思えば不自然なほど導かれて真っ先に染みへ意識が向いたものの、この部屋はとても広い。
そして目を向けなければならないものが山ほどあるのだ。
具体的にそれらを整理しようと祐は片足に重心を偏らせた立ちかたで壁面へ背を向け、前方と左右を見通した。
 この一間に思える床面積の続きは階下である一階がやたら仕切られて蔵というよりも屋敷のような構造をしているかと思えば、二階は仕切りや衝立が極端に少なく、だだっ広い間として、恐らくは二間ぶんほどに区切られただけだ。
実際に壁面沿いを歩いてはそのなるべくで均等を心がける歩幅と突き当たりまでの距離をおよその感覚で測る。
結果は、仕切りがあってもせいぜい正規の階段やメインフロアをこの場と仮定して前座のように設けられた狭い間、もしくは廊下と踊り場を兼ねたような小さいスペースがあるのだと想像する程度だった。
どちらかといえば、この蔵本来の姿に近いものは擬似的な居住スペースを捻出するためにざっくと仕切られたものではなく二階に広がる光景そのものであろうことが窺えた。しかし、そうだと思うほど、途端にこの場が忘れ去られた場所の嘆かわしく哀れな印象に思えるのだ。
がらんとしている。
 突き当たりで折り返した祐は、窓の外から暗所へ差し込むことによって白色に見える光に向かい歩き出す。
脇の陳列棚よろしく組み立った手製らしき木材質の柱にはいくつもの荷札がさがり、周辺で収納された物品の内容が明示されている。足元には車長持が車輪止めを添えて配置されており、棚の段には成人男性が抱えられる程度までの大きさと思われる行李が整頓されてに並べられていた。
また、それら越しに部屋を囲う四辺の突きあたりに見える壁は、経年の劣化によって黄変するには相応の経過を知らず生白さを幾分か残したままだった。
部屋の様子を漫然と見つめていると、長持や行李はお役御免と払い下げられたものたちの棺のようだ。
壁面沿いの兜や和弓を調度品らしく仕立てた飾り置きとは異なり、見せる収納の風体になりえないものはどんどん詰められ、端に追いやられてきたのだろう。
 少なくとも意思を持つものが閉じ込められているわけではない。とはいえ、本来は後ろめたさのひとつもないというのに背筋にぬるい水が滴るかのような感覚がする。生臭い気配だ。
明確に何者とは知れぬが、じっとりとしたなにかの気配が近くに存在する。
それは確信として事実だった。
不意に胡乱としていた気配が首をもたげてこちらを認識したように思い、祐は振り返った。
 刹那、視界の端に黒く、質量のあるものが横切る。
肌が触れる空気のそばで、頬から右腕にかけての半身がぞわっと粟立った。
周囲を見渡してそれを確認しようと思ったものの、そんなものが隠れられる場所などそうそうない。
長持や行李は隙間なくぴたりと並べられているわけではないのだ。
背板のない裏表の棚では店屋の陳列といったほうが想像に易く――仮にそうであれば、きっちりと高さを測って仕切りがあるわけではない棚の隙間からいくらでも存在を確認できそうなためである。
暗がりにいた弊害で、下より明るいこの部屋の光景に錯覚めいた残像を見たのだろうか。
なにより自身にはこういった場所へ実際に踏み入れた経験などない。
祐は喉元まで出かけた言葉の信憑性と、経験やそれによって蓄積された感覚の欠落という差から生まれる不審を己のことながら疑った。
自身こそがだれよりも穿った目でこの場所を疑っている証なのではないか?
思考は逡巡をしていた。
「祐?」
 名を呼ばれ、気がつけば伊三路が背後に立っていた。
肩を跳ねさせ、猫が威嚇をする目に似てつりあがった表情の祐が振り返る。
「おどろいた。なんだ。どうした」
「こっちの台詞だよ。気になるものがあったのかい。壁に目でもあった? ならば耳もあるのかもね、と、いうようなことを語ろうとしたのだけどれども、どうしたのさ、深刻な様子で」
いくらか気を持ち直した伊三路は「壁におっかないしみでも――」と、言葉を切り、それから怪訝な目で壁を見つめた。
「あるみたいだ。これは日焼けのあと? なんだかここだけ色がちがって見える」
「……妙な形でもないし、一応あの小窓から斜線が通るとは言えるだろう。日焼けなどとしても変に疑る必要はないとちょうど考えていたところだ。二階の隠匿を決めた際に元来の出入り口かなにかを塗り固めた可能性もありえるか、ということなどを」
「だね。一理あるけれども、おれもきみの意見に賛成。ちなみに嫌な気配は? なにかを感じる?」
「撒き餌にしたって感知ができるわけじゃない。そもそも無自覚だ。縁でつながりを得ることを語るならば茅間のほうが接触も多いはずじゃないのか」
「困ったことに、まったくその通りなんだな。それでも蝕は共通の集合意識ではないんだ。だから、前情報なしでは悪意を以ってして確立した権現をするまでおれにはほとんどわからない。世知辛いはなしさね」
「おれの役割を最適化して全うはさせてくれないんだ」と、大げさな言い分をしながら無造作に選んだ長持の蓋をあけて中を覗く。
愚痴の吐き捨てにはあまりにおざなりであり、安全確認であるならばあまりに上辺を掠めるだけの動作だ。
「変に気にする必要はないんじゃないか。俺がこういう場に踏み入るのは初めてだ。お前の言葉でいう"都会っこ"にはこの非日常味のある光景だけで偏見に勘繰るには充分な材料だとも言える」
「なるほどどね」
しっくり肯いた伊三路が蓋をしめ、次のふたに手を掛けたところで指を離した。
「つまり、きみは確かに疑っているが根拠はない。ただ、それはおれたちには納得できないかもしれない違和感ではあるってわけだ。承知したよ。……うん。あんまり覗きこむと、みんなでお宝をみつけたときにおどろくふりをしなくちゃいけなくなっちゃうね」
意味を疑って眉を寄せた祐に対し、伊三路はおどけて肩を竦める。
ゆえに、言葉に返して祐は呆れて見せるのだ。
「……それだけ言う元気になったならばさっさと階段を降ろすのがいいだろうな。長引けば言い訳にボロが出る」
 普段から人間の住む家の暗がりで不意に見かけたら驚きそうなほど立派な実際に使われていたであろう甲冑や、矢羽根を装飾用に付け替えた和弓の立て飾り、はたまた木目を残した漆の拭きあげ処理が美しい刀かけ。そこは空白の座席といって過言ではなかったが、そばに置かれた籐のかごに無造作に短刀と思わしき筒状が投げられていた。
観光資源としてこの敷地を差し出すとすればよい客寄せになるであろう物品の並ぶ壁面の荷物を順に目でなぞる。
その最奥には埃よけにかけていたであろう布が半分以上ずれた状態で階段が己の存在を主張していた。
 喜一郎の語った通り、ひとりでは床に引きずってしまいそうなそれを間違っても梯子と呼ぶのは適切ではない。
引っ掛けて安定し、尺が足りればある程度の場所で使用できる簡易的な階段である。
掛け声と共に持ち上げたそれを待機する階下に渡し、喜一郎や暦と連携をしながら長押に引っ掛けるかのように作られた凹部分を分厚い天井板のカモフラージュに引っ掛けた。
そうしてよく見れば、この場所はこうして押し入れと見せかけた後も度々に人間が立ち入った記録の証言とでもいうかのように、階段を掛けていたと思わしき場所には無数の擦り傷やへこみが存在していた。
 先に梯子と形容するには適切ではないと考えたものの、確かに急すぎる角度にそう言いたくなる気も理解の出来る傾斜を、残りの三人は各々の感想と共に登ってきた。
祐にとっては由乃の語る「ほとんど這い上がっていることと変わらなくない?」という呟きに最も理解を示し、直前に暦に頼んでいた水入りのペットボトルと予備の懐中電灯やペンライト、ガムテープを受け取る。
そして四隅といくつかの場所に、ペットボトルと懐中電灯を組み合わせた光源拡散の装置を置いて回るのだ。ガムテープの芯である輪を通し、簡単には倒れないように囲いの高さを作った。
時にぎしぎし鳴る床に憚らず宝探しに勤しむ面々を横目に祐は小窓のそばに立ち、吹き込んでくる新鮮な空気を身体に循環させていた。
「混ざらんのかね」
「何かが欲しくて来たわけではないので、お気になさらず」
 "お宝探し"に盛り上がる由乃や少なからず興味を掻き立てられて目を輝かせる暦についていく伊三路を一瞥して呟く。
一応のところは周囲を気にしている様子ではあるが、結局のところ生来の好奇心からかあの男は宝探しに興味を隠せないこともまた同様なのである。この状況を楽しんでいる、と、するのもある側面からの言いようでは事実であった。それを漫然と眺めていたのだ。
仲間に混ざらない祐を気にかけて質問をしてきた喜一郎は小窓の縁に肘をかけ、身体の重心を傾けると顔を寄せて小さく笑った。
「面々に手厳しいな」
「嫌味ではないです。提示された報酬については事実ですから、あれらが奇行であると思いはしません」
 まるで海外産のコメディドラマの登場人物に抱く概念のような大げさな笑みで口角を持ちあげている喜一郎の質問や雑談に祐は淡々と返す。
次第に相槌が無言へと変わり、しかし表情は催促をするかの如く期待の意を以ってしてコミカルな眉の角度に乗せて己を見ているのだ。
それが事実でも、事実でなくとも、そこはかとない居心地の悪さに負けて口を開く。
「……この町は独特な文化形成をしている、といわれることは外から来ると一度は聞くものですが、存外こういったものもあるものなんですね」
 壁面沿いの武具に視線を逃しながら奥で行き止まり、戻ってきた視線は次に口を開くであろう喜一郎を見やった。
ふむ、と頷く白髪混じりの頭髪に小窓から射す光が当たる。キラキラと弾く反射の光が目を焼く。祐は片目を細め、筋肉の中途半端な動きに痙攣めいた動きをする皮膚の感覚を知る。
それから再び暗がりへ目を戻し、静かな声を待つのだった。
「たしかに、山々に隔絶されるように在る我が町は歴史の授業で聞くような大きな戦と深いかかわりあいはないな。未満ではあるが派手な小競り合いなら当然のこと、ままある」
 もとより先の態度に対してうっすらと会話を求められているのだと思っていたが、喜一郎は祐の言葉らを受け取るとその通りに満足し、意気揚々に返事をしたのである。
槍の柄を握る真似でゆるく拳をつくり、重心を落として腰を下げると、空想に描いたそれを振るうが如く腕を突き出す。
妙な黙劇の動作を二巡してから、それを恥じることなく堂々と胸を張り続けるのだ。
「昔も昔の村だったころは外の集落といえば川を挟んだ向こう側、今の鷹取を相手にドンパチしていたのだぞ。一転、今や同じ町を形成する欠かせぬ一員であるし、流石の私もそれらの歴史における当事者ではないがね。しかし今代の鷹取当主も思えばたぬきじじいと呼びたくもなる面影を見るわ。あのくそじじいめも息が長い」
 喜一郎よりも一回り以上は歳上らしく、嘲笑う鼻息や目の形を作る瞼の弧から鷹取の現当主との関係が窺える。
確かに等しく流れる時間の一部だけを切り取れば彼らはそういった関係であると想像がつく。
しかし祐からみれば、そのような比較級はもはや五十歩百歩であり、どんぐりの背くらべに過ぎないのだ。
じとり、と疑り深く、あるいは呆れた顔でその姿を見る。
視線に気がついた喜一郎は、はにかんでわずな照れ臭さを滲ませると「ああ、いやはや、たしかに私もじじいだがね」と、言い訳がましさを自覚しながら頭を掻いた。
そして咳払いをすると眼光鋭い当主の顔を作ってふたりしかいない場を仕切り直す。
祐もまた、居住まいを正して向き合うのだ。
「閑話休題か。市区町村への合併の頃には既に言われずともひとつ町のようであったし、争いの記録というほど語り継がれるものは確かに無縁である。納税だ徴兵だという用事で外へ出たことで名を上げたとしても、一迫の領主付きとなればただの辺鄙な土地じゃてな。と、ボケじじいの体で嘆かわしくも偉大な我が町と答えることにしておる」
 肌を撫でるやすりの砂目に似た緊張こそなかったが、自身の喉をくだる唾が異物のように思えるほどにのどは渇いていた。
すでに非現実をないものとまでする否定はないが、自身の経験や伊三路以外の口からそれらが肯定される瞬間がくるのだと直感したのである。
「不思議そうな顔だな。ここらは摩訶不思議と怪奇現象の話が多いのも事実。例えば、岩手県の遠野は有名だろう? あれに類して妖怪だ怪異だの住処隠れ里だのといわれておった。我らもわざわざ危険を冒して必要以上に山や谷を超えることを好まなかったのでな、一部の人間は外に知られる功績もあるが、基本的には戦は無縁であったし、外から人が来るのも少なかった。なんて、信じるかね」
「……そんな非現実」
目を逸らしたことに何を見出したか、喜一郎は「オッ! 末裔はみな妖怪の仲間とも思われたかなあ!」と笑いながら続ける。
「して、真実はいかほどなるかいまだ明確には知る由はなしと。一応、この土地を調べている専門家兼任の地元民はいるのだが、多方面から確固たる根拠となるものは乏しいという」
枯れ枝を広げたかのような手のひらが祐の背中を叩き、そのまま肩を抱き込んでは愛でるように語る。
内緒話の様は孫にするようにも、悪友と企てる悪事のための密談のようにも似た格好となる。
それらの鼓膜をくすぐる言葉にもはや祐は嫌な顔を隠さなかった。
「つまるところ、いや、先の話と文脈は全くして続かないが、先代が趣味半分に骨董品として集めたのだろう。遠慮せず、気に入ったものがあればどれでもいくつでも持って帰ると良い! ただし、届け出の必要ないもので頼むぞ。面倒だからな」
「あの、」
 ため息混じりに文句をつけようとするも、喜一郎は引き際を違えることはなかった。
何度か肩を叩き、勝手に満足すると回していた腕をするりと抜けて祐を解放したのだ。
それから昨日の着物姿からは到底想像もできない大股の歩幅で手近な長持へ近づき、行儀悪くもつま先で長持のふたを僅かにもちあげた。
「どれ、水墨画や洒落た陶器類は好まぬのか? 水晶の中にある別の鉱物がまるで植物のように見えるような面白い石は? 君に興味がなかったとしても君の祖父に適当に持っていけば喜ぶぞ。どれにどのような価値があるかは私もわからんが、それが宝探しだからな」
「だから、俺は――」
 しつこい、と思った。
自身が旧知の血縁と知るや否やおちゃらけて飄々とした風を吹かせる喜一郎に、祐の目上に対する作りものの態度が化けの皮のように剥がれかける。むしろ、そういった態度を意図的に見せたほうが手っ取り早くなぜ仲間内に混ざらないのかという疑問を楽に解消してやれることができそうだった。
つまり、半分は意図して行なってその言葉を続けようとし、残りの半分はそれなりの苛立ちを得てして行なおうとしたことだ。と、いうわけである。
 息を吸い込んだ瞬間、鼻腔の奥深くにくすぐる煙たさに耐えきれず、祐は顔を背けた。
生理的な反射で小鼻が膨らみ唇が弛むと同時に、ゆるく曲げた腕で口や鼻を覆ってくしゃみを押し殺す。
そして手の動きで失礼を断ってから、尻ポケットに入れていたティッシュを取り出して洟をかむ。
汚れた面を綺麗に折りたたんでいると、喜一郎がゴミ袋にしようともってきたビニール袋を広げて待っていた。
「すまんな、埃……ああ、ええと、そう。ハウスダスト? だとかのアレルギーか?」
「いいえ。アレルギーではない……はずです。ですが、そうですね。外の空気を吸いたいので少し席を外してもよいですか」
ゴミ袋を広げられるも目上相手の行動を甘んじてごみを入れるわけにみいかず、パッケージの背に備えられているポケットに折りたたんだティッシュをしまいながらそう返す。
「確かに窓一つでまかないきれぬ籠った空気ではあるからな。足元には気をつけなさい。想像以上に登りより下りが急に感じるような階段だぞ」
「はい。すぐ戻ります」

 言葉に遜色はなく、登り以上に抉る角度に感じられる階段を慎重に降りる。そして蔵とは思えないしんとしすぎた家屋の風景を静かに進む。
そのなにともいえず胸が落ち着かない矛盾と、屋外から僅かに砂を引き込んだ足元の地が妙な感覚を掻き立てる。地に足をつけても、気付けばどこか浮いてしまいそうな焦燥にも似ていた。
一歩を確かに進める足元が、次の一歩を追い越そうとするたびに先を急ぐのだ。
もはや競歩の真似事とでもいったほうが理解に易いかの如く、まさに転がるように蔵から這い出た祐は出入り口の建枠に手をかけて膝を僅かに折った。
背を丸め、意図して大袈裟に深呼吸をしたのである。
 なかなかどうして誰もかもが馴れ馴れしいのだ。
理解のできぬものから一方的にもたらされる情報の過多と、誰も指摘はしない古い家の甘ったるいにおいに目眩に似た感覚がしていた。
陽の光を浴び、深く長い呼吸をいくつかするほどに胸の激しい動悸は次第に収まっていく。
循環する酸素に思考が再び回りだすと、蔵の中で感じた感覚の正体を探り始める。
 自身の想像もしないところで祖父の知り合いと縁が出来たことや、見聞きをしたこともない様相の空間に押し込められて五感のあらゆる面から情報の過多を得たこと。かと思えば、遠近感の感覚を曖昧へと撹乱する絶妙な薄暗闇での長時間に及ぶ身体活動。それから長年ものあいだ自身を形成した調子をひたすらに掻き乱していく人物らの存在。
なるほど環境に酔うようなものである。処理の追いつかない余剰分に神経がかき乱されているのだ。
思考は正常であるつもりであっても、ひとつ階層の底は煮えても溶けぬ残骸らに薪をくべることに疲れている。
沸騰して弾ける水泡を眺めてはまた五感が過剰にそれらを認識する。
そのようなイメージと共に、脳が思考する問いに対して率直な感想が反応を示す。
 もし自身が野心を持ち手段を択ばず駒を使い捨てにする人間であったのならば、なんと都合のいい伝手であるかと大喜びをしただろうに。とは、再三考えた。
しかし現実は思うように行動できる範囲が狭まっただけだ。
さっさと宝探しとやらに区切りがついて、いざ荷物の分別作業でも始まればよいものをと、祐は考え、汗も伝っていない額を、手袋と裾の間から覗く素肌の甲で拭った。
「もし、そちらのかた。大丈夫?」
 声に視線を上げると、裾にレースを施した清潔なハンカチを差し出す老年の女性がいた。
街着に留まる小紋の柄でこそあれ上品な色合いをした着物姿をしており、腕に抱えられた白布をよく見れば角ばった衿元が覗く。数秒遅れて、それが割烹着に似たかたちをしているであろうことを推測する。
「わたくしは鶴間夏野(つるまなつの)と申します。若い子が、まあ、どうしてこんなところに?」
白髪まじりで遠目には色が抜けたとするよりはいっそアッシュグレイに染めたとでもいうかのような潔い色の髪を、流行りのデザインをしているであろうマットカラーのバンスクリップでひとまとめにしている。
由乃の影響かほどよく現代の流行を取り入れて馴染んだ和装姿をした女性の顔を不躾にもまじまじと眺めながら「あ、」と思わず祐は言葉を漏らした。
 具体的にどこがどう似て遺伝をしていると問われれば明確に答えが出るわけではないが、彼女が自己紹介をした名に違わずその振舞いはたしかに鶴間喜一郎の妻であり、鶴間由乃の祖母であると直感で知るに申し分のない。
老年女性の正体に関する答えあわせには十分すぎるのだ。
大方のところ、意図的に夏野を寄せ付けない小細工をしたはずの喜一郎の意図に気づかないままでありながら、手伝いをするという気遣いによって家事をする際にエプロンを身につけることと同じように掃除用にも分けて使っている割烹着を一着持ち出してきた。という想像がついた。
 鶴間夏野の急な登場に圧倒されていたのだ。
運び出した家具らに押しつぶされた若草の青臭さにやっと気付いて、時が戻らないことを悟る。
なにより保身よりも先に、きっとこのあとに鶴間家現当主ともあろう人間がぎっちりと絞られる姿が想像できるのだ。
彼女は上品で着物の似合う女性像を体現していたが、間違いなく強い女性(ひと)であると本能的な感覚が告げるのだ。
「失礼ながらここは我が家の土地でしたので、先ほどから見ていたのですよ。蔵から出てくるところを。業者の方には……とても見えないのだけれども、まさかあなた」
 先をうながす言葉の切れ目に祐は針金が差し込まれたかの如くしゃんと背をただして己を示した。
「申し遅れましたが、結崎祐といいます。確かに業者ではありませんが、正当な理由あってここへお邪魔しているつもりです。身元の証明になるならば顔写真付きの学生証を差し出すことができます」
発言に対して嘘偽りがないことを表情の機微から判断し探るかのように、ずい、と顔を寄せられる。
語調は柔らかながら訝しむ棘のある声色と鋭い視線が遠慮なくズクズクと刺さる。それは自身を信用できる相手かどうかを彼女の中の判断基準であるさまざまな面から観察して値踏みをする目つきだ。
それらは少なくとも祐にはそう感じられた。
対して自身の恰好といえば普段と変わらぬ襟付きのシャツに、汚れても構わないプルオーバーパーカーを上から被った姿だ。仮に間違えられるのならば業者ではなく、まず盗人のほうがよほど自然である。
思わず息を呑むと、喉仏が上下する。
言葉と言葉の間は、それが満たされるまでに蔵と母屋を何度か往復できてしまいそうな時間だった。
 祐はもはや言い訳を考える間もなく――そういった意味ではむしろ正当な理由あっての滞在であるからこそ、無関係に蔵の構造を脳内でなぞっている。
打って変わって夏野はいくつかの可能性と鶴間喜一郎の日頃行う言動を彼女自身の価値観という秤に乗せ、自身が最も納得できる答えを見つけていた。
「やっぱり! 喜一郎さんに呼ばれたのね。ごめんなさい、人使いが荒いでしょう。もう、あのひと。どこにいるのかしら、代わりにとっちめてやるわ!」
 腕にかけて抱えていた割烹着を手早く三つ折りにすると、彼女が持参したらしい編みカゴバッグのうえに置く。そして腕っぷしを確かめるように着物をたくしあげると細く白い前腕の内側をさすりながら祐を見た。
「いえ、大丈夫です。自分が喜一郎さんを呼んで参りましょう。召しものが汚れます」
 なるべく訝しむ感情を掻き立てない言葉選びで断る祐を制し、夏野はバッグから布製で幅のある紐を取り出す。
家紋と思わしき紋が刻印された飾りのついた留め具を外し、折り畳んだ紐を腕いっぱいを使って広げ、首にかける姿を祐はただ見ていることしかできなかった。
折り返した端を襟に挟み、簡易的なクリップを兼ねる留め具の差し込みで襟ごと仮留めをする。
そしてぐるりと腕を回しながら紐を渡し、手早くたすき掛けに袖を絞るのだ。絞った袖が身体の動きに連動して持ち上がる際に後ろに流れるように調整し、最後に着物全体のかたち恰好を正す指先は生地をつまんで引っ張る。
 腰に手を当て、叱るか、または諭して口を結ぶと先の婦人らしい上品さよりも家庭を守る強い女性の側面を強くした目力で何度も頷く。
これで文句はないだろうと言われている気分だった。
「だめよ。お客様に手伝いをさせてしまって、あまつさえ主人を呼びつけるため"だけ"に往復させるなんて。服は気にしてもらえてうれしいけれど、お構いなく。どうせそこへ戻るならば、このわたくしを案内をしてくださいな」
『だけ』という言葉が強調されて、目の奥がギラっと光った。
先の『とっちめる』という言葉と合わせて根拠のある力関係を思わせると、よそ行きの愛想がより引き立つ。
祐は愛想笑いの口もしていないというのに、愛想笑いのような曖昧な言葉を漏らしかけていた。
「それに大したものじゃないもの。普段着だわ。それでもあなたが気になるならば、割烹着を被りますから。ね? どうですか。いけないことでしょうか?」
 それでも声色は優しく、着物姿ときいて想像する印象によく合致する婦人だ。
差し出したハンカチを揺らし、祐がそれを必要としないことを理解すると自身の口元を隠すことに引き寄せては慎ましく微笑む。
かしげる首の角度から自然な流れで一言目と同じくして体調を気遣う質問をする。
見知らぬ客人の正体における善悪はさておきあくまで気遣いの姿勢は一環とする姿を崩さない様が高潔であった。
「ああ、でもね、もし体調がすぐれないならばここにいてほしいわ。もちろんのことですよ。だから、居場所を教えていただけますか」
「いいえ、本当に奥まったところにいるのです。わかりました。自分でよければ案内をさせてください」
「ええ。わかりました。お願いしますね。本当に主人が中にいるなれば、万が一にあなたがわるい人でもわたくしのお客様としてもてなしますから、怖がらないで。仮に嘘でも早めに嘘と言ってくだされば構いませんよ」
鈴が転がるようにころころと笑い、頬をふっくらとほころばせると頬にえくぼが浮かぶ。
意気揚々として蔵の入り口である敷居をまたいで行く小柄な女性は軽口なのか、問答無用に警察に突き出すことを柔らかく発言しているのか判断のつき難い物言いで朗らかに語る。
真意を知り得ない祐は肩にこもる力をうまく逃がせないまま、案内するはずが蔵に踏み入ることに遅れをとっていた。
「いやだわ。少なくとも、身分の証明にしようがあると明言できる御人ですもの。心配はしていないわ。隣においでなさいな」
 いたずらにそう笑って振り返りつつも、進む足取りのなんと軽やかたるかといいたくなる姿に鶴間夫妻の日常が想像しえてしまう。
案内を申し出るかたちとなった祐が一歩を大きく踏み込んで前へ出る。そしてうまく先導する立ち位置に収まると、心のうちで喜一郎に謝罪をしてから廊下を歩き始めるのだった。




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