伊三路の耳の形を祐は背後から眺めているのだ。
「蝕はどこへでも生じうるからね。触媒が生身とは限らない、と、いうのも大げさかもしれないけれども、おれもあまり見たことのない様子だった。ああ、でも、影のときも広義ではそういうことなのかもしれないな。とにかく、これを焼いたとき、おれの感情は、停滞というものは一種の衰退なのかもしれないとも思ったんだ」
 砂埃や雨垂れ、経年の劣化でくぐもった灰色に煤けた御影石の煉瓦敷きで伊三路は足を止めた。
それから歩調を変え、再びゆっくりと歩きだす。
緑あふれるこの小道を抜けると再び住宅地に出るのだ。見慣れた雑然とする風景よりも、人工であっても澄んだ空気の中でこの話を終わらせてしまいたい。
そう考える感情を理解することができた祐もまた、速度を落とした一歩で距離を保つのだった。
「時が全てを解決するわけじゃあないんだろうけれども、逆らってまでそこに居座り続けた末に歪んだものを直視せざるを得ないのは気分がよくないね。それをまたこうして評価する者も生きる時間がちがうのだから、当時の価値で正当にはかることはできない。だから簡単に過去のできごとを愚かだかわいそうだって言ってしまうことができる」
 いつの間にか手にしていた和綴じ製本の雑記帳を揺らしながら伊三路は続けた。「日記だったんだ。あまりいい話ではなかった」
「そうか」
乾いた喉が掠れた音を立てるのは互いに同じことだった。この話題に触れることへの後ろめたさのように、言葉を選ぶ距離が実際に言葉同士に間を大きく、広くとる理由になっている。
「うん。鶴間家の歴史において復興の象徴である娘の真相が本人によって書かれていた。姉妹と一人の男の話で、悲劇だった。知るに不都合ある事実でもあるから、しかるべく処分に心当たりがあるだのという大嘘で言いくるめて持ってきてしまった。さしあたりなくやり過ごし、秘密裏に処分できたらと思ったんだ」
「ああ」
「おれは悪いことをしたかなあ」
 小さくなった声に対し、祐は平然と答える。
「例えば法律の裁量ならば刑罰に値する可能性があるだろうが、自称善意の秤では悪びれる気がないのだろう。ならばしれっとしておけばいい。それとも、もうバレたのか」
騙し取られたと仮定して後の罰をどうこうと語るよりも、事実がこじれる方が自分が巻き込まれるだけ面倒臭い。
そう判断をした祐が興味のかけらもなく答えると、伊三路は満足そうな顔をしながら「わるいひとだ」と、意地悪く乾いた様子で笑った。
「蝕の起こす現象に説明がつかないことは確かにあるが、その雑記にどれほどの説得力があるというんだ。また事実であった場合の諸々の所在や家系の根幹を揺るがす内容を含む際のことを考えれば茅間がしたことの理解はできる」
「よかった。同じ考えで」
「共感をするとは言っていない」
「手厳しいな~!」
深い息を吐いて言葉を続ける。雑記帳を捲る指先が離れていくと、劣化した頁が蝕の死骸同様に塵芥の屑になっていく。
「傾いた鶴間の家名を救ったのは間違いなく一人の娘だったんだ。それには変わりないよ。もし、本当に由乃の思考や機能ごと身体を持っていかれていたら、彼女もまた鶴間の復興である象徴の娘と同じ末路をたどっただろうね。今の時代は反物ではないから、再現した彼女の身体がどうなったかと考えれば……奇怪な事件に名を連ねるだけになるだろうけれども」
 相槌を打つ祐は、その雑記帳の中身を察し得ることはなかったが、前を向いたままの伊三路が嫌悪にまみれた表情をしているであろうことはよく自覚した。
そしてぼんやりとした輪郭ではありながら、これらの蝕が寄生する触媒に由来する逸話と瘴気の相性には関連性があるのだろうかという疑問が浮かぶ。
自分のことに関してならばいくつか仮定が立つが、雑記の詳細を知らなければ目の前の男の出自も知らない。
自ら開示しない限り詮索は不要であるという暗黙を正しく貫き通すために口を閉ざすものの、実際に瘴気にあたる伊三路を見たときに祐は心臓をギュッと掴まれ脅かされた気になった。
実際のところ自分が当てられていたときも、客観的に見れば自身が想像していたよりもおそろしいことになっていたのだと認めざるを得ない。
一方的に話したあとからそろそろ聞きたいことがあるのではないか、と、振り返った顔で視線をよこした伊三路に対し、祐は二番目に気になっていたことを口にした。
「茅間。お前は本来、予兆を感じ取れないと語っていたな。今日はことが起きるよりわずかながら早く立ち上がることができたのはなぜだ」
「あれはおれも驚いたのだけれどもさ。それはたぶん、蔵から持ちだす数分間、あれを抱えていたのはおれだったからではないかと思うんだ。しかも、素手でね。ある意味でいう縁が一時的に繋がっただけで、感知したわけじゃあないよ。他に理由があるならばおれも知りたい」
「ある意味では、それがお前が急に学校へ通い出した理由であるとも言えるのか」
「急なことを言うね。まあ、噂話でも尾っぽを追えれば今までよりもずっと早くたどりつけるかもしれない。とは、考えたよね。そりゃあ」
右手で首の後ろを押さえ、わずかに頭を突き出すとうなじが強調される。指先で生え際から下をなぞり、伊三路は気難しく肩をすくめるのだ。
「おれが縁側で座っていた高さからあの部屋の方向、由乃の背格好、あの事態の全容が直線距離でこの高さだったのか。それとも、よくいう背筋のぞっとする感覚だというものかははっきりしないけれども、静電気が刺さるかのように明確な報せと感じるものがあったのさね」
「これって第六感というやつ?」と、嫌味なく呟く様は普段の飄々とした態度に受け取られかねない。
 しかし受け取りようにしてはあまりの不躾に祐は五感で苦いものを感じとり、いかにもな表情で返す。肌がぞわりと粟立っていた。「お前、あの場で今の軽口をしなくて正解だったな」
「うーん、そう? 事実は事実でしかないけれども、当事者からすれば不謹慎ということかな。それでね、次におれが聞きたいことはふたつあるの。いいかな」
気配が刺さったと自称した首の後ろを存分に撫でまわし、ほかに不自然と感じる箇所がないかを確認し終えた伊三路が振り返る。
「祐はどうしてあれが由乃に寄生しているのではなくて、着物に縛られて操られている状態に近いとわかったの」
その言葉で祐は少し前の出来事を思い出す。
 停滞した川の汚泥を踏んできたかのように濡れて変色した足袋を履き、着物姿をする由乃を思い出していたのだ。
身体的に表す反応はあれど、まるで苦痛のひとつない眠りをしている姿である。
試着として私服の上から略式の簡易衿を巻きつけた後で着付けた付け下げから覗く腕や首元や、足首――もちろん顔面や頭部を含めて彼女はまだ健康な人間のままをしていた。
しかし髪の毛先は硬化し、やぶの中で絡まった蔦や蔓の枯れたものや、腕を広げた枯れ木の末端のように乾いていたのだ。
その不可解だけは地続きに人間の構造へつながっているとしても、とても自分らと同じ人間とは思うことができなかったのである。
前髪に近い頭頂部における毛髪の一部はシダの葉よろしく枝分かれした触角の体をなしていた。
人体の生命維持からは遠い場所ばかり変質している彼女を見たところで、直接として蝕が植え付けられているようには見えなかったのだ。
もしくは、まだ人体の致命的な部分には至らぬ浸蝕だ。
祐は率直に前者と思えていた。今になって思えば後者であるとも考えることは十分にすることができたものの、本人が至って健康に昼寝をしているだけであるとすら見える表情がどうしても印象的であったのだ。
「確かに最初は鶴間の気が触れたのだと思った。が、よく見ればあいつは最初から無事だった。攻撃により指先を使ったのは恐らく、袖口から蔓を伸ばしたあとだっただろう。それを妙だと思っただけだ」
 語った通り、次に考えたのは内側からの侵蝕ではなく、着物の生地が触れたところを起点に由乃にとって身体の不自由が生じにくい――つまり、本能的に防衛機能の優先度が働きにくい箇所から肉体が侵蝕されることを許してしまっているのではないか、と、考えたのである。
つまり、着物が覆い隠すことのできる範囲は乗っ取って自由に動かせるが、指先の動きが上手くなかったのは着丈の範疇が足りなかったのではないかと考えたのだ。
そして時間が経つにつれて調子の出てきたそれは蝕むことで行動範囲を広げているとしたら、まさに迷うほど鶴間由乃は周囲が知る鶴間由乃ではなくなっていく。
祐は考えていたことをひとつずつ整理して告げる。
よりおちついた場で話すと根拠に欠くことはいくつもあったものの、その場で即時の可能性の判断をするにはあまりに見当外れで不適切を極めるものではない。
現に由乃の身体において蝕は範囲の及んでいない箇所である手のひらや指先に蔓を纏わせ、擬似的に身体の信号を再現して乗っ取ったのだ。祐にはそう見えた。
 由乃の表情から無事を推測したこともあるが、もうひとつ判断の足しになったものについては黙ったまま無意識に手を握り込んでいる。筋肉の動きによって引っ張られた傷口がじく、と、痛覚と熱を再現する。
祐は耐え忍ぶように奥歯を噛み締めた。
「なるほど、とは思ったよ。おれも今回は嫌な気に当てられていたから何もわからなかった。偏った思考だった。でも、普段のきみがそう思うには曖昧が多いのではないかとも感じた。言うならばよくある表現で、『勘が働く』感じがした……と、いうことはない?」
「勘?」
「そう、きみが帯びた体質に由来する縁はたしかに働いているであろうし」
 説明をメモしながら聞いていた伊三路は、自身が瘴気に当てられることは滅多なことではないはずだったと罰の悪さを覚えながら、話題を移した。
「特に自覚して発言することはないな」
生徒手帳のメモ欄からわずかに視線を上げていた伊三路は肯いた後に祐の発言をまとめると、言葉を待つに伴って止まっていた手を動かすことを再開する。
「じゃあ、ふたつめ。怪我の調子は? 打算としてきみにそういうことをしてほしくてこの関係をしているわけではないけれども、今回は、いや、今回も本当に助かった。ありがとう」
そう言って感謝を述べたと思いきや、息をする間だけをあけて矢継ぎ早に伊三路は本題を切り出した。
他に口をきく瞬間を許さない気概をひしひしと感じられた祐は思わず気圧されそうになって唾を呑む。
「だけれども怪我自体は別の話だから。確認をしたくて」
言い切って口を引き結ぶ。
祐は相変わらず大した興味もない話題と質問には事実を淡々と述べた。まるで一問一答に長けた機械との対話よろしく簡潔であり、包み隠さない内容である。
ここで変に繕う理由もないが、嘘を言えばこういう時に限って茅間伊三路は普段以上に他人の様子や心の機微に敏感であった。
「紙で切るのと変わらない程度だ」
「変わるよ! きみのことだから錆やばい菌の入るようなやりかたはしないと思う。だけれどもさあ」
「手指の周辺は細かい血管が多い。故に傷をつければわりにたくさん血が出るように見えるのは不思議なことではないだろう。口うるさく言われる筋はない」
「おれのためにちゃんと教えてよ。おれに甘いってわからせてくれないと同じことをしてしまいそうだ。わかっていても、怖気づく考えは簡単に変えられそうにはないんだもの」
 堂々巡りだ。一、ニの話題が三という結論に至ることができず、応酬のうちに話題の一に戻ってしまうのである。
なかなかに食いさがって離れない伊三路の言葉に祐はどうしてやるべきか迷った。
しかし、彼にとって意図せず他人を巻き込んだ戦いになったとしても、それを遂行するという意味では考えを改めさせることは確かに必要なことなのだ。それに代わることはない。
「ごめん、やつあたりみたいになってしまって」
言葉の応酬が沈黙へと移り変わろうとしている間に、頭にのぼった血のまわりが落ちついて来たらしい伊三路が萎れたように元気なく言った。
「……そこまでいうなら比べればいい。それでわかったら長たらしく喚くな。するべきことは別にあるだろう」
 伊三路の語る"勘"にひとつ手助けをする正体を知ったら何を言われるか祐は考えていた。
自分自身が最もこれを知りたいのだ、という事実を述べるしかないだろう。
そう結論付けて痛みを訴えている左手の素肌をゆるく撫でた。




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