それから様子の見違えた由乃を抱えて戻った伊三路の姿を見た祐は、何をそんなに悩む必要があったのかすら疑問に思った。
確かに彼の頬はやつれたといってもよい様子であったが、あれらの葛藤や鬱がまるで茶番ではないかと言いたくなるほど時間はかからなかった。
彼に届いた言葉に責任感を掻き立てられたか、それとも自棄に近いかたちか定かではない。
ただひとつ、結果を持って帰ってきたことだけは確かであったのだ。
付け下げを剥がされ、私服に首元の合わせだけが再現され略式用のつけ衿を巻いたままの由乃を抱える反対には、腰紐で乱雑かつぎゅうぎゅうと締め殺された着物を抱えていた。
まるで役目を終えた雑紙を集積所に運ぶために縛るかのように縦へ横へと紐を通して一つに纏められている。極め付けに膨らんだ結び目が取手となっている。
そして一体何が起きているのだと遠巻きに不審なものを見る目をした祐に、やや疲れた顔で伊三路は笑って答えるのだ。
「次に駄目だったら、また次に駄目だったらって言っているうちにだいぶん由乃から剥がしとってしまったみたい。けれども、結果的にいえばきみの言ったことはある程度はそのとおりだったのかもしれない」
目元は暗い。
力ない笑みは称えたところで二、三年分は確実に老けたようなくたびれ顔をしていたが、いくつか塞ぎ込んでいた靄は晴れたらしく語調には清々しい様子も滲んで存在している。
「まあ、これでも役目役割をめそめそしながらやり過ごしていたわけではないからね、おれもさ。なにがどうなっても関係がないっていうならば確かにやりようがあるのさね。気を強く持たなくっちゃ」
 そう語るとわざとらしいほど作り笑いを浮かべる。
弱々しい笑みに対して背を逸らしたくなるような居心地の悪さを知りながら祐は「そうか」と返すほかなかった。
 事態を収めた人間の苦悩は露知らず、すやすやとまさに文字に擬音を起こすことが似合う様子で眠る由乃は先ほどまでのの出来事を聞いたらさぞ驚くであろうと考える。
伊三路の腕に抱かれる由乃の長く艶やかであった髪は肩ほどまでの長さにざっくと切りとられ、私服姿に戻っていたが、彼女自身には取り返しのつかない傷などひとつとして存在しない。
美しい白い肌は玉のようだ。爪の引っ掻き傷ひとつ、白く残る筋はない。
指先の背でそうっと肌を撫でた伊三路がバツの悪い表情で彼女を見下ろしていた。

 日野春暦という対人に特化した防御壁を押し切って真実を知ろうとした挙句、切羽詰まった様子で説明を求める声が止んだ瞬間の静寂は恐ろしい。
音がなくなったようにして、ただ日常が流れ出すことは耳鳴りにも似ている。誰もが大事なものを失わないためにそれを求め、また別の者が別の何かを守るために口を閉ざす。
誰にとって何が真実で、どの嘘が不都合であるかということなど、完全な一致はないというのに一から十までの説明を求められずにはいられないのだ。
深刻な事態が起きていたことに取り乱した喜一郎ではあったが、最初から三人を疑い、その気になれば多少のこじつけでも縄にかけてやろうと考えているわけではなかった。
いくつかの説明を行うことで、現実味ある生活をしていればそうそう出会うこともないような納得のいかないことへ指摘の声を上げたり、また嘆いたりすることはしても、根拠ない糾弾はしなかった。
信じられないといった表情は最後まで隠しきれていなかったが、「まだ万事解決には至っていない」と、言って件の付け下げ着物を見せつけた伊三路がそれを燃やす手筈を淡々と整え始める。
的確に用意するものを指示されると、一部の事情を知っている祐や暦を含めてまで一行は従い、それらをより深刻に信じざるを得なかった。
 なによりの極めつけは、蝕の痕跡が完全に砂や塵と化してしまう前に、枝の伸びた一部始終が残った部屋へ喜一郎を案内したことだった。
否が応でもその輪郭はより根拠ある真実味を帯び、こじつけようのあった要素までもがただの人間が一時の小細工に精を出したところで不可能である事実だけが残ったのである。
仮に茅間伊三路という人間が知人を平気で私利私欲に扱うことに抵抗のない極悪人で、かつ今世紀でも指折りの詐欺師としても、これは一人芝居にしては手が込みすぎている。しかしだからといって数という人手と労力の提供元を雇ったところで実現の出来ない。
横たわるは不可解の干渉だけだ。種明かしをすればするほど、白日の光よりも一枚向こうが深淵である瞼が近づくのである。
 うっそりと仄暗く、しかし時間が経つほど消えゆくだけの煙に似た疑問が残ったまま庭へ戻る。
伊三路は仰々しい儀式の一工程のように沈黙を保ったまま、外箱に備えられた側薬へマッチの頭を擦りつけ、火をつける。
指先の動作よりも瞬きひとつの遅れをとってからバチッという音と共にすり合わせた熱が弾け、空間の狭間から歪が揺らぎでたような熱源があらわれる。
胡乱に揺れたその色を眺めることなく小さく唇を動かすと、指先は、小細工ひとつない――とりわけて雑紙のように適当に紐で縛られた状況を除けば、まっさらで美しい着物へ頭に火の付いたマッチ棒を落とした。
そして、ここで再び不可解の証明がなされることになる。
ただの着物を焼いただけだというのに明らかな異臭がしたのだ。
ぬらぬらと光るだけの火が長い舌で生地を舐める。
「たかだか布程度に火付きが悪い」と、喜一郎が訝しさと不安を織り交ぜた声色で呟くまで、誰もが黙って煙も立たない火を眺めていた。
油を吸わせた新聞紙とゲル状の着火剤を投げ入れてやっと勢いが出たかと思うと、今度はそれを境に一気に燃え上がる。
すぐにあたりは動物の脂ぎった毛に火をつけたような嫌な臭いが立ちこめ、正体はかすかながら饐えたいやな臭いが後を引く。
祐は顔を顰め、暦は憚ることもなく鼻や口の周辺を袖を伸ばした手で覆っている。一方、茫然とする喜一郎の横で、伊三路はギュッと強張った顔で目頭に皺を深く深く刻んでいた。
 結局のところ、布地少々を焼くということを紙を炙り過ぎて消失させることと大差ないのではないか、と、庭で火をおこし行ったことを十分に後悔している。
そう語る口調もあっさりとしていれば、釣銭を要求したくなるほど長い時間を要したと感覚の上では思われていた。
いずれそんな軽口が浮かびはするものの、焼けかすと衣類の跡形もない灰の中からそこに存在のするはずがない雑記帳が無傷で見つかると、いよいよ誰もが顔色を白くして口を閉ざしたのだ。
そうする以外に一体なににどのような反応を示せばよいのか誰もわからなかった。
 この不気味の本質が根深い様と、事実として不可解がこの家に存在していたこと。
誰も答えをだすことができないのは喜一郎の様子を見れば聞かずとも知れることだ。
 雑記帳を開いたのちに喜一郎と連れ立って蔵へ向かった伊三路が戻るまで、場に残った祐と暦は無言であった。
「……ユノさんたち、大丈夫かな」
 部屋で身体を横たえた二人を見守る暦は正座をしたまま呟く。膝に乗せて強く握り込まれていた拳から肩へつながる腕は無駄な力が抜けないまま突っ張っており、顔は俯いていた。
反対に、縁側へ腰をかけて悠然と立つ蔵の姿を見ていた祐は、重苦しい輪に進んではいるほどの親しみもない相手である以上は事態における被害の状況ついて一切の発言することを避けていた。
「発言は差し控える」
背後で衣擦れが囁く。
居心地の悪いらしい暦が無意識の癖でもある手遊びをすることで気を逸らしているのだと察するに難しいことではなかった。
祐は目を伏せ、軽い人工皮革の手袋に覆われた自身の手元を見る。薄く傷をつけた甲の鈍い痛みは思い出したように感覚を刺して存在を主張している。
動作に伴い周辺で皮下の筋肉が伸縮するたびに連動してぴりついていたが、いずれ乾いた組織が傷口をガサガサと覆っていた。
 今日は偉そうなことばかり勝手を言わなくてはならないな。と、うすら寒い思いをしながら不本意と虚構の立場に息を長く吐く。
「だが、現状のいかなる結果も茅間以外では最善ともたらすことはできなかった。この場でそういった術を持つのはあいつだけで、奴も自身の役割とやらには責任を持っている。少なくとも適当をした結果ではないことは事実だ」
「それに、彼は仮に初対面やそれに近い相手でも尽くしてくれる、し?」
補足する言葉が返ってくる。そんな返事が欲しいと言えるのならばさほど深刻ではないではないか、と顔を祐は顰めた。
 不安なことに同意がほしい。同意を得て安心したい。
極素直な欲求に従う暦の言葉が震えている。
聞かなくとも己の信じたいことを勝手に補填すればいい。茅間伊三路にはそんな勝手な補填をされて求められる価値が、少なくともこの場には存在するのだ。
それは結果を持ち込んだことはもちろん、なにより彼がそれを掴む努力と信念を憚らず見せつけてきた結果である。
祐は蔵の二階にあたる天井付近を眺めている。首を動かしこそしなかったが、瞳が目尻をなぞり、暦の気配が存在する方向へ一瞥くれる。
そして再び戻した視線の先で、光と空気を取る入れるための小さな窓が閉まる様子を見つめていた。
「その点や信じるものの根拠については俺よりも日野春。お前のほうが詳しいだろう」
「……そ、そうだよね。ごめん。変なこと言って」
「情を評価の勘定にいれるには提げる錘の誤差が大きいだけに、他人の意見を収集するほど揺らぎになるだけだ。それならば自己完結のほうがお前の不安は軽くなるのではないか」
すっかり氷がとけて茶の薄まったグラスを煽る。
ぬるい香りがじっとりと喉を下っていく。空気は重苦しいままだ。
「謝罪や感謝は茅間にすればいいだろう。今の言葉が報われたいならば、それは仮に彼女らの顛末がどうであってもあいつにしか求められないことだ」
 沈黙は細く、長く続いていた。
暦は気まずそうに何度も視線をあげていたが、会話になりえない以上は祐が何かを答えたり新たな内容を振り出したりすることはなかった。
そのあとから黙ったまま険しい顔をしている喜一郎のそばに付き添った伊三路がその肩を叩きながらぞろぞろと疎らな足音で蔵から出てくる。
 普段よりは平坦な声で話す伊三路は祐のほうへ一瞥くれてから説明を再開した。
「おれ、喜一郎が話していた仕出し弁当をとってくるよ。朝に頼んでいたんだって。そのまま忘れてしまうのは作ってくれた人に失礼だし、お金というものは貴重なものだし。なにより祐とおれはこの場所に居ていいのかわからないから、互いに気を遣うよりもほかに気掛かりのない状態で彼女らのそばにいてあげてほしい。と、いうことでさ」
縁側のそばまでゆっくりと歩いてくると、祐の座る前へ立つ。
自身の目の前にあった景色と光を遮った大きな影に視線を上げる。そこには吸い込まれそうな深い緑色があった。
「祐とも話をしたいし。ね」
「……わかった」
祐が静かに頷いて立ち上がると伊三路は切れ端に書いてもらった地図を取り出し、先を案内するといった様子でちいさく振り返った。



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