朝日に出遅れてやっと目覚めたシャッターが上がることを待っていたかのように、開店の支度を終えたばかりの商店街に伊三路と祐は立っていた。
正確には一部の店はもっと早く開いていたが、この土地で出店している店屋の顔が出揃ってもまだ早い時間では当然のこと客は少ない。
卸しの直営配送らしいトラックの運転手や、全国展開で名を聞く運送会社の制服を身に纏った配送員のほうが多いといって過言ではないのだ。なによりその営業時間に慣れているはずの店員のほうが、荷物に受取サインを記しながらまだ眠そうな顔をしている始末である。
少なくとも伊三路を待っている間の祐はそれらの光景を結構な頻度で見かけていた。
 白い朝の光が通った道路をてんてんと跳ねる鳥を眺めながら時折おぼつかない足取りで歩き、約束ぴったりに現れた伊三路は昨日の格好とほとんど変わらない立ち姿だ。まさに判を押すように、あるいは玉ねぎをうすく剥ぐように、差分程度にしか変化はない。
より具体的に示すならば上着としてのブレザーを纏っていないシャツ姿であり、襟元のネクタイが今日はないということ以外は大して変わらなかった。
昨日の片付け中に汚れて曇ったローファーは晩のうちにきれいにされていたらしく、つやつやとつま先が光っているのが、祐の目には映っていたのである。
無頓着に見えてまめな人間性が窺えるものの、外面に目に見える彼はいつも同じ制服姿ばかりだ。むしろ、それ以外は狩衣のような白い装束に袴姿しか見たことがない。
「おはよう。襟付きの上にきちっとしたものを羽織ること以外をしたきみの姿をみたのは初めてかもしれない」
似たことを考えていたらしい伊三路が祐を視線でなぞると、控えめに歯を見せて笑った。
襟付きのシャツの上にプルオーバーのパーカーを着用している姿を示して語る姿に祐は淡々と返す。
「おはよう。身体を動かす際や掃除などにはこういった服の方がいいだろう」
「ふうん。釦がないと確かにひっかけるところがないものね。襟の紐は襟首のところに一時的に挟んでおけばいいのだし。いいね! それ、どこに売っているの?」
その言葉で伊三路が私服という私服を持っていないのだろうと察する。
つまり、ほとんど選択肢がなくていつも学校指定の制服を着ている。
「服屋にならほとんど取り扱いがあるだろう」
「へえ! 機会があったら案内してよ」
「断る」
ゆるりと歩き出すと伊三路は言葉を言い直した。内容は全く同じものだ。
「んー、案内をしてください!」
「言いかたの問題ではない」
ばっさりと切り捨てられた言葉に「ちぇ」と舌打ちのつもりらしい拙い音を間延びして鳴らしている。
 もともと鶴間家の別邸である蔵で集合することになっているはずが、なぜこんな時間に呼び出されているのだといいたげであるはずの伊三路は、細切れの会話をしながら飛んでいる蝶を眺めていた。上唇を舌で舐めながらよそ見をしているのだ。
「ところで、なんだって商店街に? 八百屋さんで一体なにをするのさ、あさごはんを食べ忘れちゃったの」
「朝食は摂った。頼みがあると言っただろう」
 不規則な軌道と目立つ翅の色の明滅に興味を奪われている伊三路に前を向かせた祐は開店したばかりの八百屋に足を向けた。
「なんでだっけ」
「果物選びを手伝って欲しい。以前にそういったことが得意だと聞いた記憶がある。金を払う必要はないし、聞き違いならば選びかたに手伝いはいらない。同じことを昨日のうちに一度話した」
言葉をしっくりと聞いた伊三路は怪訝そうに目頭を寄せたが、線と線が繋がり、回路が通るとパッと力強く瞼を開いた。そして、また勢いを増して首を捻り、顔を突き合わせた。「それ、きいた!」
もはや呆れた様子も見せず、祐は特筆する様子はない湖面の凪のような表情で言葉を返す。
「話したと言った」
 張り出た軒下に並ぶ背の低い商品棚の前に立たされた伊三路は、まず最初に店主に朝のあいさつをし、それから祐との会話を続けた。
「そう、そう。思い出した。そのあとかたづけの話題をいくつかしていたから、頭の中で整理が追いつかなかったんだ。ごめん、忘れてしまっていて」
「確かに帰り際のことだ。ただの世間話だと思われても仕方ない。どうだ、難しいことだろうか。先方へ持っていきたいと考えていたが、そうならば店主に聞く」
よく声の通る店主が気の良い様子でわかりやすく「オッ!」と感嘆をあげた。それから煙草のやにで黄ばんだ歯を憚らずニッカリと大口で笑った。
「いらっしゃい。なんだあ、贈答用かい」
酒か煙草を嗜む嗄れた粘りけを僅かに押し込めた声質であったが、商売人らしく第一声で興味を掴み取るための愛想がいい。
黙っていれば近寄りがたい田舎の中年男性を絵に描いたかの如く朴訥な風貌をしていたが、話に乗ったと袖をまくる姿に同じくして動き出せばたちまちこの人物がカラッとして竹を割ったような気質をしているであろうことを一目で察することができる。ゆえに伊三路はもまた、人懐こく返事をして肯くのだ。
「うん。もちろん任されたさ。よほどにめずらしいものでなければね。旬のものならばさくらんぼとか、めろんだとか、そういった甘みのつよいものはどうだろう」
「いいねえ! ちょうどいいのがあるよ、本当は今日並ぶ予定じゃなかったんですけどね。運送状況の前後で。直の食べ頃には変わりねえ」
 会話を汲み取った店主が一等目立つ位置にあったメロンを指さす。
視線の先にはいくつかのメロンが十分な緩衝材の上にならび、化粧箱の見本が置かれている。
その美しい曲線に這う網模様に目を輝かせ、伊三路はそのうちの一つに顔を寄せた。しかし、すぐに笑みを描いていたはずの大きな口元の勢いを留める。
そして半ばしまりない顔で前を向くと、同じく急な反応が想像と異なったらしかった店主もまた同じような顔をしていた。
「これはいつ入ってきた? 前回のものはまだある? めろんのあまい匂いはするのだけれども、うーん。これじゃあないみたい」
「ああ、前の……って言ってもほんの三、四日前ですが、手土産には向かんでしょう。メロンは追熟させるの前提だし、一応は実の詰まっているものを選んで買い付けているからね。いつ食うかわからん手土産より、親戚だ仲間内だって集まりごとに出すっつう『シチエーション』向けですよ」
「いいんだ。たぶん、今日じゅうに食べるからね。その仲間内の集まりに近いものへ持っていくの。どうかな、並んでいるものを傷ませることなんかはしないと約束するからさ、すこし触ってもいいかいね?」
"シチエーション"と堂々なる言い間違いをされた横文字に首を傾げかけたが、並んでいるメロンたちをじい、と、見つめて視線を離さないまま横に並ぶ店主に伊三路は尋ねる。
「ふうん? 慎重に選びにきたね、こりゃあ。かまいやせんが、あとでワタで舌が痺れるなんて言われたら延々とネタにしときますからね。心配してませんけど、やさしくしてくださいよ」
 了承を得るとペーパータオルで丁寧に拭いた両手でそうっとメロンを持ち上げ、あらゆる角度から球を眺める。走る網の美しさよりもへたの鮮度や表皮の色を見つめ、時に鼻を寄せて香りを吸い込んだ。
町中のちいさな八百屋が贈答用として常に取り揃える数は決して多くはなかったが、結局、伊三路は複数の中から二つだけを触らせてもらい、迷いなくひとつを選んだのである。
そのあいだ、背の低い陳列棚に共に並んだ葉野菜や果物の色を眺めていた祐はとくに理由も金額も聞かないまま勘定を頼む。
「あんた、じっくり見たわりにはこれでいいので? ネタばらしじゃないが、一箇所だけキズあるんですがね」
「うん。いいんだ。こっちのほうが美味しそうであるし、なによりその程度を気に食わないと首を切り飛ばす相手ではないからさ」
「そりゃあ、そんなおっかねえ奴はそうそうおらんですよ」と、笑いながら店主は化粧箱を滑らかな風呂敷で包んだ。
「会計はこれで。細かい持ち合わせがなくて大きい金額で申し訳ないです。それからこれも」
 祐がダイヤカットを施されたふたつきカップに盛り付けられた食べきりサイズのマスカットを指し、勘定に加えるように頼むと一万円札と五千円札を一枚ずつ取り出して揃える。
トレイの上で店主は一万円だけを受け取った。
「見えにくいけどキズついてるって自分からバラしちまったんでね。元々一万円札あればちとばかり釣銭がでるんで。お気になさらず。あ、マスカットのぶんは確かにおまけしてるけどね! よければまたたのんます」
渡されたレシートに視線を落とすと、確かに一五〇円近くを割り引かれているようである。
「……それはどうも」
「いやいや、ご贔屓にってことですよ。なんつって」
 祐が会釈程度に頭を下げる。伊三路は手渡された箱を大事に抱えてはあれもこれも美味そうだと店内を練り歩くように眺めていた。
「おれはいくらお金をだせばいい?」
 商店街をぬけ、突き抜けた景色がやがて山裾に至る――つまり、だだっ広い土地に背の高い建物が存在しない田園地域である穀田に差し迫る。
山裾は春の空気に霞む、と、いう言葉の表現が似合わなくなりつつある。青々と茂り、かつては若い芽の様相をしていたはずが順調に色濃く育った緑は互いに互いを押しやり、密度を得た山は深くなる。初夏という時分に景色を取り合っている。
それを遠目にしつつ会話も疎らにぽつぽつと歩くなかで、伊三路は金銭を差し出すための確認に口を開いたのだった。
声の方向へ視線をやると、伊三路はメロンを守る化粧箱をさらに丁寧につつんだ風呂敷を両手で抱えてゆっくりと歩いていた。
一つ呼吸をおいて右手を差し出した祐に伊三路は首を傾げる。それから慌ただしくがま口の小銭入れを差し出した。
「違う。約束を果たしてもらう」
そう言って伊三路の手元から荷物を取り返した。
 荷物を持ちたがる伊三路に対して意味のない言葉の応酬の末に、穀田に入るまでは彼が持つことになっていたのである。
目の前の人物がものをぞんざいに扱う人間であるとは考えてはいないが、自分が手ぶらであるというのに相手に持たせる意味に納得の落とし所がなかった。だからこそまるで幼児の言い合いのような応酬があったのだ。
いま思えば好きに持たせてやればよかったのだ、とも考えたが、今さら訂正することもない。
「べつに重いものでもないのだから気にしなくていいのに」
手ぶらにもどった伊三路は手持ち無沙汰の腕をあげ、頭の後ろで組むと上半身をひねり体を動かしては体温をあげている。
「持たせる理由がない。それから、金のこともいい。協力を仰いだが、選ぶだけでいいという条件だ。食い下がるならば俺だって金を出した"だけ"だ。別に手柄でもないが、お前が何もしていないとも言わないのだから胸を張っているだけでいい。何の不満がある?」
「気分の問題かなあ? おれの差し出したものは目に見えるものではなかったし、なんだか悪いよ」
不満を問うて真っ先に疑問符を返した伊三路をじっとりと見た。
そこで疑問符が出るならばそれこそ昨日の日当は懐に入れて大事に使うべきである。祐はそう考えて説明をする。
「喜一郎さんからの日当は不相応だった。多すぎる。だからといって不必要に消費する必要も強要される必要もない。俺は持たされた負い目のようで嫌なだけだ。それに、俺とお前は同じ考えかたではない。お前はお前の用途のためにとっておけばいい」
「ひねくれている」
 その言葉が唐突に飛んでくると祐は唾が詰まったような息苦しさに一瞬黙ったが、言葉を続けた。
鶴間喜一郎から受け取っている金額は、学生相手でなくともたった二、三時間からわずかに足が出る程度の労働の対価として得られるほうがおかしいのだ。
とにかく、親戚でもなければ初対面ですらある相手から気軽に渡されるほうが異常であると言い聞かせたかったものの、この男の歪な常識でそれが同意に繋がる保証はない。
理解してもらえる語彙を探すうち、まるで間を埋めるためだけのように「お前な……」と呆れたような、項垂れたくなるような言葉が祐の唇から漏れた。
「そうだな、その金額は大袈裟な例えをすれば、よほどの贅沢をしなければ多少足が出てもお前の駄菓子屋通いに向こう一年は困ることないものだ。尤も、約二週に一度、お前が普段つかう金額といって聞いてもいないのに聞かせてくる上限でのざっくりした計算ではある」
 流石にすべてを駄菓子に費やすわけがなくとも極端な例を出して想像を掻き立たせようとすると、伊三路のきょと、とした表情からみるみるうちに祐の予想した以上に深刻な顔つきに移り変わる。
「とりのこいろとふじいろのおさつで、いちねん」と、呪文の如くつたない言葉を繰り返し、伊三路は唾を呑んだ。
「本来、高校生が労働一時間で賃金を得る場合、お前も見覚えがあるはずの"うすみどりのおさつ"一枚でも余る。それがこの地域で一時間の労働に最低限保証されている金額だ」
 くるくると変わる表情に祐は頭が痛くなるような気がしたものの、このまま突飛なことに夢中になっていたほうが手っ取り早いとしてそれ以上はなにも言わなかった。そのまま、その金額でどれだけの駄菓子が買えるのかといううっとりとした考えに浸らせてやることにしたのである。
「それから、口を滑らせるなよ。これは手土産ではなくて、改めて語って、みなで食べようと思い選びに行った結果である。真実が知れれば面倒だろう。選びに行って、店主の口の好さと昨日の収入もあり、つい財布が緩んだ。そういうことだ。わかったか」
 言い含めると、駄菓子屋通いの空想から戻ったばかりの伊三路はハッ、と、して聞き返す。
半分ためいきを交えては敢えて『ただの土産ではなく、みなで食べるためのものだ』というところだけを切り取って再び伝えると満面の笑みで「わかった! たのしみ!」と元気の良い溌剌とした声をした。
「それから、これはささやかだが礼だ。時間も早い、鮮度がいいうちに先の公園で食べればいい。ままで渡して悪いが大目に見てくれると助かる。種がなく皮ごと食すことができるものだ」
張りがある艶やかな果実に伊三路は目を輝かせながら唾を呑む。
 



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