上階から漏れるはしゃぎ声を聞きながら先に階段を登りきった夏野に釘を刺されたことで気配を限りなく希釈すると、ふたりはそうっとした足取りで奥へ進む。
いよいよわざとらしく音を出していたことの意図を知られたか、この先に喜一郎がいることを確信したのだと思うともはや祐にはなす術がなかった。
そして影から顔を出し、しかし想像以上の光景に夏野は喉を引き攣らせて悲鳴めいた音を出した。
 視線の先では道中の話題に出た孫である由乃や愛しきたまの客人である暦の両名はおろか、更に見たこともない少年――伊三路がいるのだ。
しかも、頭から埃を被りながら長持や行李を開いては物を引っ張り出して笑っている。
なによりそれを喜一郎主体で行なっているとくれば、すべてを察した彼女は卒倒しそうになったのだ。
夏野はハンカチを取り出し、勢い余って吸い込んだ空気が掠めて咳き込みそうになった口元を抑えて押し殺した。
そして拳を握りしめるとキッと、前を睨み、ズカズカと前に進む。
「喜一郎さん! 近々に蔵掃除をなさるとは聞いておりましたが、まさかお客様に手伝わせるなんて! 一体どういうことです! しかも、こんなに埃っぽいところに! 子どもを連れ込んで!」
 普段から大声を出さないであろう喉に震えたゆらぎを生じさせながら突き刺さった夏野の声に喜一郎は肩を揺らす。
それからこの蔵では見慣れた、ギギ、と軋んで鳴るかわいた木の扉を強行して開けることに似た動きで声の主を見た。
「おまえ、用事を済ますのがはやすぎぬか……もうすこしかかるはずのことを」
「頼んだのに」と、続きかけて自身が失言をしかけていることに気付くと盛大に咳払いをして、言葉を言い直す。
 聞き逃さずギロリと目を更に鋭く尖らせる夏野は小窓を限界まで開こうとし、それ以上がないことに気付くと「なんてこと、このボロ窓!」と悪態をついた。
「ええい、それよかなんと語弊のある言いかたを」
「事実として何の間違いがあるものですか! 話はあとで聞きます。すぐに怒られる理由は日頃の行いを恨むことですよ」
ぴしゃりと一刀両断された文句と老夫婦の言葉の応酬に実の孫である由乃が「あらら」と曖昧な笑みを浮かべている。
それを遠巻きに眺めながら彼女が誰であるのか察しを得ながらもあいさつの機会を窺っていた伊三路が由乃と暦に問いかけをしようとして一歩を踏み出す。
 同時に鼻を掠めた埃っぽさにたまらず小さくくしゃみをするのだ。
身体を『く』の字に曲げ、伸ばした腕は緩く投げ出される。
肩を竦め、瞬発的に飛び出たそれには他の誰でもない伊三路がきょとん、と丸い目をしていた。
ズッと洟をすすり「おわあ、失礼しました」と、言うと鼻ごと口元を片手で覆って足を引っ込めた。
喜一郎を責め立てていた夏野はハッと我に返るとこどもたちを呼び寄せる。
「もう、もう! 本当になんてことなの。ボク、ボク。いらっしゃいな。こよみちゃんも、由乃ちゃんも」
 名を知らぬ伊三路をそう呼ぶと、伊三路は自分自身を指して尋ねる。「ぼくって、おれ?」
「そうよ。ボクでもおれちゃんでもいいの。お名前はあとで聞くわね。洟はもうでない? チーンとしなくて大丈夫かしら?」
 ポケットティッシュから一枚引き抜いて伊三路に駆け寄ると、鼻にそれをあてがってやる。
続いて優しい声で言葉をかけながら頭の埃を落とし、また制服の生地をほろってやるのだ。
「見苦しいところを見せてしまってごめんなさいね。夫の無礼もお許しくださいませ。頭ならわたくしに下げさせていただくことでどうぞご容赦ください。……どうかしらね、おれちゃん。喉は痒くない? くしゃみは?」
そのあいだ受け取ったティッシュでくしゃみの余韻でむずむずとする小鼻を抑え、伊三路はニコニコとしたまま礼を述べた。「へいき! ありがとう、ええと……」
 名乗りを促した伊三路の言葉尻に夏野が答えようとすると、薄い肩口から喜一郎の手がぬうっと伸びてきて抱き寄せようとする。
しかしその手は容赦なく叩き落とされ、威圧的であり一種の軽蔑にも似た眼差しを夏野は喜一郎に向けた。
ぐっさりと突き刺さり、抉るような視線のまま眉を顰めてその姿を窺い見た。
「なあに、喜一郎さん。言い訳はあとで聞きますと言いましたけれど」
次の言葉を求める声色は怒りと呆れを半々にして、ため息になる。
 喜一郎は夏野にちいさく謝罪を呟いてから祐たちに向き直る。
「……君たち、その、うん。彼女は妻の、夏野だ」
「ご機嫌取りよりも先にすることがあるでしょうに」
ふん、と、鼻を鳴らし、ぴしゃりと言い放つと完全に喜一郎のそばから逃れて伊三路たちの肩を押す。
「みなさま、大変失礼いたしました。ひとまず外にでましょう。こんなところではよくないもの」
喜一郎は大げさな咳払いをして仕切り直した。
「そうさな。休憩にしよう。気になるものがあれば下ろしてしまおう。二回戦になってからでは抱えきらぬかもしれんぞ」
 仲間内に混じりたがった喜一郎がいそいそと袖を捲ると、夏野は横目でその姿を見るもののすぐに突き放して階段のほうへさっさと進んでく。
「ならば喜一郎さんは掃除機をかけてから降りてくださいな。家に戻れば充電式の掃除機がありますから、こどもたちを連れてここへ戻るのはそれからにしてくださいまし」



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