門を抜けるとすぐに立派な松が出迎えた。
ゆるりと伸びた腕のような枝のすぐ下に誘引の竹組みが渡され、まるで盆栽の箱庭遊びをそのまま大きくした姿をしているのだ。青々と茂る松葉はいくつか群れの影をつくり、うねる木の肌は川面の水流に似て荒削りままの美しさを比喩に描く。
手間暇のかけられた迫力ある姿に客人は外観の囲い塀以上の圧巻を受けるだろうと想像できる。
すくなくともそう感じ取った祐とっては現に横目に捉えることのできる伊三路が感嘆する姿がまさにそうであった。
そして、語らぬうちから得意げな横顔をする喜一郎を少し後ろから眺める限り、客人に見せるための実益を兼ねた娯楽であることが答え合わせとして如実に示されていた。
 松の木を中心に数メートル四方程度の小さな遊びの庭とわきの盆栽棚を通り抜け、玄関すら避けた横道を進む。
先陣をきる喜一郎の空を蹴る足取りは軽やかであり、歳の離れた客人を歓迎している。心からもてなしてやろうとはりきって白い玉砂利と飛び石の道を進むのだ。
苔が棲みつくにはよい薄暗がりとぬるい水のような匂いは不快を催すに至ることはなかったが、客人を通すためのものでもない。どんどんと深みに誘われる気分になるが、快も不快もなくただ景色がすぎていくのがどこか不思議に感じられる。
すでに通り過ぎた正規の玄関戸を振り返りかけたものの、迷い込むほどでもない脇道になにを言うまでもなくついていく。そのために、一度止まった足を祐はふたたび動かすのだった。
 外壁を伝いに進んだのちに広い敷地における脇の小道を抜け、湿気を好む裏手の盆栽棚や苔玉の手入れ机を眺めながら敷地を回ると奥には拓けて広い庭が広がっていた。
小さな人工池を中心に植栽がなされ、緩やかな土地の起伏を生かすように並べられた規則性ある飛び石が目立った。それから切り立った崖や歴史の積み重なった地層を思わせる立派な庭石を配置した造園としての技術が視覚に訴えるのだ。
流紋岩の周囲には時期には早くも思えるほど豊かに茂った草木が強調し、下草に選ばれた丸く大きな葉やシダの特徴がある繊細な葉が野草の繁茂する山中を彷彿とさせるのだ。
変わって家屋側に近づけば白い玉砂利敷きによる流水を思わせる演出や並びが増え、品のある庭の構成をしている。
 それぞれに四季の象徴に関する草木が植えられ、つまり、春には控えめな桜が咲き、紫陽花や菖蒲の時期を超えて赤く色づくもみじが今からその準備をしているのである。それから冬にも残った下草に紛れて花を咲かせる初雪起こしといったように一年中にあたたかみにあふれた彩りがある。
一般家庭よりもややひろい程度の土地へ庭園を凝縮しているのだ。
青々と伸びる枝葉によって地面の玉砂利に落ちる影が美しい色をしている。
まるで日常の喧騒からはまるきり切り離された静寂に面々は感嘆の息をもらすことを隠し通すことはできない。
狭路の飛び石小道が続いていたことの開放感も手伝い、ささめく梢の音に耳を澄ませ、等しく安らぎを知るのだ。
「わあ。すごいねえ、まるで一年中がここにあるみたいだ! 夏はもっと緑が濃くなるのかな? 秋の紅葉も冬の雪も、ここでは全て庭のためにあると思ってしまいそうだ」
「そうだろう、そうだろう! 我が家一番の見どころだ。塀がやたら高いのもこの空間に没入するためだが、招かれた客しか見ないのが玉に瑕よ」
 小鼻を膨らませ、熱がこもるばかりに拳をつくる伊三路の頭を、同じく興奮気味に語る喜一郎はくしゃりとなでた。
「知り合いのじじばばはあいにくこういった景色を見慣れとるしなあ。娘息子や孫らと旅行先で見るんだと。確かにきちんとした庭園には見劣るが、うちに来ればいいのになあ。なれば、やはり素直な子どもの感想が一等沁みるわい」
「そうなの? おれはお花見も梅雨の茶飲みも、避暑も、紅葉も、ぜーんぶここでもいいくらいなのに」
春の土色をした髪を跳ねさせ、満面の笑み浮かべた伊三路は振り返り、問う。
「ああ。うちでは冬に何度か餅つきをするんでな、縁側で汁粉をすするのもよいぞ。気に入ったのならばいつでもおいで。じじい相手では退屈やもしれんが、ともに茶を飲もう」
 大型犬の被毛を丁寧に梳くが如くなでつける手つきに新緑の瞳が人懐こく細まると、つられて目尻をやわらかくした喜一郎は口角を膨らませて何度も頷くのだ。
 飛び石を渡り歩き、既に特徴がわかるほど育った野草の名をいくつも言い当てた伊三路と、その姿に興味深そうにそばをついて歩く喜一郎が庭を一周してくる。
それから庭を一望できる縁側にゆっくりと腰をかけ、喜一郎は伊三路たちを手招くのだ。
 一息ついてやっと用事を思い出した暦は一歩踏み出すと、手提げの土産品を勢いよく差し出した。
「あの、これ、ちょっとしたものですがお土産です」
 若者の気遣いに訝しむように片眉を上げるも、紙袋の屋号に気づくと差し出されたものに枯れ枝のような腕を伸ばす。
「失礼。立場上の付き合いでこういうのは慣れているんだが、若者に気を遣わせたかと思うと申し訳なくてな。顔が動いた。一瞬いやな顔にみえたかもしれん」
反対の手の人差し指と中指で眉間をほぐし、顔中のしわを集めるように笑ってみせた。
それから固まったままの暦の両肩を何度も撫でさすったのである。
「しかし辻原屋とはよくわかっておる。ここの菓子に目がないものでね、休憩の時にでもみなでいただこう」
望まぬ土産品に慣れた対応をしつつも、目がないと語るさまに偽りはない。
不躾を承知で紙袋の中身をちらりと覗いた喜一郎は、下瞼をふっくらとさせ、目を細める弧の曲線を強くした。
機嫌良く口の端を持ち上げ、それから丁重な所作で紙袋を自身のそばに抱え置いたのである。
 その喜一郎の真横に収まることと重なるように間を合わせ、廊下の奥からどたどたと慌ただしい足音が迫ってくる。振動を拾った床が軋みを伝わせ、紙袋からひょこりと立ち上がる取手を揺らしたのだ。
 事情を知らぬ客人である三人が思わず控えめな目配せで顔を見合わせていると、奥の襖が勢いよく開き、閑静を揺るがすキンとして高い声がすかさず鼓膜に刺さる。
「ちょっと、おじいちゃん! お客さんはちゃんと玄関から通してっておばあちゃんにいっつも言われてるでしょ!」
 怒声には至らずともピンと声を張り上げて登場したのはライトブルージーンズのショートパンツにやわらかくラフな白いトップスをまとい、可愛らしすぎないポップなピンク色をした厚手のパーカーを羽織った格好の少女だ。
伊三路たちのクラスの女子と大して変わらない顔立ちや背格好であるが、身長はやや低く、なだらかなロングヘアを耳の下で分けて結んだ姿はどこか幼い。
丸く、目尻が僅かに垂れ下がって下瞼と切れ目を結ぶ瞳には喜一郎と似た面影がある。そして、すい、と、通る鼻筋はほとんど線をなぞったように似た影を作った。
「わたし、一緒に怒られるのゴメンだからね。ぜっ、た、い、に! いやだからね」
遠慮のない物言いの少女に脇腹を小突かれた喜一郎は、大げさに頭を掻いて降参するように大きな手振りをした。
「すまん、すまん。はやく自慢の庭を見せたくてな、気が急いてしまった。じじいの悪いくせだ。むつけないでくれ」
喜一郎は少女の肩に両手を添え、一歩前に誘導する。
そしてきちんと挨拶することを促して背中をやわく押したのである。
「君たち、紹介しよう。うちのかわいい孫である由乃(よしの)だ」
 孫ひとりを紹介するにもわざわざ"かわいい"と、いう言葉を付け足されてしまった由乃は片眉を釣り上げた。
勝ち気にも思える様子から鉄拳のひとつでも飛ぶかもしれない。
この凸凹とした茶番を前に、伊三路や祐よりもこの光景に覚えがある暦は、思わず目を覆いたくなって片目だけ瞑った。ほとんど反射的な出来事である。
しかし、悲鳴はいつまでと透き通らず、むしろ前口上のような高らかな由乃の言動から一転して落ち着いていた。
恐る恐る暦が両の目でそれを確認すると、彼女はよそ行きの控えめな笑みを浮かべていたのだ。
それから三人分の影を追って、最後に暦と視線をかち合わせる。
 途端に瞳は明るくなり、縛る位置から長く垂れる二つ結びは感情に合わせるがごとく大げさに揺れた。
安堵してより垂れ下がる目尻や、やや平行を描く眉。髪の毛先で感情を表すかのごとく身振り大きくする彼女は、確かに暦に向けて小さな手をめいいぱいに振っていたのだ。
「あ、手伝いに来てくれる人ってやっぱり暦さんだったんですねえ!」
「こんにちは、ユノさん。お邪魔してます」
 暦が会釈すると、下手に出るなと言いたげにそばに寄り、恥ずかしそうに頬を掻く。
喜一郎は微笑ましくその光景を眺めては含みのある頷きをしていた。
伊三路は庭に気を取られ、祐は新たな登場人物らの会話や関係性を静かに窺っている。
「もう、おじいちゃんたら、なんにもない小さなとこなのに人を呼んでまではしゃいじゃって。……みなさん、失礼をしていたらすみません」
「そんなことないよ! 世間話の流れでさ、僕で良ければとは思ったしね。流石に、すこし、いや。だいぶだけど、僕でいいのかとは思ったけどさ」
 体裁を整えようとしたものの、やはり正直を僅かにこぼした暦にいくつかの言葉で励ましと感謝を伝えた由乃は、改めて面々に向き合う。
長い髪がたなびき、黒髪というにはやや赤茶けた色を揺らす。
「紹介にあずかりまして、孫の鶴間由乃です。よしのっていう響きも意味もホントは嫌いじゃないけど、同年代相手には古いって言われまくってて。よければユノと呼んでください!」
「最近ぽくて、カワイイあだ名でしょ」と、付け足す姿に思春期ならではの個人に踏み込んだ内容を匂わせるものの、詳細については意味も語る必要もなくあっけらかんと笑うのだ。
まるでつられて目を細めたくなるほどだ。
眩しいのである。祐にとっては底抜けに明るくも見えてしまうのだった。
 他人に対してもあっさりとした引き際を持っていれば幸いであるが、まるで日常生活における態度の茅間伊三路という存在がそのまま増えたような怒涛に感じられて気圧されていた。
「えっと、そちらは」
 時は待つことを知らないまま、伊三路と祐を見やった由乃は、小鳥のように首を傾げて自己紹介をやんわりと促す。
そして一瞬の沈黙。
誰が一番に口を開くべきであるか探り合う。
その間を最も敏感に感じとったのは唯一どちらの人物らともに渡しをかける暦だ。ハッ、として手のひらで人物を指す動きはまず近い場所にいた伊三路にむく。
「彼は茅間伊三路くん。そしてこちらの黒髪の彼が結崎祐くん。二人とも僕の同級生で、よく助けてくれるんだ。タイプは違うけど、面白いひとたちだよ」
 二人ぶんをまとめたせいで抽象的に紹介をしたのちに、今度は由乃のことを伊三路や祐に紹介する。
やや小柄に寄った背丈である暦の横に由乃が立つと、身長差はあまりなくなる。共に穏やかな顔立ちをする二人は外見が姉弟のようにも見え、言葉や態度の距離からもかなり親しいことが窺えた。
「それから、ふたりとも。先のとおり彼女は一学年下の鶴間由乃さん。彼女は明るくて楽しいことが大好きなんだ。あの、でも、きちんとしてる子だから、大丈夫だよ」
 後半の言葉は失礼にも思えたが、事実か心当たりがあるか、由乃自身が一番に笑っていた。
そして「うるさいとよく言われます。部活動でしごかれてますので、やるときはやるつもりでいたいんですけど」と、愉快痛快とばかりに自らの紹介を付け足すのだ。
「武道の志みたいなものを重んじるところの所属だからね、まったくの軽薄ではないのは僕も保証するよ。もうきいただろうけど、ユノさんって呼んであげてくれると、僕もうれしいです」
双方の紹介を終えると、伊三路は太陽に負けないほどの笑顔を振りまき、祐は居心地を悪く視線を逸らしていた。どうにも祐は初対面という場面が好きになれないのだ。
 目立つ春の色をする茅間伊三路と共にいると薄れるものの、初対面や自己紹介という場面では必ずといっていいほど気軽である、身体的特徴について言及されることが嫌いなのである。
和やかな雰囲気にそよぐ風をよそに祐は引き結んだ唇の内側を舐めた。
じっとりと汗がにじむ感覚に似た不快が――正確には脅かされたくはない自覚のある緊張が覆っている。
「おふたりとも、どうぞ気軽に」
「よろしく、由乃。ゆの、と読ませてもらう代わりではないけれども、おれのことも名前のほうで伊三路とよんでほしいな。伊呂波の伊、数字の三。岐路や路地、家路……つまり道を表すそれさね。それで伊三路」
「いさじ……伊三路さん、はい、覚えましたよ! ね、ところで伊三路さん。それって地毛ですか? 明るくって、柔らかな茶色の」
 礼儀正しい挨拶を心得た所作でありながら、それをさっさと片付けて距離を詰めた由乃は前のめり気味に問いかける。
下瞼をふっくらとさせる様は喜一郎譲りの涙袋を強調させ、目じりを優しくする。まろい曲線は伊三路の笑いかたよりも女性性が強調され、由乃本人に落ち着きが加われば着物の似合う女性というようないかにもらしいステレオタイプすら言葉通りの様になるという想像は易い。親しみやすく、和やかな雰囲気が漂っているのだ。
 つまり、なにがいけないかということを強いてあげれば、彼女の好奇心旺盛な態度がそれらを半減させているのである。それを魅力であると感じるかという問いには十人すべてが同じ答えにならない。
少なくとも祐にとっては厄介が拭えない評価から変わることはないのである。
「地毛? 地の色ということだっけ? ならば、たぶん、そう」伊三路は両の目を眉間の空白に寄せながら前髪をつまみ、間抜けな顔で呟いている。
「おれの色を少なからず不気味に思う人間もいたくらいだと聞くし、きっとおれは生まれてこのかたこの色をしているよ」
「そんなことないのに! まあ、でも、田舎じゃあ話題にはなっちゃいますよね。わたしとしてはすてきだと思うんですけど、古いひとも多い土地です。大変でしたね」
他と異なる部分が目に見えやすいだけに結束を盾に立ちふさがる壁を思わせ、思わず眉を下げる姿に伊三路は大げさに手を振った。「言葉っていうものはけっこうに大げさだよ」
 否定を表す表情には同じく微かな寂しさを浮かべるものの、身の上話に積み重ねる悲哀は不要であるとしてより近い共感を提示する。
「ゆのはこの町のことが好きではないの? およぶ範囲のいくらかが行政に渡ったとはいえども、家の立場はすこしくらいきみの人生に影響を与えたはずだよね」
「うーん。確かに一口には言えないです。おじいちゃんも聞いていますしね。でも、きらいではないですよ。絶対に」
 立場を翻して質問をする側に立った伊三路に対して由乃は拳を握り込んで強く答える。訴える様にも似ていた。
ある側面においては無難な言葉であれど、誰が見ても嘘偽りのない勢いを眺めると伊三路は満足して頷く。
「そういうことさね。おれも損ばかりではないつもり。幸い言葉は通じるのだしさ」
 その言葉に丸い目を更に大きくした彼女もまた、町のことが好きだと語る男に対して控えめにはにかんだ。
外見の派手で語れば弥彦伸司の存在を知らない由乃にとっては日野春暦にこのような見た目の友人がいることは驚きであった。
加えて老人のような感性ともいえる一種の達観を持つ言動をするとなれば、印象というものはいよいよあべこべに存在することになるのである。
間の抜けた高い声が一つ感心して響く。そして由乃の視線は次に祐へ向いた。
 暦は由乃が伊三路相手に初手で放った言葉の類を好まない男に対しても同じ姿勢でぶつかっていくことを危惧して咄嗟に両手を上げかけた。
しかし、行動は空しく、気の利いた言葉よりも話を進める由乃の言葉のほうが速さを上回っていたのである。
「まさか暦さんに"こういう"ご友人がいらっしゃるとは。一見ふりょ……怖そ、いえ、ええと。は、はで! そう、派手というか、目立つというか。わたしもちょっと見た目で判断しちゃってたかも。すごく面白そうなかたですね、伊三路さんは――って、あれ?」
 首の角度をわかりやすく変えて視線を前に正した由乃は気づきを得ると、次に祐のそばへ回り込み顔を覗き込む。
祐が背を逃したぶんだけ一歩を踏み込む由乃が輝きに澄んだ目で、吹きすさぶ雪原の底にある氷塊を見つけようとするのだ。
「な――」と、驚きの言葉で制止をかける前に、勝手に納得をした言葉が先に触れた。
この場に一人しか存在しない、まだ若くいかにも少女らしい高い女声だ。
「よーく見たら祐さん……も、不思議な目の色をしています、ね? 明るい色だとは思いましたけど、虹彩にもう少し色が見えるような。珍しい出かたなんじゃないですか、それ」
 他とは異なるところを知り喜々として暴く直前の――好奇に目覚めた目に似ている。
紡がれた名の響きに馴染みが薄いのか、語尾が跳ね上がった音をしていた。自信なく微かに声量が減る。
文字に表すのであれば、疑問符がついて回るような言葉が漂っている。明確でない言葉は曖昧に型抜きをされて心もとなく、会話も続かない。語尾がふらりとおぼつかないまま上がった。
こうして同じく型抜きに揃った自己紹介を祐も返すのだ。淡々と名を語り、そして、ちくと嫌味めいて付け足す。
好奇心に悪意が多く含まれているわけではないことは察することができる。
しかし、日の元を嫌がるものもこの世には存在するということを知らない。
少なくとも、祐は少女に関してそう考えていたのである。
「……結崎祐だ。そちらの持ち合わせる価値も感性も存じはしないが、少なくとも他人をじろじろ見るな、ということは教わらなかったか」
「え! 悪い意味じゃないですよ。カッコよくないですか? まえがみ長いともったいないなってくらい……」
「伊三路さんもですけど、液晶ごしでしか見たことがないくらいでして。あ、派手ないろのことです」と、興味深く呟く声に祐は冷えきった言葉を乱暴に投げた。
もはや祐がどんなに雑な態度を見せても、非があるのは彼女であることに間違いない。
何故ならば、物理に存在する距離というものを縮めてくる様子を祐が嫌がっているのは明白なのだ。
 おまけに鶴間由乃は都会というものを非現実に似たものだと思っている節がある。
陳腐に使い古された表現までもがいっそ新鮮に思える柔軟な感性を持ち合わせているのである。
つまり、箸が転がることすら笑えて仕方のない年齢だ。簡単に理解が通じ合う関係にはなれない。
少女は自身の名の響きに対する悪意の入り混じる貶しは知っていても、好意が受け取る相手次第では悪意になりかねぬことはまだ正確に知らないのである。
ゆえに祐ははっきりと鋭く答えた。
「そうか。それは結構だが、こちらは不快だ」
 興奮し身を乗り出した由乃の痛いほどに刺さる視線に対し祐は不快感を隠さない表情でそう言い返す。
そして自身へ向けられる好奇から逃げるように再び目を伏せるのだ。
相手の熱量に合わせているとはいえども、一言聞くだけではあまりに無遠慮な祐の物言いを聞いて暦は焦りや緊張を滲ませた眉をいつもより下げて落ち着きがない様子を呈した。
しかし、彼もまた祐や由乃という人物像に対してひとつの答えを知る人間である。
こればかりは祐のほうが正論であることをよく知っている。
おまけに祐がひとつ文句を言う間に、由乃は倍以上の言葉を好奇心に突き動かされただけの勢いで投げるのだ。
いっそ絡まれる祐をとことん不憫であるとでもいいたげに暦は困り眉のまま、言葉に制止を乗せていく。
「ユノさん。ユノさんにとってはかっこよくても、結崎くんは今のような瞬間と出会い続けることがふつうなんだよ。何度も言われて訂正し続けるの彼もいやそうじゃない? わかるよね?」
 暦の言葉にしたがって視線をなぞり、その先で渓谷のように深々としわを刻んだ眉間を見つけると「あっ」と、言いたげに目を丸くする。
不快であると憚ることなく口にした言葉をありありと表情にしていたのだ。
制止の――正確には視線の意図や意味を察し得た由乃はすぐに謝罪の言葉を口にする。
 取り分けて由乃が理解しようとするやむを得ない事情もコンプレックスの救済も勝手な妄想であり、無意味かつ自分勝手な行為である。と、祐は考える。
この場において確かに不快であると祐は告げたが、勝手を語られることが不快なのであって、理解を求めてなどいないのだ。
謝罪も必要ないし、それが己だと語るならば態度を改める必要もない。ならば平行線の証明が共通の認識であって欲しいだけなのである。
由乃が勝手を言うのは自由であるぶんだけ、自分が不快であることを口にすることにも正当性があるべきだ。
「あ、すみません! うわー、勝手に盛り上がっちゃって。ホントごめんなさい。調子乗りました。とんだご無礼を」
 気まずそうに目尻と肌の境界を撫でつけるように皮膚を掻く由乃は逃れていた視線を戻すと、前かがみになりながら手を合わせるポーズをして謝罪の言葉を改めて発した。
「ごめんなさい! 不快にさせるつもりはなくて」
「悪いつもりじゃなかったと言いたいのだろう。別にその場しのぎの謝罪を求めているわけではない。"不快だ"と言ったんだ」
 目頭に皺を寄せたままの祐に対し、せめて返事のもらえるような謝罪を、と、絡む由乃にいよいよ収集がつかなくなるとして、暦と共に一歩出た伊三路がそれぞれ己のよく知る人物を宥めすかす。
 



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