押し上げてずらした天井板はささくれこそない丁寧な仕上げをされていたが、静電気で埃を薄く被ったのかざらりとした肌をしていた。向こう側から息を吹いたように冷気が伝い、漏れ出す。
肌に吸い付く気配に眉を顰めながら天井の奥を見つめる。しかし、茫洋とした口が開いているという他にない普遍的な穴が存在するだけだった。
「ひらいたぞ」
「うん。代わって。おれが先にのぼってきみを引っ張るから、はしごをおろすのを手伝ってくれる」
 踏み台を譲る代わりに懐中電灯を受け取った祐が怪訝な顔をすると、伊三路は一瞥くれたのちに踏み台に乗り上げた。
「なんだっておれたちが思っているよりかは立派なはしごらしいよ」
感情の詳細が読めないままの様子で簡潔に告げ、腰を落としたかと思うと猫が狙いを定めたのちに飛びかかるがごとく、ぐん、と、跳びあがる。最後は半ば懸垂をする姿で天井板をずらしたふちにしがみつき上階へ這いあがった。
腕の力でなんなくぬるりと上がって行ったあと、すぐに白いシャツを着た腕が伸びてくる。
「おれの手をとって。合図で飛んでくれたら、こっちが引くからね」
「ああ」
 暗闇から漂うひんやりとしつつもどこかべたりとした風の流れと、薄ぼんやり浮かぶ腕が相手を萎縮させると見越して強調し努めた明るい声がする。
そのアンバランスな光景こそ不気味を掻き立てそうなものだと思いつつも、祐が静かに手を握り返すと待つほどの間もなくカウントダウンが三からはじまり、最後に「せーの」と掛け声がした。
 踏み台を力強く蹴りつけると、身体が僅かに飛び上がった。反発し合う力の働きに乗じて打ち合わせ済みの強い力が手伝っては、よく飛び抜けたように身体は浮き上がった。
トンネルを抜けるような感覚に近いものを覚えながらも決して長くはない暗闇を突き抜け、上階の床板に転がる。
 衝撃を逃しながらようやく腕を立てて起き上がると、体力や力強さに自負のある伊三路までもが身体を転げてひっくり返っていたことに気づく。
どうりで痛み自体は少ないわけで、暖かい感触がするわけだった。
「悪い、すぐに避ける」
祐が謝罪し、素早く避けても伊三路は転がったままでいた。
そして暗くも明るくもない声で続ける。
「ううん。ありがとう。それから、ごめん。おれ、隠してたわけじゃあないのだけれども、そういえば暗くて狭いところが得意じゃないんだ。助かったよ」
 本当は天井に届いていたこと告白する伊三路の笑顔は力なく、顔が白いようにも見えた気がしたのは間違いではなかったようだ。
「……今はどうなんだ」
「大丈夫さ。はじめにはいったとき、すこしばかり息苦しいなと思っただけ。動けないとか、すごく気分が悪くなるとかではないよ。狭いところも暗いところも単体ずつはどうってことなんだ。あと、ここは少なくとも安全であるとわかったのだしね。ほら、嫌な気をおこす要素は芽がでたそばから摘まれてるもの」
砂混じりの粒だってまとわりつく埃を払いながら祐は聞き返した。
淡々として、回り道を指摘する。
へたりとした目の前の男は幾分か小さく見えた。
「つまり、少しばかりは気分が悪いということだろう。無意味に口数を増やさなくていい」
「助かるよ」と、立ち揺るぐことない岩のような沈黙が頑健に塞がったのち、伊三路は囁くように自嘲めいた息遣いを喉の奥で鳴らす。
その言葉を耳殻の裏に触れながら、萎びたその姿にかける適切な言葉を手繰り寄せることもできないまま視線を逸らし、光景を見渡すのだ。
懐中電灯で周囲を照らす。
 上階はこびりついた生活臭か、一部の木材のくすんだ匂いか、はたまた畳敷きの腐ったものがすえた臭いに近いものを知覚できるほんのわずかに帯びてか、とにかく鼻につく甘さに似たものを内包している。生活感と呼ぶには決して近しいものではない奇妙なにおいがした。
芳しくも、臭気であるともとれないあたり、五感よりもより深い場所に位置する感性を形容しがたい程度に刺激するのかもしれない。
暗所特有の冷たさから唐突に拡散されたそのにおいは一言に快でも不快でもなかったが、どこかぼんやりとして頭の奥が痺れるように祐には感じられた。
 考えのひとつとしては特殊な香を、薄く、そして満遍なく焚かれた空間にも思えた。それくらいには当然のことのように存在しつつも己の記憶と経験のどれもに近似するものがない様子をしているものなのだ。
しかし、自身を除く誰もがそれを指摘せず、さして気にも留めないという顔をしている。
もう一度と眉ひとつ動かない面々を見るも水を差すわけにもいかず、なるほど古い家ではよくあることと結論付けると、鼻が鳴るほど吸ってしまった息で咳払いをするのだ。
 誤魔化すように見渡せば、奥には何かに塞がれて長らく濡れたあとがそのまま残ったことに似た大きな染みがあった。
不可視の空間に切り取られたかのようにキッパリとした様相に奇妙があり、どことなく、それらがこの空間やにおいの知覚対する感性を無意味なほど不気味に歪めているのだと漫然ながらに思う。
疑って口角を下げてから壁面沿いに灯りをむけると、窓ほど立派ではないが、自然光の明かり取り程度に開く重厚な雨戸があった。
祐は下に続く穴の付近に寄ると声を張りあげる。
「喜一郎さん、階段を探します。存外に広いので懐中電灯では心許ないでしょう。明かり取りの小窓を開けてもいいですか」
「ああ、構わん。物も動かしていい。大事ないか」
 返ってきた言葉を受け床に座ったまま立てた膝をむいて俯く伊三路をちら、と、見るがすぐに向き直って「周囲のものを少し避けます。階段ですが、すぐには見つけられていません」と答えた。
伊三路はぴくりと肩を揺らすだけだった。
「ううむ」と歯を噛み合わせる間に思考が巡る。その声は喜一郎が朧げな記憶の中で、同じ空間の上辺を弄っているのだという想像が容易につく。
そして正確には思い当たらない内容を素直に答えるときに、口角に近い頬の内側を噛んでいるだろうと想像できた。つまり、くぐもった声はすぐにつかむ記憶はなかったのだと語る。
「そうだったかね。もし侵入者があってもバレぬよう階段をおろしこそしなかったが、そう離れた場所においた記憶もないが……」
「はい。それでは探します。足元に注意しながら探すのですこし待たせるかもしれません」
「まだ朝だぞ。しりとりでもしてればと思うと私は昼すぎまで時間潰しに自信がある」
大袈裟な言い分であるか、事実と捉えるか絶妙な返しに一度は逡巡をしかけるが、祐は大して気にしないと決めて会話を続ける。
「わかりました。それでは待たせます。すみません」
 いくつかの確認をし、間を見計らって言葉を区切る。それから伊三路に向き合うと、どこから取り出したかちょうど三五○ミリリットルのスリムタイプに分類される形状をもつペットボトルを傾けているところだった。
「それは」
「富士山の水だって。くる途中で買ったの。のむ?」
「飲まないが、少しいいか。表書きを剥がしたい」
受け取ったボトルのキャップをきっちりと回し閉め、本体を手に持ちやすいようにという目的で工夫の施された凹凸を様々な角度から眺める。目の高さに掲げられたそれを十分に観察し、時にはなぞって凹凸の深さを測るかのごとく探る手つきで触れていた。かと思えば、側面の破線を裂き、手袋の指先で器用に起こすとパッケージを丁寧に剥がす。
「……は、え? ええ?」と間抜けな伊三路の声が二人の間に響く。
明確な質問にならない声に返事はない。
淡々と事柄は進行し、剥がすことを前提に巻きつけられたパッケージが順調に切り離されていくのだ。
硬質なプラスチックパッケージゆえに丁寧な動作とは裏腹に騒ぎバリリと鳴る音がやけに明瞭に感じられる。
自身の想像と異なる行動を始めたことに驚いている伊三路が言葉を詰まらせていると、さっさと剥がしたパッケージの角を合わせて丁寧に折りたたんだ祐は手のひらに平たく収まってしまうようになったそれを差し出した。
「製品情報の記載部分は極力裂いていない」
 ポケットから取り出したハンカチを床に敷くと上に心許なく細いペットボトルを置き、その中身を満たす透明に探った角度を当てて光を強く拡散をさせるのだ。
目が覚めてパッと明るくなった周囲に無意識の安堵をした伊三路の縮こまっていた力がわずかに抜けるのを目視し、祐は先の会話で許可を得た小窓に歩み寄る。
「いまこの広さに圧迫感はないのだろうが、風通しをよくすれば気分も良くなるだろう。壁に寄りかかっていればいい。階段はおそらくそこにあるものだ。探すふりはしておく」
「いや、本当に」
 目の前の人間に特別と目を掛けて心配をしているわけではないが、と、祐は思考する。
単純な疑問とも、彼の矜持を尊重すべきだとも表すことができたが、そのうちのいくつかの割合を占めるのは言い訳をさせるのが面倒であるという怠惰めいたものだった。
弱みを見せたくない気持ちは理解も共感もできる。だからこそ最小限に抑える手があるならば乗ればいいのだ。
それが共生であり、己らの利害関係である。そう考えるからこそ祐はそれを利用できる環境を提供しようとしたのだった。
「他の人間にそういうところはなるべく見られたくはないと考えていると思っていたのだが、違うのか」
「……ううん、ありがとう。じゃあ、もうすこしだけそうさせてもらうよ。きみもすこし座れば」
襟の釦をひとつ外して首元を寛げると伊三路が項垂れるように頭を下ろした。祐の手によって半分開いた窓のそばに寄り、差し込む光と風を取り込む。
深呼吸をすると弛んだ唇の後ろで歯列をすき通る呼吸が乾いた音で掠れた。
光を拡散させるためにペットボトルと懐中電灯を組み合わせた簡易的な装置の光が、俯けた顔を下から照らしている。
 祐は溜め息にも似たかたちで息を吐いた。
ひとつの区切りめいて決着がつき、緊張がゆるんだ結果として、ふう、と滞留を吹き飛ばして呼吸が回り出したのである。
嫌味ではないはずのその呼吸の動作ひとつが、本来は活動的な人間が塩を撒かれたように萎びている様と同時に存在している光景では嫌みたらしくした軋轢の種にも思えた。
「俺は遠慮しておく。周囲が気になるのは事実であるし、無音よりかは軋む音のひとつでも出しておいたほうがよほど自然だろう」
祐は改めて伊三路の顔をみた。
弁明にも似て放った言葉の先で、顔をわずかに俯けたままの伊三路は足元の遠くを見つめてはゆるゆると片手をあげて返事をするばかりだった。



目次 次頁