昨日ぶりの敷地に踏み入り、靴のあとがついた土をたどりながら一足早く離れである蔵の前につくと、すでに喜一郎と由乃が到着していた。
竹箒で周囲を掃き、覆っていたシートをめくっては昨日のうちに運び出した家具たちの様子を見ていたのだ。
挨拶をすると、二人はわずかに驚いた顔をした。特に喜一郎は目を丸くした後に予想よりずっと早くきた客人の姿に喜びを露わにし、「早いな」と、控えめながら明らかにはしゃいだ声をあげる。
「伊三路の昨日の言葉を受けて眺めておこうと思ったのだ。離れも、床板の造りである部分もあるからな。掃除をしに」
「そうなんだ。今朝は気持ちのいい朝だねえ。今日も頑張ろう。ところで、ここに水は通っているの? 生垣に水をあげたいんだ」
「助かる。我々もつい十分ほど前についたばかりだ。少し離れているから、案内しような」
 白いインナーにベージュの襟付きシャツを羽織り、紺色の綿パンツ姿の喜一郎は昨日とは打って変わって威厳を潜めている。
いかにも孫と道楽をこよなく愛し余生を過ごす朗らかな老人の姿であった。
祐が誘いを断り昨日の荷物整理をすると語ると、残念がった二人はまるで本当の祖父と孫のようにして仲睦まじく歩いていく。
そうして意図せず取り残された由乃が眉のうえに庇をつくるように手をやり、先に話し出す。
「ええ、なんてこと。わたしのこと、チラ見とすらせずさっさと行ってしまいましたよね、あれ!」
 半ば呆れた様子を見せる由乃の前に風呂敷包みを持ちあげた祐は彼女を呼んだ。
「鶴間さん」
「え! 由乃さん、じゃないんですか。ゆ、の、って愛情こめて呼んでくださって構いませんよ。遠慮なく! 可愛く語尾にハートがつくくらいに」
「当主殿のほうを名で呼ばせていただくことにした」
『呼びかたにはうるさいようだから』と、いうことこそ祐も口にすることはなかったが、由乃はあらかじめ知って用意していたかのように訳知り顔で「あ、ヨッシー、でもいいですよお。よ、し、の、ですからね」と意地悪な顔をして言った。
「……結構だ。これはみなで食べるようにともってきた。あとで包丁を借りることはできるか」
結構、という言葉の間に長く含みを持って強調した息遣いがあった。
 由乃は祐の顔を見ては大層たのしげに――昨日の夕方に喜一郎が見せた新しいおもちゃをみつけたときとそっくりな笑みを浮かべ、目元にはより柔らかな線を描いた。
「祐さんって可愛げあるとこあるんですねえ。ふざけるな、とか、遠慮する、とかシュッと言われると思ったんですけど。ふふ、おみやげありがとうございます。あとでみんなで食べましょ!」
無意識のうちに祐が片方の眉をわずかに吊り上げると、そんなことは知りませんとばかりに包みと化粧箱の間から覗き見た果実の表皮に「わあ、おいしそうなメロン!」と喜んで見せた。
「それは茅間が選んだ。美味いんじゃないか」
「へ? 謎の信頼?」
「見極めが得意だと自称しているから選んでほしいと頼んだんだ」
 昨日と異なり、彼女の語る可愛いとはかけ離れた学校指定のジャージを纏った由乃は化粧箱を抱きしめて満面の笑みを浮かべた。
「そうなんですね、嬉しいです。きっと一番おいしそうなものをって選んでくれたんですよね?」
「茅間に言ってやってくれ。やつは相手に喜ばれたという事実を最も喜ぶだろう」
あまりに感情を素直に表す相手を前にするとやりにくさがある。由乃も伊三路も祐にとっては似たものを感じるのだ。
祐は目をそらし、由乃が取り掛かっていた仕事を変わると申し出た。
 それから水をやりにいったふたりが戻るまで由乃の他愛ない話に祐が相槌を疎らに返し、唐突な質問にはきちんと言葉を返す。
長らく意味もない細切れの会話が続くと、次第に手を止めて聞く回数よりも作業をしながらの返事が増えていく。
そこを突いて質問を投げるという意地の悪さも見せたが、回答がくる度に「へ、返事してるだけじゃなかったんだ!」と、由乃が目を大きくする。
大げさな言い分に対して祐は、昨日の伊三路や暦に何かを吹き込まれたのかと勘ぐっていたものの、結局は反応が過剰なやり取りも億劫になって目頭にわずかな苛立ちを寄せるばかりだ。
現在地から離れた場所に住む暦が移動時間を要することは百も承知で早めに出たというのに、待ち合わせに遅刻をしていないはずの暦に対して早く来てくれないかという身勝手を願い始める始末である。
いくつかに分けた物品をまとめ、目を細めながら明らかな廃品を振り分ける。
 暦が到着したのはそれから三〇分ちかく経った後のことだった。
最寄りのバス停から走ってきたのか、今にも転げてしまいそうに離れの前へ躍り出ると膝を震わせている。
呼吸と整えるに精一杯であるとひいひい肩と喉に悲鳴を乗せ、とうとう足元は砂地にも関わらずべったりと伸びていた。
「遅刻じゃあないよ。気にしなさんな。そうだ、水を飲ませてあげようか?」
「え、その手に持ってる、じょう、じょうろでは、ごめんかな」
 息も絶え絶えの様子で何度も言い直して拒否を示した。覗き込む様子の伊三路が目を丸くするほど暦は笑っているのか呼吸を求めて喘いでいるのか、わからなくなっていく。
少なくとも軽口を軽口であると返せない程度には余裕がないことは明白だ。
伊三路は暦のそばに膝をついて襟のボタンをひとつ外してやった。
「冗談だよ。ゆっくりくればよかったのに」
「誰かしらは待たせてしまう自信があったんだって……ほら、待ち合わせはそれより早くつきたくなるってアレ。そういうの」
それから咳き込んでいるのか笑っているのか判別のつかない引きつった笑みをするのだ。
「待ち合わせなんてさあ、伸司くんは遅刻常習犯だから。昔馴染み付き合いじゃなければみんな怒って帰るよ。そんなのばっかだったから、ひ、久々にきちんとした約束すると無意味に焦っちゃって」
「はは」と自嘲する声は力なく漂い、それから土の冷たさのように気温よりも少し低い沈黙があった。
 間が伸びるほど、衣擦れの音が際立ち、のちに手元の作業を再開するに伴って生じる音が重なる。鳥の声や、小波のような風と葉の鳴りあう音や、誰か知らない人々が敷地に面する通りで話している声がする。
どこかの家の犬が鳴き出し、別の方向から呼応するかのごとく遠吠えが連鎖するのだ。
健康のためにジョギングをしているらしいと察する何者かの足音が靴底で舗装道をわずかに擦りながら近づき、そして遠ざかっていった。近隣に面する家の台所――正確にはフライパンの上で爆ぜる食用油の音が微かに聞こえる。
比較的はやい時間に集まったためか、休日の朝の様相をする町の情景に誰もが意識を逸らしていた。
特に会話はなく、呼吸が過ぎている。
突如、「よっし」と気合を入れた暦が飛び起きるとその勢いのまま頭を下げた。
「おちつきました。ごめんなさい、かえって時間を無駄にしちゃって。それで、みんなはなにをしていたところ?」
 伺うような目で見たところで先に着いていた人間たちは思い出したように顔を見合わせ、目的を再開した。
「いや、取り決めもないのに自然と早く集まったものでなあ。何といってやっていたわけではないな。なあ、若者たちよ」
はて、と、喜一郎はとぼけた口ぶりをしたが、騙す意図は全くなくともその通りだった。
だからこそ、正直を極めて「その通り」と、伊三路はじょうろを高々と持ち上げて掃除と水やりの関連性を否定した。
「まあ、暇つぶしに近いことですね」由乃が同意し、祐も彼らそれぞれの言葉に無言で肯く。
「なればさっさとお宝にありつこうかね」
 意気揚々とシャツの裾をはためかせた喜一郎が離れのドアへ向かう姿には昨日の威厳が半分だけ戻っていた。
大きな荷物を避け続け空にちかい状態になった離れに入る喜一郎は、蔵の壁をそのまま削ったような――あるいはもともとの蔵のありのままから衝立や簡易的な壁を作る工事で無理やりつくった砂地の廊下を、土足のまま堂々と進んだ。そして奥まった一部屋の前に立つ。
回の字を描く廊下に沿ったはずが、随分と歩き続けたかのように奥の部屋は冷たく、奇妙な感覚が肌を撫でていた。
「棚でもつくれば大物はなかなか動かさんというに、なぜ押し入れにしたか、つまり引き戸をつけたかだな。私はずっと疑問であってな」
 すぱん、と手を打ち鳴らす音に似て滑りよく開け放たれた引き戸の向こうは他の部屋と取り分けて変わったことはない。
ただ、元より多くは物を置いていなかったであろうことからこそ目立つ日焼けに似た劣化の形跡が印象的だ。小上がりのように沓脱ぎの先にある畳敷きが和室らしいしっかりした造りをしているのだ。
 実際にも誰かが生活していた時期があろうことは明白だ。文机や簡素な箪笥。窓はないが、互い違いの段差がある棚に長らくの沈黙を知る花瓶がぽつんと残されていた。哀愁の残る暗い部屋だ。
一部は床に固定されており、昨日のうちに手をつけなかった理由をありありと知ることができる。
とうに灯りを忘れた行灯の障子紙が薄汚れていた。
「先の言葉がなんなのだといえば、これであって」
指した襖は一見すれば布団をしまうのだと思って十分に納得する。反対に、折りたたんだ布団をそのまま端に置いておくには随分と贅沢な面積の使いかたであると皮肉で表すことができる程度には小さな部屋なのだ。
喜一郎が先導する明かりが丸く先を照らす。
経年で黄ばんだ紙に松の墨絵が施された襖絵だ。
同じく描かれて載った"空想上の猛禽類"と呼ぶに相応しく尾長である身体的特徴を持つ鳥がこちらを鋭い眼光で睨めつけていた。
それを一瞬だけ睨み返したふうな横顔をした喜一郎であったが、すぐにへらへらとした剽軽者めいた側面に戻ると押入れの襖戸をやれ簡単にと押しやり、ぼうっと口をあけた畳や襖の一枚ぶんに等しい穴倉へ中腰で乗り込んだ。
 それからすこしも待たぬうちに首だけを、にゅっと伸ばしては棒立ちのままでいる面々を横向きのままの顔で見ていた。
「伊三路や、踏み台を」
「よしきた」
 まるで子分のように控えていた伊三路が折り畳み椅子のような――脚立とは到底に言えない平台を抱えて押入れに足をかける。
ぽっかりとひらいた空間に伊三路が消え、それから再び顔を出したかと思えば、それは伊三路ではなくしわの多い顔にうっすらと汗を滲ませた喜一郎だった。
「伊三路はちと厳しいかな。背の高い……ふむ、祐くんだな。頼んでもよいかね」
「わかりました」
暦と由乃の視線が祐に集まる。
もはや抵抗の意思はないというかのように返事をして祐は押入れの二段目に足をかけ、ぐっと身体を乗り上げさせる。そして口を開いた暗がりに自身を潜り込ませた。
 元より薄暗がりではあったものの、より深い暗闇を前にすれば瞬きをするまでは瞼を閉じているのか、閉じてはいないのかという感覚さえもが曖昧になってしまいそうだった。
そして暗闇と微かな光源の中では物の輪郭や、人間の肌だけが蝋のように浮かび上がることを理解できるように目が慣れてから押入れの中の様子を眺める。するとすぐに天井の位置が異様に高いことに気付くのだ。
加えて、喜一郎が踏み台を必要とした理由をよく理解する。
「隠しの仕組みですか。どのあたりでしょう」
「おお、話が早くて助かる。あのあたりの――わかるか? 私の隣に立つとわずかに影が見えるはずだ。板を押し上げながら横にずらせばけっこう簡単に外れる。その先はさらに上に伸びて二階がある。ちっとばかし段差が多いが、よじのぼってから二階から梯子を下ろして欲しい」
 自身の隣に立つように呼びよせ、肩に触れながら祐に場所を示す。
「……茅間、本当に届かないのか?」
単純に疑問を呈する視線に伊三路は構うことなくおどけて見せる。
暗闇において相手の見せる反応の機微を捉えることは難しいことであるが、普段通り瞼を伏せ、肩を竦めて笑っているのだろう。祐は伊三路の声色でそう判断をして会話を続ける。
「実はそうなんだよ。これだけ暗かったら、感覚も掴めないさね。すぐにわかるよ。ほら」
言い切って腕を伸ばした伊三路の指先は、確かに近い距離であったはずが寸足らずで祐に触れることはなかった。
「嘘だろう? このなかはどれだけ広いんだ」
「びっくりだよね。これは高さも見誤るわけだよ。だから今回はおれが手伝うよ」
 一歩踏みだして足元が軋む音がする。
それから控えめに手首に触れ、ゆるく掬って誘導する温度に祐は従うのだ。
「ここに台があるんだ。蹴飛ばさないようにね」
その言葉を疑い、祐は懐中電灯を取りに戻ってから再び踏み台に戻った。
曰く、縁起悪くも押し入れに入ってちょうど喜一郎の持つ電灯が切れたらしかったのだ。
足元を照らし、台を確認してからそばの足の主を見る。
直接の灯りを当てないように逸らした光のはしにぼうっと浮かぶ伊三路の顔は紙のように白く、生気がない。
その様を訝しく思う間もなく、伊三路は鋭さをちらつかせた声色で舞台上のセリフのような言葉を紡ぐ。
「きみが上を開いたら、おれが先に行く。都会っこには物珍しいだろうけど、その間におおきなねずみに取って食われちゃあ、元も子もないからね」
 喜一郎の手前、わざとらしい言葉で笑った伊三路に祐は眉を顰めかけたが、言葉がわざとらしいこと意外に異論はないために「ねずみはともかく、わざわざ先手を争う意味も気もない」と茶番の程度を合わせて返答をした。
毎回こんな茶番などなくとも自分で済ませてしまえばいいのに。と、祐は考えながら隠し戸を押し上げ、横にずらす。
 距離は確かに見誤るに相応とした空間であるが、踏み台を使えばやはり天井に触れるのは容易なことだ。
あっけない開扉に祐はいよいよ自分が騙されているのではないかとすら感じた。
しかし、戸を開く作業をする手元が暗くならぬために照らし続けている伊三路のほうを見下ろすと、目を刺すような人工的な光の中で耐え忍ぶように口を結び、目頭にいくつもの深い皺をよせた松葉色の瞳がある。
その苦痛にまみれた表情を見ると言葉の一切をなくし、喉の奥が冷たくなるのだ。
居心地が悪い表情を向けられたまま、祐は開いた天井のさらに深い穴をさすのだった。



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