山中で白昼夢を見たという逸話で登場する園があるとすれば、やはりこれがその再現である。
伊三路と別れる前に一目見た際と似たことを考えていたが、今現在において廃れたものをじっくりと見つめた後でも祐はこれを認めるのだ。
漫然と冬枯れが続いたまま今日に至ったこの建物一帯はやるせなさすらをも掻き立てる。
しかし観光資源として提供するにあたって新たに植物が持ち込まれるだろう。放っておくには勿体無い。
そもそも、作り自体がそうあるように空間を切り取り、相対して廊下の方が高い位置にある。縁側から眺むことを想起させる回り廊下だ。
現状を嘆くことなどなくとも、いずれため息がでるほど美しい庭を再構築するのだろうと思われた。
 伊三路と見送って行動を開始した際には気が付かなかったが、廊下には何かを引きずった痕跡が続いている。
衣擦れさえ響きそうにひっそりとした静寂を継続するこの空間は、これ自体が水槽のような器であると錯覚させた。
どこか息苦しいと感じればたちまち水が張って灰色が蔓延るようにぼうっと佇む想像を掻き立てさせた。
ここに茅間伊三路は居ない。
訝しむことで『へ』の字に寄って曲がった下唇が上唇を僅かに押し上げる。眉間では詰まる皮膚が隆起し、皺が刻まれる。
湿った空気が漂っていた。
 祐は改めて周囲を見渡す。
あくまで屋内の高天井を見越し、上下に大きく空間をとった坪庭に日光という日光は差し込まない。
故に閉じ込められた植栽へ日光に近いものを与えようとして配備されたLED照明が幾つか転がっていた。
それを祐は長らく眺めていたが、徐に坪庭から見れば小上がりになる廊下のふちに貼り付けて電源へ伸びたコードを追いかけ、手に巻き取り回収をしていく。
黒色のコードは世辞にも薄暗闇の中で可視性を阻害することには満足する出来ではなかったが、由乃の姿かたちをしたものの緩慢らしい動きを見れば十分だ。そう考えては、配線の一部を柱に固定して足掛けの罠を張る。
再びここを通って他の人間の気配を喰らおうとすることがあるならば、無駄にはならないものだ。
ピンと張り、強度を確かめたそれの他に、本体から端子コードを外した紐代わりの一本をポケットに尻ポケットに忍ばせる。それから鋭さをひそめて鞘に収まる短刀を握りなおし、LEDの照明と笠が一体化した本体を反対の手で掴む。
そして見慣れた春のような男の姿を探すことを再開するのだ。
 踏みしめた古い床板が、ぎし、と鳴ると、呼応するように近くで物音が返ってくる。
今度こそ音を立てぬ足取りで廊下に近づくと、腕だけを伸ばして襖の引き手に触れた。
先に襖が吹き飛ぶ場面を目にしていたため、身体の大部分は廊下の感情な壁面に沿ったまま、引き手に触れた指先でゆっくりと襖を開く。
建具の上で襖戸が滑る過程で、引き手によって僅かに持ち上がる感覚がする。
数センチメートル分を開く。それからすぐには動き出さず、一呼吸置いて聞き耳を立ててから襖に身体を隠すのだ。
平行に背を寄せたまま首だけ伸ばすと隙間から素早く部屋の中を覗く。
そしてほとんど変わり映えのない空っぽの部屋を見渡し、行為が空振りであったことを理解すると、次の部屋を目指してゆっくりと廊下を進んでいくのである。
それを繰り返し、するりと開いた襖から数センチ分の景色を眺めかけたとき、ひどく興奮し荒い様子の短い息遣いを祐の耳はかすかに聞きとった。
異様さに肩が小刻みに震える。圧のある静けさが筋肉を張り詰めさせていたのだ。
覗こうとしかけた身体を、首を引っ込めしばし硬直したのだ。しかし、すぐにこれが今し方に手をかけた襖の先にある口径ではないとも気づいた。
もうひとつかふたつ先の部屋だ。
ふ、ふ、と聞く、歯の根を透かした苦悶を追いかけて襖の隙間もそのままに横切る。
 音のした部屋を他の部屋よりも狭く開いた隙間から覗くと、伊三路は由乃と静かに争っている最中だった。
正確には、牽制をしあう手の拮抗だ。
呼吸でわずかと膨らんだ胸や肩の上下ですら憚られる。
 機を伺っていた駆け引きが切って落とされると、由乃は指先を脱力したまま、操り人形のようにピンとした鋭い動作が突きを繰り出した。
それを伊三路は前腕で受け止めるのだ。
無駄な力は一切として存在せず、まるで予定調和のようにしなやかな動きだ。受け身を取るに最適であるのは無駄な力が入らないこと、と語るべくか、まるで突き倒せど勝手に起き上がる張子玩具を思わせる。
そのようにして反撃と腕を振るように軸を由乃の突き出すそれの下に周りこませ、拳をいなす。
続けざまに飛んできたもう一方の腕による突きを半身で躱す。今度は最初から受ける気の全くない動作の答え合わせとし、付け下げの上から手首を掴むと強く引き寄せる。
思わずよろけた彼女の首に自身の片腕を巻き付かせ、そのまま後ろに回ると背を逸らす恰好に上半身をつき出させて、拘束をしたのだ。
すかさず着物姿から推定する彼女の膝裏の窪んだあたりに、自身の膝を強く押し当てて立ち姿勢を崩す。
もう一方の腕で細い女の腕を素早く捻り上げ、仕上げと語るかの如く、彼女を後ろから押しつぶすのだ。
そして身動きを許さないために背に乗り上げさせた片膝で適度に体重をかける。
 後ろ手に拘束され身を小さく固められた恰好の少女の顔は、伊三路から見えることはないが、祐にはその顔には一才の苦痛も憤怒もないことがしっかりと見えていた。
 目が開いてすらいないのだ。
故に、彼女が拘束をされることで窮屈をする節々の痛みに呻くこともなかった。
悍ましい光景を取り巻く怪異の目でありながら、あまりに徹底して眠るだけのような少女のその不気味さがアンバランスである。
薄緑の付け下げ着物を纏う由乃の本来は結っていた長い髪の毛がほどけて畳にちらばっている。
さらによく見ればその違いは二つ結びに縛っているか、ただ艶やかに後ろへ流しているかの違いだけではない。
髪の毛先は枝のように固くなり、節くれ立ってはおおよそ髪の毛にしてはしなりのない堅い角度を描いて床を這っていたのだ。毛先に向けて色が灰色に近しく抜けている。まさに樹木の枝分かれした先端のようだった。
 節のある所々に柔らかな芽や、実際に開いた葉をつけ、初夏の化身のような姿をしている。
先端のおわりは茎を切り落としたようにぶつ切りであり、断面からえも言われぬ色の粘液がぐずついて下がっていた。
青緑に霞と美しい白い花を描いた着物の振りが垂れ、い草の並びが一々に瞼のような陰影で薄暗い畳の上で広がる。
どこか濡れたようにじっとりとし、ぬるい水のように生臭い部屋の匂いが漂っている。
そこだけが仄暗い森の奥深くのようだ。
祐はその異様な様に目を瞠っていた。
 臆せず由乃を押さえつけている伊三路は、自身のそばで、ほう、と開く葉を横目に口を開いた。
彼女の頬をぺちぺちと軽い音を立てて叩く。気付けというよりもただ意識を引くための極めて軽い力だ。
「しっかりするんだ、ゆの、ううん、由乃。鶴間由乃。だめだ、こんなこと」
それはおおよそ生命を奪い合うやり取り――つまり、生か死かということでしか結末を定めることができない相手に向ける声音ではない。優しい声音だった。
しかしながら、はっきりと名指しのされた言葉が空に放られる。
「もし、きみが"そこに居ない"ならば最後、おれはきみを殺めてしまわねばならない」
その言葉に返事はなく、光景を目にしないならばただの滑稽である一人芝居のような抑揚が虚しく紡がれる。
声は僅かに強張っていた。
「身体をあけ渡してはいけない。きみが今日(こんにち)まで、なにをどう感じてきたかを思い出すんだ」
茫洋と胡乱、いくつもぼんやりと薄まった様を用意して水を注ぎ、撹拌した様子の廊下から会話の人物らの様子を盗み聞く。より耳を澄まして確認しようとした祐は身を屈めて視線を下げる。
改めて視線の高さを合わせると、鶴間由乃に襲いかかる怪異の状況がより詳細に見て取れる。
 彼女の前髪の一部はシダ葉の穂先のように房が分かれ、触角のようにも見える二本のかたちを形成して項垂れていた。
怪訝の目で祐がそれを見ていると、着物の美しい薄い緑や変質した前髪の一部が翅や触角にも模して見えることから祐は察する。
これは蚕の姿に似ているのだ。
 間仕切りのない蔵の二階という存在にも養蚕という歴史は脳裏を掠めたが、怨念めいたその姿に怖気が立つ。
「さあ、由乃。おれの言葉を聞いて――」
伊三路の声に焦りが滲む。
言葉の最中に伊三路の胴のすぐ下で由乃の身体が反応を示した。
瞬間、声も出ないほどの速さで着物の袖口や、衿元から木の枝が凄まじい勢いで伸び出した。
反応が遅れた伊三路が由乃の背中に乗り上げた膝を引っ込めて距離をとるが、爆発的な速度に耐えきれず、吹き飛ばされる。
 隙間を覗いていた祐のそばにも幹から分岐したかのような太い枝の一本が襖を貫いていた。先端がうねりながら尚もむくむくと成長をしていく。そばで緑色の粘液に潜らせたような葉が開いていた。
嫌な気配が背骨を駆け上がるが、このまま襖を本来の通り開けることもできないことから祐は両端を持ちあげて敷居の枠から戸の一枚を外す。
 室内は途端に茂る樹木の中に飛び込んだかのように密になった枝で占められていた。
先程までの光景とはどうしてもすぐには結びつかなかった。
それら分岐をしていく枝たちはか細く、手で払うだけで一時的に掻き分けることだけはできる様子だ。
外側から見て枝が最も密である場所が中心の由乃であることは明確であるが、伊三路の姿はすぐに見つけることができない。
押しのけるように伸びた枝の勢いがとまると、仕方なしに祐は警戒をしながら室内に入る。
足をあげて枝たちを跨ぎ、細かい枝は手で薙ぎ払った。
 不意に足元では道中の建物内で伊三路が引っ掴んできた得物であろう木刀が転がっている。
人が常に住んでいないとはいえども僅かに物に囲まれた室内において、この場面と用途を考慮すれば彼が丸腰ですっ飛んできたわけではないのは明確であった。
彼なりに有事の場合に振るう力は用意していたということだ。
「うぐ」と、文字に表すならば、そういったつぶれた声が部屋の中心近くから聞こえる。
声を聞いてまつ毛を瞬かせた祐は早足に移動しながら、伊三路の姿を探して辺りを見渡す。
払いのけてカサカサとなる枝葉を分け、目をやると中心付近には発生地を囲い込んでひらけた場所があった。
 そこへ引きずり込まれていたらしい伊三路の右手首には蔓が幾重にも巻き付いており、形勢逆転をした二人の立ち位置は由乃が上になって伊三路の首を締め上げていた。
正確には彼女が行っているのではない。袖口から伸びた蔓が由乃の指先までをしっかりと覆って人体を動かしているように見える。
あくまで彼女の肉体が望んだ好きの通りにやっているわけではないのではないかと窺える。
そしてその下で伊三路は顔を真っ赤にし、足をばたつかせて抵抗をしていたのだ。
もっとも怪異の目になった彼女の力が常識外れなのか、茅間伊三路という人物が人間に手を下すのをいやがるのか、判断はつかなかった。しかし、抵抗のわりには彼女を傷つけたがらないように祐には思えたのである。
 薄々に察しを得ていたが――正しくは彼から聞かない以上は確信がないというくらいにはそれらしく、茅間伊三路という人間は他の人間の日常に配慮をしすぎて本来の力が出せない。
獣相手に戦った際も、影に寄生する相手も、蜘蛛女へも、彼を迷わせたのは単純な戦力差や皆無に等しい策の乏しさではないのだ。他の人間の生命や生活のための住居や設備が危ぶまれるということが杞憂であったからである。
 この世で本来認識もできず、うやむやになるのもであるならば多少関わろうとしらをきればいいものを。
自分と彼さえ黙っていればどれだけの疑いに非難され詰められようと、代わりに真実を語ることのできる口などないというのに、なぜこうも日常の些細をすくいあげて生きるのだろう。
祐は率直な考えを浮かべたものの、今は茅間伊三路に死なれてしまうことこそが最も不都合であると唇を噛む。
 個人の美学は矜持として抱くには結構であるが、一蓮托生の面子までもを彼の美学における損得勘定で内側の判定を下されるのは困るのだ。彼の美学は自身や日野春暦にも共通している内容ではない。
蔑ろにされて巻き添えを食うなどまっぴらごめんである。
もし、それが彼らしいと言える日が来れば世も末であるな。と、考えながら、祐は自ら左手の手袋を半分剥ぐ。
それから伊三路に再び手段として持たせるために持ち出してきた模擬刀に再び手をかける。
刃先のかすかな錆を睨め付け、錆のついた部分が直接触れない位置どりを確認してから手の甲を掻いた。
 ジリッとこもった灼熱が鋭く走る。かと思えば、きんと冷えたように傷口の部分の感覚が遠のくのだ。
鋼の肌と体温の間で熱を奪い合う。痛みがじくじくと神経に響く。
眉を顰めると、眉間に深い皺が刻まれる。
一本の線を描く傷の上に球状の血液が浮かぶ手の甲は構造の都合で肉は薄く、浮かぶ血管は青白い。故に響きにくい傷を作るための道筋がよく視認することができた。
しかしずっと見ていると、体内で刻む脈動がたまらなく常日頃に自覚しないほど瑣末な生までもを彷彿とさせ、無性にかきむしりたくなる。
あとから追いかけて鮮明な色がよぎり、よくない考えが浮かぶ。
脳裏にこびりつく死生観と、新鮮な血液が体外へ逃げていく感覚が気持ちが悪いなと祐は遠くで思っていた。
それは死を恐るる正しき防衛機能のひとつでもある。
とにかく、祐はそのなかで最も太い管は避けつつ、表皮になるべく近い場所を浅く捌いたのである。
相手によく見せつけ、弾けてめくれた皮膚を抉るような動きで刃先を使うと器用にそれ広げる。ぐっと目鼻を顔の中央に寄せて表情をしかめた。
痛みは一瞬だ。言い聞かせる。
 皮膚が断ち切られた瞬間、熱くなって痛覚の過敏が頂点に達するコンマ数秒の間に痛みの比喩がさまざまに駆け巡ったが、そのあとの瞬発的な痛みはすぐに峠を越えた。正に頂点までの高さぶん、降っていくのも早い。
血管が集まっているだけに勢いよく溢れる鮮血が、ぱた、と祐の足元に滴り落ちた。
青い畳に垂れる赤色が目に刺さる。
吐いた息へ今さらになって微かな呻きが混じり、引き絞られる音が喉元を抜けるのだった。
 手袋で滴りかけた血を素早く拭い、その地の上から傷口に爪を立てると血を搾り出す。
本能が冴え、同時に強烈に嫌悪するツンとした鉄のような匂いが過敏に感ぜられる。己の鼻腔内に拡散すると、尚更に脳が危険信号を発しようと準備を急いだ。
同じくしてそれを感じとり、伊三路の上に馬乗りになっていた由乃が僅かに鼻を上げた。
祐は十分に血を吸った手袋で由乃の気を引いてから部屋の奥へ投げつける。
ほとんど反射的にそれを追いかけようとして由乃が飛び退く。伊三路の右手首に巻きついていた蔓は蔓というよりも意思のある触手のようだ。
彼を解放するとぞろぞろと彼女の付け下げ着物の袖口へ潜み、くっついていった。



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