この事態に後ろめたさがあるわけではないが、それをもたらすのが自身であるのはあまりにいい気分ではない。
ただ、言い切って語ることができるのは、誰が鶴間夏野に遭遇しても辿る結果は同じであったということである。
彼女は年齢相応な振る舞いをしながらも、若い頃にはさぞ活気ある女性であったことが端々から窺える。これが幽霊を探す空間の角のように茫洋な虚の出来事であれば、何か別の言い換えでこの出会いを帳消しにできたかもしれない。
しかし、どうしても生者然としている様であるのだから仕方あるまい、と、祐は思うのだ。
十余年程度を漫然と生きていただけの矮小な人間にはどうしても彼女が突き進む運命を阻むことができない。
だからこそ結果は同じである。と、祐はこれを、今日のうちに訪れた伊三路や暦に置き換えても同じと断言できるのだ。
故に、あるいはだからこそ、と、言い訳がましく『せめてもの思いである』という前置きを語ることはあまりに簡単なことであり、同時に程度の過ぎた傲慢であった。
 巡る思考が言い訳と正当性の指針をいったりきたりする。
誤魔化すことの他、何かの間違いでも良いから喜一郎が事態に勘付けばいいとして、わざと足音を立てる祐に対して意図を知らぬ夏野はやはり不調を押しているのでないかとやたらと気遣う。
取り出した小ぶりの巾着をまさぐっては明るい声で前を歩く祐に投げかけるのだ。
「黒飴があるの。お食べになる?」
「……お気遣いだけいただきます」
「若いこってお口ちいさいものねえ。美味しいのよ。今度、機会があれば召し上がってみてね」
 半身で振り返る視界の端に、眉を下げて笑う姿が掠める。
その度に喜一郎に対してもすぐ後ろの彼女に対しても立つ背がないまま、祐は胸のあたりで煙のように罪悪が燻って居心地悪くなるのだ。
喉を下る唾が粘性を帯びた気になってくる。最後に水分を摂ってから確かに時間が経っているためだ。
鉛棒を巻きつけたが如くやたらと足が重くなっている気配がすることに整合がつくことを内心で並べ立てていた。話すこともないというというのに、無言が圧としてのしかかる。
しかし止めることを許さない足元を意識して動かす最中にて最終的に思考することが行き着く先といえば、引き合わせた直後に自身が発声するであろう一言めであった。
 仮に想像のつく何を言ったとしても、向けられる視線の意図を想像するだけで恐ろしいものである。
砕けた態度で相手の言葉の意図や内面を引き出してくることも喜一郎のすることではあったが、なまじ権力者相手に機嫌を損ねることの意味を大枠とはいえ知らぬほどの無知ではない。
知り合ってから大して経たぬ相手にまだ本性を隠しているのだ、と、いう可能性もないわけではない。
純然たる善意が大半を占めて成り立っているのが鶴間喜一郎という人間であるのならば、とうの昔に鶴間家は破綻していることだろう。なにより、歴代続いて今なお権力の一部、もしくはその名残たる影響を保持する家が家長にそんな教育を許すだろうか。
勝手な想像をし、勝手に気をあてられてたちまち憂うつがはびこる。
背後で気遣いをする穏やかな二つの眼が、垂れ下がる皮膚のその眼窩の底にある意思が、まるで恐怖の象徴であるかのように思えてまざまざと背筋が冷えるのだ。
冷水が伝う感覚に似た鋭さが産毛を撫でる。錯覚だ、と、言い聞かせる。
糸屑を丸めたような渦が蠢いている。
「あの、結崎さま。いえ、祐くん? うーん。結崎くん、がいいのかしら? 本当に大丈夫? 年寄りが馴れ馴れしくないか不安だわ。でも話がしたいの。いい? ええ。そうね、あなた、おいくつなのかしら?」
「すみません、考えごとをしていました。暗くて、感覚が薄れるものですから。失礼いたしました。問題ありません」
懐中電灯の光をあおると、スポットライトのように丸く切り取った光が周囲を浮かび上がらせた。
家財などの中身が運び出された蔵の――一般家屋の内装をわざわざ模している柱の木目や欄間の細工をぬらりとした温かみのない光が舐める。
「今年で十七になります」
 視線をめぐらせて周囲の気配と変わり映えない廊下の現在地を改めて確認し、質問に返答をする。
すると、祐の返答を復唱し、夏野は閃いたように手を叩く。
突如として響いた音に思わず振り返る。
そこには笑みに細められた目尻の延長から刻むしわが深く続き、やさしく垂れ下がる表情があった。
特徴的なえくぼを浮かび上がらせてあからさまにパッとした花の咲かせた笑みはなるほど、と、改めた確認をしたがって一歩分を後ずさる。それから懐中電灯を持った祐のことを、正に頭の天辺からつま先までをまじまじと首を上下させながら見つめた。
加齢で皮膚が垂れさがり、起伏の薄くなった頬は途端に笑みの口角で頬骨からふっくらとする丸みを取り戻したかのようだ。それをえくぼによって刻む陰影が助長する。
その瞼のうらで十七歳という言葉に思い当たる想像を重ね、夏野は祐との距離を一歩つめた。
ちょうど、先に作った一歩分を取り戻したことと同義に、もしくはそれ以上の歩幅である。
菜の花の色を想像に掻き立たせるように明るくなった声色で、更なる話題を振ろうと視線を上げたのである。
「あら! 本当? 孫よりひとつ年上だわ。うちにたまに来るこよみちゃんと同級生ね。もしかして、一緒に来たの? 知っているかしら、日野春暦くんという子ですよ。ちょっと自信なさげだけれど、とても優しくてよいこなの。それがもう本当の孫みたいにかわいくって! わたくし、子宝と書いてこそこだわりはなかったけれど、孫の性別がどちらでもやりたいことはたくさんあったから、懐こい子は甘やかしたくってしょうがないのよ」
 うきうきと語る姿はもとより衰えを感じさせることのない足取りへとも如実に現れ、更なる力強さで弾むように歩く姿は勢いあまって祐をわずかに追い越す。
よく回る口が孫の由乃やたまの客人である暦との出来事を、つい先ほどのことと錯覚させるほど流暢に語っていた。
楽しげに語り、口元に手をやりながら慎まやかにコロコロと笑うのである。
「でも所詮は当然のこと他人ですから、やはり遠慮されてしまって……ちょっとさみしいのよね。彼もお年頃だから、こんな老人の相手してくれるだけで高望みをしてはいけないのはわかっているつもりなのだけど」
 彼女のなかで会話に盛り上がりの頂点を迎えた口早は、続きかけた言葉を打ち止めて突如とした冷静を取り戻す。
ハッ、と、して口元を覆い隠すと、その咄嗟に出た行動こそが誤魔化しであることをいかにも示した。
「オホホ」と、いまさらになって恥を自覚した顔がほんのりと赤くなっていたのである。
夏野は照れくさくはにかんで有耶無耶にしたうつむけた赤い顔を両手で仰ぎながら、それでも思い出した内容に対する喜びを紛れもない事実であると噛み締めながら続けた。
「ごめんなさいね。最近の子は背が高くて、わたくしたちの頃よりおしゃれも多様で、そう。スマートに見えるのよ。そういうイメージは確かにありますけれど、あなたはこよみちゃんとはまた違って……こよみちゃんと同い年と思ったらつい連想ゲームで年甲斐もなく騒いでしまったの。お恥ずかしいわ」
「はい」
言葉の間で「うふふ」と、思わず笑みを漏らしながら夏野は語った。
それから窺い見て感情が読みにくい祐の相槌に対して罰が悪そうにし、眉を下げる。
「年寄りはただでさえ若い子がみんなかわいくって仕方ないのですよ、決して他意はないのです。でも、もし、いやな気をしていましたら、どうか哀れな老人だと思ってご容赦をくださいまし」
「いいえ、気にしていません。確かに日野春はひとのよさがわかりやすいのでそのイメージが先行している状態であれば、むしろ自分はより愛想がなくて申し訳ないです」
 その言葉こそに目を丸くした夏野は掠れた息遣いをしっかりとした声の調子に戻しては、しゃんとした背筋の得意げな横目で祐の姿をなぞるのだった。
「そんなことないわ。訂正してちょうだい。だって、世の中の子がみーんなこよみちゃんみたいだったら、じじばばはおんぶにだっこと甘えきって大変だと思いませんこと」
その言葉に勢いのある面々とは異なった彼女の推しの強さを見る。
排他的とも言われる過疎地の系譜である片鱗はあるものの、懐に入れた際の甘さといえばこの町の人間は判子を押したようである。
妙な気持ちになりながら遠慮がちに頷く祐の複雑な表情に夏野は答える。
「ご存知ではないかもしれないけれど、この町は伝承に違いなくお客人に救われた過去があります。ですから、人見知り以外は外の人間に対して最初から極端に悪いイメージを持っているわけではないのです」
 その言葉が事実であるならば実に不気味なことである。
祐は無意識の中で一瞬こそ過ぎったが、目の前の人物が少なくとも敵意を持っているわけではないことは理解している。
故に要求された案内を淡々とこなすだけだった。
「喜一郎さんはこの先です」
 奥の間で猛禽類の眼を模し来る者を遠ざけようとする襖絵を見ることも三度目となれば、漠然とした不安の輪郭を描く恐れもなく押し開くことができる。
暗闇の口をぼうっとひらく押入れの前で、行動の意図が掴めず怪訝な顔をした夏野に祐は振り返った。
「信じられないことと存じますが、この押入れの上段は天井がかなり高くなっています。階段をすでに下ろしているので入ればすぐにわかるでしょう」
先に上段へ乗り上げ、天井板をずらす際に使った踏み台を持ち出す。
それから身動きに不便を知っているであろう着物姿の夏野の足元に設置するのだ。段を上がれば着物姿でも押し入れの上段に乗り上げることが楽になる。
平坦な体温をする手を黒い手袋姿の指先で誘導すると同意を得て引っ張り上げた。
彼女の背を支えながら懐中電灯で周囲を照らし、天井だけが高い暗闇の中で胡乱に浮かび上がる古ぼけた階段の足元を示すのだ。
「階段は角度があります。どうぞ先に。後ろは構わず、前だけ気をつけていただければ」
「なんだか悪いけれど、その通りね。お心遣いありがとう」
 ぼうっと伸びるそれにまだ疑いを拭いきれぬまま、細くした目で睨めつけた夏野は微かに上階から漏れる声を耳聡く聞き取ると小さく肯いた。
着物の裾を気にしながら足元を手で払うと「よいしょ」と、無意識の掛け声と共に階段の踏面に乗りあげる。
先導するために前を歩き続けた祐であったが、今度は彼女にもしもがあってもせめて怪我が少ないようにと後を守って階段を登るのだ。
ゆっくりゆっくりと進む姿に数段分の遅れをつけてついていくと、しがみつくことに近い恰好で階段を登り息をあげる夏野は背後にいるであろう気配に声をかける。
「ねえ、聞こえている?」
「後ろにいます。どうなさいましたか」
 懸命に登る顔は前――正確には上向きでいたために声が飛んでいく方向に祐を示しこそしなかった。しかし、祐もまた、聞き取った言葉にはふたりきりに聞こえる程度の返事をした。
尤も、今さらもう登ることも降りることもできないと言われたとしたら難問である体勢ではあったために、仮にそれらの正体が意味を持つことはない彼女の気張った唸り声だとしても、言葉に宛先があるのならば答えざるを得ない。
ある程度の返答を勝手に予測したうえでの返事に対し、その予測がいかに杞憂であったかを示すように楽しげに語調を跳ね上げた声がする。
夏野の声音が風に揺れる新芽の菜の花と例えるならば、語調は春にみる蝶が描く不規則な小さきものの軌道だ。
「あなたのこと、祐ちゃん、って呼ぶことにするわ。愛想がないなんて謙遜しても、もしそれが本当だとしても、年寄りからは若いだけでかわいいことにかわりないものよ」
「はあ」
耳を疑って聞き返すことか、同意をしかねる相槌か、そのどちらともいえない間抜けな声を祐は漏らす。
はた、と足が止まる。言葉をかみ砕くことに時間がかかっていた。
「本当にダメなのは無礼と老人の自尊心を傷つけることね。それが正しいことだとしても、どうしてかダメだというのはわたくしたちの頃から変わらないの! 面倒くさいわよねえ。恥ずかしいことにだんだんと自分もそうなっているって理解できるようになってしまうわ」
構わず夏野は続ける。視線は変わらず前を見ていた。
「少なくとも祐ちゃんはそういうことはないし、うちの息子……もういいおじさんだけどね。大抵の無礼は息子のかつての思春期で経験してるもの。本ッ当に! 後にも先にも子ども相手にあれだけ腹が立ったことはないわ。身内は遠慮なしだもの。互いにね。だから、みーんなかわいいものよ」
衣擦れの最中に「つまらないことよね」と囁きが聞こえた。
「恐れ多いことです。ありがとうございます」
「ええ。ありがとうね。大丈夫、後ろには転ばないようにしがみつくから、安心してちょうだい。ほら、見て。上まであともうちょっと」
言葉を最後に間もなく先に登りきった夏野が階下へ向かって顔を出し、祐に向かってにんまりとした表情を見せた。そして手を差し出そうとする。
祐は否定も肯定もせずに「階段で手を握り返してもかえって危ないですから、平気です。ありがとうございます」と、返した。



目次 次頁