その隙に祐は中央の密において開けた部分であり、繭のように入り組んだ空間から伊三路を引っ張り出す。
未だ脱力した身体の腕をひっぱり、半ば引きずるかたちで枝の間を潜り抜ける。最後はほとんど床に投げつけて伊三路を解放した。
 叩きつけられ、転がった伊三路は身体を縮こまらせたまま大きく咽せた。
酸素を行き渡らせた指先をしならせ、肺を大きく膨らませる。喉元をかばい守って掠れた音を鳴らしているのだ。
盛大に咽せさせてやることもままならず、気配を抑えるために祐はハンカチで伊三路の口元を押さえた。
すぐに居場所を悟られては不都合が生じるのだ。多少の苦痛は我慢してもらわねばならないのである。
ハンカチで押さえつける祐の手首を叩きながら、何度も頷いて無事であると訴える伊三路はその手の甲から流れる血を見てギョッとし、ハンカチの下で喚く声を上げた。
「静かにしろ。想定外な状況ではあったが、それがあっても難しかったんだろう。ならばこれは最適解のひとつになりうる」
それ、という言葉が示す――つまり、道中にひっ掴んできたものの役には立たなかったらしい木刀へ伊三路の視線が無意識に下がる。
「きみ、それ」
「ああ、見覚えのある光景だな。随分と用事の多い手だとでも言いたくなるが、替え時だと前も言った」
 祐は繭のように中央部を囲い守る枝の曲線をじっと睨みながら答えた。一瞥して伊三路に繰り返し深い呼吸を促す。
枝が遮る空間の中を彷徨う姿は、まるで人が餌をやり世話をしてやらねば簡単に死んでしまう蚕のように愚鈍な動きだ。あるいは、まだ身体が馴染まず四肢をもがくだけの様である。
「そういう皮肉めいた元気を見せる場面ではないじゃない」
祐の言葉に対し、声を潜めながらもどこかもどかしく苛立つ調子が滲んだ伊三路の声が返ってくる。
声を方向を見つめ直すと、この短時間で一回り小さくなったかのように見える。やつれたとも見られる彼の顔には無数の引っ掻き傷あった。
組みつかれて抵抗した際に牽制しあう指先を弾き、汗の滲む額を爪が掠ったのだろう。
皮膚を抉り、そして鋭さが組織片をこそぎ取っていったのだ。
 白い引っ掻き傷が、すい、と伸び、遅れて血液が線状の傷をする上に浮かぶ様が想像できた。
玉のすがたが膨らみ、ぬら、と、脂っぽく、そしてくどい様を思わせじわじわと広がり、深い赤がやがて一つの線になる。
悍ましいほど重たい光の反射に吐き気を催す。そんな色が多く額や首のあたりで入り乱れていたのだ。
汗と合流し重たくなったそれは、顔面の複雑な曲線を一気に転がり落ちる。
 息を飲む。
どちらからともないことだった。
此度もよろしくすでに取られた人質や、想定される周囲の甚大な被害が彼の一手を迷わせている。普段通りであればまっすぐすぎる視線が逃げると、そう理解することは難しいことではなかった。
だからこそ、祐は滔々と流れる水のように疑問を呈する。まるで澱むことも知らず、悪くいえば感情の薄い語調だった。
真理でどのようなものであるとしても茅間伊三路がためらう理由があることに違いはない。
「それで? 先ほどの語り口からして侵蝕は不可逆なんじゃないのか。どうするつもりだったんだ。なににせよ時間は多くないだろうな」
溢れた疑問に言い訳がましく顔をあげたのは伊三路だった。すぐに目を逸らす。
「回答しろ」
潜めたはずの声が大きく響き渡っているようにふたりは感じていた。
「……人間の細胞を蝕むならば、元と同じに戻すのはむつかしい話だ」
自身の手の甲でぬるい色に薄められた血液と汗を拭う。
そして祐のハンカチを小さく折りたたむのだ。汚れたものは今すぐ返せないとばかりに視線を送ってから右の尻ポケットにねじ込む。
「ならば"あれ"はすでに正気ではないように見えるが?」
「……それは」
それは――?
 枝か根かの境目で引っ掛かる身体で姿勢を崩す哀れな由乃の姿と、伊三路の中で渦巻く答えが不意に足を引っ張る。
身体が時を刻む一瞬だけに迷いを覚えたのだ。
ドキリとした心臓が、地につく足をおいて先を急いたのである。
背後の薄暗い思想にしがみつかれ、まるで泥に足をとられたかのように沈む。古い畳によるい草の枯れたかつての青臭さと微かな土や埃に類する臭いが鼻を掠めていた。
 ほんの僅か、つい先ほどの光景が瞼の裏に浮かぶ。
使命や役目といった縛りの内側にある人間であるはずが個としての交流を深めるたびに諦めきれないものが増えて、途端に自分というものが弱くなる。
以前の自分であれば、割り切れたかもしれない。そう思うたびにもがこうとして模索し、得るものはあるはずだというのに空回っている。
絞り出した声は伊三路自身が思う以上にボソボソと呟かれるものであり、想像以上に小さかった。
「おれ、蝕が憎いんだ。ずっとこの土地を苦しめている。みんなが困るとおれも困るし、誰かが死んだらおれも悲しい。だからおれは、役割を全うしなくちゃいけないんだ。それがたとえおれ自身の望みではなくなるときが来ようとも、誇りに嘘偽りはない。本当にないんだ。それでも」
伊三路は時たまに唇の内側を噛みながら、薄く抑揚のない声でそう言った。
嘆きや懺悔にも似た諦めが侘しく漂い、伊三路は緩慢とした様子で唇を開閉していた。
「だけれども、おれにはまだあれが由乃に見えてしまうんだよ。そう思うと頭が回らない」
 引きちぎれてしまいそうな葛藤だった。
それでも普段通りならば一抹の不安より行動をすべきと押し込められるようなことが、瘴気によって増長されてごうごうと内側に燻っていた。鬱を呼びこんでいたのだ。
この場面で長らく忘れていた"当てられる"感覚に思考は苛まれ、力は流れる水の如くどこへも溜まりもしない低い場所へ逃げていく。
力の抜けていく身体を伊三路自身が誰よりも叱咤しても、強張った筋肉はなかなか言うことを聞こうとはしない。
「おれの力は……人間相手には使えない。使ってはならない」
「ならば尚さら道具を使え」
その言葉に信じられないといいたげな驚愕を浮かべた伊三路が祐をすがるように見つめる。
「それは彼女を殺めろということ?」
 掠れた返事に祐はため息をついた。
瘴気に当てられることの気分の悪さは理解できなくはないが、目の前の男は思考が鈍ることで弱音を吐くどころかまるで子どもが縋るような目をするのだ。
どうにもやりにくい。道筋を見失った子どもに教えてやる道など自分だってわからない。
 祐は自身が他人のことをおいそれと言える立場でも、言って説得のあることを聞かせる人徳があるわけでもないことを理解している。
だからこそ、この先のことがご高説たれるようになる恰好を恥じた。できるならばこんなことはしたくない。
しかしながら強く己に言い聞かせて続けるのである。
どうにも代わることのできない立場ならば、その気に乗せて可能性を示すことしかできない。
いざ力があって代わってやれることならば自分が遂行すればいいだけだというのだから、不便である。と、意識して余計なことを考えていた。
「そうとしか思えない視野の狭さならば」
 短刀を差し出し、繭のように渦巻く枝のすがたへ顎をしゃくって視線を誘導した。
伊三路の視点が肩越しよりもずっと背後に焦点が結ばれる。
「お前、存外に頭がかたいな。俺に言われても悔しいとは言えない程度には、そうなんじゃないか」
そして差し出されたものを握れと促すと祐は続けた。「背中を押してほしいんだろう。そういったのはお前だ」
居心地の悪さに居住まいを正した伊三路が泳いだ視線の末に拳を強く握り直した。しかし受け取ろうと伸ばされることはない。
「普段のお前ならば例え五体満足でなくとも返してやるだの人間としての尊厳だのと宣うと思ったがな。何より、人間相手を仮定しながらそれがすでに人間ではないと決めつけてしているのはお前じゃないか。何があれを鶴間由乃たらしめるかという理由は考えない」
唾を呑んだ喉が上下する様を見ている。
「反対に、稼いでいる時間という時間を誤魔化すほど彼女が彼女から遠ざかっているとは考えなかったか。侵蝕というものは一朝一夕の出来事よりも、長い時間をかけて行われる概念に感じるものだ。これについてのその実はお前のほうが訳知りだろうが。本当にありえないことか? 彼女はもう彼女ではないのか?」
 ほうっておくとぼんやりとくすむ瞳の緑を正し、意識を向けさせるように肩を叩く。
その色を覗き込み、焦点を引き合わせてゆっくりと聞かせてやるのだ。
唇が合わせる母音の形につられた伊三路の唇も微かに形を変えている。微かな呟きが鼓膜を掠める。
「今日のお前は態度が妙だ。この場に漂うものの気質を考慮せずとも、ということの説明は必要ないほどにだ」
言葉が切れ、意味を咀嚼してからハッとした答えが返ってくるのだ。
「……いや、ごめん、ちょっと。いまは頭が回らない。鶴間家に来る前に思うことは確かにあって、だから、普段は当てられないはずのものに影響されたとは自分でも思う」
「そうか。ならば、言いくるめられたとでも思って試したうえで始末すればいい。意味がわからなければそれでいいし、俺の言い分もただの憶測だからな」
頭が回らないと自覚する返事は濃い霧の中から聞こえるかのようだった。ぼうっとした湿度に茹だる声だ。
「だが、いま目に見える不都合は鶴間由乃に必ずしも必要なものではないし、お前は彼女の見た目ですでに試すことを諦めているように見える」
 いつまでも掴まない指先に苛立ちを隠さず祐は短刀を掴んだ左手を左右に揺らす。
拵えの装飾や、ろくな手入れもされないでいたが故にガタついた隙間が鳴く。金属がカタカタと小さく鳴って、鞘の中の白刃は再び落ちかけた永い眠りから瞼を持ち上げたかのようだった。
「あえて言えば、憎しみの感情のせいでお前は冷静にはなれていないだろう。焦るくらいなら一度とまったほうがいい。少なくとも、今は」
 ぱ、と握り込んだ短刀を手放す。
元より適当な扱いを受けているものであったが、このまま問答を続けても伊三路は手に取りたがらないだろう、と、祐は直感めいて覚えていた。
だからこそ反射という意識の領域とも被りながら半分外れた部分にも影響する場所へ判断を任せたのだ。
案の定、刀が重力に従って落ちるとそれが地に触れる前に、むしろ、ほとんど即時といっていい反射速度で伊三路はそれを掴んだ。
正確には手のひらを上に向け、皿のかたちを作り、両手で鞘をしっかりと受け止めたのである。
しっくりと重力を受け止めた両手が落下の力を手首の振りで逃す。
反対に祐は手持ちがなくなると、手の置き場として無意識に左手の甲で痛む傷口の上を隠すように撫でさすった。
「鶴間由乃を守るにしても殺すにしても、そしてこの"撒き餌"にしても、周囲の被害を気にせず自分だけを守って戦うことが厳しくなる一方の状況だ。落ち着いてやればいい。使えるものは使え。お前には適材適所の手札があるのだから、優先すべきを見極めろ」
自らを"撒き餌"と指し示して祐は語る。
「……今のお前が通常通りではないのはわかっているつもりだ。誰も責めはしない。今日のお前には特に"効く"のだと察する」
「ん」と、小さな返事か、相槌かもあやうい様子で険しく頷いた伊三路の表情から機微を察し、声で意識を引くと一字一句をしっかり伝える。
それから彼が服の内側に垂らし首元から下げている紐を軽く手繰り寄せた。かつて効果を知らしめさせられた古いお守りの本体を不安そうな手に握らせてやるのだ。
 茅間伊三路という人間がどれだけこれに救われてきたかということは普段の彼によるさらりとした言い分の中に含まれる語気や、その生地のくたびれた具合を見れば祐にも理解をすることはできる。
だからこそ今この瞬間に、異様なまでに増幅させられたやるせなさと鬱に苛まれる彼に必要なものとして容易に想像できたのだ。
険しいながらどこか心許ない様子の表情のままの伊三路はお守りを握らされた手の甲を反対の手の指先で揉む。
短刀を持ったままにそうした行動を起こすことは不便そうにも見えたが、かじかんだ手を温めるかのような動作に祐は何も言えなかった。
「いずれの選択もお前がお前の役割を全うすることに変わりない。そして例え結果が責められるようなものだとしても、茅間以外がそのように尽くすことはできない。だからお前がこの役割を任せられている」
 まるで呼吸を合わせるように互いは顔を見ているのだ。同時に互いがどこか遠くを見ているとも思える位置に焦点を結び、茫洋と仄暗くも在る淡い瞳の色を漠然と認識していた。
「お前はこれを重荷に感じこそすれど、それ以上に誇りがある。これも事実なんだろう。だから今までそうしてくることができた。今この瞬間に茅間を突き落とそうとするのは百に純であるお前だけの後ろめたい感情ではなくて、偶然に合致した敵の波長による邪の共振が止まないだけだ」
「……うん」
 事実として役目なるものがその体に過剰にのしかかっている可能性については考慮するべくとも考えたが、妙な力を働かせることのできる者も裏側に知識ある者も今この瞬間には他に存在しないためには都合のよいことばかりを言わなくてはならない。
その点は、期待に似た押しつけを目の当たりにして目を逸らしたがる無意識が存在したが、紛れもない事実である側面も十二分にあった。故に、祐は眉根を寄せて苦い顔をしながら、再度問わねばならなかった。
「違うか?」
 沈黙を以て問うた声が奥に響く。うつろいでいた瞳は、次第に澄んだ凪の水鏡へ木々の美しい緑を描くように移り変わり、目の前の祐へ焦点を結んだ。
そしてわずかに眉を顰めながらも、喜びや、情けなさや、作った勇ましさをいまに準備したいような複雑を浮かべて聞き返した。横に引き結んでいた唇が弱々しい笑みを浮かべてやろうとすると、横長く歪になったまま息が漏れる。
祐がそういった言葉を自分なりに解釈をし、再翻訳した結果がそうであれば嬉しいと伊三路は考える。それくらいの余裕は手のひらにある小さな温度によって取り戻していた。
「えっと、もしかして、励ましてくれている? の?」
揺らいだ声色に対し、祐は淡々とした早口で告げる。
「事実確認をしたまでだ。余計なことに意識を割くな」
その言葉を聞き届けると、祐は暦に加勢するために背を向けた。
それは肯定を誤魔化すためにも、言葉の通りに焚きつけただけにもとらえることができる。
しかし伊三路は祐の言葉で十分であると、背中を見ながら頷くのだ。
「俺がここで役立てることはない。一蓮托生の責任はお前だけにあることではない」
そう言って祐が足を踏み出すと、言葉のいくつかに背を押された伊三路が行動を始めたことを証明するかのように背後で音がする。
「故にこちらもやるべきことをやる。逃げの選択も悪いことではないと俺は考えるが、もしそれを決めるならばひとりで逃げるなよ」
 根が繋がっている関係ではひとり逃げられたとても大した時間稼ぎにはならない。なにより尻拭いをさせられる身を想像するだけでそちらの手間に目眩がしそうだ。
ならばひとこと決断を伝えるくらいはしてくれ。と、いう意図だった。こちらも逃げるなり、後始末に有利なほうへ行動の舵を切るまでである。



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