正確には暦が由乃を羽交い締めに近いかたちで抑えて言い含めるのだ。そのふたりを静観しつつ、チクリとした言葉で肌を刺す伊三路と無反応な祐の姿があった。
「言葉足らずじゃないの」
その言葉が明確に祐の行動を示すと、切長である目元の一部を形づくる下瞼の線をなぞって瞳だけを動かす。
そして氷の瞳に伊三路の写すのだ。
咎めているともいえる言葉にもかかわらず大して気にもとめる様子がない言葉を返していく。
「返事が相手の言葉たらずに相応になるだけだ。信じる感性に誠実であれば何を言われても同じ構成の否定や肯定が返るだけのことだ」
「初対面相手にしてやる義理はないってことでいいの?」
難しいことを言っている。そういいたげに尖る唇で文句を垂れる姿に、淡々と返事をするのだ。
伊三路の目は口よりもよく言葉を語る。そして今この瞬間、本心を問われている気にさせられていた。
「……変に萎縮をされても困る。一応は歳下であるし、彼女は彼女なりの上下関係を意識しているという印象を受けたことも理由のひとつになるだろう。なにより、意図をもって関係を良好あるいは険悪にするのは不必要であると判断しただけだ」
「ふうん。だから事実だけを言ったということ。なおさら言ってやればよかったんでない?」
「仮に相手のために善行をしていると見せつける理由も必要もないし、俺にはそれの意味が理解できない」
「そりゃあ、たしかになかよくする意図がなければ意味はないと思うよ。直接的すぎるようには言わないけれども、会話のきっかけ作りってやつさね」
 視線の動きが『そういった普遍の考えを知らないわけではない』と、強く訴えながら伊三路を映す場所から離れていく。
「知ったことではないな。それとも一からまた同じ問答をしたいのか」
「ふん」と鼻を鳴らすが如く言い切った祐に対し、ひとつ宥める言葉を送った伊三路は困惑のような、困ったような笑みを浮かべて場を収めた。
 二つの場所で言葉の切れ目が重なった頃合いで、一同を遠目に眺めていた喜一郎が重い腰を上げる。
しんとした四人分の目が各々の動線で集まるときにはすでに誰もが声を出すことをやめ、いかにも威厳のある立ち振る舞いをした喜一郎が口を開くのを待っていた。その気配を察し、押し黙っていたのだ。
緊張した面持ちの四人の緊張をほぐすためか微笑ましさからか目を細め、皮膚が弛んで小さく見えるようになった目を囲む瞼をふくらませて満足そうに笑った。それから袖の中で組んでいた腕の上下を組み替え、歩み寄る。
「落ち着け、若者らよ。元気はじつに結構だが掃除をするためにとっておきなさい」
 四人の顔を順に見やってから、わざとらしく口角をあげて僅かに歯をのぞかせる。
冬枯れの樹皮に似て乾いた肌の上で筋肉を持ち上げることによってより深く刻まれる皺が印象的だ。
老人の所作と思えば不釣り合いにも思えたが、目の前の男を見てそれに大きく頷くことはない。
たしかに老人そのものに違いはないが、童心を忘れきらぬ眼の奥には老人の姿は決していないのである。
悪童がそのまま大人になり、願えば遊ぶことに事欠かない権力を以てしてかつての友人の前に現れた姿を想起させるのだ。
「さて、満を持して、この私が鶴間家現当主――鶴間喜一郎だ。ま、肩書きはどうあれ、そこらの爺とそう変わらん。等しいはずの朝も他人より早いし、腰も膝も冷えればしくしくと痛んでおるものさ。気さくに接してくれ」
 いたずらに目を細めた姿に誰よりはやく応えた伊三路が喜一郎に握手を求めて手のひらを差しだす。
「うん、おれは伊三路! 茅間伊三路。よろしく喜一郎」
「ああ〜! もう! 伊三路くん、目上の人にそれはだめだって――」
 怒涛として押し寄せる問題行動たちに駆け足で立ち回っていた暦がついぞ悲鳴のような声を上げる。
悪意の欠片もない満面の笑みで右手を差しだした伊三路に対し、ついに最も恐れていたことすらやらかしてしまったと血の気を引かせたのだ。
油の切れた機械のようにぎこちない動作で喜一郎を見やる。一方で暦が羽交締めにしていた由乃は、縄抜けのようにするりと身を翻して自由を取り戻すと大喜びで声をあげるのだ。
 ひとり息を呑んでいる暦は、自分だけが極寒の地獄に突き落とされると考えていた。村八分のごとく光景など生まれて一度も見たことはないというのに、かつての一部で閉鎖的環境を強いられた土地と権力者という組み合わせの偏見がいやな妄想を掻き立てたのである。
町で後ろを指されながら生きる己の惨め極まりない後ろ姿だ。目の前の人物らがそんなことを根回しするとは思えないものの、臆病者が掻き立たせる想像としては極端ではあるがあまりにありがちなものであり、なによりわかりやすく思い浮かぶ。ゆえに恐怖したのだ。
身を震わせるばかりに歯を鳴らしかけ、それを悟られぬために身を固くし、奥歯を噛みしめる。
――終わった! 少なくとも、この土地で過ごすうちはこの後一生の人生に明かりはないかもしれない。
 暦はひとり勝手に強く責められた気になりながら、先ほどまで由乃を羽交締めにしていたせいで抱えるように曲がったままの腕で空を抱きしめた。
顎の関節に緩急をつける力に回路が繋がらずおかしくなってしまったかのように口をあんぐりとひらいたまま、言葉を発することもなくはくはくとしている。
 喜一郎はといえば言葉の衝撃を受けて、鳩が豆鉄砲を食った顔をしたのちに目元を手の平で覆って上を向き、豪快に笑った。
その声量が頂点に達し、放られた曲線図にした際の線が降下する――つまり、笑い声の息遣いが収束へ向かうことに比例して暦の顔が更に青くなっていく。今にも倒れそうに顔を覆うのだ。
その時の彼らふたりは対照的であった。
 由乃が安堵をもたらすために耳打ちをしようと肩を叩いても、空想上の悲劇真只中の暦は膝から崩れ落ちんばかりに緊張を糸で吊っているのだ。
元凶である伊三路はひとり、けろりとしたまま、いまだ握り返されない右手を見つめながら不思議そうな顔をしていた。
祐に自己紹介をした際の記憶を手繰り寄せながら、握手という文化はいつの自分の知らぬ間に廃れてしまったのだろうか、と、考えていたのである。
「……鶴間家の現当主、肩書をそう言うと大抵が委縮するのだがな。それに今日が初対面とはとても思えん人懐こさ、嫌いじゃないぞ」
 長く続いた息をついに切らし、胸を撫で下ろした喜一郎はスッキリとした顔で告げる。
その表情は変わらず健全で力あるものであり、見る側面の解釈を変えれば、挑発的であるとも思えた。
意図を察し得ない暦が背を正す。
「す、すみません、喜一郎さん。僕の友達が失礼を……」
頭を下げ、まるで命乞いをするかのようにおぼつかない足取りで一歩前にでた暦を喜一郎は手で制す。そこにすかさず由乃が言葉を差し込んだ。
「ちがうちがう! 暦さん、大丈夫。大丈夫です、おじいちゃんは喜んでるんですよ」
眼前に迫った大きな手に裁かれることを恐れていた暦であったが、その手は無礼者を切り捨てるものではなかった。
三角定規を当てれば直角を見出すことができそうなほど頭を下げた暦の肩を両手で掴み、優しく上半身を起こしたのである。
途端に若者を見守る年長者の表情に戻り、諭すのだ。
「そういうことだ、気にするな。暦君よ。ここまで悪意なくやられると逆に立場というものがいっそ馬鹿馬鹿しいくらいだ。立場が窮屈なことは私にとっても同じだからな、気持ちよいくらいだぞ。伊三路は大成するやもしれんな」
そう言うと喜一郎は左手でずっと差し出されていた伊三路の右手を力強く握り返し、もう片方の手で乱雑に髪の跳ねた頭を撫でた。
 くすぐったそうに肩を竦めるも目を細めてされるがままの伊三路を素直であると愛しみながら、喜一郎はまるでずっと昔から知り合いだったかのような人懐こさを持つ彼のことを大層気に入って自分のすぐそばに来ることを促す。
見え透いて取り分けた贔屓をするわけでもないところが善意ある権力者然として、伊三路を気に入っていたといえども喜一郎は順番通り次に向きあった祐にも同じ態度で言葉を発した。もとより低い好感でもなく、等しくスッキリとした声色だ。
「して、観察眼の君は」そう言いかけては数秒間だけ顔をじっと見つめる。
祐が探ることともまた異なる視線に対して眉を寄せる前に言葉は続きを取り戻して会話は続いていく。
「うん、気分が悪そうだが。平気かね」
「結崎祐です。時たまに言われますが目と同じく遺伝ゆえの色です。お心遣い痛み入りますが、どうぞお気になさらず」
 何度言葉を投げてもまるで型抜きをして形成されたいかにもビジネスのための定型文に似た返事が返ってくるのだ。
喜一郎は老いによって口元に寄った大きな一本の皺とそのそばで乾いて突っ張った皮膚の小皺を撫でて伸ばすかのように、自身の顎の周辺を撫でさする。しかし孫や伊三路たちと並んでも異様に静かで覇気のない姿に声をかけることをやめることはしなかった。
「それは失礼。ふむ、名の綴りは……示す偏か、人偏に右(いう)の字で『たすく』か。人の助けることや、その助けに神や天の導きのようにある意味の」
「はい、示す偏のほうです」
「他を助ける心を持ち、自身は信じた道に天啓じみた恩恵のあるような……まあ、己の決断に間違いはないというくらい自信を持ちなさいといったような意味か。ちょいと意味のずれるようなところはあるがね、都合よく考えればいい。名付けの際にわざわざ悪い意味の可能性を見出す必要はないからな。とにかくよい名付けだ。物静かで目立つ発言こそないが、きちんと周りを窺い見ているようだ」
 わかりやすい喜怒哀楽の薄くもをまとわぬ表情の祐は会話の中で唇を薄く開いていたが、喜一郎の言葉が上機嫌になるほど無表情に近づいて口を閉じるのだった。
二つ呼吸が開く。
「恐縮です」その返事に感触のない喜一郎がさらに一歩を踏み込んで言葉を付け足す。
「もうちっくと初々しさがあるとじじいは嬉しいんだがなあ。みなが孫のように思えるのだから、あまり遜らずしてくれ」
「はい、ありがとうございます」
 嫌味こそはないものの、まるで意思など宿っていない張りぼてのような――いかにも意思薄弱にいいなりの返事に聞こえた喜一郎は片眉をあげかけたものの、投げられた言葉以外は極めて静かな祐の姿を見てそういった子供なのだろうと一時的な納得をして頷き返す。
反面、芯が抜けたように背を丸めたまま何度も大きな息を吐いて安堵する暦と、大して興味も示さずぼうっとしているようにも見える祐の対比をみて面白がりながら由乃は言葉の切れめで手を叩いて注目を集めた。
「さあ、さあ! 互いの紹介も終えましたし、古いだけの家ですがごゆっくりしていってくださいね」
「確かに、古いだけだなあ。しかも町の中でも取り分けの部類でな。業者にあちこち手入れはしてもらっているのだが、若者の一部には家を囲む垣根の向こうは黴の生えるような雰囲気の恐ろしい曰く付き、なぞと影で言われている。私も一部同意してやろうほどに歴史はあるんだがな、暫定の怪談つきでもやはり若者には退屈なのものかね?」
 仕切り直して一歩さがり、そして庭の玉砂利を踏み、飛石の上で振り返った。
言い放った言葉の反応を窺うように片目を瞑り、下手くそなウィンクをして見せた喜一郎は、懐から組紐に通されたいかにも重量のありそうな錆色の鍵を取り出す。銅やメッキの色と近似しているとも思えるものの、今この時代で鍵穴にあてがったところで使えるのかもわからぬような簡素な鍵を伊三路に握らせのだ。
指先で握る質量に瞼の形をより丸く開かせ、シリンダー錠よりも簡易的な山の凹凸を指でなぞる。
それを横目に見ていた祐は、この先に向かい場所が無事に現存しているのは権力の賜物だろうと改めて考えた。
 この狭い田舎町で起きる地の利を理解した犯罪が実際にどれだけ検挙されているのかという詳細は知らないものの、こんなに簡易的な鍵で本当に守られていると語るならば、それはこれだけの権力者の所有物なのだから別のセキュリティが働いているのではないかと勘ぐるほかない。
前者の通りに地の利を知るからこその詰めの甘さや狭い社会性から浮かび上がってしまう露発を恐れているか、もしくはすでにもぬけの殻か。
建物自体に価値があって観光資産になるのならば、中身など瑣末なものであるというのも権力者ならではなのだろうか――?
 祐はとりとめのないことを連鎖的に考えながら錆なのか地金の色なのか判断のつかない鍵を見た。
やわらかと見せかけてきちんと節のある伊三路の手に触れる鍵の表面は代々の人間にわたり使用され続け、傷や汚れごと摩耗しており傍目にしてもつるりとした触り心地を想像するのは容易である。
「旧家の――と、いうと過剰な期待をさせるか? ともかく、ボロ家の鍵だ。さて、座ったばかりだが好奇心は待ってはくれないだろう? わかるぞ。小さいところだが暇つぶしくらいには丁度いいはずだ。離れという名の物置蔵もあるからな。由乃、案内を頼もう」
「はあい。わたしもこれで呼ばれているんだから、もちろんそのつもりですよ。さ、みなさん。行きますよお」
 名指しをされ、返事と共に右手を元気よく挙げた由乃は観光ガイドよろしく手のひらをひらひらとしながら縁側に伊三路たちを集めた。
「外壁伝いを戻ると遠回りなので、よければ中を通っていきましょ。靴の脱ぎ着は手間かもしれませんけど突っ切っていけるのがなによりですから」
促されて靴を脱ぐ面々を待っている由乃はおどけて舌をぺろりと出すと「ま、わたしの靴が玄関にあるっていうのも大きいんですけどね」と付け足し、二つに縛った後は流してあるがままの二つ結びを揺らして笑んだ息遣いでいた。
「おじゃましまあす」
 手にした靴から土や砂が落ちないように手を添えた暦を先頭に家屋に入ると外よりも僅かに暗く、張り替えたばかりの畳の匂いが濃くなったように感じられた。祐は最後に縁側の沓脱ぎで靴を脱ぐ際に喜一郎と目が合い、先を行くことに対して会釈をしている。
「ええ。どうぞ。おじいちゃんの悪事に手を貸すわけじゃないですけど、見苦しいところはこれ以上みせられませんからね。みなさん、失礼をして本当に申し訳が立たないんですけど、もてなしはおばあちゃんが帰ってからにさせてください」
襖に手をかけ、玄関までの動線を拓く由乃は前を向いたまま大げさな手振りをしてやれやれとして見せる。
「事前にバレてしまうと家長が叱りつけられているといういっちばんかっこ悪いところを見せてしまうことになるので。それだけは流石のわたしも避けたいんですよねえ。おじいちゃんったら昔からおばあちゃんには頭が上がらないんですよ」
「ユノさんがそれ言っちゃうとだいぶ暴露だよ。……伊三路くんと結崎くんはそれぞれ鈴掛と烏丸のひとだから、喜一郎さんと夏穂さんの関係は知らないんだって」
「そうなんですか? 暦さんも鈴掛でしたっけ。羨ましいです。穀田は田園ばかりですからね。わたしと両親の住む家はギリ烏丸の線引きなんですけど、高い建物は少ないので遠くの山まで見えちゃいますよ」
 繋がっているのかいないのか曖昧な会話を続けながら部屋を突っ切り、廊下を出る前に会話を聞いていた伊三路が振り返る。
そして喜一郎と、靴を片手に持ったまま言葉を交わしている祐の姿を捉えて口を開いたのだ。
室内から屋外に面している場所の明るさに目を細め、白昼夢に語る呟きのように問いかけた。
「喜一郎は? 行かないの」
呼びかけに反応し、祐に断りを示すように片手を挙げてから伊三路に言葉を返す。
「爺は茶でも飲んでから後を追わせてもらう。妻にバレぬための時間稼ぎの小細工作戦がある都合もあるが、はしゃぎすぎてな。ちっと腰が」
自慢の庭を見るように遠くを眺める目で伊三路を捉えながら喜一郎はぼんやりと本音らしい言葉を漏らし、腰をさすった。
それから自身のことを見つめたままの伊三路に聞こえる声量で祐に向き直った。
「――祐君。やはりきみはあまり元気ではないようにみえるから、ここで少し休んでいきなさい。悪いね、由乃が失礼をして。いやはや落ち着きのない孫でお恥ずかしい」




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